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目白バ・ロック音楽祭2008
ダン・ラウリン (リコーダー) 花鳥風月〜リコーダーによるヴィヴァルディ《四季》
2008年6月10日(火) トッパンホール
高橋未希(ヴァイオリン)、松永綾子(ヴァイオリン)、深澤美奈(ヴィオラ)、諸岡典経(ヴィオローネ)、井上周子(リュート)、渡邊孝(チェンバロ)
・ドメニコ・サッリ:リコーダー・ソナタ第11番
・ヨハン・ヘルミッヒ・ルーマン:リコーダー・ソナタ第10番ホ短調
・ヴィヴァルディ:リコーダー・コンチェルト ハ短調 RV441
・フランチェスコ・ジェミニアーニ:チェロ・ソナタ作品5-2 イ短調
・ヴィヴァルディ:《四季》より「春」「夏」
リコーダー?まじですか。小学校ん時ランドセルに差して登下校、はみ出たリコーダーのくち、歯で噛んだ跡がでこぼこになって、見たら大好きなかわいいくみこちゃんのリコーダーのくちもでこぼこになってて、それを見るとなぜときめくのか当時はわからなくて、教わったばかりの裏の穴を親指で半分押さえて高音が出るのをただやみくもにピーピーと鳴らす、はたから理解不能な小学生だったのは昭和45年だったか。ラウリンはコンサートに先立って6月4日、豊島区目白小学校で子どもたちにリコーダーの演奏を聴かせたのだという。小学生とリコーダーの歴史は続いているのだ。1曲目の「リコーダー・ソナタ」が始まって、たしかに親しんだリコーダーの音であるのに、旋律を描くラインが美しいのにドキドキしてしまう。なるほど、小学校の先生がおれに指導した「まずキチンと音を前に出す」というのはいわば棒読みであって、このように「直線に近づきながら自然と曲線であることを、リズムに合わせていかに保ち続けるのか」というのが演奏行為の始点であるべきだったのか。おれももし齋藤秀雄に習ってたらな・・・。ラウリンに演奏の原点を学習してしまったぜ。おれにもラウリンをやらせろ。そんなふうに楽しみ始めて、今日は演奏と一体化するような満たされてゆく心境になる。休憩時間に、顔見知りのOLに会う。アマチュアが隔週で集まりリコーダーでバロックを吹いているんだそうだ。いいリコーダーは100万じゃきかないのよ。一緒にリコーダーやろ、マリー・クレール・アランのコンサート一緒に行こ、と、誘われるが、おれは独りで聴いて妄想するのがいいんでとやんわりと、怪訝な顔をされても。四季はもう今年3回目なんだ、1月13日に東京ヴィヴァルディ合奏団が鍵冨弦太郎(vln)に過酷な速弾きを強いる曲芸で聴き(そいえばアンコールも四季だった!)、5月31日に新イタリア合奏団で焼肉をする高嶋ちさ子(vln)を聴き、4回目だ。正直、まともに聴けません。この日の公演、アンコールのラウリンの即興がこれまた良かった。まあ、ジャンルとしての即興界隈では楽器としてリコーダーは受け入れられないだろうけど(そんな保守的な決め付けは良くないか)。即興するラウリンに絡んでリュートを鳴らしたり叩いたりしたロリゴス衣装(どうしてバロックなのにその格好なの!)の井上周子ちゃんのストリート感覚は正しく新鮮だった。得がたい自由度を感じさせた。準ピーピコ賞。
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渡辺健二 ピアノ・リサイタル
2008年6月13日(金) 東京文化会館 小ホール
・ドビュッシー:前奏曲集 第1集より 「デルフォイの舞姫」「帆」「アナカプリの丘」「ミンストレル」
・リスト:愛の夢(3つの夜想曲)
・ワーグナー/F.リスト:イゾルデの愛の死
・シューベルト:ピアノソナタ第21番 変ロ長調 D.960
マイクを持って登場し、8日に起こった秋葉原通り魔殺傷事件の犠牲者への追悼としてバルトークを弾くという。なんで。わたしの予備知識なしもはなはだしい。ピアニストの渡辺は芸大の副学長さんなのであった。追悼の演奏を終え、再登場して本日のコンサートが始まる。ドビュッシーの演奏は、どこか技巧が垂直で直線的な断定で構成されているようで、正しくはありながら聴いたことのないドビュッシーだな、と、思いながら過ぎる。リストとワーグナーで、別人のように映えたピアニズムを見せる。休憩時間にパンフを読むと、渡辺はリスト弾きとしての経歴と活躍をしてきたという。なるほど、あのドビュッシーはリスト弾きのドビュッシーの表現なのだな。ううむ、リストのほうはさすがという出来で安定していたけど、リストの第3曲目で一転して思いっきり硬質なロマンチックを押し付けるようなところは、真面目なオヤジの真剣な言い寄りみたいで、ちょっとステキなのだった。それは謳っているのか自信満々なのかという特化(聴かせどころ)だったとして、わたしは2月に関野直樹のリストを聴いているので・・・、関野のあとでは分が悪い。