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アプサラス 第1回演奏会
松村禎三(1929-2007) 室内楽作品展
2008年8月19日(火) 東京文化会館 小ホール
松村禎三:アプサラスの庭 (1971) Vn.千葉清加 Fl.野口龍 Pf.土田英介
松村禎三:ピアノ三重奏曲 (1987) Vn.千葉清加 Vc.西谷牧人 Pf.泊真美子
松村禎三:巡礼T,U,V (2000) Pf.渡邊康雄
松村禎三:ヴィブラフォーンのために〜三橋鷹女の俳句によせて〜 (2002) Vib.吉原すみれ
松村禎三:阿知女〜ソプラノ、打楽器と11人の奏者のための〜 (1957) 小鍛冶邦隆指揮 東京現代音楽アンサンブルCOmeT Sop.坂本知亜紀
松村28さいのときの「阿知女(あちめ)」という作品にわたしが衝撃を受けたのはここ数年で、現代音楽において50年代に到来していた先進欧州からのスタイル到来の圧力におのれのパッションを対峙させんと彫り込んだ作品であったとはもちろんあとから得た知識であって、最初に感じたのは、法隆寺の奥から突き破って出てきた聖徳太子の怨霊ってこういう感じじゃないのか?という、図書館から借りて読んでいた梅原猛の革命的な挑戦の書『隠された十字架-法隆寺論』(1972)と共鳴した直感、だった。ここで感じる古代的なリズムはゴジラ伊福部とは違うものだなと断じていたが・・・、松村は伊福部の弟子だったのか、しからば松村は最初から伊福部を越えたオリジナリティを獲得していたことになる。この日は、昨年8月6日に逝去された作曲家・松村禎三の作品展。にわか現代音楽ファンとしては、コンサートで聴いてみたいと思っていた作曲家であったので期待値マックスで出かけたが・・・。1・2曲目のピアノがあまいというかゆるいもので、作品の輪郭がうまく立ち現れていない。だめだろ、これじゃ。3曲目のピアノ作品も、ピアニストの説得力は弱い、ながらも、部分部分でわたしは色彩のトーンはそれは異質、なれどジャレットのブレーメンアンコールと類縁だったりもする、ような、松村のモアレ状のポップを沸き立たせるピアニズムを秘かに発見してしまう。松村に70年代ジャレットを聴く、なんて芸当をできるのはわたしだけである。それでコンサートのあと、カメラータから出ているCD『阿知女/松村禎三作品選集IV』で「ギリシャによせる二つの子守唄」(1969)を聴いたとき、おれはガッツポーズをするというか息を詰まらせた、ジャレットのセレスチャル・ホークとかあのあたりのピアニズムは松村からの盗作だったんじゃねえのか?まで思った。いかんな、今日のおいらの耳はいびつな敏感さに囚われてしまっているようだ。4曲目の吉原すみれのヴィヴラフォーン作品はよくわかりませんでした、おれのほうに聴くセンスがまだないようです。で、コンサートのハイライト、お目当てのなま「阿知女」のほうは・・・。ソプラノの坂本知亜紀の力強さに、オケは充分に対抗できていなかったように聴いた。楽譜っぽいオケの狂騒が小さく拡がるばかりであった。楽曲が時代に勝てなかったのだろうか?
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東京ニューシティ管弦楽団 第57回定期演奏会
“ベートーヴェンの新世紀(2)” 「革命の時代と音楽の革命」【ピリオド奏法による】
2008年9月5日(金) 東京芸術劇場大ホール
・ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 op.21
・ベートーヴェン:バレエ音楽「プロメテウスの創造物」op.43より
・ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調「英雄」op.55
ハイドンに師事していたベートーヴェンは1800年にシンフォニー第1番を初演、そのときはモーツァルトのシンフォニーとともに指揮棒を振っている。ハイドンとモーツァルトとベートーヴェンが同時代に響いていたというのはおれ的には3者とも全然関係ない音楽と認識していたので信じがたい気がするのだが、そもそもベートーヴェンの交響曲はわざとらしくてうざいのであって、せいぜいフルトヴェングラーの録音にドイツ的な精神の根っこを聴き取って楽しめただけであった。ところが、このフルトヴェングラーをはじめとするドイツ的なベートーヴェン像というのがフィクションではないか、というのがこの演奏会の問題提起なのだった。なるほど、モーツァルトの軽快を聴くようにベートーヴェンが奏でられている。わざとらしくもうざくもない。むしろ、オールドロックに比するパンクの登場のようなベートーヴェンの革新性が手に取るようにわかるところがあった。交響曲第1番の始まりはベートーヴェンの静かな宣誓に聴こえ、格調を備えたかっこ良さを感じた。第4楽章だけがまるで別の曲のようで、音楽のロジックが途切れている。これは不思議な感覚だ。「英雄」もまた、痩せこけた濡れた犬のようなパンクなベートーヴェンになっている。それがいいのかわるいのか複雑な聴後感。ピリオド奏法によるベートーヴェンは、モーツァルトのとなりに在るように鳴るものではあるけれども、その革命性を聴くにはこのような大きなホールでは難しいのではないかと考えた。音が寂しく拡散するようだった。
