ライブレポート
#217 マリア・ジョアン・ピリス プロジェクト 第2夜:協奏曲 reported by 多田雅範

「あっ・・・」、プログラムの前半、ピアノ協奏曲第2番の第2楽章、森の中を進むようだった音楽が、突如、無重力状態の透明な空間にコンサート会場が浮かんでいるものに変貌した。

ピリスが左手をピアノ本体に響きを確かめるように置いて、右手で弾いたひととき・・・。

数十秒のことだったのか・・・。人生に何度も起こらないような体験だけど、そのような瞬間が訪れることがあることを知っているからわたしたちはコンサート会場に足を運ぶ、いや、そんなことは起こらないのだ、起こらなくても時々その片鱗に触れたり思い出したりできれば毎日それなりにやってゆける。初めてなまで聴くピリス。ピリスにベートーヴェンは合わないだろ!と勝手に思って会場に来ていたおれ。森の中を進むようだったのは、「ピリス流ベートーヴェン」である、と、その具合のあり様を、さすがだ、見事だ、と、いちいち納得しながら、だが、と、だが、なぜピリスはベートーヴェンを弾く?、ピリスとベートーヴェンの感性の相関関係をやはりどこかでしっくりいかないな、と、あごに手を置いて首をかしげている自分もいる、そこには、やはり、ピリスの格闘があったのだろうか。合わないから、やらない、のではない、自分にベートーヴェンを取り込む取り組み。それは、森の中を進むような音楽だった。その森が突如、無重力状態の空中になって、時間が止まった。

唖然としてしまったままだ。もう、この数十秒で生のピリスのマジックを感じたのだし。前後の「ピリスが弾くベートーヴェン」は、おまけみたいなものだ。曲もたいして良くない。しかし、・・・このピアノ協奏曲第2番第2楽章がこの日の感動の序章だったとは。

前半の2曲目は若きチェロ奏者の登場でシューマン『チェロ協奏曲』。無難な演奏だけどピリス・プロジェクトの夜には荷が重いだろう、一線を越えた特別なもんは感じない、とはいえ、聴きどころは、この高関健指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団がじつに好調であることを浮かび上がらせるような演奏だったこと、絶好調のオケに対する耳の焦点の動的な拡がりといった体験なのである。

やっぱ、クラシックはライブに限るぜ。

20分の休憩。会場を出てampmでボルヴィックを買ってピースを吸う。ちょっと熱気を帯びた錦糸町北口の街のにぎやかさが心地よい。5月の夜風。ピリス、64さい、年令なんてみじんも感じさせないけど、おれ、もっと早くピリスを聴くようになりたかったぜ。

わさわさと後半の開始時間だ。ピリスが登場、拍手が鳴り止んで1秒もなく。おいおいきいてないぞ、ピアノ協奏曲第4番はいきなりピリスのマジックのようなピアノ独奏から始まるなんて。なんという軽やかでしっかりとした美しいピアニズムなのだ。とろける。新日フィルもじつに流暢だ。これは夢だ。ピリスが手をひざあたりに置いて指揮者を見上げて音楽の流れと会話をしている。ピリスの首の角度がかわいい、そして美しい、観ているわたしたちもピリスのようになって音楽の中にいる。おれ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番なんてよう知らんよ。今度はピリスは森の中のようではなかった。第2番第2楽章の数十秒、が、全編にわたっているようだった。こういうとき、わたしたち観客は「訪れている」ことを共有している。こんなん誰だってそうだろ。時間の感覚を失う。せきをするひとがいるのが信じられん、が、この透明な陶酔は・・・、クールだ。

おれの最近の陶酔体験と比する。ベネズエラの指揮者ドゥダメルが持ち込んだ陶酔は熱気だ、語弊はあるだろがいわばファシズムの熱気に近い。動的に突き動かす陶酔だった。メゾソプラノ藤村実穂子のレベルの高さと凄さで陶酔させたのは、これも語弊はあるだろがほとんど軍事的な制圧に近かった。歌舞伎役者のかぶく、かな。ピアノ上原彩子の陶酔はコンポジションに現代性を鮮やかに与えるすっと立ち上がる態度によるものだ。現在と未来だけが輝く。対して。ピリスの陶酔には、諦めと祈りと、覚悟がある。この美しさには世界に対する批評がある。それはベートーヴェンに対する批評に裏打ちがある。第一、もはやベートーヴェンには聴こえないピリスと新日フィルの音楽だった。陶酔にも階級があるのではないか。

