UPDATED 08.14.2005
INTERVIEW
菊地雅章への公開質問,音楽アナリスト 山下邦彦
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菊地雅章プロフィール

ジャズの聖地、NY「ヴィレッジ・ヴァンガード」を中心に活動を展開しているピアニストの菊地雅章が新たな境地に立つデュオ、アルトとソプラノサックスのグレッグ・オズビーとのKOプロジェクトをスタートさせる。8月24日発売の新作『ビヨンド・オール』(55 Records) に続いて12月の来日ツアー。JazzTokyoではこの機会を捉え、菊地と交流の深い音楽アナリスト山下邦彦氏を起用、公開質問という形で、菊地の音楽と音楽観の核心に迫る企画を試みる。
事前の申合せは一切なく、展開については予断を許さない。[編集長 稲岡邦弥]


菊地雅章様

質問1
『beyond all』を聴いて、まず思ったのは、グレッグとPooさんの「即興」についての発想の落差のようなものです。間違った印象かもしれませんが、グレッグには、どこかに過去の自分の記憶にもとづく「演奏」がかなり混ざっているように感じました。しかし、それは彼に問題があるのではなく、Pooさん自身の「即興」という考えが、やはり他と隔絶しているためだと思います。Pooさん自身はどのように思われますか?

 今回の作品には大きな意味を感じます。正直に言うと、『beyond all』を最初聴いたとき、よく理解できませんでした。今から思うと、僕はPooさんのピアノにだけ焦点をあてて聴いていたようです。そのあと、過去の作品を聴き直したのち、再度聴いたとき、今度はあえて、グレッグとPooさんの2人の関係に焦点を当てようとしました。すると、とてもPooさんのピアノそのものが、よく聞こえてきたのです。Pooさんが「歌っている」のを、とてもリアルに感じました。アルバムを通して何度か(さらに時間をいただければ、具体的に指摘できます)、全く未知のケーデンスの発明に立ち会っているような歓びを感じた瞬間がありました。これは、たんなる僕の感想です。JT

『beyond all』


[↓UPDATED 08.31.2005]

山下邦彦への回答 1ー2 菊地雅章

菊地
 質問に答える前に、<Poo さん自身の「即興」という考えが、やはり他と隔絶しているため>の部分の『他と隔絶している』とはどう意味か、もう少し具体的に説明して欲しい。

山下
 これまでに「即興とは何か」という形で定義されてきた、どのような定義とも違う、という意味です。また、Pooさんの存在そのものに対する、僕の感じ方を、あえてひとことで表現したものであり、このあとの質問全体の、入り口のような意味で、このように書きました。
 ちなみに、僕が知っている即興をめぐる言説は、次のようなものです。
 正確な引用ではありませんが、以下に列挙しますと、「即興とは過去の記憶の操作である」「即興とは、作曲、演奏と三位一体をなすものである」「即興とは知らないことを演奏することである」「即興には、イディオマティックなものと、そうでないものがある」「演奏の最高の形は、今まさにその曲が生まれたのだ、と自らが感じる態度の中にある。つまり、作曲と即興は限りなく同じ行為なのだ」……。
 結局、「語りえないもの」なのだ、というのが、最後に残された言葉なのかもしれませんが、多くの人は、「語りえないもの」の手前、あるいはその先で、本当に沈黙してしまっている、としか思えないのです。Pooさんは、常に、それを「語ろうとしている」と感じます。それこそが、僕にとってのPooさんの存在の核心だと思っています。そのことを、あえて「隔絶」と表現した、とご理解ください。

菊地
 俺の「即興」についての考えが他と隔絶しているとのことについて、昔はともかく今の俺には自分の音楽表出までのプロセスを、他の人のそれと比較する習慣(儀式と呼んでいいかな)はほとんどなくなってきているので、山下くんの感じたことが果たして当たっているかどうかの判断はつきせん。ただグレッグとのバランスについては自分なりに多少認識したつもりですので、後ほどちょっと触れたく思います。
 それから山下くんの補足説明にあった即興のさまざまな description、大変興味深く読ませてもらいました(こうしたイムフォメイションにお目にかかったのは生まれて初めてです)。と言うのは「即興」は俺がジャズに入り込んだときに始まって以来、ソロ・パフォーマンスを完全な「即興」で終始することが多くなってきた現在に至るまで、常に俺にまとわりついてきた assignment の内最大の一つだからです。そしてその「即興」との関わりが、俺の内に音楽の本質について問い続ける姿勢を植えつけてくれたような気がします。
 ただここにあるいくつかの「即興」の description はなにがしかの真実を物語ってはいますが、(「即興とは知らないことを演奏することである」にいたってはマンガチックとさえ言えます)まずそれぞれに視点が異なっていますし、それらをdescribe した人たちは多分「即興演奏」の当事者ではなく、音楽を外側から観る人たちではなかったでしょうか? というのは「即興演奏」を志向しそれにのめり込むことは、ある種の音楽家にとってひとつの「帰結」と言えるからです。となれば帰結しえた「場所」の(つまり「即興」ですが)さらなる describe はもう必要ないはずです。
 それと山下くんからの補足説明の最後に「即興」を「語りえないもの」として結んでありますが、俺もそれが「正解」かと思います。「正解」というよりそこに「正解」は存在しないという言い回しのほうが適切かも知れません。

