#  087

Nik Baertsch |ニック・ベルチュ Pianist/Composer/Producer


「ニック・ベルチュ=ローニン」来日緊急特集
「ニック・ベルチュ x 伏谷佳代」


1 序:
ニック・ベルチュの音楽性
“一事が万事、されど万事は一事にあらず”
2 インタヴュー 2009:
ニック・ベルチュ〜パラドックスを生きる詩的な「浪人」
3 インタヴュー 2010:
現在性の拡大と「今」への賛歌
〜Nik Baertsch & Ronin『Llyria』を巡って

Interviewer:伏谷佳代(Kayo Fushiya)
photo:Martin Moell/ECM Muenchen


1971年スイス・チューリッヒに生まれ、同地に居住。
8才からピアノと打楽器の訓練を受ける。1997年チューリッヒ音楽高校を卒業。1999年から2年間、チューリッヒ大学で哲学、言語学、音楽学を学ぶ。2003年から2004年にかけ半年間、日本に滞在。ピアニスト/作曲家として「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」を展開中。現在、グループ、「MOBILE」(1997~)と「RONIN」(2001~)を率いている。チューリッヒのライヴハウス「EXIL」を共同経営。
禅ファンク・バンド「RONIN」のアルバムを3種ECMからリリース/

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序:
ニック・ベルチュの音楽性
“一事が万事、されど万事は一事にあらず”

昨2009年、Office Ohsawaの大沢知之氏と知り合ったのがきっかけとなり、2年連続で来日直前のニック・ベルチュ(Nik Baertsch)にインタヴューする機会に恵まれた。昨年は恥ずかしながら、それまでニック・ベルチュ&ローニンの音楽を聴いたことがなく、前情報といえば「親日家で禅の実践者」という程度、直に音源を聴いてすぐさま質問を作成した。かえって先入観のなさが幸いしたのかもしれない、質問自体は無邪気なものであったにも関わらず、抒情溢れるニックの感性や生き方全般への姿勢を、ある程度は探ることができたように思う。さまざまなニュアンスで枝分かれしたそのドイツ語の語彙が、日本語の持つ微妙さと奇妙に呼応している様も、思想の反映のようで興味深かった。

ニック・ベルチュの芸術には、「ひとりの人間もひとつの事象も、常に複数の要素を含む」という考えが通底している。それらの要素は、互いに反発し合う性質のものであったりするのだが、雑多に離れ難く縺(もつ)れあっているからこそ、ひとりの人間なり人生なりが豊かで魅力的になるのであり、それが本質だ、と語っている。同時に、それは安易なレッテル付けへの警鐘でもあるだろう。使い古された定義の組み替えを我々に強いるのだ。一事が万事であっても、逆は非ず。そんな一文が、ニックの音楽を聴いていると身を持って実感されてくる。

昨年のインタヴューは、ニック・ベルチュの音楽への姿勢や、ローニンというバンドの音楽上の基礎的な特徴について、本年度のインタヴューは新作『Llyria』(ECM)に即し、多少しつこいくらいに「感覚」に纏(まつ)わる問いをぶつけてみた。「感覚」について問うこと自体が理詰めで不粋な行為であるため、彼の「沈黙」や「空間」への美意識を逆なでしてしまった点はあるかもしれない。内容的に多少被るところはあるが、2年分を併せてお読みいただき、ニック・ベルチュ&ローニン、及びECMが標榜するところの「沈黙」について理解を深める一助となれば幸いである。


インタヴュー:2009

ニック・ベルチュ〜パラドックスを生きる詩的な「浪人」

*インタヴュー+独⇔日語翻訳:伏谷佳代 (Kayo Fushiya)

***まず、あなたのウェッブ・サイトのトップページがとても印象的です。日本の「俳句」から発生したところの、「月見」(※ドイツ語でも”Mondschau”「モントシャウ」、として一部の人の間では定着しつつある)という言葉を思い浮かべました。「月」にはあなたにとって特別な意味がありますか?

Nik Baertsch(以下;NB); どうもありがとう。ウェッブには妻の撮った写真を載せた。2003年に夫婦で半年間日本に滞在したときに撮った写真で、梅田スカイビルの円形の窓から大阪市街を見下ろしている僕の後姿だ。まん丸い窓を通して、静かな空間からエネルギーと喧騒に満ち満ちた大都市を眺めたとき、何か特別なエネルギーが湧き起こってくるのを感じたんだ。そう、「台風の目」に立っているようなね。なにか相反するようなスリルと緊張感。喧騒のなかの静謐、嵐のなかの静寂、とでも言ったらいいのか・・・。屠殺場でのお茶会、のような。この種の静寂はまた、音楽におけるありとあらゆるドライヴ感を支配するものだ。