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「現代日本のオーケストラ音楽」 第32回演奏会
指揮:秋山和慶 東京フィルハーモニー交響楽団
2008年9月18日(木) 東京文化会館 大ホール
第30回作曲賞入選作品
・前田恵美:混ざらない融合
・大胡恵:CONCERTO FOR ORCHESTRA ― -S.×2 ALSO -ES.―
・岸幸巨:現実主義者の妄想
招待作品
・廣瀬量平:ヴァイオリン協奏曲 山田晃子(Vn)
この現代音楽オーケストラ作品の作曲賞への応募は16名(再応募者5名)であったという。選考委員は名だたる作曲家9名。思うに、どの音楽ジャンルでも残るのは第一世代だけなのかもしれない。第一世代の消滅によってそのジャンルの生命感は失われるとか。第一世代が拓いた領野からその後は後退戦しか残されていなくて最後に立つ者がその歴史を記述することで価値が確定する、ということを内田樹はイデオロギーの歴史を考察していた気がする。そんなことはさておく。廣瀬量平の「ヴァイオリン協奏曲」を聴きに出かけた。度肝を抜かれた。圧倒された。オーケストラがホールに暴風雨を起こすものである。一陣の風を吹かすスコアだけでも驚異なのに。暴風雨!奇を衒って書いたが、この革命的に斬新なスコアはなんなんだ!楽譜を読めないおれが書いたが、廣瀬量平は日本の現代音楽史における第一世代とは記述されないけれどそれは単にスパンのとりかたで、このオーケストラの鳴らしはホンモノだ。そびえたつ日本の現代音楽の山脈の高峰のひとつである。創作者にヴィジョンがあるから打楽器も説得力を持ち作品は造形力を持つ。これは想像だが廣瀬は上の世代のスコアと響きについては相当の研鑽を積んでいる。その研究を踏まえて、廣瀬はその上位の表現を企図した。それは、たとえばエキゾチズムや理論を足し算して隙間産業的におのれの居場所を確保するような態度ではない。思うに、現代音楽はより多く再演され世代にリレーされるクラシックの役割をしなければならない時期なのではないだろうか。「ヴァイオリン協奏曲」を聴きながらそう考えた。ヴァイオリンは山田晃子で、廣瀬の「ヴァイオリン協奏曲」に相応する野性を備えてはいないけれども、その的確かつ優美でさえある強いラインの芯は見事だった。感動した。
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二期会ロシア歌曲研究会第12回定期演奏会
ロシア五人組
2008年9月24日(水) 東京文化会館 小ホール
渡邊史(S)
ムソルグスキー:ヘブライの歌
キュイ:焼かれた手紙
宮上早智(S)
キュイ:エオルスの竪琴
バラキレフ:あなたは魅惑的なやさしさに満ちて
リムスキー=コルサコフ:薔薇に夜鶯は魅せられ(東方のロマンス)
大野隆(Bs-br)
ムソルグスキー:小さな星よ、お前はどこに
ムソルグスキー:「死の歌と踊り」より 『トレパーク』
清水いずみ(S)
リムスキー=コルサコフ:雲雀の歌は高らかに
リムスキー=コルサコフ:たなびき流れる雲はまばらになり
関森温子(S)
キュイ:ツァールスコエ・セローの彫像
リムスキー=コルサコフ:魂は天高く空へ飛んでゆき
渡部智也(Bs)
ムソルグスキー:巡礼
ムソルグスキー:神学生
新井美絵(S)
リムスキー=コルサコフ:高みから吹く風のように
リムスキー=コルサコフ:美しい女よ、私の前で歌うな
橘洋子(S)
ボロディン:不協和音
ボロディン:海
天野加代子(Ms)
キュイ:私は花に触れた
バラキレフ:グルジアの歌
福成紀美子(S)
バラキレフ:金魚の歌
ムソルグスキー:ホパック
清水知加子(S)
バラキレフ:子守唄
バラキレフ:聞こゆるは君が御声
柳澤安雄(Bs-br)
バラキレフ:抱きしめよ 口づけせよ
リムスキー=コルサコフ:アンチャール(死の樹)
筧聰子(Ms)
キュイ:“あなた”と“貴方”
キュイ:願い
バラキレフ:スペインの歌
平山恭子(S)
ムソルグスキー:「子供部屋」より『お休みの前に』『木馬で』
