UPDATED 09.05.2005
INTERVIEW
菊地雅章への公開質問,音楽アナリスト 山下邦彦
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菊地雅章プロフィール
beyond all
『beyond all』

質問2

 1960年代末の雑誌「ライト・ミュージック」に連載されていた「明日のジャズ・ピアノを考える」の連載の最終回で、Pooさんは次のように書いてらっしゃいます。
「音楽を記憶する力をつけること。……なるほど、ジャズ・ピアノは即興演奏からなりたっているが、何の理論的な基盤もないところに、演奏者が瞬間的なひらめきで、彼の音宇宙を表出させることは、不可能だと言える。瞬間的なひらめきによる即興演奏の要素はジャズの演奏にたずさわっていない人達が考えている程大きくないといえる。」
 この文章は、当時も、そして今も存在している「幻想としての即興」に対する実に鋭い批判だと思います。こうした観点について、今はどのようにお考えですか?

 僕の考えでは、テーマとしてこの質問2は、さきの質問1と直接つながるものですが、その考えというのは、即興というものを「記憶」との関係でとらえなおしてみたい、というものです。そのことを理解してもらいたくて、質問1の補足として、「即興」と「記憶」にかかわる音楽家の発言をかいつまんで紹介しました。
 この紹介について、Pooさんから「大変興味深く読ませてもらいました」というリアクションをいただいたので、ここで、発言者が誰なのかということも含めて、正確に紹介させてください。
「即興とは過去の記憶の操作である」という意味の主張をしているのは、ピエール・ブーレーズです。彼は『意志と偶然』(店村新次訳、法政大学出版局刊)という本の中で、次のように語っています。
「人々は『即興演奏』という言葉について、多くを語ってきました。ところが、最も正しい意味に理解するとき、即興演奏は発明にとってかわるものではありません。真の発明とは、原則としてそれまで問われたことのない問題、もしくは、ともかくすでに明瞭な仕方で問われたことのない問題についての省察、を内包するものです。(………)そして彼らが発明という現象に与える答えは、普通には記憶を操作する行為ということなのです。彼らは自分たちがすでにやったことのある演奏を想起し、それを操作し、変形するのです。その結果は、音響現象そのものへの集中化ということです。」
 この本のオリジナル版が出版されたのは1975年のことで、彼は「ジャズ・ミュージシャン」という言葉を使っていませんが、あきらかに「ジャズ批判」として読めます。質問2で引用したPooさんの発言ともつながるものがあると思います。しかし、ブーレーズは、この地点から先に行こうとはしませんでした。彼が「記憶」というものを、非常に限定的にとらえている、ということがそのひとつの原因なのではないかと思っています。
 ブーレーズが「即興」とは関係ないとした「発明」を、むしろ即興の属性である、というふうに主張したのが、高橋悠治です。  高橋悠治は『カフカ/夜の時間』(晶文社刊)という本の中で、「作曲は繰り返しに耐える手順を作り、即興は2度と繰り返されない。演奏は作曲に多様な読みの可能性をもたらし、作曲は演奏に未知の可能性をひらく。演奏は技術であり記憶であるが、即興は発見であり逸脱である。どれが欠けても創造のよろこびはうしなわれる」と書いています。
 彼は、演奏=記憶、即興=発見、というふうに分節化していますが、僕にとって、その境界は限りなくグラデーションが続く混沌としたものに感じられます。