「月見」というのも似たような感情を催させる。宇宙的な力へ引き寄せられるのと同時にはたらく意識としての静寂、冷涼、静謐。月がなくては、大地はバランスを失い、軌道から外れてしまう。夜間の月の光があって初めて、こういった感受性が生じる余地が生まれる。『バットマン』とか浪人映画に見られるような、奔放で不可解なヒーローを生んでいる日本映画や物語に、夜とか月がシンボルとして組み入れられているのは面白いね。彼らは不可解でいかがわしいヒーローとして、善のために戦っている。アンビヴァレントでパラドックス的な人物像で、自分にとても近いと感じる。

***チューリッヒのクラブで毎週月曜日に行われているギグ (※チューリッヒのクラブ『EXIL』のこと) も”Montags”(※ドイツ語でMontagは月曜)と名づけられていますが、どうしても「月」を連想させます。「月」の時間は「もののけ」、言ってみれば「悪しき精神の時間」とも取れるわけで、これは浪人の精神のシンボルともなり得る。そういう意味も込めての月曜ライブ、というのは深読みしすぎ?

NB;全く。詩的な「偶然」のひとつだよ。まあ、こういった偶然が極めて論理的なのはよくあることだけれど。先に述べたように、「月」は僕たちにとって特殊な意味を持っていて、そこに日本的な意味を重ねて二重に用いたりはしないよ。月曜日に演奏するのは、定期的に演奏する、という秩序付けに適した曜日だからだ。ほとんどのミュージシャンは月曜日は暇だし、他にコンサートも少ない。会場諸々のコスト面でも安く済む。実際的な面からも、象徴的な面からも僕たちには都合のいい曜日なんだ。月曜日は「ローニンの日」となっている。月曜はまた、ふつうに働いている人たちにとっても仕事始めの日というわけで、「そんな日にコンサートに行く奴はいない」という人もいるよ。でも、僕たちにとっては正反対なんだ。週が明けるや否や自由奔放な「浪人スピリット」をかっとばしたくなる。一週のスタートとしてね。「悪しき精神」は時に「善良なる精神」。夜は昼を明るく照らす。

***あなたは個々の演奏を「リチュアル」(儀式)として捉えています。ライブを積み重ねることによって、儀式の濃度や強度が高まってくるのを実感として捉えていらっしゃいますか?

NB;「繰り返し」は高いクオリティに到達するための、非常に重要な原則だ。「繰り返し」によってのみ、人はある事象に関する知覚を研ぎ澄ますことができる。「繰り返し」によって人はまず「差異」と「深く掘り下げること」を知る。この二つはあらゆる「学習」とか「伝統的な熟練の職人仕事」において本質的特徴だ。生成の過程を儀式化することは詩的な戦術のひとつ。それによって、ある文化特有の技法を深く掘り下げたり、そこにしばし停泊する時空に到達することができる。

もちろん、機械的な意味ではなく、「知覚の鍛錬」としての「繰り返し」だけれどね。

***あなたの音楽の最大の特徴は、その「モジュール」という曲の単位にあります。「モジュール」はひとつの構成要素、あるいは断片で、いつの日か有機的な「一体性」へと収斂されるもののように見えます。その「一体性」は時空的にあまりに果てしなく、触知できないものではありますが。そうだとすれば、個々の「モジュール」は、終わりなく拡張していく融解のプロセスを体現している、ということになるのでしょうか?この辺りを少々語ってください。

NB;その通り。ひとつのモジュールは一個の「積み木」だ。作曲といくつかの音楽的な「積み木」が一貫性を生んでドラマティックな意味を創り出したときに、僕はその一片の音楽に番号を付ける。例えばナラティヴな、口ずさみながらの作曲とは全く異なる作法だ。個々のモジュールは数え切れないほどの解釈の可能性を持つ。僕は作曲家として、そして僕たちはバンドとして、緊迫性をあえて前面に出し、そこに合理性を付け加えることを強いられている。モジュールには生命が与えられなければならない。モジュールは音楽的な生き物だ。

***あなたの音楽はよく「ミニマル・ファンク」と名付けられています。「ファンク」という語のそもそもの語源は「匂い」に発する、いわば身体感覚に属する語です。我々聴衆にとっては、「ミニマリズム」と「ファンク」という一見たがいにかけ離れた組み合わせがとても新鮮でした。あなたにとっては、それはコインの裏表のように表裏一体の感覚だったのでしょうか?

NB;そうだね。乖離とかパラドックスにとても興味引かれる。だから自分の音楽に「禅ファンク」と名付けたりした。「ファンク」は、とても感覚的でエロティックな音楽スタイルとして定着してきた。そこでは、リズムとグルーヴが主要な役割を担う。でも、自分としては双方のエネルギーを好む。静謐、静寂、瞑想、といったエネルギーと、他方にある、躍動、グルーヴ、興奮といったエネルギーの双方をね。興奮のなかには静寂があるはずだし、静寂のなかには興奮がある。瞑想のなかにはエネルギーがあり、静謐のなかには緊迫がある。内的な静謐なくして、エネルギーに溢れた音楽は演奏し得ない。