ここ四半世紀の日本におけるリスト演奏のスタンダードとして、渡辺の演奏は説得力があるものだったことはわかった。第二部ハイライトのシューベルトは、わたしはこの曲、アファナシエフ85年の録音を最初に聴いてから、その後のデンオン盤を含めてアファナシエフで暗唱してしまっているのであるけれども、アファナシエフではわからなかったこの曲の諦念の質感について、その想定のスケールを考える契機となった。ただ、3楽章目はカンペキさを誇示する態度の無思考(もしくは冷徹な権威主義者)に陥っていて伝わるものがなかった。その崩れたバランスが最後まで印象を曇らせたけれども、わたしは4楽章のミスタッチは気にならない、特等席に並んでいた複数の白髪の女性陣がミスタッチにだけ反応していたけれども、おれはそれはちがうと思うよアカデミーのおばさんたちと抗議したくなった、コンテストの観点では音楽は掴めないと思うし、そもそも教育的ではないと感じる。渡辺も教育予算をうんぬんとパンフで演説するのではなく、このテのおばさんたちのアカデミズムを撃つべきだ。このコンサートがとても気持ちいいものだったのは、観客の拍手がきちんと演奏後の沈黙まで音楽として捉えている態度だった。さすが芸大関係者多数だけある。遅刻入場者約40名。渡辺はアンコールを予定していたごとくの3回も。なぜにリスト弾きがドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」をアンコールに。
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セルゲイ・シェプキン (ピアノ)
アンコール ゴルトベルク変奏曲
2008年6月24日(火) すみだトリフォニーホール
・バッハ:イタリア協奏曲 BWV971
・バッハ:パルティータ第2番 BWV826
・バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
もちろんおいらは晩年グールドのゴルトベルクをリアルタイムにLPレコードで買って聴いた世代だ。世界中のゴルトベルクを集めたいと思ったこともあった。最近のものではシフがECMから出したゴルトベルクが格別に良かった。個人的にベストだと思うのは高橋悠治76年もののゴルトベルク。これらを超えるゴルトベルクには終生出会わないのは自明だと余生をくくっていたおやじカンタービレであったが、このような歴史的断層に遭遇するとは。シェプキンがイタリア協奏曲を弾きはじめたところから、その演奏の脚力(もちろんピアノは指で弾くのであくまで比喩です)、加速度のつけ方、コントロールの自在、乱れない速度、ピアニシモ、とてつもないロシア産の怪物がいることに口は半開きになり時間は止まったようだった。このようなコンサートが始まるとわたしの意識は客席から離れ中空に旋回してしまう。眼下にスタインウエイがぐるぐると回りながら、指先と白鍵の接する場所や、演奏者の意識の躍動までが視えてきてしまう。解像度、スケール、技術、速度、これはハイヴィジョンのゴルトベルグなのだ。ググると動画もあります。ぜひCDでも確認されたし。21世紀というのは、ここにありました。それで、感動してなかなか席も立ち上がれなかったんだけど、若い男性二人組が「いやあ、ジャレットのようだったね」という発言が聞こえ、ばか言うなよどうしてここでジャレットが出てくるんだなんて思ったわけ。だけど、確かに。『レイディアンス〜ソロ 大阪/東京』でのジャレット、に、限定するならば、大いに正解だ。おれがアイヒャーなら、シェプキンとジャレットをスタジオに入れるぞ、タイコはトーマス・ストローネンにしといて、サックスはミシェル・ドネダ、ベースはブルーノ・シュヴィヨン、・・・いかん、妄想に走ってしまった。それにしても、セルゲイ・シェプキン、ロシア系のアメリカ人(生まれはサンクトペテルブルグ)、1985年サンクトペテルブルグ音楽院を主席で卒業。おれの世代だ。
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第665回東京都交響楽団定期演奏会
2008年6月25日(水) 東京文化会館
指揮:クシシトフ・ペンデレツキ ホルン:ラドヴァン・ヴラトコヴィチ
・ペンデレツキ:弦楽のための小交響曲
・ペンデレツキ:ホルン協奏曲『ヴィンターライゼ』(日本初演)
・メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調『スコットランド』 op.56