 「『即興とは知らないことを演奏することである』にいたってはマンガチックとさえ言えます」とPooさんはお書きになっていますが、これは僕の要約の仕方に問題があったのですが、たしかにこのような意味のことを語っている音楽家がいたのです。それは、マイルス・デイヴィスです。その発言は、クラブでの演奏体験の素晴らしさについて語ったものでした。以下に、そのくだりを引用します。
「クラブの良いところはそこなんだ。最初のセット、まあまあ。第二セット、よし。第三セット、よし。ここまでは、グループは自分達の知ってることを演奏するわけだ。そして、最後のセットで、知らないことを演奏し始める。こいつが最高なんだ。みんなが考え始める。俺にしてみれば世界中の金を積まれたってこれには代えられない。」(イアン・カー著、小山さち子訳『マイルス物語』スイングジャーナル社刊より)
 僕はこの発言を『即興とは知らないことを演奏することである』というワン・センテンスに要約したのです。「記憶」というものに対する態度という意味では、ブーレーズとマイルスは対極的な立場にいます。ブーレーズに対する「ジャズ」のサイドからのカウンター・パンチをマイルスが放ったのだ、といったら、あまりに虚構的なたとえになってしまうかもしれませんが。
 そして、ここで長々と引用したのは、次のことが言いたいからなのです。
 Pooさんの中には、「ブーレーズ」と「マイルス」が共存している。
 そのような「共存」は、激しい矛盾を自らに抱え込むことになるだろう、と勝手に想像しています。明らかに「即興は死んだ」と断言するPooさんがいて、また一方で「即興は生きている」と断言するPooさんがいる。しかし、そのことこそ、僕にとってのPooさんの可能性なのです。Pooさんが「即興」という「語りえないもの」を「語ろうとしている」と書いたのも、そのような思いからです。それは、自らの「記憶」との格闘ではないか。ご自身の「記憶の縁」、言い換えれば「意識」と「無意識」の境界のようなものに直面しているのではないか、と強く思います。
 ここまで考えながら、Pooさんから前回送っていただいたライナー・ノーツをもう一度読んで、同じことをPooさんが語っているのはないか、と思いあたりました。
「音楽なんてものは理論じゃない。単に感覚の問題じゃないか。といってその感覚に個人の歴史がなきゃ何も始まらない。」
 「理論」との関係においては、音楽は「感覚」の問題である。しかし、その感覚には「個人の歴史」がかかわる。この「個人の歴史」を「記憶」と読みかえることは可能なのではないか、と今は思っています。
 「理論」を「理論」として語ることの無意味さについては、僕もようやくそのほんとうの意味を、自分なりに知ることになりました。同じような意味において、「感覚」を「感覚」として語ることもまた、無意味なのだと思います。つまり、ここで問題なのは、Pooさんという「個人の歴史」であり、僕たち聴衆は、Pooさんの音楽を聴くという経験を通して、また個々それぞれの「個人の歴史」をPooさん固有の「歴史」と重ね合わせている、あるいは共振させているような気がします。そのようにして「歴史」は書きかえられ、「記憶」は書きかえられる。
 僕は、今回与えられたこの質疑のチャンスを使って、このようにして書きかえられた自分の「記憶」について、その原因を作った張本人に問い直しているのだ、と思っています。そのことによって、自分は「記憶」をさらに書きかえたいのです。ただ「知らないこと」を「知りたい」のです。(2005.8.27)  JT


