
金澤希伊子リサイタル
ラヴェル ピアノ音楽の極地 独奏曲全曲演奏会(全3回) 最終夜
2008年9月30日(火) 津田ホール(千駄ヶ谷)
・J.S.バッハ:3つのインヴェンション
・ラヴェル:プレリュード
・ラヴェル:亡き王女のパヴァーヌ
・ラヴェル:水の戯れ
・ラヴェル:グロテスクなセレナード
・ラヴェル:夜のガスパール オンディーヌ 絞首台 スカルボ
冒頭に置かれたバッハの演奏にすでにわたしは唸った。タッチはシャープではないむしろ武骨でさえある動きながら、表現が立っている。角が尖って屹立している。質量的には弱々しさも併せてあるが、それは欠点とはならず、いわば、先日のゲルバーの鬼気迫る骨格の提示、と、同型である。きれいにそつなく弾けるピアニストは多いが、聴く者を金縛りにかけるように惹き込ませるバッハ演奏にはなかなか出会えない。そして、このバッハの「インヴェンション」を感覚的な基盤とした演奏としてのラヴェル、を、続けたところに、このプログラムの狙いがあったように思う。というのも、おそらく演奏史的な蓄積によって形成された“通念としてのラヴェル”を無化し得ていたものだったからだ。この無化によって、バッハを参照点としたラヴェルの革命性を聴かせたのである。とくに「プレリュード」と「水の戯れ」で。ラヴェルという突然変異。ラヴェルという天才。この劇的な音楽史への登場を聴かせたという点で。おれは休憩時間になって、「あのおばはん、自分の弾いている凄さをわかってるんかいな」と、冒頭にバッハがなければ絶対に気付かなかったプログラムの技法について考えた。こんな体験はじめてだ。プログラムがラヴェルだけならばどう聴こえたのだろうか。バッハのようなラヴェルと聴こえたのか。78さいになられるピアニスト金澤希伊子さんは、いまだ前進しているのではないだろうか。休憩をはさんで後半のガスパールについては、バッハという参照点効果が薄れてしまったせいか、わたしの耳にアルゲリッチ盤を愛聴していた記憶がよみがえっているうちに時間が過ぎてしまった。
サントリー音楽財団コンサート
作曲家の個展2008 猿谷紀郎
2008年10月1日(水) サントリーホール
高関健(指揮) 加納悦子(MS) 谷川俊太郎(詩・朗読) 東京都交響楽団
・猿谷紀郎:ファイバー・オブ・ザ・ブレス(息の綾)(1992)
・猿谷紀郎:Where is HE? 夢 まじらひ〜谷川俊太郎の詩“Where is HE?”とともに〜(2006)
・猿谷紀郎:ここに慰めはない〜ゴッドフリート・ベンのテキストによる〜(2005)
・猿谷紀郎:阿佐可夜 流夜真(あさかや るやま)(2008/サントリー音楽財団委嘱作品・世界初演)
さすが新しい作曲家だ。1曲目の冒頭1分40秒。ヴァイオリンの胡弓のようなイントロにざわめく弦群、明らかにミニマル・ミュージックとクロノス・カルテット以降の弦楽を交差させるスタイリッシュな速度。目がくらくらする。だけど、続かない。ロジックのちからがない、たぶん。エンディングの40秒は冒頭の再現スタイルで吉。つまり、全体で3分くらいの曲でも、おれは良かった。あとの3曲は資源の無駄。練馬も今日からゴミの出し方が変わった。2曲目は武満について書いた谷川俊太郎のエッセイの一節をテーマにしており、谷川本人の朗読があってから曲が始まる・・・。ど、どうなの?武満に対する何か幻影なり書法のオマージュなり批評なりが潜んでいたのだろうか。ハルカリ『音楽のススメ』Jポップ名盤に朗読で参加していた谷川の株価が暴落する。にしても、指揮が古びたカステラみたいな生気のなさ流れのなさ、崩れないように支えてみているだけの指揮棒、こっちはどうなの。3曲目のメゾソプラノ加納悦子は良かったけど、これも曲がなんとも。4曲目は最近出土した8世紀の歌木簡の文字をテーマにしたそれなりに開演前に猿谷がトークした由緒折紙付きの作品ではあるけれども・・・ああもうだめ、限界が見える・・・。2曲目以降は全然聴くところがないままで、退場もできずにうたた寝して後頭部で座席に音をたててしまった。猿谷のトークにあった倍音というのもわからないのは指揮のせいオケのせい?それともドラやシンバルの金属部分を弓でこすっていた音が倍音だというだけのお話?・・・2曲目で招待席からにこやかに退場していった世界のサエグサさんさすが正解だったと思います。これならサマフェスでユアサせんせいが未聴感として提示したジェルバゾーニのほうが断然意義あり。・・・帰って調べてみると、なるほどね。出世作「ファイバー・オブ・ザ・ブレス」、そのあとは武満・谷川とか欧州哲学とか日本の古典とかに目配せを怠らずに、あとはNHKの仕事したりすると食べてゆけるという作曲家としてのランディング。タイトルの付けかたコンセプトは上手いよなー。ハンサムだし。ううむ。指揮が良くなかったのか。その起用は陰謀なのか?五味太郎の絵本を思い出してしまう、ほら、あの「さる・るるる」だ。さる、売る。さる、鳴る。さる、観る。コンサートが終わって作曲家猿谷は指揮棒をもったメガネざるの後頭部を平手ではたくのではないかと思った。さる、はる。・・・なんて小学生みたいな苦言を思いついてしまいました。現代音楽はゲンダイオンガクのままでいいのか。