ペンデレツキといえば広島の犠牲者に捧げる哀歌とあとから名付けてポーランドのユダヤ系作曲家でトーンクラスター書法で、一世を風靡したという。物心ついた時からペンデレツキは現代音楽の怪物に思えた。ペンデレツキの名を聞くと、吾妻ひでおのマンガの中で「デレッキ!」と発音される場面ばかり連想します。デレッキとは北海道では日用語で鉄製の火かき棒のことでありまして、これで親に殴られたり、真っ赤になったデレッキで脅されたりします。そんなペンデレツキさんが指揮者で登場。丸々に太ったおじいちゃんで、かわいい。指揮をしだすともっとかわいい。丸いからだがゴムマリのように左右に飛び跳ね、ズドンズドンとトーンクラスター、ぴよぴよと小さい指揮棒を振り回しているさまは、ペンデレツキはほんとうに音楽が好きなんだなあと思わせる身振りであり。そして、自分の曲は1部に置いて、メンデルスゾーンを主役に持ってくるあたりに、悲哀を感じている可能性を想起していたけれども、そういうことではなくむしろ、自曲でホルンの多彩な音色を聴かせたがったり、自分はメンデルスゾーンをこそ今日は振りに来たのです、と、言わんばかりのあふれるような微笑み。で、ホルンのヴラトコヴィチが今日は主役でしたか。前日にN響の元首席ホルン奏者、千葉馨さん(カラヤンがベルリンフィルに要請したほどの名手!)の訃報があり、アンコールではメシアンのホルン・ソロのための「恒星の呼び声」が捧げられたわけだけど。ホルンの音色の多彩さと深さに東京文化会館大ホールが静まりかえる。吹いている途中でヴラトコヴィチはホルンをくるくると回す、優雅な儀式にも似た、うっとりと観客が息をのむひととき。ほんの小さな、だけど夢のような時間が訪れる。これだからライブはたまらない。ペンデレツキとメンデルスゾーン?と意表をついたプログラムの謎は、ペンデレツキとヴラトコヴィチの充足した笑顔で解けていたと思う。
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宮本文昭プロデュース II 〜人形浄瑠璃×クラシック〜
2008年6月27日(金) JTホール アフィニス(虎ノ門)
豊竹英大夫(浄瑠璃) 豊竹希大夫(浄瑠璃) 鶴澤清友(三味線) 竹澤団吾(三味線)
吉田勘弥(人形) 吉田清五郎(人形) 桐竹紋臣(人形)
松浦奈々(vln) 直江智沙子(vln) 鈴木康浩(vla) 大島 亮(vla) 堀内詩織(cello) 宮城 健(cello)
・シェーンベルク:浄夜
・近松半二ほか:「日高川入相花王」 渡し場の段 絃楽手付:三宅一徳
・近松半二ほか:「日高川入相花王」 渡し場の段
プログラムを見て、第一部はシェーンベルクで、第二部が人形浄瑠璃なのかな、と思った。それだけでもプロデューサー宮本の着眼に拍手できる。「浄夜」は月の光のもと女性が男性に不貞懐妊を告白し愛を語り男性はそれを受け入れてゆく物語で、「日高川入相花王」渡し場の段は嫉妬に狂った女性が大蛇となって川を渡ってしまってしまいに鬼の形相となるもの。この相反する物語に内在する女性の強度(狂度と書きたいが)をつなげたのだ。公演は、このコラボレーションを2つのヴァージョンで行ない、最後に人形浄瑠璃が単体で演じられた。最初のヴァージョンは、人形浄瑠璃の語りと囃子の部分、と、弦楽六重奏の「浄夜」、が、数分ずつ交互に演奏される形態のもの。これがフラッシュバックを伴う得がたい揺さぶるような聴後感を残す。2つ目のヴァージョンは、人形遣いが人形を持たない状態で、つまり黒子3にんの舞踏するような動きだけがステージで行なわれる中、人形浄瑠璃と弦楽六重奏が同時に(!)演奏されるというもの。これはショッキングでさえあるすさまじい音楽となった。ある意味、過激すぎる。もうアヴァンギャルド・シーンなんて存在意義なくなるよ、こんな素晴らしいアイディアが音になってしまうなんて。弦楽の不協和音混じりのソリッドな響きと、豊竹英大夫(とよたけはなぶさだゆう)の唸るような語り、三味線のうねり、間合いと呼吸、が、同時に演奏されるのだ。この弦楽と浄瑠璃を単なる同時再生にしなかったのは、絃楽手付つまり弦楽のスコアを浄瑠璃に合わせて構築した三宅一徳の手腕だった。弦楽と浄瑠璃のタイミングを合わせるわけだけど、演奏家もよくこれに応じ音楽を途切れさせずに維持し、この企画のキモを成功させていた。最後は人形浄瑠璃だけ。ただの人形なのに、嫉妬と嘆き、恨みの心理描写がまるで生きているかのようであり、すっかりその世界に入ってしまった。大蛇となって泳ぐシーン、柳の下に立って口が裂け角が出て鬼の形相になる、この世から外れた世界に来た感じに背筋が凍った。音楽の神さまミューズは女性であるけれども、このような執念もまた女性なのだ。スティーブン・キングの「ミザリー」、ちあきなおみのファド「霧笛」、おいらはオトコであり女性に喰われてしまう恐怖というのは根源的にあるものではないかと思う。コンサートが終わって「クラシックは人形浄瑠璃に完全に負けていたわね」という感想が聞こえた。