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[↓UPDATED 10.02.2005]


回答 2

質問2への response に入る前に、まず前回で触れずじまいだった「グレッグ・オズビーの音楽の仕方」についてちょっと書いてみます。これは山下くんの質問1にある「グレッグはどこかに過去の自分の記憶にもとづく "演奏" がかなり混ざっているように感じました」という点への俺からの response です。
 俺が最初にグレッグと演奏したのは東芝EMIが企画した『HINO-KIKUCHI QUINTET』再編のプロジェクトの際です。確かあれは1995年だったと記憶しているので、彼と知り合ってからずいぶんたつんだなあと思います。最初ニューヨークでレコーディングし、その発売にあわせて日本に行き、Mt. FUJI JAZZ FESTIVALでデビュー演奏を行い、その後大阪、福岡、東京各地の『BLUE NOTE』に出演しています。ところがそのプロジェクトにどういう経緯でグレッグが参加することになったのか、俺の記憶にまったく残っていないのです。ということは当時グレッグはすでに BLUE NOTE RECORDS と専属契約を結んでいたので、多分に東芝EMIの行方均プロデューサーの choice だったのかも知れませんが、いずれにしろグレッグとの出会いはその時が初めてだったはずです。
 その tour での彼の演奏から受けた印象は、
1. lyrical と言えるほどにきれいな音色を持っていること
2. alto saxにしてはとても音程が良いこと
3. 几帳面なくらいに time 感覚に優れていること
4. improvisation の line が独創的であること
 以上の4点ですが、もう一つ、一度リハーサルした曲はほとんど暗譜してしまうという能力にもびっくりしました。もしかしたら photographic memory の持ち主かも知れません。
 というわけで翌年、odd rhythm monster 吉田達也を擁して1995年に結成した「THE SLASH TRIO」に初めての tour の話が持ち上がった時、さっそくグレッグに参加を要請しています。
 たぶん山下くんにもその「THE SLASH TRIO」の演奏は聴いてもらっているかと思いますが、あの trio で演奏することは俺にとってもまったく新しい体験でした。吉田達也は異才と呼ばれるにふさわしい、特異な、そして優れたミュージシャンです。また「断行あるのみ」といった気概を持つ勇気あるアーティストでもあり、その共演の度ごとに数多くの問題を間断なく俺に投げかけてくれました。それらの問題のうちのいくつかは解決できたと信じていますが、残るいくつかの問題への解決の糸口が掴めないまま、現在、trio の活動を停止しています。が、それら問題への突破口が見つかりしだい、グループを再編するつもりでいます。
 その吉田達也ですが、彼は周知のように odd rhythm の達人です。そしてグレッグ・オズビーもスティーヴ・コールマンが主宰した「M-BASE」で odd rhythm の研鑽に励んできています。俺もその「M-BASE」が勢いを持っていた頃に数回聴きに行っています。

M-BASE

Macro
Basis
Array of
Structured
Extemporization

Organized in 1984, M-BASE was basically a large group of creative individuals concerned with progression in contemporary improvised music. We met twice a week and held seminars on music business, recording techniques, composition, improvisation. education, investing, and conceptual approaches.

We put our collective money together to record demos and we rented various performance spaces around New York to put on our own concerts. We had youth outreach programs for young music students as well as a musician referral service to help players find good paying gigs. Our principle goal was to not be dependent on anyone or any organization. We designed the M-BASE collective as a total self-help entity. Every musician who was involved was obligated to make a business, musical or conceptual contribution that would directly aid or inspire us all. There was no one leader, and at various intervals, everyone took a leadership role if they had some information to share.