***ここでお聞きしたいのが、毎回の「儀式」における精神的な「憑依状態」はどのようなものか、です。日本語には「言霊」という表現があります。あなたの演奏はこの表現を想起させます。この場合は、「言」の代わりに「音」が来ますが。すなわち、音霊。音の魂。音符はそれ自体では単なる点の束であって、シャーマン=ミュージシャンなしでは生きられない、「音」になり得ないわけで・・・。

NB;それは同感。媒体なしに音楽は生じ得ない。音楽は音符のなかにあるのではない。音楽は空気のなかに、スウィングのなかにある。その空気とかスウィングは、音楽を生きたものとする文化全体のことだけれど。音の魂は、演奏というリアルな実践や、確固としたスタイルの解釈を信用することなしには理解され得ない。実践を通して、人はスタイルをさらに発展させることができる。面白いのは、音楽的な表現である「音の魂」が、人間の運動を通して生じるところ。つまり、楽器っていうのは演奏されなきゃ始まらない。ミュージシャンというのは、ダンサーとかプロの運動選手に似ている。彼らは「動きの文化」を絶えず耕して、精密なものにしている。音楽的な表現というのは、運動力学からも、精神の奥底を見つめることからも生じる。

****「シャーマン的な解釈」と「インプロヴィゼーション」の関係、というか兼ね合いは?

NB;インプロヴィゼーションは一種のパラドックス的な文化の戦術だ。人間は果てしない可能性をその身体のうちに秘めているはずなのに、同時にそれを忘れてしまっている。インプロヴィゼーションとは、自分自身をクリエイティヴに罠にかけて出し抜くこと。インプロヴィゼーションにおけるシャーマン的な要素とは、自身の直感を要することと、ある文化に特有の技法を意のままにすること。それらは、楽器と音楽の創造的な関係があって初めて、極めて高いレヴェルで可能となるものだ。

***あなたの音楽からしばしば感じ取れるのは、鍵盤楽器の「パーカッション的アプローチ」です。例えば、「モジュール42」の冒頭。単音の繰り返しは、水面に轍を残す水滴、を連想させます。少なくない日本人が似たような印象を受けると思われますが。この「轍」というのはまた、高度に文学的なモチーフで、時間的・空間的な「スパイラル」(※螺旋状)を象徴します。スパイラルは我々を否応なく内向させる・・・。

NB;あなたと同じような感覚を再認識したところ。スパイラルは僕の最も好むモチーフのうちのひとつ。一方で時に先んじながらも、他方ではいつも同じ地点にたどり着く。芸術的な熟練の職人の成長についても同じことが言えると思う。コツコツとした常日頃の仕事と発展は、互いに共鳴しあって成就する。従順ともいえる繰り返しは、知覚受容の幅を広げる。人間というのは、総体としての「水」と「一滴の水滴」としての水、の両方の意識を持ち合わせているはずなんだ。

***楽器のパーカッシヴな演奏スタイルの効果について、常にかなり意識的ですか?

NB;僕たちはメロディが適用されるように、リズムを適用する。作品のリズミックなエネルギーを指針としているんだ。パーカッシヴな音響に、僕はすごく魅了される。儀式の伝統の多くは、パーカッシヴな音響と構造を高度に発展させてきた。日本の禅の伝統なんかもね。メロディ楽器をリズム楽器に機能替えすることは、とてもスリリングだよ。“Ronin”というバンド自体が、ひとつの大きなリズム楽器だ。

***マンフレート・アイヒャー(※ECMレーベルの鬼才プロデューサー)は、かつてあるインタヴューのなかで音楽と映画の分かち難い関係に触れていますが、あなたの音楽も時に「映画音楽」に適しているように思われます。私たちの頭の中に風景を表出させる、という点で・・・。

NB;僕たちは常に音楽の空間的な、演劇的な作用に注意を払っている。要するに、音楽的な空間と風景のために時と場所が確保されているということ。すぐに言葉で語ろうとする衝動に陥ることがないようにね。僕たちの音楽は、時間や風景、想像世界といったものを、脚本をなおざりにすることなく「生じるに任せる」。視覚効果とのコンビはとても良く機能している。音楽が場所を開いてあげているからね。

****他の芸術形態と比較して、音楽だけが持ちうる特殊性とは?

NB;音楽は眼にみえなく、言葉にすることもできない記号や意味システムを用いている。人間は何でもかんでも言葉にしようと躍起になっているけれど。音楽は「口がきけない」からこそ直接的で、まず体に作用する。このスウィング感はとても直裁的で意味の深層に触れる。まず肉体に作用して、だからこそとてもエモーショナル。この「無言」と「感情起伏」のないまぜ状態こそが、音楽をその作用において、他の追随を許さないものとしている。僕は自分が音楽家で良かった、と思えることがよくある。日常的に、語ることも言葉も必要としない覚醒状態、をよく体験するので。日本に初めて行った時、日本語の単語なんてまるっきり判らなかった。だけれども僕は幸福だった。すべてを「無言」状態で見聞きした。こういった「障碍」(しょうがい)は、多くのことに対する私の知覚受容を鋭敏にした。

