今回のコンサートでは前半に『リヒト=ビルダー(光=イメージ)』が演奏された。バセット・ホルン、テノール、そしてフルートとトランペット(この2つはリング・モジュレーションによって音色が変更される)、舞台裏のシンセサイザーという比較的小規模なアンサンブルである。シンセを除く四人は幾何学紋様を施した古いSF映画に出てくる宇宙人のような色違いの衣裳を着て、頭上の四台のスピーカーから出る変調音および増幅音とともに、楽器を奏でながら歌い、語り、舌打ちを交え、さらには複雑な身振りを伴って、ほとんど儀礼的といってよい雰囲気のなか、つねに情感を抑制したまま約40分にわたって精緻な演奏を繰り広げたのである。
聴き進めていくうちに、もはやこれは世界中の演奏家によって広まっていく種類の作品ではないのだろう、という思いを強くせざるをえなかった。各奏者の演奏は、長い修練の果てに到達した境地を想像させるに充分な磨き抜かれた響きのスペクトルを内包しており、しかも、前言と矛盾するようだが、その修練の過程を忘れさせるほど自然かつ自律的な時空間を象ってみせた。そこには演奏家の個性というよりは、作品世界の圧倒的な現前があり、事実、演奏者は人類を超えた特別な霊的存在であるかのように感じられた。
ならばCDを通じて「決定版」の演奏を聴けばよいだろう、と言ってみたところで、音楽体験を伝える情報量として、シュトックハウゼンの作品の場合、CDはいかにも貧しく限定的である。なぜなら、かれの作品では視覚的要素のみならず、空間構成も不可欠な要素として構想されているからである。
ここまでくると、シュトックハウゼンの作品が「神聖な儀式である」という認識を共有することは、演奏家ばかりでなく、聴衆の側にとっても必要条件として逃れ難いのではないかとさえ感じられる。つまり、肉体的・精神的な準備が不充分なまま作品と向き合ったとしても、作曲者・演奏者の発信する世界を捉えるどころか、聴く側の誤解と思い込みに終始するしかないと思われてくるのである。
だからこそ、と言うのはいかにも性急ではあるが、シュトックハウゼンを聴くためには、本来、聴き手も演奏者と一緒に「合宿」に参加して、そうして初めて体感できる音楽世界を垣間見ることが重要になってくるのではないか。しかし考えてみれば、そうしたかたちで成立する音楽のあり方というものは、むしろ、「口承」と「型」を軸とした伝統的な音楽や芸能の観点からみれば一般的だったと言えるように思う。
20世紀以降、複製技術の発達によって音楽の聴取に変革が起こり、それは当然のように音楽の創作と受容のコンテクストをも変革した。たとえば、日本の古い伝統音楽である雅楽や能を、今、わたしたちは「音楽」として聴く際に、必ずしも昔の人々のように、そこに自然の季節、宇宙、幽明をさまよう魂の道程を観想する精神を持ち合わせて聴くわけではない。しかし、こうした古い音楽に秘められたシステムや思想を理解して聴くのであれば、そこではまったく異なった響きの体験を味わうことが可能となるのである。