Greg Osby


 それらは主にスティーヴ・コールマンのグループでしたが、その後グレッグを「THE SLASH TRIO」の日本 tour に誘って共演した際、彼がスティーヴとは異なる approach、それに taste を持っていることに気づいたのです。もちろんそれ以前に彼自身のアルバムなどを通してそうした感触があったからこそ、「THE SLASH TRIO」の tour に誘ったかと思いますが、それらのことがはっきり認識できたのは実際に一緒に演奏しはじめてからのことです。
 「グレッグ・オズビーの音楽の仕方」についてさらに深く考えるために、グレッグとスティーヴ・コールマンとの approach の相違について書きたいと思いますが、その前に吉田達也の odd rhythm と「M-BASE」のそれとの違いについてちょっと考察してみます。
 まず吉田達也の音楽ですが、それは端的に言ってある種の "ethnic music" が現代に蘇えさせられたかのように聴こえます。もちろんこの俺の印象については異論も多々あるかと思いますが、俺がそう感じた最大の理由は彼の odd rhythm の成り立ちです。彼の rhythm は、例えば日本古来の「儀式」に深く関わっている祝詞(のりと)、呪詛、あるいは伝統芸能(とくに浄瑠璃、能など)を支えている "ウタ(謡)" の影響を強く受けているのではと感じます。むしろそれらの "吉田達也 version" と言ったほうが当っているかも知れません。つまり彼の rhythm は、それら「祝詞」「呪詛」、あるいは伝統芸能などの "ウタ(謡)" の持つ語句そのものではないかと思える部分が多いのです。この推論を支える証左としてあるのが、彼が往々にしてそれらの語句を彷佛させる phrase への「合の手」のみならず、メトロノーム的ボトムとして機能するアフリカ的な down beat さえも無視省略することです。trap set においてさえです。これはすごいことです。その瞬間、彼の内では trap set がメロディ楽器に変貌するのでしょう。このことは彼と bass guitar との duo band である「RUINS」を聴いてもらえばより明確に認識できるかと思います。
 一方同じように odd rhythm を表現のための elements のひとつとして選んだ「M-BASE」についてです。グレッグが4〜5日前に送ってくれた「M-BASE」の profile によると結成は1984年のようですが、当時俺は Brooklyn に構えたスタジオにこもって、電通のための synthesizer music 制作に専念していたので、「M-BASE」について知ったのはずいぶんたってからのことです。その頃には彼らの movement はミュージシャン達の間である種の畏敬の念をもって語られていたように記憶しています。
 さてその「M-Base」の odd rhythm ですが、それが変拍子であることを除けば、当時若いミュージシャン達がこぞって演奏していた funk rhythm と大差ないように思われます。もちろん若手の精鋭達があらん限りの能力を駆使しての結果ですから、その odd rhythm の御利益とも言える on と off の絶え間ないシフトと相まって、聴くものをトランス状態に誘うのではと想像できます。ただ踊れるかどうかは疑問ですが。(この「M-BASE」による強烈な groove はスティーヴ・コールマンのいくつかの live album の、いくつかの track で体験できます。ただし、あまりのめり込んで踊ろうとすると体がネジれてくる可能性もあるので要注意です)
 充分な information の入手が不可能だったこともあって当時俺は「M-BASE」を過大評価していたような気がします。「odd rhythm による groove」「extemporization(即席の作曲とでも訳せばいいのでしょうか)」「collective improvisation」……それらの言葉が、何か spiritual で conceptual な movement であるという印象を俺に与えてしまった気がします。ですが主宰したスティーヴ・コールマン、そしてグレッグ・オズビーの2人に対する俺の評価は今でもまったく変わっていません。とくに'90年代にあのアンドリュー・ヒルの薫陶を受けたグレッグはその作曲の才能を急速に伸ばしはじめています。
 彼の作曲したものについてですが、書かれたものを見る限りでは何かとりとめがなく、頼りないといった感じがなくもないのですが、ところが実際に演奏を聴くと、そこに彼独自の音宇宙が浮び上がってくるのです。ということは俺の読譜力もしごく曖昧なのでしょう。山下くんも一度彼の web site(www.gregosby.com)から譜面をダウンロードしてみてください。山下くんであれば、俺の読めない部分を読んでくれるかも知れません。もし何か興味ある発見がありましたら俺にも知らせてください。
 それから今回の俺の response の冒頭にある、これは山下くんからの質問1でもありますが、「過去の自分の記憶にもとづく "演奏" 」という件(くだり)がどういう意味なのか、俺にはよく理解できないのです。というのは「記憶」には意識下の記憶とそうでないもの、つまり無意識下の記憶、これは感覚の領域での記憶と理解してもよいかと思いますが、それら二通りの記憶があるかと思われます。即興演奏を実践する際、それらの「記憶」を否定するとなると、記憶を媒体として成立すると考えられる知識・知覚をも否定することになりますが、その場合、即興演奏が時間的に進行していくなかで瞬時瞬時に要求される「Yes」と「No」の判断はどのように下すのでしょうか。
 ところでここで提案があります。このメイルに添えて2曲ほど(もちろん楽譜になっているものですが)送りますから、それを基に improvise を試みてくれませんか? 1曲はグレッグの書いた「Vista」というタイトルの曲で、『BEYOND ALL』の1曲目に収録されています。もう一つは昨夜俺が書きとめておいたごく短い曲です。そしてそれらの演奏を録音して送ってもらえないでしょうか? 録音 media は「DAT/PCM 44.1KHz」が理想的ですが、それだと郵送だけで1週間はかかると思いますので、MP3 に変換して、コンピュータを通じて送ってもらっても結構です。これは、『即興』の章に入る前に山下くんの improvisation への考え方をぜひ知りたいのと、それによってコミュニケイションをもっとスムースにしたいと願うからです。

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VISTA     Greg Osby   (C)2005 DAIGORO MUSIC (SESAC)
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MURMURING     Masabumi Kikuchi    (C)2005 SECOND WIND MUSIC (ASCAP)
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