***(「浪人」の精神について) 日本の歴史を見ますと、「浪人」も「サムライ」も近代以前の存在であり社会階級です。この時代、とりわけ戦国時代などは、日本人のメンタリティは今よりもっと「ヨーロッパ的」であったのではないか、と想像します。小さな都市国家に分かれていたようなものですから。そういう社会においては、各々が生きるうえでの美学を持っていた。「浪人」という社会的な状態にも美学があった。浪人の自由な精神とか人を食ったような気性も、多部族(諸藩)社会を生き抜くのに時には有益であったのではないか・・・。残念ながら、私たち現代の日本人はとても「サムライ化」している。日本人、といえば従順な民族と称されますから。

NB;僕は「浪人」を「自由精神」として解釈している。自らの行いの責任を一手に引き受ける、という自由精神。とはいっても、自身を尊重することについてはなおざりにされている場合が多いけれど。この精神は格闘技から来ていると思う。それを僕は合気道のなかに発見して、いつも実践するように努めている。その精神の問いというのはいつも、誰に対して、あるいは何に対して従属するか、なんだけれどね。「浪人」の観念がとてもアンビヴァレントなのも面白いと思う。「盗人」であり「ならず者」である浪人が、時に貴族みたいな「高い倫理性」や「自己責任」と結びつくのだから。人間というのは大抵、両面価値から成り立っている。日本人であろうと、ヨーロッパ人であろうとね。

***日本に滞在されたご経験がおありですが、現代の日本人に浪人精神の残存をみることは?

NB;「浪人」も「サムライ」も、精神性ということでは全世界に在りうる。ある段階を超えたところの日本特有の観念については、僕たちヨーロッパ人には判らない。日本文化のなかで育ったわけではないし、日本語を完全にマスターしたわけでもないのだから。僕は「浪人」の観念を詩的な哲学として、また芸術的な創造性として用いている。

***現在のような世界的経済不況のただなかにあって、「浪人」の自主独立の精神はある種ラディカルに映ります。新たな生き様の提示。ヨーロッパでの聴衆の反応、とりわけあなたの生活の場であるチューリッヒとベルリンではいかがですか?

NB;「自由」で芸術的な生活には明らかに高いリスクが付き纏う。でも、僕はそういう生活がとても好きだ。ライフ・スタイルというのには、どんなものであれ長所と短所があるものだ。全員が全員、自分のライフ・スタイルに満足しているわけではないだろう。僕はただ単に自分の知覚能力を高めたいし、できるだけ多くのことを学びたい。多くのリスクや責任を負うことは、最良の訓練であるように感じる。それによって自分の創造性が試されるから。「リスク」の局面においては、毎日の地味な鍛錬、つまり恒常的なコツコツした仕事、というのがダイレクトに結びつくわけではない。たぶん、自分自身が不安に感じるときにこそ生成する偉大なる芸術、というのが在るんだろうと思う。「新たなる挑戦と日々の継続的な訓練との間の、同一線上におけるバランス」。作曲、解釈、そしてインプロヴィゼーションの三角地帯を自由に移動しながら発展させていくこと、を僕たちは人生で強いられている。「クリエイティヴである」とはそういうことだ。

***日本文化の好きな側面を挙げてください。絵画、音楽、文学・・・何でも構いません。

NB;それは難しい。あまりに沢山あるので!僕の日本文化への入り方は多分に直感的だからね。あまり確かなことも言えない。僕が愛するのは日本的な「空虚」の捉え方。思うに、「空虚」の素のままの美しさや緊迫性がこんなにも洗練されている文化は世界に類を見ない。芸術で最も難しいのが、「それをするのに最適な場所で何もしないこと」なんだ。日本の伝統は「シンプルであることの複雑性」を高度に洗練させ、尊重している。この「シンプルさ」は「簡単であること」ではなく、「知的な明快さ」なのだけれど。

***日本人に伝統的な物事への対処法のひとつに、『型に習熟することによって型を破る』というのがあります。どのように思われますか?

NB;芸術において、手仕事的な、すなわちアコースティックな側面に熟達することはとても大事だ。新たな解釈は「熟達」から自然発祥的に生じる。100%ではないが。開拓精神がまさに重要だ。ユーモアも。そして自分自身を計略にかけるときに生じる、クリエイティヴな諧謔精神も。

***日本の聴衆に何かメッセージは?

NB;ひとつお願いがある。感想とか印象を述べて欲しい! 日本の男性や女性がコンサートの後、いかに想像力に溢れた、詩的な感想を述べてくれるかを僕は経験的に知っている。こういった感想はとても僕を揺さぶる。これほど偉大で芸術的・詩的な伝統に育まれ、かつ「質」に対して確かな審美眼をもっている日本で再び演奏できることに、僕達は大きな喜びを感じている。


インタヴュー 2010:

