UPDATED 07.04.2005
堀内宏公 彩耳記 and Far Beyond
永遠の光に「耳」がふれて・・・シュトックハウゼンの「宇宙」
第21回<東京の夏>音楽祭2005/宇宙・音楽・心/@アートスフィア 天王洲アイル/2005年6月24日(金)19:00、演奏曲目:『リヒト=ビルダー(光=イメージ)』(2002年/41分):連作オペラ『リヒト(光)』から「光の日曜日」第3場(演奏会形式)/電子音楽『少年の歌』(1955-56年/14分)/電子音楽『テレムジーク』(1966年/18分)、演奏:カールハインツ・シュトックハウゼン(作曲、サウンド・プロジェクション)/スザンヌ・スティーヴンス(バセット・ホルン)/カティンカ・パスフェーア(フルート)/フーベルト・マイヤー(テノール)/マルコ・ブラーウ(トランペット)/アントニオ・ペレス・アベラン(シンセサイザー)

 カールハインツ・シュトックハウゼンの音楽は、昔も今も、作曲者自身の求道者としての姿勢が端緒となって興り、周囲の献身的な協力者たちの存在によって支えられ、具体化されている。今でも毎年行なわれる「講習会」には、世界中から演奏家と聴き手が集まり、「正統的」な解釈と聴取の質が伝授されている。その様子は、日本の伝統芸能における家元制度を思わせるところがある。
 かれが創作する作品の主要な特徴は、音楽自体が論理的な構造に従って組み立てられているという点にある。一時期の「直感音楽」を除けば、楽譜にはこれ以上ないほど厳密な演奏指示が記されており、後期の作品では衣裳や身振りの指定も加わって、すべて暗譜で演奏することが義務付けられている。
 たとえばこの日演奏された電子音楽の古典的名作『少年の歌』においても(今回は4チャンネルでの「再生」で、シュトックハウゼンはオペレーターとして「演奏」に参加)、作品内の音は作曲者の感覚にもとづいて自由に配置されているわけではない。登場する音のピッチ、音価、音色、空間上の音の位置などの順番はすべてセリー[あらかじめ設定された各種パラメータの列]によって決定され、それにもとづいて作曲が行なわれているのである。
 セリーによる作曲とは、作曲家が響き自体に直接的に取組む以前に、音の存在を背後で支える形式そのものに美学的な意味を与えるという思想的態度を基盤とする。それは、人間が創作という行為に臨むにあたって、自然とは異なるもうひとつの秩序を作り上げようとする壮大な賭けであるようにも思われるが、もちろんそこには深淵な秩序で構成された自然と宇宙への畏怖と崇敬の念が横たわっている。セリエリズムとは、その意味では反転したロマンティシズムであるといってよい。
 第二次世界大戦後、若い世代の現代音楽の作曲家たちがこうした方向で創作を追求していった背景には、戦争という愚かしい出来事を芸術が超克するために、「人間」や「感情」を超えたものを中心に置き、そこから理想的な価値の投影を行なうべきだとする思考の脈絡が存在していた。
 そのなかにあって、シュトックハウゼンは、一作品ごとに「音楽」が成立する基礎的探究を徹底的に行ない、自ら与えた諸条件の枠内で、その可能性をぎりぎりまで考えぬき、創作を通じて実践した。『コンタクテ』、『モメンテ』、『グルッペン』といった作品の輝かしい価値は、今でも衰えていない。やがて、シュトックハウゼンはその踏査を音楽芸術の存在基盤の核心ともいえる精神的・文化的背景へと進め、論理的な帰結として、世界中の宗教芸術や神秘思想との連関を深めつつ、今日に至っている。
 こうした背景をまったく理解しないまま、ある演奏家が、シュトックハウゼンの数十分におよぶ暗譜を要する厳密な楽譜を、膨大な時間をかけて習得しようという行為に踏み出すことが、はたしてありうるのだろうか。おそらくないだろう。つまり、かれの音楽は、好むと好まざるとに関わらず、特別な意識と思想的基盤を分有する精神的共同体においてこそ、作曲者自身が望む表現と受容が実現するという、きわめて秘教的な儀式に近づいたものとなっているように思われるのである。

>> NEXT    >> Horiuchi's Column    >> COLUMN TOP PAGE