山下邦彦から菊池雅章へ
音の見える風景

●質問1

『beyond all』を聴いて、まず思ったのは、グレッグとプーさんの「即興」についての発想の落差のようなものです。間違った印象かもしれませんが、グレッグには、どこかに過去の自分の記憶にもとづく「演奏」がかなり混ざっているように感じました。しかし、それは彼に問題があるのではなく、プーさん自身の「即興」という考えが、やはり他と隔絶しているためだと思います。プーさん自身はどのように思われますか?

 今回の作品は大きな意味を感じます。正直に言うと、『beyond all』を最初聴いたとき、よく理解できませんでした。今から思うと、僕はプーさんのピアノにだけ焦点をあてて聴いていたようです。そのあと、過去の作品を聴き直したのち、再度聴いたとき、今度はあえて、グレッグとプーさんの2人の関係に焦点を当てようとしました。すると、とてもプーさんのピアノそのものが、よく聞こえてきたのです。プーさんが「歌っている」のを、とてもリアルに感じました。アルバムを通して何度か(さらに時間をいただければ、具体的に指摘できます)、全く未知のケーデンスの発明に立ち会っているような歓びを感じた瞬間がありました。これは、たんなる僕の感想です。

 以下、質問をいくつかしてみます。

 プーさん自身の文章の中に「音楽にはそれを構成するelementが無数に存在する。単体としては pitch、timbre、overtone、tacet、sustainなど、また複合体としては harmony (intervals between multiple notes) 、rhythm などがベイシックなものとして考えられるが」という文章がありますが、この中の「overtone」についてまずお聞きしたいのです。かなり古い記録ですが、「倍音列 overtone series」という言葉を使って次のような発言をなさっていました。

 『渡辺貞夫との4時間』という対談録からです。エリック・ドルフィーを批判する根拠として、次のような発言があります。「倍音列に準じるべく音の積み重ねが逆になっているだけなんだよね。例えば3の音を上において♯9を下においたりするだけでしょう。……だけどオーネット・コールマンはそういった倍音列への認識がカッチリと基本にあってさ、その上に本当の意味でのフレッシュさ、何気ないフレッシュさがあるじゃない。」

●質問2

 そこで質問です。

 ♯9を♭3ととらえると、上に3、下に♭3、すなわち、上がメジャー、下がマイナーというポリ・コード、あるいはポリ・キー的な構造が生まれるとは考えられないでしょうか。

 これは、メジャーの下部構造に、マイナーの上部構造がのるのが、ブルースの構造である、といった俗説のようなものに対するアンチテーゼになるようにも思うのですが。あくまでも、この質問は、エリック・ドルフィーの評価とは別の話としてうけとってください。

 プーさんの書かれた「明日のジャズ・ピアノを考える」という連載原稿はとても興味深いものです。30年以上も前に書かれたものとは思えません。そのなかでも、ビートルズについて言及された部分は、今なおその本質は、ほとんど理解されていないと思っています。その中で、「倍音列」と「ブルー・ノート」についての文章がありました。

「倍音列が基準になっている三度和声……そこにブルー・ノートという音が介入してくる。」その原稿の注で、メジャー・セブンス、セブンス、マイナー・セブンス、マイナー・セブンス・フラット5というコードのそれぞれの構成音に対して、それぞれ半音低い音を「ブルー・ノート」として定義されていました。(これを読む第三者のために、一例を挙げると、マイナー・セブンスの♭3度と♭7度がそれぞれ半音下がった2度と6度は、「ブルー・ノート」として定義づけられています。これは、現状の理論の中では、驚くべき定義です。

●質問3

 そこで質問です。「倍音列」と「ブルー・ノート」の関係をどのようにとらえていらっしゃいますか? 「ブルー・ノート」が「倍音列」に介入する、と要約可能ならば、その「介入」はどのようなものですか?

 また、異なるタイプのコードに対して、それぞれ「ブルー・ノート」を考えるというのは、あきらかに「ブルー・ノート」概念の大胆な拡張だと思いますが、いかがでしょうか?