現在性の拡大と「今」への賛歌
〜Nik Baertsch & Ronin『Llyria』を巡って

≪Via e-mail: 2010/10/7 ドイツ・ウルムより受信≫
インタヴュー+独⇔日語翻訳:伏谷佳代(Kayo Fushiya)

新作『Llyria』(ECM)の第一印象は一聴とても平穏で、禅における「悟り」の境地に近いものに感じられました。前作の『Holon』(ECM)の魅力が音楽構造そのものの「緊迫と凪とのダイナミズム」にあったのと比較してですが・・・

***しかし、次第にそれはただの表面的な印象にすぎない、と思われてきました。むしろ、「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」自体としては、より強度を増しているのではないか。「実践の開示」そのもの、という点で(コンセプト、としての 「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」は立ち消え、ただの「実践」が全面に出ているという意味ですが)?

Nik Baertsch(以下NB): 僕の家には日本人ダンサーの平敷秀人が住んでいるんだけれど、『Llyria』を聴いて彼が言ったんだ。「ああ、音楽が成長しきったね」って。そういった意味では、僕たちの音楽は「名なし」になったと言える。音楽がそれ自身から離脱しているのだから。ローニンの音楽は「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」、とりわけ「禅ファンク」と呼ばれ続けているけれど、まず音楽が演奏されてからそれらの「名称」が来て、やがてその「名称」が疑問に付されることになる。その逆方向(「名称」→「演奏」)はあり得ない。

『Llyria』のなかに満ちている、静けさと平穏に満ちた雰囲気は、メンバーが音楽を解釈してプレイする、その有りようそのままだ。崇高ともいえるほどの静けさに満ちた自制心から湧き出るもの。心の平安や静寂は音響の只中に置かれる。たとえ、その曲が表面上喧(やかま)しかったり、リズム的にもメロディ的にも複雑であったとしても。

***アルバム全体を通して、「残響と余韻の存在」がとても色濃い。各モジュールのエンディングの部分がとりわけ個性的で印象に残ります。各モジュールの演奏内容全体を「問いかけ」であるとすれば、そのエンディングの部分(残響ももちろん含めて)は、あなたなりのヒントであったり示唆に当たるのでしょうか?

NB: すべての曲(モジュール)は「問い」であると同時に、考えられ得る限りの「答え」でもある。そう、「ドラマトゥルギー」とでもいうのか、ひとつの「問い」と「答え」との狭間で自ずとバランスが取られる緊迫関係。それでも僕たちは敢えて「プロセス」の周囲を旋回し続けることが多い;まず、「答え」を与え、それから「問い」を提示する。聴き手は「音楽的な課題」とともに家路につく。エネルギーに満ち満ちた課題は、存在と生成のプロセスそのもの。それはコンサートの終了とともに人工的にブツッと截ち切られる類のものではない。

***むしろ、残響や余韻は「明確な答えなどどこにもない」ということの逆説的な答え、であると? モジュールの意味や受容は完全に聴き手に委ねられる、という意味で。

NB: そう、「答え」というのはとても個別で詩的なものだ。だからこそ曲にはタイトルも、経過やエンディングすらもなかったりする。そうやって聴き手を元いた所ではない別の場所へ連れていく。「答え」イコール「問い」なのだろうか?

●「モジュール48」について・・・

***ピアノの「単音の美しさ」が比類ない。響きの孤高性、これは単音のみが達し得るものです。和音であったりテクニック的な超絶技巧は同じ作用は持ち得ない。単音のクオリティというものは、鏡のようなものです。ミュージシャンのすべての経験値が否応なく投影される・・・。単音の強調、そしてそこから発生するところのシンプル極まりないメロディ、これらにどのような意識を持っていますか?

NB: 的確でいいことを言うね。そう、単音には経験が情け容赦なくすべて投射される。単音を鳴らすのは簡単だろう、ってよく人は言うよ。とくにピアノの場合はね。ピアノはとても機械的な楽器だけれども、人はそこにすぐさま「一人のミュージシャンがひとつのサウンドに持ちうるもの」を嗅ぎわける。このサウンドの源は、ミュージシャンの経験だったり、個人的な物事への共振の傾向だったりするわけだけれど。それがベストに作用した場合には、そのサウンドは比類ないほどに個性的なものとなる。優れたミュージシャンというのは、少ない音からより多岐にわたる残響をはじき出せる。多くの音を扱ったとき以上のね。

***冒頭から、ピアノとリードの「縒られた糸」のごときメロディ・ラインにハッとさせられます。いわゆる「アンサンブル」において、楽器間の「対話」の在り方は大まかに言って二路に分かれるわけですが。音を重ねることによって音楽の複数性や多層性を出すか、音それぞれの差異から分かち難いひとつの「縒られた糸」を編み出すか。一言でいえば、「拡散」か「融合」か。最近のあなたの音楽における気分や傾向はいかがですか?

