『ヘニング・シュミート/クラヴィーアラオム(国内盤タイトル:「ピアニスト
Henning Schmiedtによる妊婦のためのピアノ小品集」)』

flau/アート ユニオン=U-POP RECORDS FLAU06 ¥2,100(税込) 

ヘニング・シュミート(ピアノ)

01.240g Mehl 02.20g Zucker
03.3 Teelo¨ffel Backpulver
04.1/2 Teelo¨ffel Salz
05.110g Butter
06.1 Ei
07.120cc Milch
08.Alles scho¨n umru¨hren
09.Tee?
10.Teller? und Stuhl!
11.du und ich
12.Kla
13. vier
14.raum
15.hallo

たとえば鈴木愛理(℃-ute、Buono!)がセーラー服、たとえば東京女学館高等学校の、を着て、わたしのお気に入り!と、このCDを差し出すようなことはあっていいと思う。エコーを効かせて、ピアノの白鍵だけを特に高音部のトレモロを多用しクルクル上下させて、わずかに音響的な処理を施して、きっとピアノの音に最初に「美しい」と思わせたタッチの幻影または記憶をたどるように、この音楽は描かれたのだろう。もちろん、これは即興音楽、ではなく、ジャズともクラシックとも無縁、で、環境音楽がロック・ミュージックのシーンから発案された(オブスキュア・レーベルでも細野でも)ところに辛うじて接続できるとおれの耳は許容している。CD棚の日向敏文やSPIRITUAL VIBES、安田芙充央のあたりに置いておこうと思うくらいだ(安田が怒るか・・・)。いつだか光が丘公園近くにある『お風呂の王様』の風呂上りにかすかにピアノ音だけが聴こえ、それが脱衣所のBGMであって、心地よく聴き続けていたいと、この音楽の主はこの音楽をわきまえているものだからこちらもこちらの価値を求めないでいられるくつろいだ時間。原題はクラヴィーアラオム=「ピアノの部屋」(こっちのタイトルのほうがいいんじゃないのか?)。お腹が大きくなった奥さんのために制作したという。なるほど。そういうのなら、ぜんぜんありでしょう。このピアニスト、まじでECM好きでしょう。ヘニング・シュミートは1965年生まれのドイツのピアニスト、それならなおさらだ。ウインダム・ヒルのニセモノ感(ヒッピーのなれのはての腐臭)に比すれば、枠組みのエッジは潔い。何というのだろう、わざとらしいナルシスティックな音列の決め、の数々、を、エコー処理と背景電子音を地として配置したコンポジションに流し去ることで、クスッと微笑んでしまうようなところに持っていってしまっている。言ってしまったらおしまいよ、というセリフを、途中で言いよどんだり、言い間違えたり、最後まで言えないでいる、と、彼女の言葉を聞いているように、すっかりリラックスして聴き続けてしまっている。家具の音楽というとサティが怒るか・・・、サティにしたって「アタシ家具です」ってこっちはとっくに聴き飽きたのですよ。このCDを制作する「flau」というレーベルのコンピ盤『Little Things』も聴いて、すっかり聴き和んでしまっているけれども、この歪んだ音処理が自然と感じさせる感性の由来なり音楽が生まれる土壌はジム・オルーク以降だという感触は歴然とあると思う(オルークが怒るか・・・)。その意味では、これらは2008年の音楽であり、以前に発売されていた夥しい数の音楽を無用にしてしまうちからがあるものだ。30さい以上の方は聴取禁止。未成年指定音楽。JT

(多田雅範)

 種々の技術の発達により、映像であれ音であれ、イマジネーションの定着が容易となった状況において、それが「作品」のかたちをして提示されることに戸惑うことが多くなった。たとえば、携帯電話で撮影したプライヴェート画像を「写真作品」と呼べるのかどうか。そうは呼ばないという基準は恣意的なものなのか。だがその際、定着された画像がパーソナルなコンテクストを有するかどうかは、作品としての質をけっして左右するものではないだろう。
 たとえばこのCD『ヘニング・シュミート/クラヴィーアラオム』は、1965年生まれのドイツのピアニストが、出産に向けて自分の妻の気分を和らげるために作った音楽なのだという(それにしても、クラヴィーアラオム=「ピアノの部屋」という原題に対して国内盤アルバム・タイトル「ピアニストHenning Schmiedtによる妊婦のためのピアノ小品集。」は些か即物的過ぎるように思うが)。CD制作のこうした脈絡を通じて、さらにCDを聴けばたちどころに、そこに「私の」、「私たちの」、と累乗的に加算される、告白と共感の連鎖を連ねる自意識のすがたをみることはたやすい。自分と世界との不分明な際(きわ)について蒙昧な、パステル・カラーの「信頼」と「平安」のすがた。気まぐれに移ろう指からは思わせぶりなフレーズやコードの断片が間遠に切り貼りされ、演奏者の自己陶酔的な表情が、音のすき間からのぞいている。ピアノのある自宅の部屋で軋む椅子や戸外の音も一緒に録音された粗い響きは、うっすらと電子音で加工を施されている。鏡に映る向こう側の自分に化粧をほどこし、その写真を撮影したものを見せられているような気分だ。
 世界と自分がふれあう体験のパーソナル・レポート。それは、自意識の包装紙、壁紙にすぎない。そのとき聴き手は、聴くべきものを自分で探す必要はすでになく、しかも、包まれ、飾られている対象は自明である。すなわち答えはあるが、役に立たない。だから、「インフォメーション」がそのまま「メッセージ」となり、それを「イメージ」として具体化したものは、イマジネーションという名の「実用品」と化す。これを「音楽作品」ではない、と呼ぶのはやはり恣意的であろうか。わたしにはよく分からない。美は、もっと超えがたい彼方への跳躍とともに現われるものではないのか。JT

(堀内宏公)

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