音の見える風景 Chapter 56「ディジー・ガレスピー」 

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photo&text by Yumi Mochizuki 望月由美

撮影:1969年9月 横浜DENにて

 

本誌 Jazz Tokyo 242号に竹村洋子さんが寄稿されたディジー・ガレスピーのベレー帽や角縁眼鏡などのファッションとバップ・スタイルとの密接な関係について、当時の珍しいイラストや写真をおりまぜながらの興味深いエッセイを読ませていただいて、久しぶりにディズのアルバムを聴きながら写真を探し出した。

掲載の写真は1969年9月、「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・トーキョー」として来日したディジー・ガレスピーのジェームズ・ムーディー(as、fl)をフロントにしたレギュラー・クインテットでのショット。

ディズ(tp, vo, 1917~1993  75歳没)のおどけた道化とビ・バップ風ダンスを期待して行ったがこの夜のステージは意外にも道化なしでプレイに専念するディズが聴かれて、ジェームズ・ムーディーとの2管が妙にしっくりしていたことが印象に残っている。
しかしレコードで聴きなじんでいたた高速のハイ・ノートは健在であった。

ディズといえばバード、チャーリー‟バード”パーカー(as, ts, 1920~1955  34才没)とのコンビを反射的に想い起こす人も多い筈。

ディズとバードのコンビ DIZ‛N‛BIRDといえば1947年のカーネギー・ホールの『DIZ‛N‛BIRD IN CONCERT』(ROOST,1947)、パーカーのジーニアス・シリーズ #4『BIRD AND DIZ』(NORGRAN/VERVE,1950)、マッセイ・ホールの『the Quintet’ jazz at massey hall』(debut,1953)がよく知られているが、ディズとバードが狂気の一歩手前の発熱を感じさせる「カーネギー・ホール」盤はいま聴きなおしても凄みがある。

パーカーとガレスピーは1940年(1939年という説もある)にカンザス・シティーで出会っていて1942年には二人ともアール・ハインズ(p,1903~1983, 79歳没)のオーケストラやビリー・エクスタイン(vo,1914~1993, 78歳没)オーケストラに共に在籍しプレイしている。
当時のエクスタイン・バンドにはディズ、バードのほかにマイルス・デイヴィス(tp)、デクスター・ゴードン(ts)、ファッツ・ナヴァロ(tp)そしてヴォーカルにはサラ・ヴォーン(vo)という後のビッグ・スター達がひしめき合っていた。

1945年、ビリー・エクスタイン・オーケストラをやめた二人はガレスピー名義のクインテットを結成しクラブ「スリー・デューセズ」への出演をスタートとして活動を始めるが、酒と薬にどっぷりつかったパーカーと酒も薬もやらない謹厳実直なガレスピーとではバンドの維持は難しく、しばしばステージをすっぽかすパーカーに手を焼いたガレスピーはメンバーにミルト・ジャクソン(vib)を加えてバンド名をデイジー・ガレスピー・アンド・ビバップ・シックスとしたこともあった。
この時のメンバーはディズ、パーカー、ミルトのほかアル・ヘイグ(p)、レイ・ブラウン(b)、スタン・リーヴィー(ds)というそうそうたる顔ぶれであった。
こうしたガレスピーの努力にもかかわらずガレスピーとパーカーとのコンビは長続きせず、この年のハリウッドへのツアーを最後に解消してしまう。
パーカーは一人ハリウッドに居残り、有名なダイアル・セッションのレコーディングをすることになる。
お互いに才能を認め合っていてもビジネスとなると話は違うということの典型である。

ディジーといえば朝顔が45度上に向いたトランペットがひとつのトレード・マークとなっていることはジャズにあまり関心がない人でも知っているが、何故か特許はとっていない。
なんでも特許の申請の予備調査の段階で、ずっと以前に同様の特許を申請しようとした人がいたことがわかって断念したのだそうである。

1954年のあるパーティーに出演した折に、お客同士のちょっとしたもめごとで転んだお客がスタンドに置いてあったディズのトランペットの上にしりもちをついてしまい朝顔が上に折れ曲がってしまったという珍事があった。
ディズがこの折れ曲がったトランペットを吹いてみるとちゃんと音が出て、しかも朝顔が上に向いているために普通のトランペットよりも自分の耳に音がよく聴こえることがわかり、ディズは早速楽器メーカーに特注して45度上向きのトランペットをつくらせて、それから愛用するようになったという。