岸本力(Bs)
リムスキー=コルサコフ:グルジアの丘の上で
リムスキー=コルサコフ:予言者
出演 相庭尚子(Pf)、遊間郁子(Pf)
まいった。関森温子が歌ったキュイ作曲「ツァールスコエ・セローの彫像」、筧聰子が歌ったキュイ作曲「“あなた”と“貴方”」「願い」を筆頭に、キュイが作曲したすべての曲に心奪われた。ロシア五人組というのはボロディン、バラキレフ、キュイ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーの五人なんだそうだが、キュイだけは別枠だろ?ロシアらしくない、つーか、なんなの?この揺らぐ水面の光のきらめきをそのまま旋律にしたようなはかない美しさは!伊東一郎教授が書いた解説文からキュイを抜き出すと、「他の国民学派の作曲家の作風と異なり、フランス的な雅な雰囲気を漂わせた繊細な感覚のサロン的な小品が多い。感覚的な美しさに特徴がある。」とある。・・・やはりそうか・・・というか、なんかそのままなので謎が消失してしまってガッカリ・・・。お、キュイだけはロシアの血が流れていないのか。父はフランス人、母がリトアニア人。血でうんぬんするのはキケンだが、この素性は魅力的な気がする。この二期会ロシア歌曲研究会の公演を聴いて、男声についてはわたしは何も感じないので黙りまして、女声については大相撲の番付けのように登場順に格が見事に上がってゆくのが面白かった。天野加代子の歌でかなりノックアウトされているのに、福成紀美子、清水知加子がさらに上手いのに唖然としてしまう。どきどきして聴いていると、次に出てきた筧聰子はその声量といい堂々とした表現といいオーラといいほとんど魔女級、夜の女王みたいだ。そしてさらにこの上のレベルなんかあるわけないだろ!とステージに迎えた平山恭子ばあちゃん、このひとは歌う妖精だった、寒山拾得クラスの表現者である、まさに歌の神だ。ころころと転がる声、この愛らしさ、インプロヴィゼーションのすばらしさ。言葉を失った。
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柴田南雄の遺したこと SHIBATA Minao(1916〜1996)memorial concert
〜没後12年メモリアルコンサート〜 後期の室内楽と合唱曲
2008年9月26日(金) 東京文化会館 小ホール
・柴田南雄:四つのインヴェンションと四つのドウーブル(1990/1991) ピアノ:中嶋 香
・柴田南雄:声とコントラバスのための五つの歌曲(1986) 詞:柴田雄次 バリトン:谷 篤 コントラバス:柴田乙雄
・柴田南雄:歌仙一巻「狂句こがらしの」 - バイオリン ピアノ二重奏のための(1979) ヴァイオリン:山田百子 ピアノ:高橋悠治
・柴田南雄:合唱団「無限曠野」(1995) 指揮 田中信昭 合唱 東京混声合唱団 照明 古賀満平
さすがに歌う闘魂、東京混声合唱団、柴田南雄の「無限曠野」を見事に歌い切った。メンバーチェンジでもしたのか?女声の高音部が格別に輝いていたように思った。「無限曠野」は、シベリア抑留者の詩などを題材に、音楽が世代を越えて引き継がれてゆくものならば、忘れてはならない人間と時代状況の証言を背後に響かせる音楽を、という強いメッセージが聴こえる曲だった。柴田南雄は80年代後半にシュニトケやグバイドゥーリナ、ペルトなどの現代音楽系の新しい才能を記述した評論家でもあった。ECMニューシリーズ発足の84年から現代音楽の現代性を追いかけてきたリスナーには、灯台であった。また、山下邦彦さんが『楕円とガイコツ』などで示した楽理的なコードの謎を先行して示してもいた存在として、ミスチルファン、小室哲哉ファン、坂本龍一ファン、菊地雅章ファンにも重要。作曲家としての柴田南雄さんを「追分節考」くらいしか聴いてこなかったので、この公演はありがたかった。白眉は1曲目、12音とメシアンを徐々に展開させてゆき、日本の民謡音階となってゆく曲で、最後にはピアニストが民謡を歌うのである。これがすばらしいものだった。ピアノの中嶋香。おれはピアノにはうるさくて正しいぞ。ピアニズムにその演奏家のすべてを聴く。中嶋香の演奏する行為への視野といったものに賛同する。彼女のピアニストとしての欲望は要注意(要注目)だ。高橋悠治の出演で、そうか柴田さんの弟子だったのか、トランソニック、水牛楽団、リアルタイム、師弟の軌跡は合致する。ホールでは高橋悠治の本『きっかけの音楽』(みすず書房)を売っていた。「書きかけのノート」という章があった。柴田南雄ならこの「書きかけのノート」をどう読んだだろう。おれはどう読むのか。音楽が世界の兆候だとするなら、おれはどういった立ち位置で音楽を聴くのだ。