 ところでその「語りえないもの」は俺の好きな言葉です。そして音楽の世界には前の「即興」も含め、無数の「語りえない」要素(elements)が存在します。それらは方法論的に「語りえないもの」(「即興」がまさにそれですが)、そして現実に表出されたサウンドのなかでの「語りえないもの」が、それぞれ無数に存在します。そしてこれらの要素が音楽にマジックを与えてくれます。
 「語りえないもの」、それは抽象画のリズムを持った世界です。そして「語りえないもの」がもっと素晴らしいのは、無限と言っていいほどの自由を与えてくれるのです。なぜなら、それら「語りえないもの」は感覚の世界にのみ存在するため、一般の音楽概念上に構築された理論に抵触しません。己れの音楽の是否を司るのは終始己れの感覚だけです。もちろんその結果への責任もすべて己自身のものです。

 ここで今回の Greg Osby とのデュオ・アルバムのために俺が記したライナー・ノーツを転載しておきます。次回の接触の前に一度よく読んでみてください。ここに書かれていることが現在、俺自身の音楽を表出する際の関心であり、詳細でもあります。読んでいただければわかりますがこれはまだ入り口です。そしてそれぞれの問題を解決(方法があればの話ですが)するための指針はないのです。

"Monologue Of An Improviser"
  Masabumi Kikuchi

耳に聴こえてくれば良し、聴こえてこなければとりあえず音を出してみる。そうすればいやでも次が聴こえてくる。そうなればもうこっちのペースだ。音楽なんてものは理論じゃない。単に感覚の問題じゃないか。といってその感覚に個人の歴史がなきゃ何も始まらない。俗にいう「blood, sweat & tears」の歴史だ。それを英語で"paying due" と言う。だからそこいらの唐変木がシャカリキになって「理論」を勉強しても何も始まらない。

音楽の場合(たぶん美術でも同様だと思うが)理論は所詮システムであり、便法にすぎない。たとえばひとつの和音に含まれる1音を変化させたいと欲するとき、従来のハーモニーの理論に則した方法での変化であれば、それは単にシステム内での alteration にすぎない。だがそれを自分の感覚に添って変えるのであれば、そこに個人の感覚が介入してくるし、選択行為そのものも個人的な歴史を反映する場と解釈してさしつかえないと思う。そしてそれを成功させるためには、己の感覚を間断なく磨いておかなければならない。ショート・カットはありえないのだ。

最近、といってもこの10年余りだが、live venue あるいは concert hall でのソロが多くなってきている。ソロ演奏の場合自由な展開は望めるが、反面、精神的、肉体的な観点からすると、とんでもない重労働と言える。多くの場合1時間ずつの2セットで構成されるがその2時間を隅々までコントロールしようとするには、想像を絶するエネルギーとコンセントレイションが要求される。その上それら2時間の一瞬一瞬で自分への責任を全うしなければならない。そしてその間、無数とも言えるさまざまな問題に遭遇する。ところが3年くらい前にある出来事を契機として、突然自分が目指している音宇宙が方法論的な意味合いで視えだしたのだ。このある出来事について書くのはまたの機会にゆずるが、その方法についてちょっと触れておこう。

これは俺個人の感覚を媒体としておぼろげに認識しだした仮説にすぎないが、音楽にはそれを構成するelementが無数に存在する。単体としては pitch、timbre、overtone、tacet、sustain など、また複合体としては harmony (intervals between multiple notes) 、rhythm などがベイシックなものとして考えられるが、そうした個々の element の持つダイナミックス(音響力学的なエネルギー)の時間上での縦軸あるいは横軸での対比が、さらなるダイナミックスの対比を無限に生みだし、時間の流れに沿って音楽を構成していく。数学に長けていれば formula を割りだすことはいとも簡単にできるのだろうが、大事なのはそれらのダイナミックスを瞬時に測り得る感覚をどう磨くかではないかと思う。

ここ4〜5年、この無意識の認識に基づいてピアノを弾いてきたようだが tonality からの離脱が自由だし、従来のシャチホコばった harmony をいとも簡単に否定できるから、とにかく面白くて面白くてしようがない。(6/14/05)

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