フェスティヴァルをめぐる小さいけれど見逃せない新しい動き
即興音楽シーンでも積極的な活動をしているギタリスト谷川卓生が、現代即興音楽祭(Contemporary Improvised Music Festival)と題したフェスティヴァルを立ち上げた。Contemporary(現在性)とImprovised(即興性)をキーワードに、ジャンルや地域性を超えた中で音楽の本質に触れるべく企画されたフェスティヴァルで、全部で6つのプロジェクトが出演した。
たとえ小規模なものであってもフェスティヴァルを立ち上げるには大変な労力がいる。それを音楽家自らが行うというには、それなりの覚悟が必要だったろう。その決意を促したものとは。数多くのライヴやコンサートが催されているにも関わらず、聴き手は逆に固定化されてしまい、結果的に似たような音ばかりを聴くような状況に陥っている現実がある。谷川によれば、演奏家も例外ではないという。どうしてそのような状況が進行してしまったのか。このフェスティヴァルを企画するに至った理由にもそのような閉塞状況に対する危機感があるに違いない。
確かに情報は溢れんばかりある筈なのだが、仮に普段聞いている音楽とは異なったジャンルの音楽を聞いてみようと思っても、どのコンサートに行ったらよいかわからない状況にあるのも事実だ。しかも、たまたま行ったそれが運悪くハズレだったら、その人はそのジャンルの音楽は聞かなくなってしまいかねない。情報の遍在化と音楽の偏在化が同時に進んでしまったことによる弊害は知らぬ間に進行してしまっているのである。
谷川がフェスティヴァルをひとつのメディアとして着目したのはよい考えだと思う。日本でジャズ・フェスティヴァルというと大手広告代理店が入り、メジャーなミュージシャンが大挙して出演するものか、地元のジャズ・ファンが中心となって国内のミュージシャンを集めたものが多い。前者は音楽を売る側の論理で、後者はファンあるいは聴き手つまり音楽の受けて側の立場でフェスティヴァルが企画されている。ライブハウスで馴染みのミュージシャンが集まってごく小規模ながらフェスティヴァルと題したイベントも間々行われてはいるが、ひとつのコンセプトをもって継続的に続けられている/続けようとしているものは、私の知る限り大友良英の「アジアン・ミーティング・フェスティヴァル」ぐらいだったが、昨年スタートした「JAZZARTせんがわ」では、巻上公一が音楽監督を務めている。このような動きが出てきたことを嬉しく思う。ヨーロッパなどではミュージシャンが音楽監督として関わったり、主体となって運営するに至ったフェスティヴァルも規模を問わず多い。フェスティヴァルは所詮ショーケースなどと揶揄する人もいるが、メディアとしての機能があることに気付いていないのだろう。そこに音楽家の視点、つまりクリエーターの視点が入ることで、商業主義やファン気質とは異なった視点から幅広く音楽に触れることも可能になるからである。
フェスティヴァルの名称を現代即興音楽祭(Contemporary Improvised Music Festival)としたのは、わかりやすさと多少の曖昧さを同居させたかったからだと谷川は言っている。現代即興音楽なのか現代音楽と即興音楽なのか、それは出演者の顔ぶれをみて判断して欲しい。現代の音楽ではあるが越境をテーマにしているのでそのいずれかに確定したくないという気持ちがあったという。実際、出演者も谷川の企画意図を反映したものだった。
フェスティヴァルは、まずはソプラノの太田真紀、ハンス・ヨアヒム・ヘスポスや松平頼暁の作品などを披露。サインホ・ナムチラクやローレン・ニュートンなどヴォイス・パフォーマンスには親しいが、このような現代曲を聴くことは滅多にない私としては、そこに作品が介在することによって声の表現はかくも異なるのかということをあらためて認識するに至った。それを強く感じたのは、感情が最も表れやすい「声」だったからなのだろう。その後のステージが巻上公一によるヴォイスとテルミンのソロだったためか、そのコントラストはより明確なカタチで現れたのだろう。現代曲を中心に活動しているという太田のエモーションとヴォイスがきっちりとコントロールされた演奏はどこか劇場的である。スポンテニアスな巻上の即興パフォーマンスは「声」を外に解放していく。どんどん表情を変える声、テルミンによる演奏の楽器の特性からくるコントロールしきれない不安定さもまた面白い。対象的な声のパフォーマンス、そのどちらがいいというのではなく、その違いもまた楽しめたのもこのフェスティヴァルならではだろう。
谷川はこのフェスティヴァルに際して、アラン・シルヴァを招聘し、小山彰太を迎えたトリオで演奏。アラン・シルヴァといえば、かの「ジャズの十月革命」を端緒としたフリージャズ・ムーヴメントの真っ只中にいたイノベーターのひとり。70歳を超えた今もこうした新たな出会いを求めてこのようなプロジェクトに参加するなど意気盛んだ。最初はベースを弾いていたが早々にシンセサイザーに切り替えたシルヴァ、息子世代にあたる谷川を繋いだ小山の存在感のあるドラミング。シルヴァと同世代のミュージシャンとの共演ならばエネルギー・プレイに流れた可能性があるが、三者三様のソロ、そしてインタープレイが、静的にまたアクティヴに構成感のある展開となったのもこのトリオゆえ、そういう意味ではパワープレイに依らない谷川の存在は大きかった。シルヴァは来日中、トリオだけではなく、スーパーデラックスで日本の精鋭を集めたセレスティアル・コミュニケーション・オーケストラでも演奏、我々に大いに刺激を与えて帰っていった。
プランBで定期的公演を行ってきた齋藤徹と今井和雄デュオ。冒頭から高いテンションで弦を弾き始める。ものすごく早いパッセージだ。そのまま、今井はギターの弦に板を挟み込んだり、齋藤も床にベースを置き二本の弓で弾くなど、それぞれの演奏を知るファンには馴染みの、そうでない人には特別な奏法も繰り出しながら、阿吽の呼吸で最後まで緊張感とスピードを維持しながら疾走。互いの手の内をよく知っているからこそ可能なダイアローグ、久々に演奏そのものを徹底して追求するプレイを観た。
私は、シュテファン・フッソングというアコーディオン奏者について寡聞にして知らなかったし、アコーディオンで現代曲の演奏を聞くのも始めてだった。取り上げたのはジョン・ケージの作品<ドリーム>など。間違いなく作曲作品を演奏していたのだが、それは即興演奏と言われれば頷いてしまうほど自然なエモーションな流れ、その演奏もまた身体性を感じさせるものだった。おそらくはその世界では知られた人なのだろう。このようにそれまで知らなかった優れた音楽家を観ることが出来るのが、フェスティヴァルのよさである。
最後の出演者は八木美知依と本田珠也のデュオ。出演者の中では、もっともフリージャズ的というかパワープレイを見せた二人。ペーター・ブロッツマン、ポール・ニルセン・ラヴとのトリオではフリージャズ・ファンにもその存在感を示した八木の演奏が際立っており、フリードラミングも上手い本田も少々押され気味だったが、見事にトリを締めくくった。
それぞれ異なった音楽性を持つミュージシャンによる6ステージ。それぞれの持ち時間は30分づつと短く設定されていたが、返ってこれが聴き手側の集中力を持続させる意味でも聞き慣れない音楽を始めて聞く人にも無理なく聞けるという意味でよかったように思う。
谷川は、来年以降もこの企画を継続させていくつもりでいる。新旧国内外、ジャンルを超えたフェスティヴァルとして充実させていきたいと。継続は力なり、である。その心意気にエールを送りたい。JT