UPDATED 10.12.2008
おやじカンタービレ Vol.7 by Niseko-Rossy Pi-Pikoe @ musicircus

<031>「ラスト数秒の魂を浄化するようなドビュッシー・トーンの存在に痺れる」

コンサート・オペラ 歌劇『ペレアスとメリザンド』 
芸術監督、指揮:若杉弘 東京フィルハーモニー交響楽団 
2008年6月28日(土) 新国立劇場 中劇場 

たとえばおれが万引き犯人を追っかけて歌舞伎町の奥深くに彷徨ったところで道端の下水溝にエルメスの指輪を落として泣きじゃくっている瞳の美しい異国の若い女性を見かけておれは電通の社員だと名乗り婚姻届を出して日本国滞在をさせたとしておれの20年下の弟はジャズベースの修行にニューヨークに行かなければならないのに彼女と仲良くなってしまっておれは嫉妬し弟を殺し病に臥せた彼女はおれのか弟のかわからない子どもを産んで死んでしまった、とする。歌舞伎町がフランスの森であったら、ペレアスとメリザンドになる。今回のオペラは全員日本人、コンサートオペラは配役の衣装はなく、みな正装タキシード。配役では年上のはずの兄と盲目の老父が若い男性歌手であって、弟ペレアスがおなかがポコンと出た中年男性であったりしても、おれは昨日の人形浄瑠璃で「配役は人形にすぎない」という見方を手に入れていたので、おれがいつもテレビで「カンチは悪徳医者になったあと踊る走査線で刑事になったのか」「豊川悦司は武田真治の兄で安田成美に嫉妬したあとオッチョになった」「キャプテンウルトラは江戸時代には悪代官だったんだ」とさわぐようなことはもうない。いいトシこいて若い女性にその気になるのもわかるけど、オンナもオンナだし、ダンナができたのに不貞をはたらくかね、嫉妬したって仕方ないのに、弟ころすなよ、やれやれ、である。それで乳をやることもなく死んでしまう母と、その子のことを考える。この子は弟の子なんだろ。ああ人生とはどのようにも転がってしまうものか。若いペレアス役の近藤政伸と先妻の息子イニョルド役の國光ともこの声が特に良かった。いやー、東京フィルハーモニー交響楽団の響きは素晴らしい。オペラ会場だからステージの下のオーケストラピットから響いてくるものだけど、なんとこのドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』のラスト・シーンを夢幻の空間に変えてしまうものか。最後の一音の伸ばし、「愛憎の日々を浄化する響き」(岸純信)、数秒に、ドビュッシーのすごさ、芸術の至高を聴く。オペラの公演前にはオーケストラピットから指揮者が客席に顔を出して拍手を受けるものだけど、今回は見えない指揮者に観客は自然と拍手していたのだった。ステージが終わってタキシードを着た小柄の老人が花咲じじいの軽快なジェスチャーで登場、こ、これがあの若杉弘73さい、なのか。満場の拍手。すばらしいドビュッシーのトーンを堪能しました、ありがとうございます。


<032>「フルート奏者としての実力を見せつけた黒田育子」

「和の響き」 黒田育子&伊藤耕司 フルート&チェロ ジョイントリサイタル 
2008年6月28日(土) 東京オペラシティ リサイタルホール

安田芙充央:「天上のフルート」〜春 
寺内園生:「LOVE」(委嘱作品 初演) 
大場陽子:「隣人への手紙」(委嘱作品 初演) 
間宮芳生:「五つのフィンランド民謡」
武満徹:フルートのためのエア 
成田為三(野田暉行 編曲):浜辺の歌 
矢代秋雄(古謡):さくらさくら 
加古隆:永訣の朝−宮沢賢治の詩に 
葛岡みち:「それぞれの、ある日曜日」(委嘱作品 初演)
アンコール 小島のり子:春の淡雪 
アンコール 浜千鳥 

