UPDATED 05.18.2008
新連載「おやじカンタービレ」Vol.1 by Niseko-Rossy Pi-Pikoe @ musicircus 001 息せき切って叩きあげたリンドグレーン作曲「メタモルフォーズI」の躍動 002 プロの合唱団は指揮者を見なくても日々の公演日程はたいへんなのだ 003 ブレない重心で弾き切った魂のこもった情念のソナタ 004 プロの板前とホンモノの包丁による極上の合唱公演、材料の新鮮さは合唱団のみなさんの情熱とか楽しみとか熱意だ 005 法隆寺宝物館で響いた起伏のある粗いフォルテピアノの意味とは

001 息せき切って叩きあげたリンドグレーン作曲「メタモルフォーズI」の躍動

竹原美歌パーカッション・リサイタル(東京オペラシティリサイタルシリーズB→C バッハからコンテンポラリーへ)
2008年2月19日(火) 東京オペラシティ リサイタルホール

S.P.シンメルード:WO ─ 変奏にもとづく変奏(竹原美歌委嘱作品、世界初演)
武満 徹:ムナーリ・バイ・ムナーリ(1967〜71)
R.ヴァリン:トゥワイン(1995) 
P.ミーラー:シャドウ・アンド・シルエット(2005、竹原美歌委嘱作品、日本初演)
J.S.バッハ:組曲 ホ短調 BWV996(原曲:《リュート組曲》ホ短調)
J.ノルディン:ロウ・インパクト(竹原美歌委嘱作品、世界初演) 
P.リンドグレーン:メタモルフォーズ I (1985/99)

スウェーデン王国から4年に一度演奏家一人だけに与えられるインゲマンソンプライズを受賞、サイトウ・キネン・フェスティバル松本で来日もした小澤征爾の秘蔵っ子というスウェーデン在住10年のパーカッション奏者のリサイタル。多く取り上げられた北欧の作曲家の作品を目当てに出かける。なかば即興的に打楽器の響きを確かめながら彷徨う時空に、北欧のフォークの背景とか暗闇とか地面を連想して聴いたのは武満徹の「ムナーリ・バイ・ムナーリ(1967-71)」で、これは武満がイタリアの美術家ブルーノ・ムナーリからプレゼントされた「読めない本」に想を得た作品とのことで、練習できない曲で立ち現われるものに惹かれた。プログラムのラストに配置されたリンドグレーン作曲『メタモルフォーズ I (1985/99)』に、リズムが時に対話し時に対立するというコンセプト以上の、太鼓群、ログ(丸太)、ドラムのそれぞれのリズムが力強く揺らぎ合った呪術的とさえ形容してしまう演奏、ジョン・ボーナムの「モビー・ディック」をトニー・ウイリアムスが演ったような、それも華奢な女の子が!、に、興奮した。これはライブならではの作品だ。アンコールでマリンバ演奏したケージの「ドリーム」の余韻は子守唄のように響く。この公演で、彼女の代名詞的な演奏としての「メタモルフォーズ I」はそれはそれで良しとして、他の北欧作曲家の作品はむしろ後進性を印象付けた結果に過ぎなかった。終演後のステージに彼女と3人の白人が満面の笑みで並ぶ。マリンバのルードヴィッグ・ニルソンは聴き応えがあったが、作曲家シンメルードとコントラバス・リコーダー奏者アンナ・ペトリーニは別に、だったぞ。戦友(この3にん)と挑むコンサートと銘打たれている必然はあったのか。飛行機代は自腹か?と思わず彼らをにらみつけたが、予算に合わせて北欧人3人を物見遊山に連れて来るための「あんなのもこんなのもありますよ」的なプログラムにしかおいらは感じなかった。本質的に打楽器奏者を問うようなプログラムでなければならないと思う。


002 プロの合唱団は指揮者を見なくても日々の公演日程はたいへんなのだ

東京混声合唱団第214回定期演奏会 「三善晃+谷川俊太郎の世界2」
2008年2月22日(金) 東京文化会館 小ホール 

三善晃:混声合唱組曲「五つの願い」 (1998)
三善晃:混声合唱とピアノのための「その日 - August6」 (2007)
森山智宏:混声合唱組曲「これが俺達の音楽だ」 (2008委嘱作品 - 初演 - )
篠田昌伸:「Opus」による5つの断章 (朝吹亮二:詩、2008委嘱作品 - 初演 - )
三善晃:混声合唱とピアノのための「やわらかいいのち三章」 (2006)
三善晃:混声合唱曲「木とともに 人とともに」 (1997-2000)
アンコール〜「木とともに 人とともに」ピアノ伴奏版