テディ・ヒル(ts19, 09~1978, 68歳没)やキャブ・キャロウェイ(vo, 1907~1994, 86才没)、ライオネル・ハンプトン(vib, 1908~2002, 94才没)、ビリー・エクスタイン(vo) 等々のオーケストラを経てディズは1940年代の後半には自分のオーケストラを結成する。
アレンジャーはタッド・ダメロン(p)、ジョン・ルイス(p)、ジョージ・ラッセル(per,)という陣容でバップのオーケストラ版を披露した。

そして、1947年にはチャノ・ポゾ(per,1915~1948, 33歳没)をバンドに迎えアフロ・キューバン・リズムを採り入れビッグ・バンド界に新風を巻き起こした。
チャノ・ポゾはキューバ出身で少々気性が荒くディズのオーケストラに入った翌年の1948年にハーレムのバーで起こした喧嘩で命を落としてしまった。

ディズはアフロ・キューバンとジャズとをくっつけてキューバップ(Cubop)という新語をつくり、今やディズの代名詞ともなっている<マンテカ>や<クバナ・ビー><クバナ・バップ>等でチャノ・ポゾのコンガをフィーチャーした。
有名な<ティン・ティン・デオ>と<マンテカ>はディズとチャノ・ポゾの共作で、このチャノ・ポゾをフィーチャーして『ディジー・ガレスピー&ヒズ・オーケストラ・フィーチュアリング・チャノ・ポゾ』(GNP,1947)を録音している。

ディズの活動の大きなウエイトを占めているオーケストラでは実に多くの作品を残しているが1957年のニューポートジャズ祭に出演した折の『アット・ニュ―ポート』(Verve,1957)ではリー・モーガン(tp)やベニー・ゴルソン(ts)、ウイントン・ケリー(p)など来たるべきハード・バップ・ムーブメントの立役者たちが勢ぞろいしていて、ガレスピー・バンドが新しいジャズの登竜門だったことがしのばれる。

また、レギュラー・オーケストラではないが1982年のリンカーン・センターで行われたオールスター・ドリーム・バンドの模様が『Dizzy’s Dream Band』(Fox Lorber, 1982)としてヴィデオ化されていて、ディズの生誕65年を祝ってジェリー・マリガン(bS)やマックス・ローチ(ds)、ジョー・ジョーンズ(ds)、フランク・フォスター(ts)、フランク・ウェス(ts,fl)、ジミー・ヒース(ts)、パキート・デリヴェラ(as)、メルバ・リストン(tb)やペッパー・アダムズ(bs)など名だたるミュージシャンが勢ぞろいし、ステージは華やかで壮観であった。

そのステージの冒頭、ディズはタップ・ダンスを踊りながら登場、ジョン・ヘンドリックス(vo, 2021~2017 96才没)とディズの二人が手拍子をとりパ・パ・ドウ・バップ~パ・パ・ドウ・バップとスキャットで唄うと一瞬にしてビ・バップ誕生の瞬間が味わえる。
ステージ上を所狭しと駆け回り、足を蹴上げてバンドを指揮するディズ。
酒も薬もやらないであれだけ道化ができるのはヴォードヴィリアンとしても超一流である。
また、トランペットを吹く時にディズの頬は巨大に膨らむシーンがアップで映し出されるがこれもディズのトレード・マークとして広く知られている。
ディズの頬のふくらみは特異体質によるものだそうで、ガレスピーズ・パウチズ(Gillespie’s Pouches)という医学用語にまでなっているそうである。

フィナーレにはジョン・ヘンドリックスが再び登場し<Salt Peanuts>の替え歌<Vote Dizzy>を歌う。
ディズが面白おかしくスピーチに立つ。
<私は大統領選に3回出馬したのです、そのときの選挙応援歌としてジョン・ヘンドリックスが<Salt Peanuts>を<Vote Dizzy>と変えて歌ったのです>。

ディズが大統領選への出馬が公けに残っているのは1964年、前年の63年にケネディ(1917~1963, 46才没)の暗殺を受けて行われた選挙への出馬をしたときで、<マイルス・デイヴィス(tp)をCIAの長官にする>が公約だった。
その時に作られた「Dizzy Gillespie for President」というピン・バッジはいまや、コレクターズ・アイテムとなっているそうである。