 この「明日のジャズ・ピアノを考える」のなかでビートルズに言及されている文章のなかで、プーさん自身の音楽についての考え方の基礎にかかわる文章が2つあります。ひとつは「必然性」をめぐってです。以下に引用します。

「彼らがレコーディングする場合、楽譜を用いずに、何度も何度も歌なり演奏なりをくりかえして、気に入らないところを直していくとある。これは音楽を創る際の一つの理想のかたちではあるまいか。私たちの場合もそうだが、必然性のない音楽のながれは何遍もくりかえして演奏していると、もうそれ以上演奏することが苦痛になってくる。耐えられなくなってくる。その障害を除いていくと、真に自然な音楽の流れがでてくると考えられないだろうか。」

●質問4

 そこで質問です。もしも現在も、何度繰り返しても苦痛ではない「自然な音楽の流れ」が存在するとしたら、それは、どういうものでしょうか。

 つまり、「歓びを感じて繰り返すこと」と「即興すること」とはどういう関係にあるのでしょうか。

 僕自身は、「即興すること」と「繰り返すこと」が両立するところに、「作曲」が浮かびあがってくるように思うのですが。

●質問5

 「ジャズライフ」(1995年5月号 取材:スティーヴ澤)からの引用です。

「ポール・ブレイは、コンポーザーはフェイルド・インプロヴァイザー、インプロヴァイザーの出来損ないだと言うんだ。」あるいは、べつなインタビューでは「ドロップ・アウトしたインプロヴァイザー」という表現をされていました。

 質問4と関連して、現在も、このポールの考え方に同意されているのでしょうか。

 また補足的になりますが、山下とのインタビューの中で、次のような発言があります。

「逆に言うと、この小さなテーマから発展できなかったら、結局何もないっていうことだ。ここで言っている発展というのは、まさしくインプロヴィゼーションのことなんだけど、これはいわゆるヴァージョンではない。わかるだろ、オレの言ってること?

 インプロヴィゼーションされた1音1音は、テーマと同じ重さを持っていなくてはならない。」このことは、まったく普遍的な真実だと思われます。

●質問6

 「明日のジャズ・ピアノを考える」の連載の最終回で、次のように書いてらっしゃいます。

「音楽を記憶する力をつけること。……なるほど、ジャズ・ピアノは即興演奏からなりたっているが、何の理論的な基盤もないところに、演奏者が瞬間的なひらめきで、彼の音宇宙を表出させることは、不可能だと言える。瞬間的なひらめきによる即興演奏の要素はジャズの演奏にたずさわっていない人達が考えている程大きくないといえる。」

 この文章は、当時も、そして今も存在している「幻想としての即興」に対する実に鋭い批判だと思います。こうした観点について、今はどのようにお考えですか?

 「明日のジャズ・ピアノを考える」のなかでビートルズに言及されている文章の2つ目は次のようなものです。

 「和声法という制約」とジャズ・ミュージシャンの態度を批判する文章につづいて、ビートルズの態度を次のように評価されています。

「制約に対する自由が得られるのではないだろうか。これは制約の破壊ではなく、制約の超越であり、制約への本当の理解ではなかろうか。

 僕が行なったインタビューでも「理論を超える」という話をしたところ、次のようなお答えが返ってきました。

「理論とかを超えるっていうけどさ、たとえば、オレたちがスタンダードの曲をスタディするよね。その時にさ、ハーモニーでも、それが正しいか正しくないかって言えるだけの感覚を養わなくちゃいけないっていうこともあるんだ」

●質問7

 そこで質問です。もちろん「制約」と「理論」とではニュアンスは違います。さらにこの言葉を「倍音列」と置き換えると、されにずれるでしょう。しかし、僕はあえていえば、この一連のプーさんの発言の中に、「モダニスト」としての苦悩を感じます。それは、プーさん以降の世代の音楽家が(ジャズを問わず)、確実に失っていた「苦悩」だと思います。仮に「倍音列」を完全否定する、あるいは調的な、あるいは旋法的な重力を完全否定すると、無調やセリエルの世界、つまり無重力の世界に突入するように思うのですが。さらに、その無重力の世界で、人はなお歌えるのでしょうか。「勇み足」な質問で申し訳ありません。

 また補足的になりますが、ギル・エヴァウンスがプーさんのピアノについて「どこにもいかないピアノ」という表現をしたのは、「重力との格闘の結果としての浮遊」であり、たんなる「浮遊」ではない、と僕はとらえています。