「和の響き」と題され、邦人作曲家の作品がこれだけ取り上げられている。「ペレアスとメリザンド」を観たあと初台の交番向こうのココイチでチキンと夏野菜カレーの3カラで腹ごしらえをしてはしご。武満、間宮、矢代の作品に加え、安田芙充央に加古隆だ。これは何か響きのコンセプトが浮かび上がるのか。1曲目はフルートとピアノによる安田の曲だ。会場の照明がゼロになり、数秒目を開けているのに真っ暗な状態になる。すごい効果だ。黒田育子のフルートは、想像以上にすばらしいものだ。ピアノは譜面になっても、あの安田の硬質なリリカルを放っている。安田芙充央のピアノはWinter&Winterレーベルから00年に出たCD『花曲』を聴いて以来、世界で最も美しいピアノタッチだと思っている。聴いてしまうと人生を踏み外してしまうくらいの名盤だ。2曲目は寺内の委嘱作、伊藤耕司が登場しフルートとチェロで奏でられる。ここでもフルートに魅せられる。結論から言ってしまうと、現代的な問題意識によって「和の響き」が浮かび上がるコンサートではなく、黒田育子がその活動を通じて知り合った作曲家の委嘱作を含めて選曲された、彼女のフルートを聴く公演であった。安田、武満、加古の作品を奏でるフルートは、ほんとうに素晴らしかった。「浜辺の歌」と「さくらさくら」のリチャード・クレイダーマンばりのピアノで軽くスイングして流れてしまう演奏は、わたしは好みではない。ハイライトに持ってきた葛岡の委嘱作は、CM作家らしい雰囲気を真似て持ってきただけの10ピースの楽譜の寄せ集めで、ディズニーや冬ソナや踊るポンポコリンのフレーズまま使用の遊びもあり、ほうら楽しいでしょう?というサービスぶりに子どもだましに、ちょっと待ってよクラシックのリサイタルの委嘱作としてどうなのよと驚きさえ感じた、そのスタイルで稼げてるのはわかるけど・・・。翻って、アンコールはどちらも良かった。小島のり子の作品でピアノを弾いた坂本綾希子のジャズの感覚は特筆すべきものがあった。不意に二度目のアンコールで奏でられた「浜千鳥」、静かな旋律の中に万感がこもっているようで胸がしめつけられた。もしかして黒田さんは公演活動をこれで引退するような気持ちがあったのかな。いやいや後進の指導にあたっている場合ではないです。流れていないしっかりとした表現力を持った演奏、その選曲センス、現代のフルート・シーンで最前線にあるものだと思う。ただ、結果総花的になったプログラムだけが残念でした。


<033>「有名人を足し算すれば必ずしも勝てない巨人のようなちぐはぐさかな」

オリヴィエ・メシアン生誕100年 メシアンが残してくれた音楽 
堀米ゆず子(vl) チャールズ・ナイディック(cl) 辻本玲(vc) 野平一郎(p) [ゲスト]谷川俊太郎
2008年7月1日(火) 東京文化会館 小ホール 

・メシアン:ピアノとヴァイオリンのためのファンタジー 
・武満徹:カトレーンU 
・メシアン:世(時)の終わりのための四重奏曲 

現代日本のメシアンの名手である児島桃と菅野潤を聴いたあとにこのコンサートは聴かれた。平日の午後3時に興業を打った梶本音楽事務所の意気込みは、この四重奏団の豪華さにも読むことができる。先ごろタッシが30年ぶりに再結成してカトレーンと世の終わりという組み合わせで公演したと、カトレーンの演奏前に谷川俊太郎と武満眞樹(武満徹の長女)が話している。ほ、ほんとか!それは聴きたかったぞ。で、この四重奏団はどうか。クラリネットのナイディックの演奏が突出して熱を帯びている。ほぼ独走状態。堀米はあくまで一線を越えない安定した音色で弾き切っている。野平のピアノは・・・この曲には向いていないと思う、というか、楽譜どおり、という演奏。辻本のチェロはこの3にんのアンバランスにとまどっていたのではないか、無難にまとめている印象。つまり。四重奏団の個々を云々と鑑賞できてしまうところに、四重奏団の役割を果たせていない真実が見えるのではないだろうか。こないだ聴いた四重奏団クワトロ・ピアチェーリのコンビネーションからも類推することができる。この日は、メシアンも武満も聴こえなかったのだ。これだけ豪華なラインナップで。メシアン世の終わりの解説もしっかりなされていても。


<034>「松平頼則を現代に響かせた木ノ脇と井上の鬼気迫る演奏」

101年目からの松平頼則 I 
日本音楽史上の奇蹟・松平頼則を聴く 〜新古典作品から前衛作品まで〜 
2008年7月16日(水) 杉並公会堂 小ホール 

・松平頼則:フリュートとピアノのためのソナチネ(1936) 木ノ脇道元(fl)、井上郷子(pf)
・松平頼則:ピアノ・トリオ(1948) 阪中美幸(vn)、 多井智紀(vc)、 萩森英明(pf)
・松平頼則:蘇莫者(1961) 木ノ脇道元(fl)
・松平頼則:呂旋法によるピアノのための3つの調子(1987/91 第2.3曲は独奏版世界初演) 井上郷子(pf)
・松平頼則:音取、品玄、入調(1987) 木ノ脇道元(fl)、神田佳子(perc)

