Concert Report#445

ゴットリープ・ヴァリッシュ ピアノリサイタル
2012年6月24日(日) @トッパン・ホール
Reported by 伏谷 佳代 (Kayo Fushiya)

ゴットリーブ・ヴァリッシュ(Gottlieb Walisch;pf )

モーツァルト;ピアノソナタヘ長調K.332
シューベルト;ピアノソナタイ長調D.845
<休憩>
シューマン;3つの幻想曲op.111
ベートーヴェン;ピアノソナタハ長調op.53「ヴァルトシュタイン」

ゴットリーブ・ヴァリッシュは1978年ウィーン生まれ。わずか6歳でウィーン国立音楽大学に学び、大学を卒業後はベルリンでパスカル・ドゥヴァイヨン、パリでジャック・ルヴィエなどの名教師にも学んだ。アメリカのストラヴィンスキー・アワードで第1位およびイーヴォ・ポゴレリッチ大賞、1999年のエリザベト王妃、2005年のクララ・ハスキル国際コンクールでもファイナリストに選出された。ヴァリッシュは日本ではまだ無名のピアニストであるが、欧米を中心に世界各地でソロにコンチェルトに多彩な活動をおこなって久しく、「スタインウェイ・アーティスト」にも選ばれているほか、オーストリア=アルメニア音楽祭主催者兼ディレクター、ジュネーヴ高等音楽院教授と幅広い活躍をみせる。


隅々まで張り巡らされる演出力〜ミクロとマクロでの複合的な仕掛け

この日は「ウィーンっ子」らしい骨太なプログラムを活かしながら、ストレートでまやかしのないヴァリッシュのピアニズムが存分に発揮されていた。まず素(す)の音色の美をとことんまで追求する姿勢が、ひと粒ひと粒に宿る。アクションはきびきびとし、厚みのある音色で堅牢に音楽をつくりあげてゆくのだが、「堅物さ」は意外に感じられないのがヴァリッシュの特徴だ。フレージングやアゴーギクはすれすれのところまで自由に効かせ、常に可動性がのぞく。流れることを止めてはならぬ音楽...音を出そうという意図の前に音が流れだす、その充溢が絶えず認められる。モーツァルトの第3楽章など、音に空気感がまとわりつく軽妙さのかわりに、パッセージの骨頂となる箇所を最速で突くストレートな打鍵、メカニカルな凹凸の妙でユーモアを滲ませる。音に粘着度が強すぎるような印象を受ける箇所もあるが直線に音を打つような、素直な伸びやかさがある。音色の深み、まろやかさ、肌理の細かさなどが一気に花開いたのがシューベルトで、特有の付点リズムと密度を増した音色が絡み合いつつ大きな振幅を生んでゆく。緩徐楽章における3連符の変転では、かなりしたたかな「軽やかさ」の演出力をみせた。それは、しっかりと空間を制御したうえに立つ軽妙さであり、定型のなかに哀切、ぎこちなさ、諦念などさまざまな泥臭い生活感情の尾を浮かび上がらせる。皮膚レヴェルで吸収してきた文化の重みを、このようなところでも噛みしめる。フィナーレへ向かうにつれてスピード感や力強さが増すのと同時に、個々の音の繊細な粒立ちも際立ってくる。音楽のおおきな流れと並行して、ミクロ・レヴェルへとつねに意識を呼び覚ます複合的な仕掛け...ヴァリッシュのタフな音楽性をみるところである。

鮮やかに伝統を斬るヴァリッシュ・スタイル

充実した音楽運びに慣れきっていた耳に、ふと虚を突くような新風をもたらしたのが後半のシューマン『3つの幻想曲』である。前半で見せつけられたがっしりした構成力がここではすっと背後に回り、音の夥しさのみが波として押してくる。皮膚が内側からくるりと裏返る感覚とでもいおうか。おおきな浸透力があり、溜めこんでいたものを一気に吐き出すようなデトックス効果さえ感じさせる。3曲でワン・シークェンスとして捉えられるこの曲の展開に合わせ、音色のピントを巧妙に絞るのも練れた演出だ。第1曲で華やかに披瀝された豊富な音のパレットは、第2曲でぐっと単色近くにまで落とし込まれるが、情緒は内へ内へと籠り、逆に深まる。終曲では輪郭を確立した思慮深い音色で、じつに渋く作曲家のポエジーを抽出してゆく。締めの「ヴァルトシュタイン」は、ヴァリッシュのスタイリストぶりが遺憾なく発揮された快演。ありきたりの威風堂々とした語り口ではなく、ときに無機質ともいえるタイトな疾走感、パーカッシヴなグルーヴでさらりとした後味に仕上げる。ぐらぐらと軋まんばかりの大胆なアゴーギクや、楽器の梃子の振動を鮮やかに取り入れて、ときに船酔いにも近い酩酊状態を造りだしつつ、そのなかにポリフォニーをすっと忍び込ませるあたりには感服した。微に入り細に入る几帳面な造り込みが、脱力された緩さのなかでもごく自然に顔を出すとき、このピアニストの高い集中力が生む境地に思いを馳せる。


タレント性のある派手な存在のピアニストではないかもしれない。しかし、こういうピアニストが幾人いるかで、楽壇の層の厚さは大きく左右される。ヨーロッパの底力を思い知る所以である。(*文中敬称略)



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