 次はまた「ジャズライフ」(1995年5月号 取材:スティーヴ澤)からの引用です。

「三和音が強烈に響く」という取材者の問いかけに「ジャズが力を失ってきたというのはさ、例えば、ドミナント7thでも、細部まで発展させちゃって、基本的なサウンドの良さを、みんな忘れちゃってると思うんだよね。だからむしろドミナント7thでも、トニックに行くんなら別に7thなんてなくてもいいしね」と答え、さらに、フランス料理との対比で、米や玄米といった自然な食材の価値を語ってらっしゃいました。

 この「三和音」「自然」というキーワードは、また「明日のジャズ・ピアノを考える」の「ビートルズ論」と共鳴します。

「彼らは和声の原型である三和音の力強さ、その可能性を我々に示す。……彼らの音楽から、従来の和声を壊そうとか、まして耳新しさを狙うといったような意図は全く感じられない。……いかに彼らの音楽が自然で屈託なく歓びにあふれているかよくわかる。……その単純で鮮明なメロディのもつ強さ、ぜい肉をもたない和音の大胆で新鮮なながれはそれらの形づくる音楽がもたらす歓びと相まって、現代の複雑混沌としたあらゆる音楽の分野に対して充分に警句となり得る。」

●質問8

 この「ぜい肉をもたない和音の大胆で新鮮なながれ」は、そのまま「ブルース」あるいは「ブルースの展開」というふうに僕には思えるのですが、どう思われますか?

 しばらく「ブルース」について、お聞きしたいと思います。

 山下とのインタビューの中で、次のような発言があります。ある曲についての質問のなかで。僕が「Aマイナーを中心に展開しているんですか?」と聞いた時の発言です。

 D7で理解してるんだよ。Amでもあるんだけど。Fの音もF♯の音も自由に入ってこれるんだけど、ベース・ラインのいちばん下がF♯になってるだろ? ルートのDじゃなくてね。それは常に不安的な状態なわけでしょ。すごく気持ちいいんだよね。」

 また、「Reggae Triste」(六大の『地』の1曲目)について、僕が「この曲もブルースですね」と質問したら、次のようにお答えになっていました。

「そうさ。だってこれは基本的にはF7とB♭7でしょ。B♭の代わりにFmとやってもかまわないし、FマイナーとFメジャーの間を自由にフローティングすることもできるわけでしょ。」

 また、「ジャズライフ」(95年11月号)のスティーヴ澤の質問に対して、次のようにお答えになっています。

「グレッグは「「ニューオリンズから来てる今の若い連中はジャズから始めた。でも俺はR&Bから始めた」って言うわけ。…だから基本にブルースがあればさ、何やってもいいっていう感じはするけどね。……とにかくフィーリングとしてのブルースはすごいマジックを持っているんだよ。……トラディショナルなブルースで最後にドミナントから4度に行って、それからトニックに行って終わるだろ? そういう快感っていうかさ。 サブドミナントからトニックに帰るときにブルースのおもしろさがあるということに気が付いてる人がいない。みんなトニックからサブドミナントへ行くときにみんな快感を感じちゃうんじゃないかな。だけど、サブドミナントからトニックに帰るところってすごくおもしろいんだよね。」

●質問9

 そこで質問です。今紹介したプーさんの一連の発言には、「ブルース」についてのまったく新しい認識が示されている、と思います(それは、この10年間の僕自身の重要なヒントでもありました)。それは、「ブルースがブルー・ノートによってできている」という一般的な常識への深い疑いです。それは、「ブルースはメジャー的なものとマイナー的なものの交換によって生まれるのではないか」という直観です。その交換が、近代西洋音楽の枠を超えて行なわれている、というところに、マジックの根拠があるのではないか、と思っています。トニックからサブドミナントへ行くときは、基本的にドミナント進行ととらえることもできるのですが、サブドミナントからトニックへの進行は、あきらかにドミナント進行とは逆の進行です。そして、そのときそのキーのトニックに対して、「移動ド」でいえば「ミ♭−ミ」という、フラットからナチュラルへ、という動きが生まれています。ブルースを、♭する方向でしかとらえない一般的なブルース理解からすれば、ナチュラル方向、あるいは♯方向の「ブルース衝動」と言えるのではないか、と思います。