NB: 音とメロディの「二重張り」、さらにパーカッシヴな音響を加えた複合構成は、ローニンの重要な戦略のひとつ。往々にして、ひとつの楽器は他の楽器の「影」である場合が多いし、二声・三声にわたるパートがひとつの全く新しいサウンドに収斂することもよくある。そこに至っては、もはやそれぞれの楽器の区別はつかなくなる。料理を思い浮かべてほしい。ほとんど魔術的ともいえるくらい美味しい一皿があったとして、そこからたった一つの香辛料を類推することはできない。にもかかわらず、紛れもなく新しい味覚であるような経験。配分と攪拌の芸術。

***ECMのコンテクストでは「沈黙」ですが、「残響」の連続上に在るものとしての「間」。あなたにとってそれはどのような意味を持つのでしょうか?

NB: 人は瞬間に永遠性を持ちこむことができる。「動」を「静」に取り込むことによってね。ある人が明朗に、静かに、分別をもって対話をしているとき、その人は語りのなかに静謐を持ちこんでいる。語りながら沈黙しているんだ。対話の相手が、考えなり思想なりをそこに持ちこむ場所を作ってあげている。多くの人は語りながら沈黙しているのだと思う。「沈黙」はエネルギーが散漫になるところではない。ひとつの「響き」はそれ自体で聴こえ得る一方で、さらに広がっていくための場所をも必要とする。「響き」は「今」のなかに「永遠」を見つけなければならない。

●「モジュール52」について・・・

***このモジュールでは、聴き手はひとつの「禅的実践の爆発」といったものを目の当たりにします。とりわけピアノ・パートにおいて。「単音の美」は言うまでもなく、それぞれの音同士の微かな「ずれ」や「ためらい」、その柔軟な運動性に魅了されます。東洋的な「自己省察」の感覚が喚起されますが。禅の実践における第一段階の「自分との対話」、第二段階ともいえる「他者との出会い(対話)」。このあたり、いかがでしょうか?

NB: 作曲するときは特に意識はしていないけれど、音楽自体のエネルギーが自ずと浸透して来るんだ。音楽のほうが何かを語るためにミュージシャンを選ぶ。音楽は流れゆく偉大なる「神性」みたいなもの。僕たちはそのなかの駒にすぎなく、神性の流れの上にひょっこりと顔を出したり、そのなかに潜伏したりする。

リズム上の、あるいはモティーフ上の「ずれ」や「ためらい」を通して、新たなリズムのバランス感覚を提示する。そして聴き手の知覚をダンスさせるんだ。これが「対話を通じての自己省察」のひとつの形。瞑想とは、一人で物を考えることだけではなくて、大きな全体性の一部として全体性との対話のなかに在ることだ、と捉えている。僕はひとつの独立した断片であるけれど、同時にもっと高次の全体性の一部分でもあるんだ。前作のタイトル『Holon』にも託したかったことだけれど。

「モジュール52」は静かに幕開け、いつしかピアノの単音が活き活きと跳躍し始め、やがて他の楽器を巻き込んで大きなグルーヴへと変遷していく。さながら一滴が雪解け水となり、小さな流れになって、しまいには大海へ注ぎ込む・・。音楽の柔軟性そのもののごとき「旅」のようなもの。聴き手はこの単音の雫に自己を投影し、ミュージシャンはその音世界に深く嵌まり込む・・・

***ここに至っては「自意識の消失」が実現されていると思います。「無我」あるいは主観/客観の「ゼロ地点」。これは「現在性の引き延ばし」でもあり得る?

NB: 水の映像は実に適している。水の変幻自在な様態の在り方にはとても鼓舞される。音楽は大気へ流れ込んで、そこに僕たちは「スウィング」を聴く。水の中にあっては、空気の多様な流れ方を実際に目で見ることができる。僕たちの精神が水と一(いつ)になるならば、「無我」は生じるだろうし、時間感覚と「今」の逆説的な関係を、「絶えず『今』だ!」の状態に蒸留しておくこともできる。

***ビョルン・メイヤーのベースが非常に効果を生んでいるモジュールでもありますが。規則性と驚異的な持久力。まさに「浪人精神」のストイシズムを体現しています。ビョルンがバンド全体のサウンドに寄与しているところとは?

NB: ビョルンのキャラクターはほとんどバンド全体の核であると思っている。極めて経験豊富な、完璧ともいえるミュージシャンだよ。でも、彼はその能力をこれ見よがしに見せつけたり、無駄使いしたりはしない。彼はごく一握りのミュージシャンだけが持ちうるものを持っている。つまり、練りに練られた音楽上の「手仕事」の技、全体性への意識、そして人間的な器の大きさ、のすべてが結晶しているということ。「静かなる精神性」とでも呼びたくなる。大声でがなり立てるだけのやかましい愛とは無縁の人生全体への愛。こういったストイシズムを完膚無きまで血肉化しているのがビョルンだ。

***一方で理性的ともいえるリズム・セクションのライン、同時発生的に別次元で起こるピアノとリードの「縒(よ)り糸」メロディ。これらの氾濫によって、「今」という瞬間はかぎりなく拡散していくのが感じられます。ベース・ラインが「現実」に属するところの何かを体現しているとして、ピアノとサックスの部分はほとんど「無常」というか完全に「非現実」の何ものかです。ここに唐突に突きつけられる、ピアノによる低音の単音F#の威力(ユニゾン”H/C#/C#/C#”の直後)。まるで楔(くさび)が打ち込まれたかのような、「決断の瞬間」の音、として私には響きます。このパーカッシヴなF#音は、現在にぽっかりと空いた深い亀裂?

