
昨年7月逝去した若杉弘が、新国立劇場創作委嘱作品として池辺晋一郎に託した『鹿鳴館』(三島由紀夫原作)がこのほど世界初演された。
終演後のカーテンコールで、背後のスクリーンに大きく若杉の遺影が映し出され、オーケストラ・ピットも含め、ステージ全員がその姿に拍手を送り、この作品が若杉へと捧げられたものであることを強く印象づけた。
三島の戯曲『鹿鳴館』を池辺の作曲、鵜山仁の演出で、とは若杉のプランであったから。
日本の創作オペラは、たびたび再演されるような新作がなかなか生まれない。新国立劇場での委嘱新作も、作曲家の独りよがりのものが多く、観客をひきつけるまでにいたらないのが現状と言ってよい。
この劇場の監督であった若杉には、そのあたりの事情がよくわかっていたろう。
その意味で『鹿鳴館』は、近頃にない魅力的なポピュラリティに加え、観客によってどのようにも解釈できる幅広さと、ある種の思想性を持ったステージとなった。
三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したのは1970年のことだ。
私は高校生の頃から、三島文学の文体の美しさに惹かれ、『豊饒の海』などに陶然としていたが、彼の作品の底にいつも流れる強いコンプレックスをも感じていて、彼の最期の見せ方を、「やっぱり」と、どこか冷たく賛美もしたのだった。
彼は、「三島由紀夫」という劇場の幕を、そのように降ろすより他なかったろう、と。
コンプレックス、というのはいつでも膨大なエネルギーの噴出の源になる。
思想や美学は、そのあとからついてくるものでしかない。いや、その裏返しの理論武装でしかない。少なくとも三島の場合。
と、そんなふうに私は思っていた。
さきほど、オペラ『鹿鳴館』のある種の思想性、と私は言ったが、それは三島戯曲にあるものではない。
鵜山と池辺は巧妙に、原作の背後の風景を、現代の空気のなかにそれとなく嵌め込んで見せた。コロス(民衆)の導入によって。
私はそれを巧い、と思った。
三島の戯曲に、むろん民衆など登場しない。ただ様々な台詞の中に組み込まれ、その存在を知らせるだけだ。それをコロスとして可視化し、発声(合唱)、マイムさせることで、欧化=近代という時代の分水嶺を、実に日本的にやり過ごすこの一日の夜会の中に、今も変わらぬ日本人性をも浮かび上がらせたのだ。
バブル崩壊後、世界経済の変動に翻弄され、とりわけ中国の脅威のもと、どこかいじけムードの昨今。一方で、日米安保、沖縄基地問題を、いつまでも引きずり続ける戦後。
ころころ変わる政権トップと民意のエゴに、行方定まらぬ日本丸と、猿真似夜会と、どれほどの時が経っていようか?
龍馬龍馬と、サッカー・ヒーローにまでその名を捧げる、単純愚昧な付和雷同と、ある種の郷愁のいかがわしさ。
コロスはまさに、そうした権力と民の両者の非成熟(未熟ではない。これは私たち日本人の根幹にかかわることで、ここでは論議しないし、欧米モデルには強い疑念を持つ)をあぶりだした。主義主張の押しつけでなく、観客それぞれの受け取りに任せる仕掛けで。
折しもW杯の思わぬ日本の進撃ぶりに、ジャパンが沸き立っている最中、天長節の祝砲の轟く夜会の一日を、西欧の「猿真似」の象徴たる鹿鳴館のなかに描き出すことになった偶然もまた、期せずしてこのオペラの大きな額縁となった。
三島の文体のきらびやかさ、毒性、妖しい美しさをそのまま適宜つまみとりながら、軽やかに、何気なく、今日の世相とつなげてゆく演出と音楽。
このオペラを、男と女の復讐劇としか見ない観客にも、あれこれ深読み、勝手に視点を拡散させる観客にも、さまざまに楽しめる、そういう作劇がここにはあり、それを私はしなやかな思想性と受け取った。
影山伯爵主催の夜会には、時の政権に反対する清原一派の乱入が計画されていた。一派の若者の一人、久雄は影山の妻、朝子がかつての恋人清原との間にもうけた子ども。母を知らぬまま虐げられて育った久雄は激しく父を憎んでおり、夜会乱入の折り、父を殺すつもりであった。朝子に母と名乗られ、動揺とともに、相愛の侯爵令嬢との恋に生きようと一度は心を翻すものの、朝子、清原、久雄の関係を知った影山にそそのかされ、ピストルを受け取る。一方の朝子は、清原と再会し、乱入計画を思いとどまらせ、決してこれまで出なかった夜会にドレスをまとって現れる。と、一発の銃声。清原が駆け込んでくる。
銃丸をわざと逸らせた久雄は、父に自分を撃たせて死んだのである。
政敵を潰し、清原と朝子への復讐に成功した影山は、清原のもとへ去るという朝子と最後のダンスを踊る。再び一発の銃声。清原の死が暗示され、舞踏のうちに幕が降りる。
「政治とは他人の憎悪を理解し、利用するものだ」とする影山と、彼の政敵たる清原との間の政治闘争(階級制も含む)と、朝子という一人の女をめぐる、久雄を含む三人の男たちの関係は、とどのつまり社会における理想と現実、男と女、親と子の愛憎の交錯だ。