 これは、あくまで僕の仮説ですが、ぜひ、プーさんのお考えを聞かせてください。

 プーさんの「むずかしいハーモニーが出てきたらギルは“ブルースを弾け”と言う」という発言のほんとうの意味を知りたいのです。

●質問10

 さらに「ブルース」に関連して、『ジャズ』誌の杉田誠一さんによるインタビューの中で、バークリー音楽院での経験について聞かれて、プーさんは次のように発言しています。

「少なくともブルー・ノートに頼らなくてもいわゆるジャズのメロディックなり和声というようなもの、理論じゃなくそういうものを俺は身につけたと思ってる。」

 この「ブルー・ノートに頼らない」という言葉の意味を、あらためて聞かせてください。

●質問11

 さらに山下とのインタビューの中で、次のような発言があります。

「俺は結局、調性が落ち着いているとかっていうのが、いやなんだよね。調性がいつも揺れ動いているっていうのがすごく好きなんだ。バルトークも、そういう意味で、すごくバランスがいい。……調性の動きいわゆる“カラー”の動きだよ、ハーモニーのね。」

 今の僕には、バルトークもブルースとしてとらえている、というふうに理解できるのですが、それは曲解でしょうか?

 次は、いわゆる「モード」についてお聞きしたいと思います。

「明日のジャズ・ピアノを考える」の中では、実に明快に「ビル・エヴァンスとマイルスが始めたモードによる即興演奏」の特徴を、次のように書いてらっしゃいます。

「長短音階に厳然として存在していたトニックの性格をこわし、旋律を自由にあやつれる可能性を生んだ。……長いことジャズの理論の核をなしていたドミナント・モーションがこわされ、新しい世界がひろがってきたわけである」

 しかし、現実のジャズ理論では、単純にモーダルとコーダルを、原理の違う音楽として説明しています。トニックとドミナント・モーションの破壊が、そのままコードによる音楽のすべてを破壊したとは言えないと考えています。たとえば、ファンクやロックやフォークの中に、コードはあっても、トニックとドミナントの関係が破壊されている、というかもともと存在していない音楽はいくらでもあると思います。

 さらに『Out There!』のインタビューでは、次のような発言もされています。

「フリー・インプロヴィゼーションによる音楽の対極にあるとも言えるコード・チェンジに基づいてインプロヴァイズしていく音楽、あるいはその方法それらを総括して、最近アメリカのミュージシャンたちはビバップと呼ぶんだけど。」

「マイルスは、60年代半ばの4部作でウェイン・ショーターの曲を題材にビバップ・ミュージックの極限にまで登りつめると、従来のジャズにさっさと見切りをつけ、瞬時もおかずしてフューズの時代を開拓していった。」

 この発言には、ビバップという言葉の定義の拡大があります。特に、60年代半ばのマイルスを「ビバップの極限」と定義されているのを僕は他に知りません。

●質問12

 そこで、質問です。プーさんの中で、「コードによる即興」と「モードによる即興」はどのようにとらえられていますか?

 次はオーネットのことをめぐってです。

 「ジャズライフ」のインタビューで、スティーヴ澤が、オーネットの理論について質問していますが、こういうふうにお答えになっています。

「結局、例えば移動ドをやった奴には珍しいものでもないし、要するにあの人は自分のやってきたものをひとつの理論としてまとめてきてるわけだろ。だけど基本的に彼は、俺達が音楽を合理的に勉強してきたような方法はとってないからね。」

 またこのことと関連して『Out There!』のインタビューで、「ソルフェージュの力をつけたほうがいい」と発言されているのが気になりました。

 今の僕は、すべての音楽を、自分なりの「ブルース的」あるいは「フォーク的」な耳で、「移動ド」で歌っています。「ブルース的」と言ったのは、機能和声にしたがって、ドを移動させないからです。ドミナント・セブンスが出てきても、それはドミナントの機能を果たすとは限らないことをふまえた「移動ド」です。

 今の僕は、「ブルース的なトニック」あるいは「フォーク的なトニック=ドミナントからの解決を求めないトニック」にもとづく「移動ド」にしたがって、ピアノを弾いています(歌っています)。それは、プーさんの過去の音楽に対しても、大きな新しい鍵を僕に与えてくれました(もしも、プーさんが興味を持ってくださるなら、具体的にいくらでも示すことができます)。

●質問13

 「移動ド」と「合理的な音楽の勉強」が対比的に語られているように思うのは、僕の曲解かもしれませんが、そのこともふまえて、プーさんが薦める「ソルフェージュ」の方法について教えてください。

