Vol.47 | 追悼:サム・リヴァースを回顧する text by Masahiko YUH

通りいっぺんの追悼文にはしたくない。そんな思いがあって、個人的な関わりを中心に往時をしのびつつ、サム・リヴァースを回顧する。型破りな追悼記と思っていただければ幸いである(前白)。

ポール・モチアンの訃報(昨年11月22日)に不意打ちを食らったかのような喪失感がまだ脳裏にわだかまっているさなかの新年早々、サム・リヴァースの死去の報が舞い込んだ。詳しいことは不明だが、昨年末、12月26日のことだという。享年88歳といえば、この時代のジャズ・ミュージシャンにすれば大往生といっていいのかもしれない。私は個人的に取り立てて親しかったわけではないが、ロフト時代に彼が経営していた「スタジオ・リヴビー」に足繁く通ったこともあり、彼の愛妻エリザベスともどもインタヴューした思い出等も手伝って、サム・リヴァースは疑いなく忘れられないミュージシャンの1人であった。
私が初めて聴いた外国ジャズ・グループの生演奏は1964年のマイルス・デイヴィス・クィンテットである。今更いうまでもないが、マイルスの来日クィンテットが熱心なファンの間で大きな注目を集めていたのは、ひとつは当時のジャズ界の台風の目になりそうな、無名ながら桁外れの才能に恵まれた20を出たばかりのハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスからなる新進気鋭のリズム陣ゆえであり、もうひとつがテナー奏者に抜擢された新鋭サム・リヴァースの参加ゆえだった。この公演は<The World Jazz Festival>と銘打って催された、確か日本では初の屋外(日比谷野外)を含むジャズ祭だったと思う。マイルスのグループはじめ、同じAグループに属していたウィントン・ケリー・トリオ、J・J・ジョンソン・オールスターズ、カーメン・マクレーらの演奏ステージを、それこそ食い入るように見つめながら秘かにエキサイトして聴いたことだけは今なお鮮明に憶えている。このときのクィンテットが60年代のマイルス・コンボの中では際立って異色のグループだったのはひとえにサム・リヴァースの参加ゆえであり、そのライヴ記録『マイルス・イン・トーキョー』(7月14日、厚生年金ホール)が48年を経た今聴いてもユニークな聴き物となっている最大のファクターのひとつというべきリヴァースのプレイを、単なる珍事として片隅に追いやることなどできるわけがない。
とはいうものの、リヴァースが帰米後マイルスのもとを去った事実を知ったとき、当然の帰結だと恐らくは誰もが了解した。マイルスのコンセプトと相容れぬリヴァースのプログレッシヴなプレイが、当時のいわゆるニュー・ジャズに批判的だったマイルスの神経を逆撫でしたのだろうという推測は決して的外れなものではなかっただろう。ジョン・コルトレーンの後釜探しに躍起となっていた当時のマイルスにサムを推薦したのはトニー・ウィリアムスだが、トニーのドラマーとしての才能に大きな喜びとグループの可能性を見出していたマイルスにとって、トニーの熱心な推薦(推奨)がどれほど大きな示唆となって響いたことかは想像に余りある。