伝統あるプロの合唱団というわけで、さすがに声の出力は格が違うのである。昨年来あちこちで聴いてきた少女たちの合唱団は生命力をそのまま前に投げ出すようなすごさがあるけど、プロの合唱団は出力の輪郭を明確にして差し出している落ち着きがある。それはそれでさすがである。だけど、合唱団がほとんど指揮者を見ていないのはおれには気になる、いや、納得できない。楽譜と歌詞を追っかけているだけでこれだけのカタチにできるんだぜおれたちはプロだからね、と、造形力を自慢されてるのか?ここでは。明確に音楽は聴こえるけれど、音楽が生成していないカンジ。予期できない失敗や歓喜の爆発や生命を感じさせるところがなくて、おいらは聴きながらチャップリンのモダンタイムスではないかと思った。せっかく、三善晃先生がお越しになっているのに・・・。ピアニストは、クラシックもポピュラーもジャズも的確に明るく弾ける能力があるのはすぐにわかったけれども、ウタゴコロ満載のそのタッチでいいのか?三善さんの合唱曲なんですけど。祈りのようなものであったら、でも、きちんとしていればいいという問題でもない。世界観が合っていない。うまく要請できないが、喩えればコンサートホールではない何処かで鳴っているようなピアノが必要なのだ。それに・・・おいらのモンダイかもしれないが、谷川俊太郎の詩については処女作と絵本「みみをすます」の個人的な思い出があるだけで、ほとんどコトバがおいらには響かないという事情も前提としてある。宗左近(詩)と三善晃の組み合わせには特別なものを感じるところがあり(だったら二人で多くを創作したという校歌を採取してまわるべきなのかもしれない、もとい、そんなCDは存在してくれないのか?)。詩は、新しい作曲家の委嘱作が断然面白かった。指揮者の動きが合唱につながっていないように聴こえたけれども、つながっていればよかったかおれにはわからない。若き指揮者山田和樹の指揮の身ぶりに好感を持ったが、彼の孤独を思った。盛り上がり曲「木とともに 人とともに」、アンコールでは指揮者自身が男声合唱団に混じって歌っていたのが痛々しかった。ウチに帰ってサイトを見ると、彼らの公演日程が載っていた。なるほどプロの合唱団水準を全国に披露・啓蒙するのが第一義の責務なのだろう。


003 ブレない重心で弾き切った魂のこもった情念のソナタ

関野直樹ピアノ・リサイタル 「PASSION of SONATA」
2008年2月24日(日) 東京文化会館 小ホール 

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第23番 へ短調「熱情」 作品57
リスト:ピアノソナタ ロ短調

これは破格の演奏だ。耽溺していると形容してもいいリストのピアノソナタに対する想いの求心力に聴衆は釘付けになった。耽溺がピアノの表面に現れているものではない。デフォルメされたスピードの落差、これは堕した快楽なのだが、アファナシエフやグールドにだけは許されているところのもの。関野はリストの生地であるハンガリーで研鑽を積むピアニストで、リストの作品に対する理解の深さはどこか時間を超越して作曲家と交感しているような次元を感じさせる。演奏の重心はブレないでいる。はなから技巧的な不安を云々する水準ではない。情念が噴出しそうになるところを抑制のちからを効かせながら、音楽の時空がたわむような、抗いがたい潮流の圧力にゆがむような、そのような格闘とも言えるような演奏だった。時間を忘れる手に汗握る見事な演奏に、わたしは身震いしたのだった。コンサートの最中、楽章ごとにしきりに手のひらをタオルでぬぐっている姿があった。わたしはそういう体質のピアニストもいるのだと思い、気にもとめなかったが、終演後マイクを持ってステージに現れた彼は、原因不明の多汗症状に苦労していることを聴衆に告げ、リストの作品に対する想いを語ったのだった。彼は言葉を詰まらせた。芸術は苛酷なものなのだ。彼の演奏からもらった熱いものを手にして会場をあとにした。


004 プロの板前とホンモノの包丁による極上の合唱公演、材料の新鮮さは合唱団のみなさんの情熱とか楽しみとか熱意だ

女声合唱団 彩 女たちのシアターピース「コワレタイー昭和の少女たち」(2008年彩委嘱作品初演)
2008年2月28日(木) 紀尾井ホール 指揮:栗山文昭

Tomas Luis Victoria:MOTETS
月夜の木馬 女声(童声)合唱とピアノのために 作詞:鈴木敏史 作曲:寺嶋陸也 (2007)
女たちのシアターピース「コワレタイ―昭和の少女たち」(2008年彩委嘱作品初演) 詩・台詞・演出:加藤直 作曲・ピアノ:寺嶋陸也 舞台監督:中村眞理 照明:成瀬 一裕