この水準の見事なピアノというと、ライブでは観たことはないがCDと公演録画で視聴するかぎり先ごろECMでベートーヴェンのピアノソナタ全曲を仕上げた、シフ、ということになる。・・・が、シフには批評はない。

おれはピリスのことを何も知らない。数年前、ショパンは嫌いだ(ビルエバンスもチャゲアスも・・・)と師匠に言ったときに、ピリスの弾いたショパンを聴かせてくれて、このピアニストを知ったに過ぎない。ピリスに演奏をしなかった時期があったことも知らない。パンフレットを読む。99年に芸術研究のためのセンター、ベルガイシュを創立。05年、“アート・インプレッションズ”という演劇、ダンス、音楽の実験的グループを結成。07年11月4日に1回だけのリサイタルを東京で開催、絶賛を博した。ピリスは70年来、芸術が人生、社会、学校に与える影響の研究に没頭、社会において教育学的な理論をどのように応用させるか、その新しい手法の開発に身を投じてきた。破壊的で、物質優先の論理を強調するグローバリゼーションに対して、個人の成長を尊重する新しいコミュニケーションの仕方を研究した。と、ある。・・・なるほど、というか。ブルース・コバーンやビル・フリーゼルや小沢健二やピーター・バラカンやデヴィッド・シルヴィアンたちをおれは連想する。

そんなことは音楽に関係ない。と、いちおうは断言しておく。だけど・・・。という、自分の中の逡巡する体験と思考の回路は残るし、ピリスの音楽と眼差しがそうさせているような気もする。

さあ。ピリス・プロジェクト。ピリスの放った音楽に対して、おれはおれに対して聴くにふさわしい自分になれるか、と、問いたくなる。ピリスの眼差しに目をそらさずにいられる自分でありたいと強く願う。とにかくそんなふうにしびれた一夜だった。

(蛇足)

ピリスが弾いたのはヤマハのピアノだった。今年聴いたピアノの公演で特別に感動した上原彩子とピリス、2公演ともヤマハということになる。そいえば上原のプログラムに対する姿勢はピリスに近いと思う。おれは、上原にはピリスになるめが世界一あると思う。上原は習い始めからのヤマハっ子だからわかるとして、ピリスは間違いなく自分のこだわりでピアノを選んでいるはずだ。

ポール・ブレイがあのトシになって吹き込んだピアノソロ『ソロ・イン・モントゼー』(ECM)はベーゼンドルファーインペリアルだと特筆されたし、高橋アキ07年の『シューベルトD960』(カメラータ)もベーゼンドルファー(先日の同曲上野公演ではスタインウェイだたけど)と特筆だし、逆にヤハマと特筆されるCDをおれは見たことがない。ピアノの皇帝はベーゼンドルファーではないのか。なぜに。

おれがピリスの感動のついでにヤマハのピアノ賛辞をしていると、田柄通りの向こうに住んでいるワーキングプア階級のおいが4月に長男が小学校にあがって、そこで「全員無言の強制で楽器を買わされたんだぜ、教室の前でヤマハのピアニカを、いくらすると思う、5800えんだぞ、金持ちんちもおれんちも5800えんだぞ、収入による補助なしだぞ、全員使うんだぞ、義務教育だぞ、絶妙な金額だと思わねえか、それに売りに教室の前まで来たヤマハのおっさん領収証切らないで全員分売り切ってっぞ、独占禁止法じゃね?モンダイね?ガッコーへのペイバックはどうなってるのだ」とヤハマに文句をつけはじめる。話が合わない。つい「ピリスがそんなことしない!」と、「こたえになってない!」と。

はて。おいらの中のヤマハもんだい、は、未解決なままである。おいらの耳がヤマハの音にやられただけだ、というのは認め難い。ピリスが安全牌でヤマハを選らんだ、も、認め難い。・・・なんか地雷を踏んでしまってる気がするな・・・。ま、時が解決してくれるだろう。JT

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UPDATED 05.10.2009