ジャズにおけるヒューマン・リレーションを考察する上で、マイルスとドラマーたち、中でもフィリー・ジョー・ジョーンズやトニー・ウィリアムスとの関係ほど興味深い話は余り多くはない。トニー・ウィリアムスはマイルスとも親しいジャッキー・マクリーンのもとで演奏しているときにマイルスの目にとまり、抜擢されてジミー・コブの後釜に座った。このとき何と16歳だった。ところが、それよりさらに少し前、50年代後半から60年代初頭にかけて、彼はサム・リヴァースとバンドを組んで演奏していたことがあった。このころボストン・インプロヴィゼーショナル・アンサンブルという室内楽団と一緒に演奏していたその当時を振り返って、ジョン・エフランドとのダウンビート誌上インタヴュー(89年5月号)でこんな風に話していた。「サムと一緒にバンドをやってた当時は、サード・ストリームものをプレイすることが多かった。アヴァンギャルドな音楽をジャズ・ミュージシャンがプレイするっていうコンビネーションでね」(廣瀬真之訳)。また、アラン・ドーソンの弟子だった時分、ドーソンに替わってドラムを叩いたりしていたころリロイ・フォラーナというピアニストが結成したグループに誘われた。駆けつけると、そこにベースのジミー・タウルスとともにサム・リヴァースがいたのだという。すなわちトニーにとって、サムはジャズ・ミュージシャンとしての活動を開始したとき以来の最も親しい関係にあり、音楽的にも共鳴し合う間柄だった。アヴァンギャルドな方向性で共振しあう両者の音楽性は、彼らのブルーノートにおける吹込作、とりわけトニーの初リーダー作『ライフ・タイム』に明快に現れている。この1作は日本から帰米して1ヶ月後の録音であり、両者が滞日中に綿密に話し合っていたことを容易に想像しうるアルバムとなっている(ちなみにサムの初リーダー作『フューシャ・スウィング・ソング』は翌65年5月の録音ドラマーはむろんトニー・ウィリアムス。(同日録音の第2作『コンツアーズ』ではピアノがハービー・ハンコック、ベースがロン・カーターで、トランペットがフレディ・ハバードというVSOP勢)。恐らくマイルスは、こうしたサム・リヴァースの音楽的コンセプトとディレクションを熟知した上での決断ではなく、ひとえにトニーの熱心な推薦に従って急を要するテナー奏者問題にけりをつけ、来日公演に間に合わせたのだろう。帰国後まもなくマイルスはウェイン・ショーターを迎えることになるが、世評やマイルス・グループのインテグレーション問題はさておき、このときのサム・リヴァースの演奏に不思議なくらい新鮮な興奮を憶えたことが今も脳裏にある。天下のマイルスだろうが誰であろうが、自己の音楽的信念と演奏家としてのポジションを裏切ることなく身の丈にあった演奏に徹する彼の姿勢に共感を覚えたという1点で、私にとってのこれはまさしく事件だった。

70年代半ばに当時のトリオ・レコード社のバックアップを得たことで意を決し、 "WHYNOT" なるレーベルを設立後に新しい才能をプロデュースするために渡米したとき、念頭にあったのはシカゴのAACM10周年記念フェスティヴァルとニューヨークでのオーネット・コールマンのアーティスト・ハウスに展開する新しいジャズの運動に触れながら、機会があれば才能ある新鋭を発掘したいとのわくわくするような思いだった。その結果というべきか、シカゴではヘンリー・スレッギルらのAIRやチコ・フリーマンを見出し、ロフト界隈ではアンドリュー・シリルやジャマラディーン・タクーマらと関わりを持つことができた。残念だったのはその当時のロフト界隈では最大級の注目を浴びていたデイヴィッド・マレイをプロデュースするチャンスに恵まれなかったことだ。マレイを追って、彼のテナー・プレイを色々なロフトで体験することになったが、いちばん最初に聴いた場所が実はサム・リヴァースのジャズロフト、スタジオ・リヴビー(Studio Rivbea)だった。
ロウアー・マンハッタンに広がるソーホー地区にはかつて、とりわけ19世紀から20世紀初めにかけて、ヨーロッパ(イタリア、アイルランドなど)、カリブ海域(プエルトリコ、ドミニカなど)、ユダヤ、中国から押し寄せた大量の移民の職場としてのさまざまな工場が軒を連ねていた。5、60年代を経て、役目を終え、がらん堂と化した工場などの建物や跡地に各種アーティストが住み着くようになり、中でも前衛志向の画家、デザイナー、音楽家、陶芸家らが看板を掲げて活動を展開するようになった。ジャズではオーネット・コールマンがスプリング通りに構えた<Artist House>を嚆矢とするのではないかと思う。やがて多くの若いジャズ・ミュージシャンたちがこれらロフトに移り住むようになったが、サム・リヴァースはその先陣を切った1人であり、ボンド・ストリート24番地にオープンしたリヴァース夫妻の<スタジオ・リヴビー>は70年代のロフト・ジャズの殿堂とでもいうべき、いわば聖地となったのであった。Rivbeaの Riv はリヴァースであり、Bea は夫人のBeatrice(ベアトリス)。おしどり夫婦で知られたリヴァース夫妻らしい活動拠点といってよく、先頭に立って経営に手腕を発揮するここでのベアトリスの献身的な支えがあればこそ、サムも自身の音楽活動に挺身することができたといって過言ではないはずだ。
このスタジオ・リヴビーは最初のニューヨーク・ジャズ・ミュージシャン・フェスティヴァルの開催場所としても知られるが、いわゆる70年代フリー・ジャズとしてのロフト・ジャズのまさに牙城であったことを傍証する。ここで私が最初に体験したイヴェントも、CMSフェスティヴァルと銘打った祭典だった。CMSは<Creative Music Studio>の頭文字をとったミュージシャン組織で、リーダーは西ドイツ(当時)から移住してきたばかりのヴァイブ奏者カール・ベルガー。このCMS祭典の第2夜でアンソニー・ブラクストンのクヮルテット(ケニー・ホイーラーtp、デイヴ・ホランドb、バリー・アルシュルds)を聴いた驚きも忘れられない。演奏の新鮮さもむろんだが、アルトに始まってフルート、ソプラニーノ、クラリネット、ソプラノ・クラリネット、コントラバス・クラリネットを駆使し、インプロヴィゼーションの壮麗な花を咲かせたブラクストンの意欲的な演奏が懐かしい。

