
久々、手応えあり、のコンサート二つ。若手実力派カウンターテナーと、今後に注目したい新鋭ソロ・ヴァイオリンのリサイタルだ。両方とも、バッハから現代までを並べる。
カウンターテナーと言えば、米良美一が日本のスター・プレイヤーだが、イタリアでみっちり修行のうえ、演出学まで学んだ弥勒忠史、満を持してのリサイタル・デビュー「B→C」(東京オペラシティ・リサイタルシリーズ84)で、堂々、名乗りをあげた。中世貴族風のブルーとグリーンの色鮮やかな衣装で現れた彼、しょっぱなからピカーッと目も眩まんばかりの光り輝く声を放ち、ホールを一閃。どうだ、凄いだろ、とまずは先制パンチ。
本来、テノールは「テノール馬鹿」(差別的意味合いは無い)と言われるほどに、「声」の快感が突っ走る領域。が、カウンターテナーとなれば、ソプラノ音域の男声ならではの逞しさに、その特異な倒錯性も交え、いわばこの世からの遊脱へ、ぐいと聴き手を引っ張り上げねばならない。弥勒はその第一声で、これを果たした。南イタリアの強烈な直射日光の如きまばゆさ、勁さ、幅広さ。どの曲も、微塵の不安も見せぬ、安定した声質とコントロールで押しまくる。
後半は一転、黒スーツで委嘱・世界初演作から開始。チェンバロとヴォカリーズの対話に、モノクロームな世界を切り取る。A・ロイド=ウェッバー『ピエ・イエズス』、バッハのカンタータなど、前半のイタリアものとはトーンを変えた晴朗な歌唱を聴かせたが、その聖・俗の描き分けが、さほどくっきりといかなかったのはこれからの課題だろう。「押し」の一手で、「引き」や「絞り」が弱いのだ。ドラマは明暗あってはじめて奥行きが出る。この声域でのピアニシモの獲得は至難だが、不可欠。いっそうの修練を望みたい。
にしても、トータルなステージ造形のセンスは抜群。歌の合間のおしゃべりは普通の男声で、その段差がかえって新鮮。虚実の配分が上手いのだ。テンションは一貫してハイかつ軽妙、明るく客席を巻き込むあたり、心得たもの。武道館をいっぱいにするのが夢だそうだが、今後の多彩な活躍が目に見えるようで、楽しみだ。
「バロックから現代まで」とのサブ・タイトルによるソロ・ヴァイオリン・コンサートは、小林倫子。ロンドンで学び、2004年にデビュー・リサイタルを開いた新進で、今回は「クラシックライブを楽しむ会」主催の「よくばり音楽館第101回」マチネーでの登場。1人でも多くの人たちにクラシックの楽しさを知って欲しい、という会の趣旨に沿うべく、無伴奏でこそ発揮できる楽器の多様な顔を、と意気込み満々、かつ聴き手に優しいプログラミングだ。ワイン・レッドの装いも、ほんのり秋色。
冒頭、バッハ『無伴奏パルティータ第3番・プレリュード』から、豊かで切れのよい音を真っすぐに響かせる。「切れ」といっても、ざくざく切り裂くそれではなく、常にしなやかな曲線を描くエレガントな鋭利さで、それはボウイングの軌道の美しさに重なる。ゆえに、イザイの『無伴奏ソナタ』が、抜群にはまった。「知・情・意」のバランスの背後に、誠実な思索が見えるのが何より。
同様に、後半、最初の竹内邦光『落梅集』での3曲も、これらを存分に働かせ、邦楽器を思わせる濃やかな響きの織り地のうえに、心懐かしい子守唄を浮かべてみせた。こういう若手が日本の現代作に積極的に取り組む姿勢は、心強い。誰もが取り上げるような作品でないことも含め。
前半、パガニーニや『夏の名残のバラ』のテーマを弾き示し、そのヴァリエーションと説明しつつ、超弩級の技巧パレードを2曲続けたあたり、ソロに馴染みの薄い聴衆への心配りでもあろうが、いささか負荷が多すぎ。また、弥勒同様、全体に力と勢いで押し気味で、弱奏域が手薄だったのも、工夫が欲しいところだ。
昨今多い「お話と演奏」のたぐいに、基本的には違和感のある私だが、弥勒も小林もとても自然。小林は、演奏と話との間に独特の「間」を置き、自分の流れを創出。選びとる言葉の確かさに、音楽以外の素養の豊かさが推し量れ、こちらも成長が楽しみな若手と思う。
弥勒は千葉大、芸大卒ののち、渡伊という異色のキャリア。一方の小林は桐朋音高からギルドホール音楽院へ。双方、在伊、在英が長い。だけに、内包する世界の幅、深度が、表現として結実するのをじっくり待ちたい。
たまたま日を接して聴いた、それぞれのバッハ〜コンテンポラリー。いずれも満員御礼の客席。若い演奏知性の擡頭と、それに真剣に耳傾ける人々とに、ちょっと嬉しくなった一週間だった。JT