ノーマン・グランツ(1918~2001 83才没)といえばJ.A.T.P.(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)と銘打ってジャズをライヴ・ハウスからコンサート・ホールへと拡大して成功を収めたプロモーターの大御所であり、それを録音してクレフ、ノーグラン、ヴァーヴ、パブロ等のレーベルで次々と発表した名プロデユーサーでもある。

ディズもこのJ.A.T.P.の常連として世界各地を回っている。
『エキサィテイング・バトル、J.A.T.P.ストックホルム1955』(PABLO, 1955)、『J.A.T.P.イン・ヨーロッパ』(Verve, 1960)などがその一例である。

1975年スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルはパブロ・レーベルの特集プログラムを企画した。題して「パブロ・アット・モントルー1975」。オスカー・ピーターソン(p)やカウント・ベイシー(p)、エラ・フィッツジェラルド(vo)、ミルト・ジャクソン(vo)、ジョー・パス(g)などパブロゆかりのミュージシャンがジャム三昧、モントルーをパブロ一色に染めた。
ディズもロイ・エルドリッジ(tp)、クラーク・テリー(tp)と共に『トランペット・キングス・アット・モントルー75』(PABLO, 1975)などでステージを沸かせた。

また、プロモーターのジョージ・ウエイン(1925~)の発案で1972年に編成された、ディズ、カイ・ウインディング(tb)、ソニー・スティット(as,ts)、セロニアス・モンク(p)、アル・マッキボン(b)、アート・ブレイキー(ds, 1919~1990 71才没) バンドは「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」と銘打って世界を巡演したのである。

ジョン・バークス“ディジー”ガレスピーは1917年10月21日、サウスカロライナ州のチーローで生まれる。
ディズの父親はレンガ職人で、アマチュア・バンドのリーダーでもあったので、ディズは父親から音楽の手ほどき受けていたがディズが10歳の時に亡くなってしまう。
その後ディズはトロンボーンを独学で吹き始めるが、トロンボーンを操作するのには自分の腕の長さが短すぎることに気が付き楽器をトランペットに切り替える、ディズ14歳の時の話である。

その後ノースカロライナのローリンバーグ・インスティテュートに通い、そこでアマチュア・バンドに入り演奏を始める。

この当時からディズのアイドルはロイ・エルドリッジ(tp)で、後に二人はしばしば共演を重ねる関係になる。

1937年ディズはそのロイ・エルドリッジの後任としてテディ・ヒル・オーケストラに入団し本格的な演奏活動を始める。
そして1939年にはキャブ・キャロウェイのバンドに参加したが、リーダーのキャブとちょっとしたいざこざで喧嘩をしてキャブに怪我を負わせる事件を起こしてしまい1941年に退団する。若いころは少々血の気が多かったようである。

そしてニューヨークのジャズ・クラブでのジャム・セッションに出入りするようになり、ビ・バップの創生にかかわり、チャーリー・パーカーとのコンビを始めとして半世紀にわたりジャズの中枢を歩んでいて、トランペットの演奏はもとよりディズのコンボ、オーケストラからはコルトレーンをはじめ多くのミュージシャンを輩出している。
また、チャノ・ポゾやキャンディド等の中南米出身のミュージシャンを加えてアフロ・キューバン・ジャズを確立したことによりジャズのすそ野を広げたことは大きな功績である。

1993年1月6日、ディズはすい臓がんで帰らぬ人となる、75歳。

その1年前の1992年の1月、ディズはニューヨークのジャズ・クラブ「ブルー・ノート」に多くのゲスト・ミュージシャンを招いて出演した。集まった顔ぶれはベニー・ゴルソン(ts)、デヴィッド・サンチェス(ts)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ジャッキー・マクリーン(as)、パキート・デヴェラ(as)、ダニーロ・ペレズ(p)、ボビー・マクファーリン(vo)等々多くのミュージシャンがディズのもとへ駆けつけ<ビリーズ・バウンス>や<オーニソロジー><アンソロポロジー>などパーカーゆかりの演奏を繰り広げた。

このときのライヴがラスト・レコーディングとなり『To Diz with Love』(Telarc, 1992)と『To Bird with Love』(Telarc, 1992)の2枚のアルバムがラスト・アルバムとなった。
半世紀もの間ディズのバードへの熱い思いは変わらず、ディズは最後まで DIZ‛N‛BIRDを貫いたのである。

<我々がプレイするとみんなダンスを始めようとする。それが興奮というもので、人々の心の奥底に触れるからだ>ディジー・ガレスピー。

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望月由美

望月由美 Yumi Mochizuki FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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