このロフトは規模としては界隈のトップ級だが、当時の日記を見ると「超満員。目勘定だが150人以上」とある。夫人のビーの笑顔が脳裏に浮かぶ。祭典の最終日にはサムがデイヴ・ホランドとバリー・アルシュルとのトリオで登場した。瞑想的なバラードで開始した次の瞬間には、晩年のコルトレーンの継承者を思わせる思索的かつ神秘的な世界を吹き上げるリヴァースに、私は「息をのむ思いで、インプロヴィゼーションの呪術的マジックに酔い続けた」。彼のスキャット風のヴォーカルを聴いたのもこの夜が最初で最後。心のこもった熱い拍手が鳴り止まない感銘深い体験だった。
スタジオ・リヴビーでは、たとえば私がプロデュースしたAIRやアート・アンサンブル・シカゴなどが出演した夜も超満員だったが、まさにロフト・ジャズ全盛期の蓋が開いた活きのよさを満喫した日々であった。このボンド・ストリートには今は亡きジョー・リー・ウィルソンが開設したロフト、Ladies Fortもあり、そこで彼のヴォーカルを聴いた瞬間にレコードを作る決心をしたことも、彼のバンドでベースを弾いていた藤原清登やギターで加わっていた川崎燎と出会ったことも今では懐かしいロフト・ライフの一コマだ。
サム・リヴァースは先記ブルーノートへ4作を吹き込んだ後、インパルスへ4作を残した。インパルス作品からECM盤『コントラスツ』、あるいはブラック・セイント、FMP、NATO へ吹き込んだあたりが彼の意気軒昂たる演奏をしのべる最良の時期だったように思うが、75年にインパルスへ吹き込んだ彼の最初のビッグバンド・アルバム『クリスタルズ』は、ロフト育ちのミュージシャン(ローランド・アレクサンダー、テッド・ダニエル、ウォーレン・スミスら)で固めた構成といい、作風や演奏の肌合いといい、スタジオ・リヴビーの雰囲気を感じさせる印象深い作品だった。恐らくは98年にRCAでのリヴビー・オールスター・オーケストラ作品『Culmination & Inspiration』は、ある意味でこの『クリスタルズ』から20余年を経て達したリヴァースのコンセプチュアルな創造性を実らせた到達点といってよいものだったろう。彼の特有な発想力と構成力がオーケストラ作品という枠を超えて活きいきとした形で組織化されている。そこにリヴビー・オーケストラならではの魅力がある。ジャズの根元的な生命力とビッグバンド表現を結びつけることに成功したリヴァースの構想力をたたえてしかるべきである。J・コルトレーン、A・アイラー、C・テイラー、あるいはソプラノ演奏の系譜上で通じ合っているスティーヴ・レイシーらの美学の花園が彼のオケのサウンドの中で実現しているのだが、のみならずビッグバンドの歴史に新しい1頁をもたらしたディジー・ガレスピーの美学までをも包含したサム・リヴァースのオーケストラ表現は高く評価されてしかるべきではないだろうか。それは2006年にオーランド(フロリダ州)で組織したオーケストラによる『Aurora』における彼のコンポジションからもうかがわれようし、昨年モザイク盤で発売された『Sam Rivers & the Rivbea Orchestra/Trilogy』でも聴くことができるのではないかと思う。正当な評価を与えられてきたとは決していえないサム・リヴァースの音楽と演奏を、遅きに失したとはいえ再考したい。少なくともここでは、彼の冥福を祈ってペンをおくことにする。
2012年1月17日   悠 雅彦

 
悠 雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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