モテットの2曲目の響き、見た目はおばさんたちだけど、音楽の神さまはおんなだというのは言えてるよなー、と、ひかりを感じたな彼女たちに、と、スッと感じたところから、すでにこの日のプログラムは仕掛けられていたのだろうか?彫刻刀で刻むようなくっきりとしたピアノの寺嶋陸也による「月夜の木馬」、鈴木敏史(みちたか)の素朴で凛とした詩もいい。昨年11月にグリーグの「ソルヴェイグの歌」で寺嶋のピアノを発見、高橋悠治の次世代を感じたものだったが、寺嶋の才能が輪郭をあらわす、いいコンサートは高揚する、前半が終わってホールでCDを売っているおねえさんに「いま歌った作品のCDをください!」と走っていったほどだ。メインの「コワレタイー昭和の少女たち」。踊るわけではないからオペレッタではなくてシアターピースになるのかな。ドレスを着た合唱団ではなく、それぞれ女性としておしゃれをした衣装、和服からジーンズまで、10代から60代までのさまざまな女性たち、が、語り、歌う。ときに昭和の詩人・エロジジイ金子光晴の詩を歌い、語る。コワレタイは「壊れたい」と「乞われたい」であり、「恋われたい」でもあるのか。加藤直が「もしかしたらボクは古代ギリシアの喜劇アリストファネス「女の平和」の現代版を書こうとしたのかもしれない」と書く。終章で、満月の夜、すべてを投げ出してオンナたちはママチャリに乗って公園に集まる。その集まるシーン、には、それぞれのオンナが投げ出してきたものが彼女たちの歌う声や洋服の柄に映るようなところがあった。寺嶋のピアノがミニマル的だったのでフィリップ・グラス『コヤニスカッティ』さながらに、それぞれのおばさんたちの人生の絵巻物がラッシュする。この生き生きとした合唱公演は、合唱団を率いる栗山文昭さんとピアノ・作曲の寺嶋陸也さんらによって成功に導かれたものだが、主役は合唱団のみなさんの日々の情熱とか楽しみとか熱意といったものだ。パンフレットに栗山文昭さんが書いた短いテキスト「オバ讃歌」を引用する。「コワレタイ、コワシテホシイ、コワシテアゲタイ、コワシテヤル、という散弾は、カワイイ少女よ、お母さんです、妻ですわ、どうせオバサンさ、という居直力の強い火薬を装填され、他人というあなた目がけて発射される。その被害の甚大たるや予想すらできない。当然、あなたの大切なガッショウやら何やらかんらやもコワサレル。悪夢?でもご安心 みんな「真冬の夜の夢」ですから・・・と言いつつ、昭和のオジサン、平成のジジイは笑いながら去っていきました。おしまい」。聴衆として、ともに造りあげる、ともに夢見たような、そんなコンサートだった。


005 法隆寺宝物館で響いた起伏のある粗いフォルテピアノの意味とは

高田泰治フォルテピアノリサイタル
2008年2月29日(金) 東京国立博物館 法隆寺宝物館エントランスホール

ハイドン : ソナタ ト長調、 ソナタ 変ロ長調、 ソナタ ニ長調
モーツァルト : 幻想曲 ニ長調 K397、 ロンド ニ長調 K485、 アダージオ ロ短調 K540、 ソナタ 3番 変ロ長調 K281

中野振一郎のチェンバロは図書館通いの日々にゴルトベルクのCDで聴いた。初めて聴いた瞬間からファナティックな雰囲気が漂う抗い難い強度があった記憶がある。中野の弟子である高田泰治の演奏を、東京国立博物館の法隆寺宝物館というシチュエーションで聴きに出かけた。宝物館は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の新館や東京都葛西臨海公園展望広場レストハウスや慶應義塾幼稚舎新館21を手がけた谷口吉生が設計した現代的なもの。この伝統と現代性の交差する建物で、現代ピアノの前身であるフォルテピアノが奏でられるのである。ライトアップされた東京国立博物館が見える入り口にビニールテントが張られており、上野公園の暗がりからひとりまたひとりと観客が集まって開場時刻を待つ。なにか秘密結社の催しのように思えてうっとりとする。暗闇を歩き、浮かび上がる夜の宝物館。水面に映す四角の人工池に沿って平行に歩いて入場する。中では調律師がフォルテピアノを叩いている。どんな演奏が立ち現れるのだろう。おそらく作品を忠実に再現するようなアプローチの演奏をベースに現代性をどう反映させるかというかなりハードルの高い演奏を期待することが可能なのだけど、淡々と楽譜の骨格にほとんど彩りを与えない演奏というのもアリだろうか。それにしても、ずっとフォルテピアノが調律されている断続音が響く。耳が痺れたような感じになる。これは一種のエクスペリメンタル・ノイズ・ミュージックなのか。開演時間が数分過ぎても調律作業が続く。充分な調律はなされたのだろうかと余計な詮索までする始末でいらいらする。演奏者が登場してもわたしの耳はキンキンとした残響音で神経質になってしまっている。演奏が始まる。思いっきり速度をデフォルメしたような演奏がエントランスホールの天井が高く総ガラス張りの音響環境に響く。これってチェンバロの弾きかたをフォルテピアノにぶつけただけじゃないのか?サラブレットが土砂降りのばんえい競馬場を喘ぎながら走っているような演奏で、ミスタッチまでがことさら大きく耳にぶつかる。フォルテピアノのハイドンとは、モーツァルトとは。このシチュエーションの意味とはなんだ?謎に包まれたままだった。


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