NB: まさにそう!「今」というのはとても複雑な状態なんだよ。だからこそ「今」に喰らいつくのはとても難しい。「今」にはすべてが在るが、そのすべては一元的ではない。しばしば音やメロディにとり憑かれて、手首をぎゅっと掴まれては宣告される。「今だぞ、一緒にどうだ」、ってね。待つタイミングや問いかけのタイミングがあるのと同様。音楽が僕たちに語りかけてくる。まあ、自分に都合のいいようにそれらを解釈する幸運も自由も僕たちは持っているけれどね。

***絶えず「悟り」が更新されるという意味での、禅的実践の音楽への適用、とは?そして、現在が拡大されていくことの実感はどのようなものでしょう?

NB: 人間は訓練しなければならない。すべてを。ピアノも訓練、作曲も訓練、パンを上手に切るのも訓練、ご飯の食べ方も訓練・・・。習得することと訓練すること。それらが僕にとっての絶えず更新されてゆく「悟り」だ。だから月曜日に定期的に集まっているし、一緒に音楽をすることはもちろん、一緒に居ること自体も訓練なんだ。

***またエンディングの話ですが、この「モジュール52」の〆めはとりわけ印象的です。シンバルのヴァイブレーションと水の動き。あらゆる痕跡というものが不確実で、実は夢がフーガみたいなもの?このエンディングもあなたなりのユーモアですか?

NB: ユーモアと皮肉。音楽の魔術は実際に人の手によって作られる。魔法ではない。でも水の音というのはそれ自体が魔術的ではないか?シンバルの音と水の音との間に差はあるのか?このモジュールの小さなポイントではある。




●「モジュール47」

間奏曲のようなメロディアスな「モジュール55」を経てたどり着くのが、アルバムのもう一つのハイライトともいえる「モジュール47」。時間感覚のもつれをそのまま体現するかのような、ピアノ内でのニ声部の掛け合い。「スパイラル」(*「旋回」。ニック・ベルチュが多用する手法)のヴァリエーションのひとつだろうか。少々、意地悪に「運命のいたずら」的にさえ響く・・・

***ここでは絶えず変遷する音楽構造そのものを解放しているような印象を受けますが?

NB: 「スパイラル」の観念はとても美しい。スパイラルは前進しながらも、何回も同じところへ戻ってくる。この曲における多くの音楽的な出来事は、バンド全体から自然発生的に湧き出てきたものなんだ。とくに中間部のフリーの部分はね。ここでのバンドは強風に抗(あらが)う風景そのもの。

曲の途中で急激な転換があるけれど、人間の攻撃のエネルギーって大概そんなものだろう。黒澤の『乱』での戦闘シーンみたいにね。戦士はやるときはやる。ポジティヴな意味でもネガティヴな意味でも、人間の攻撃は止むことを知らない。万有の法則のひとつだ。「攻撃」をポジティヴに捉えて、戦闘的エネルギーを定義替えすれば、「リリース」が生じる。合気道でのアクティヴな「気」の存在のようにね。

***変拍子が顕著なこのモジュール。肉体的な作用以外に、変拍子の本質はどこにあるとお考えですか?

NB: リズム構造の変化によって、異なる時間の受け止め方が示される。時空における「動」は、さまざまな「在り方」を人に許容させる。僕たちは宇宙を踊りながら巡って、いつしか同じ場所へたどり着く。その場所はいろんな意味で完全に同じではあり得ないのだけれど。

***このモジュールでは音とリズムの隙間に強力な「空気」や「風」の存在を感じます。音符以外のところに存する、沈黙の密度や圧力について少々語ってください。

NB: 静謐や静寂、真空、というものは音や音響の対極に位置することもあるけれど、音響そのものの中にもすでに在るものだ。僕たちの音楽は、ダイナミックでリズミカルな音楽を奏でているときでも、その中に静寂と真空を持ち込もうとしている。もし、音・音響・曲そのものに呼吸するための「空気」がなかったら、すぐにナーバスになりエネルギーを削がれてしまう。滋養のある食べ物を与えるように、音楽にエネルギーを与えたい。

水と同様、曲のなかにも風や空気を吹き込むことは可能だ。そうすることによって、すでに作曲された部分も生命を吹き返す。

高密度のさなかの空虚、沈黙のなかのおしゃべり、これらはとてもスリリングだ。

***「モジュール53」と「モジュール51」は低音の醍醐味に溢れています。わかりやすくいえば、「ダウン・トゥ・アース」でブルージーでファンキーな感覚に襲われる。しかしながら、あなたのグルーヴ感覚は決して特定の文化や場所に根を下ろさない。「土着性」とは自身の中で絶えず変遷し、旋回するものなのでしょうか?