わたしにとって松平とは享保の改革を行なった定信とマツケンサンバを歌った健しかいない。この頼則は遠い親戚なのだろうかと思う程度で聴きに出かけたわたしである。「ソナチネ」を聴き、新古典主義の作風に準拠しつつどこか和風に感じさせる和音が留まる感じに、その微細な雰囲気に耳が寄せられていた。第3楽章で「ずいぶんと不自然で異なったロシアチックな響きのダシの聴かせかただな・・・」といぶかしく思ったら、ロシアの作曲家チェレプニンの手が加えられていたという。29さいの松平は第3楽章で人間関係に屈してしまったのだな。1・2楽章をきちんと踏まえて作曲できたはずなのに。その意味でいびつな作品だ。それにしてもフルートの木ノ脇道元とピアノの井上郷子はしっかりとした技巧とぶれない描写力で強度のある演奏を聴かせる。並みの演奏家だったら絶対に「和風に留まる感じ」や「ロシアチックな響きのダシ」をきちんとそこにあるようには演奏できなかっただろうと思う。演奏家を讃えたい。松平41さいの「ピアノ・トリオ」は昭和23年とは思えない作風であるのに驚く。第2楽章はまるで音大生がECM初期風に響かせてみようと最近作曲したような印象を与えるし、第3楽章はミニマル・ミュージックではないにせよ断続的に響きをリレーするロックっぽくもある感覚を放っている。それは70年代以降のヨーロッパ人が作っていた感覚の領野ではないのか。その意味では1948年の松平はとんでもなく時代に先行していたのではないかと思わせる。もちろんおれの教養不足や後付けだから受信できる感覚に過ぎないという可能性もあるが。松平54さいの「蘇莫者(そまくしゃ)」は作曲技法としては14の断片を演奏者の選択に委ねるという管理された偶然性(アレアトリー)だが、素材として用いた雅楽の「蘇莫者」は役(えん)の行者が笛を吹いていると山の神が老猿の姿になって舞ったという姿に由来する龍笛の名曲で、これは西洋と雅楽の融合と言えばそうかもしれないが、むしろおれは松平の西洋への突き付けを感じる。「日本の伝統におののけ、この白人ども」という秘めた敵愾心という突き付けを。独奏する木ノ脇(フルート)の白熱し突き抜けるような表現がそれを示していたと思う。ピアノで、現代音楽における松平イズム(というのがあったなら)の原型、いわば平均律といった完成を構築したのが「呂旋法・・・」なのだ。ピアノの井上は、それこそカンペキに楽曲と一体化した、痺れるようなディシプリンを弾いた。4曲目までの印象が強くて、最後の曲についてはうまく思い出せません。


<035>「イタリア協奏曲で起こった予期せぬ感動は演奏者の関知しない場所で起こっていたのか」

室井摩耶子トークコンサート 「音楽を聴きたいって何なの?」第19話
〜壮大な音の殿堂 “バッハの真髄”〜
2008年8月30日(土) 浜離宮朝日ホール 

・J.S.バッハ:平均律クラヴィヤ曲集 1巻 より 
 第1番 ハ長調、第2番 ハ短調、第5番 ニ長調、第6番 二短調、第8番変ホ短調
・J.S.バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV.971
・J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903

1945年、昭和20年にデビュー以来、第一線で活躍する室井摩耶子さん87歳のピアノを聴いてきた。4月初めに机に胸をぶっつけて肋骨にひびが入った事故で延期になっていた公演。コンサートが始まってマイクを持って20分も「音楽って何なの?」と語り始めるのはファンにはたまらないのだろうか。年配の観客が多い。彼女に生きる勇気と喜びをもらいにきているようだ。演奏が始まる。こないだのゲルバーの如く、ミスタッチなぞものともしない音楽の骨格が浮かび上がるような演奏ではあり、巨匠の片鱗を聴かせた。だけど、少々ばたつき気味。意のままにならぬ憤りを投げ付けながら蒸気機関車のようになっている。そこで予期できぬ奇跡が起こる。イタリア協奏曲(協奏曲という名だがピアノだけで弾かれる作品です)ではそのばたつき感のズレが、右手と左手の二重構造となって耳を奪うのだ。それは大塚愛の「Happy Days」のタイコと楽曲のリズム二重構造を想起させる。こんなことは誰も書かないだろう、わたしも驚いている。思わず客席で「あっ!」と声を上げそうになったくらいだ。で、室井さんのコンサートはそのまま録音されており会場ではCD販売予約を受けるという仕組みになっているもので、その気になれば検証可能。このサービスはとても良い試みだと思う。休憩をはさんで後半ではそのマジックは残念ながら消えていた。冒頭のトーク以降、室井さんは一言も話さず表情が厳しいものになってゆき、アンコールにも応えなかった。それがスタイルなのか、演奏者として不本意だったのか、は、わからない。しかし、この演奏は、彼女の生きざまである。音楽は楽譜でも音だけでも演奏だけでもない。

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