 山下とのインタビューで「マイナー7thの9thのコーニーさ」に対して、それを知った上で避ける、というお話をされていたことがあります。

 また同じインタビューで「でも、俺の中には、ああいうキースのペンタトニックっていうのはないんだ。どっちかっていうと、俺はクロマチックなおじさんだからね(笑)。」とおっしゃってました。僕の仮説では、マイナー7thのコーニーさを乗り越えるのは、ペンタトニックだと思っています。メロディとしてのペンタトニックではなく、響きとしてのペンタトニックです。それは、倍音列の「転倒」ということともかかわってきます。これについては、簡潔な質問の形にまとめることができません。

●質問14

 山下とのインタビューで「どうしてもいい曲だったら、忘れないわけじゃない。あんまりたいしたことのないアイディアだったら忘れちゃうわけだよ。それにオレは賭けてるわけ。そこで、もう取捨選択のプロセス、そこで取捨選択が行なわれていいと思うからさ」と話されていましたが、意地悪な質問ですが、即興演奏をDATで録音することは、この考えとどうつながってくるのでしょうか。

●質問15

 『ジャズライフ』(95年11月号)のスティーヴ澤による取材で、「何か弾いたら次に聞こえてくるものがあって、それを追いかけて繰り返していけば、メソッドというものではない、ひとつの何かができるんだよ」とお答えになっています。

 また、今回のアルバムに寄せたノートにも「耳に聴こえてくれば良し、聴こえてこなければとりあえず音を出してみる。そうすればいやでも次が聴こえてくる。そうなればもうこっちのペースだ。」とお書きになっています。

 あえて質問しますが、この方法は、「時間軸上を未来に進む」という束縛にさらされることはないのでしょうか?

●質問16

 1983年の稲岡邦弥さんのインタビューで「ギルのバンドにいたころ自分の担当してるシンセサイザーだけじゃなくて、彼のスコアを全部ピアノ譜に直してみたんだ。他のパートの動きを全部知った上でシンセを弾きたかったからね」とお答えになっています。

 そのとき、そのピアノ譜を実際にピアノでお弾きになりましたか? そのとき、ピアノでは表現できない「響き」はありましたか?

●質問17

 『Out There!』のインタビューで、ゲイリー・ピーコックの説として、次のような話をされていました。

「音楽にはトニックとドミナントしかない。つまり、強と弱、陰と陽。そして、最も強いドミナントは静寂なんだ」

 山下とのインタビューでは、次のような発言がありました。

「音空間が退屈になってきたから、それでもって結局ドミナントをぶちこんで、その後にどう対処して、何が発展していくかを……。」

 また『ジャズライフ』(95年11月号)では「日本人ってさ、やはりサイレンスが聴けるんだよな。」とおっしゃっています。

 プーさんの中では、ドミナントがサイレンスであり、かつその対極的な何かである、という両義性を持っている、と解釈してもよろしいでしょうか?

●質問18

 少年の頃、声楽家を夢見ていたというのは本当ですか(内田修さん作成の年譜による)?

 その夢は、その後どのようにかたちを変えたのですか?

●質問19

 最後の質問というか、感慨です。 『ジャズライフ』の96年のインタビューで、スティーヴ澤に対して、「人間なんて 創作って言ってみたところで結局は何も創作してないからね。基本的には全部が経験の再現みたいなもんだからさ」と発言されています。

 また『ススト』発表時のスイングジャーナルのインタビューでは、次のように発言されています。

「よく音楽家がクリエイティブなことをやりたいと言うでしょ。人間はクリエイトなんてできないと思います。要するに、あるマテリアルを、子供が積木遊びをするように自分のマインドに従って組み方を変えていく。それでしかない。」

 武満徹さんの、あの有名な「音の河」を思い出しました。

 ここまで徹底して、おっしゃるのは、なぜだろうか、と思いました。

以上、長々と、読みにくくてすみません。

すべての質問は、僕自身への問いでもあります。

あらためて、プーさんの音楽が、僕の内部にささって、一生抜けないことに気づきました。

2005年8月
山下邦彦

*本質問状は諸般の事情により掲載の機会に恵まれず、掲載が大変遅れたことを読者、執筆者および関係諸氏にお詫びいたします。編集部


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