NB: ある風景や国、祖国への個人的な想いというものは、絶えず変化している。僕たちは音楽的なひとつの国、を創ろうとしている。そこでは、自分たち独自の音楽の伝統を打ち立てることができる。あなたが言うように、低音というのはそれを表現するのに好ましいね。濃厚なグルーヴ、ファンキーなリズム、深遠なメロディとベース・ライン。そこから太い「大地との結びつき」が生じる。ここで言う「大地」には地理的な結びつきは微塵もなく、リズムの帝国が価値を持ち祝福される。僕たちが「祖国」を感じるのは、律動するビートの只中だ。

***クラブ「Exile」での定期ライヴ “Montags”も300回を超えたと聞きました。おめでとうございます。各回の「実践の更新」と音楽の強度や濃淡は、実感としてどのようなものですか。また、そこから見えてきた地平とは?

NB: 定期的なギグから、一体どれほどの差異や実践的エネルギーが生まれ出たかを考えると、実に信じられない気分だよ。実践は自らを欺く。人がそれを意識的に進歩させようとすればするほどね。ここにまた、スパイラル型の旋回のエネルギーや発展も見出せる。前に進むだけじゃなくて互いに散開し合うんだ。スパイラル自体が常に開いているんだ。
一体どこへ向かって?

伏谷佳代 (ふしや・かよ)
1975年宮城県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、リスボンを皮切りに滞欧7年(ベルリン→シエナ→ベルリン)。各地でライヴに足繁く通う。「良い音楽とは?」だけを基準に、多文化・多言語を基礎に本質へ迫りたい、と考えています。ブログも執筆中(http://kdreieck.exblog.jp/)。

JAZZ TOKYO
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FIVE by FIVE 注目の新譜


NEW1.31 '16

追悼特集
ポール・ブレイ Paul Bley

FIVE by FIVE
#1277『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』(ピットインレーベル) 望月由美
#1278『David Gilmore / Energies Of Change』(Evolutionary Music) 常盤武
#1279『William Hooker / LIGHT. The Early Years 1975-1989』(NoBusiness Records) 斎藤聡
#1280『Chris Pitsiokos, Noah Punkt, Philipp Scholz / Protean Reality』(Clean Feed) 剛田 武
#1281『Gabriel Vicens / Days』(Inner Circle Music) マイケル・ホプキンス
#1282『Chris Pitsiokos,Noah Punkt,Philipp Scholtz / Protean Reality』 (Clean Feed) ブルース・リー・ギャランター
#1283『Nakama/Before the Storm』(Nakama Records) 細田政嗣


COLUMN
JAZZ RIGHT NOW - Report from New York
今ここにあるリアル・ジャズ − ニューヨークからのレポート
by シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley,剛田武 Takeshi Goda, 齊藤聡 Akira Saito & 蓮見令麻 Rema Hasumi

#10 Contents
・トランスワールド・コネクション 剛田武
・連載第10回:ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報 シスコ・ブラッドリー
・ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま
第1回 伝統と前衛をつなぐ声 − アナイス・マヴィエル 蓮見令麻


音の見える風景
「Chapter 42 川嶋哲郎」望月由美

カンサス・シティの人と音楽
#47. チャック・へディックス氏との“オーニソロジー”:チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈Part 2〉 竹村洋子

及川公生の聴きどころチェック
#263 『大友良英スペシャルビッグバンド/ライヴ・アット・新宿ピットイン』 (Pit Inn Music)
#264 『ジョルジュ・ケイジョ 千葉広樹 町田良夫/ルミナント』 (Amorfon)
#265 『中村照夫ライジング・サン・バンド/NY Groove』 (Ratspack)
#266 『ニコライ・ヘス・トリオfeat. マリリン・マズール/ラプソディ〜ハンマースホイの印象』 (Cloud)
#267 『ポール・ブレイ/オープン、トゥ・ラヴ』 (ECM/ユニバーサルミュージック)

オスロに学ぶ
Vol.27「Nakama Records」田中鮎美

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説
#4『Paul Bley /Bebop BeBop BeBop BeBop』 (Steeple Chase)

INTERVIEW
#70 (Archive) ポール・ブレイ (Part 1) 須藤伸義
#71 (Archive) ポール・ブレイ (Part 2) 須藤伸義

CONCERT/LIVE REPORT
#871「コジマサナエ=橋爪亮督=大野こうじ New Year Special Live!!!」平井康嗣
#872「そのようにきこえるなにものか Things to Hear - Just As」安藤誠
#873「デヴィッド・サンボーン」神野秀雄
#874「マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット」神野秀雄
#875「ノーマ・ウィンストン・トリオ」神野秀雄


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