いつの時代も変わらぬ正統古典派のこの構図に、「オペラはエンタテインメント」と断言する池辺が、それらしい音楽をつけ、鵜山は民衆の憎悪と無為をそこに加える。
一方、衣装も含めほとんど黒に塗り込められたステージに鮮やかな黄色の菊が並ぶのは、まさに「菊と刀」の世界。鹿鳴館を背景とした東西美学と同時に、黒衣の民たちのグロテスクな蠢きは、今日の世相へとダイレクトに繋がるのである。
台詞を活かした音楽は難解さを排し、いたって自然で、特徴と言えば、序曲からの導入シーンと夜会で使われるバンダによる軍楽、そしていびつなワルツ。全4幕にそれぞれのアリア、重唱、合唱など適宜配置され、すっきりした構成だ。ときおり、語尾をメリスマティックに伸ばす歌唱が常套的だが、これもまたちょっとした皮肉かも、と受け流せる。
つまり、日本語がひっかかったり、躓いたりすることのない音楽を池辺は徹底して流すのだ。
映画にテレビに舞台にと、オールラウンドに音楽を書く池辺の筆は、決して「オペラ」を「芸術化」しない。
あくまでエンタテインメントとしてのドラマトゥルギーにのみ視点を絞る。
作曲家とは、第一に職人である。演出もまた。
池辺、鵜山の劇場コンビは、まずもって職人芸を見せた。それで充分である。
職人は、芸術などという名の独りよがりは作らない。手に取ってもらえなければ、置き去られるだけだ。だが、職人には意地というものもある。
外を見ながら、内をも見る目。その両者をバランスよく働かせてこそ、職人芸は活きる。
三島の原作をめちゃくちゃにしている、と批判する声をロビーで聞いた。
原作をどうしようが、オペラ作家たちの自由だ。
傑作とは、どのようにも一人歩きできるものだ。この種の偏狭な原理主義を突っついたところにも、今回のオペラの適度な脱力度が見られ、その意味でも、若杉の狙いは当たった、と思ったことだ。
この劇場で若杉がやりたかったこと、やろうとしていたこと。
すなわち、創作オペラの成熟への一つの答えを、この『鹿鳴館』は示していたと思う。
ポピュラリティの中に、芯を通せるか否か。音も思想も、最後はそこで試されるものだろう。(7月7日記)
オペラ『鹿鳴館』
2010年6月26日@新国立劇場中劇場
企画:若杉弘 原作:三島由紀夫
作曲:池辺晋一郎 演出:鵜山仁
指揮:沼尻竜典 演奏:東京交響楽団/新国立劇場合唱団
歌手(ダブル・キャスト):黒田博、大倉由紀枝、永田直美、幸田浩子、大島幾雄、経種
廉彦、永井和子ほか
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丘山万里子:東京生まれ。桐朋学園大学音楽部作曲理論科音楽美学専攻。音楽評論家として「毎日新聞」「音楽の友」などに執筆。日本大学文理学部非常勤講師。著書に「鬩ぎ合うもの越えゆくもの」(深夜叢書)「翔べ未分の彼方へ」(楽社)「失楽園の音色」(二玄社)他。
■ COLUMN: 連載フォト・エッセイ「JAZZ meets 杉田誠一Vol.56スティーヴ・レイシー 1975年6月 東京」/ 「音の見える風景 Chapter7.ミシャ・メンゲルベルク 1985年9月 新宿」望月由美/ 連載フォト・コラム「撮っておきの男たちVol.7高橋悠治」林 喜代種/ 「タガララジオ15 radioTagara 15〜Classic Tracks 89-91」Niseko-Rossy Pi-Pikoe ■[東京JAZZ]特集: INTERVIEW: #84「マティアス・アイクtp」稲岡邦弥 ■[東京JAZZ]特集: LIVE REPORT: #273「東京ジャズ・プレミア・クラブ:オーストラリアン・ジャズ・ウェーブ2010〜マイク・ノック・トリオ」栃久保敬/ #274「<GROOVE>メイシオ・パーカー」高谷秀司/ #275「<GROOVE>マーカス・ミラー with NHK交響楽団」高谷秀司/ #276「<WOMEN IN JAZZ>綾戸智恵 meets ジュニア・マンス・トリオ」栃久保敬/ ■FIVE by FIVE: #722『Cynthia Felton/Come Sunday〜The Music of Duke Ellington』(Felton Entertainment)悠雅彦/ #723『坂田明 trio/チョット ! I’m here』(ダフニア/BRIDGE)望月由美/ #724『カート・ローゼンウィンケル/アワー・シークレット・ワールド』(Song Xジャズ)稲岡邦弥/ #725 『後藤ミホコ/accordionist〜アコーディオニスト』(T’s Records/バウンディ)悠雅彦/ #726『スガダイロー/渋さ知らズを弾く』(CooL FooL/velvetsun)稲岡邦弥
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