第12回相曽賢一郎ヴァイオリンリサイタル2008
相曽賢一郎(Vn)、江口玲(Pf)、中村明一(尺八)、安田謙一郎(Vc)
2008年10月3日(金) 東京文化会館 小ホール
・ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調 op.24「春」
・グアルニエリ:ヴァイオリンソナタ第4番
・シェーンベルク:ファンタジー op.47
・クライスラー:愛の喜び
・クライスラー:愛の悲しみ
・ホイベルガー:真夜中の鐘
・ヴィエニャフスキー:華麗なるポロネーズ第2番 イ長調
・柿沼唯:「深き森より」 尺八、ヴァイオリン、チェロのための(初演)
ヴァイオリンとピアノの演奏を聴きながら、「体育会系?・・・」と心に浮かんだ。楽しいことが好き、という淀みのないストレートな演奏。十分に美しく、楽しく、スマートに音楽が奏でられている。それが悪いはずもない。ほぼ満席に近い観客。公演のあいだ、憂鬱なる聴派としてのおれはひたすら孤独を感じていたし、分衆の時代ということを考えたりもした。ここに心から楽しんでいる人たちがいる。マイクを持って曲やエピソードを紹介しながら進めるスタイル。いちおうお目当ては柿沼唯作曲「深き森より」の初演。芸大で松村禎三に習った作曲家で尺八とvln、pfの作品ということで。しかし平坦なタイトルに予感してたが、演奏しやすい和洋を楽譜のタテワリに合わせて弾かせた何もない作品だった。初めてこの楽器編成を体験するリスナーには、いちご大福けっこうイケるわね的な歓びは与えるだろう。上手い。楽しい。でも志はない。そんなの音楽にカンケーない、という軽さにいらいらする。・・・チラシから引用する。このヴァイオリニストに対し「知性、鋭敏な様式感、説得力ある音楽性、確固とした技術」(指揮者サー・エリオット・ガーディナー)。このピアニストに対し「非凡なる芸術性、円熟、知性」(ニューヨーク・タイムズ紙)。・・・えええっ?おれはこの満員の観衆は年に一度のイギリスから来日公演することに関係者一堂総動員かけた結果だ!と、演目が終わって同一オヤジが派手に「ブラボー!」を計3回叫んだのもサクラだ!と、ほんとうに思ったんだけど・・・。ガーディナーにNYタイムズによる格付け、おれより耳が悪いはずもない。ううむ・・・。ほ、ほんとにトリプルAなのか?クラシック界のサブプライム問題みたいな気がする。
2008/2009シーズンオープニング公演 オペラ
プッチーニ 『トゥーランドット』 指揮:アントネッロ・アッレマンディ 演出:ヘニング・ブロックハウス
2008年10月15日(水) 新国立劇場
強烈だった。あのアリアだけで新国立劇場に席を取る価値あるぞ。数日たっても「誰も寝てはならぬ」が耳から離れない。あのメロディーが・・・、北海道産のサンマがザルの上で、山売りされてる梨が、居酒屋の生牡蠣入荷の品書き文字が、土曜の午後商店街を歩いててもそこかしこがブロックハウス演出の舞台に見えて、フラッカーロの歌声で再生される。荒川静香のイナバウアー(2006トリノ五輪・金メダル)のBGMぐらいにしか思っていなかった曲なのに・・・。ライブでパヴァロッティが歌った名唱でさえも・・・、あんなのマッチョなだけですね・・・。誰も寝てはならぬ。「誰も寝てはならぬ」、と、作曲してすぐに、自分は永遠に眠ってしまった、というプッチーニのいのちがけの作曲もドラマチックだ。おれの読みを記述する。トゥーランドットのストーリーは、プッチーニ自身がカミさんにあらぬ浮気を責め立てられその対象の女性がそれを苦に自殺してしまったという過去が反映している。おれはこれはあらぬ浮気ではなかったと思う。プッチーニはその女中に本気だった。そしてその想いを生涯隠し続けたが。それが、物語のロジックと反転するようにして「誰も寝てはならぬ」の“旋律”に宿ってしまった。カミさんへの情熱というストーリーに仮託した。その創作のウソのウソに、プッチーニは物語のそのあとの展開を紡ぐことができず葛藤が彼の内面を覆い病んで死んだのだ。作曲家プッチーニはその女中の面影を見つめ続けていた。研究者に問いたい、この指摘は世界初ではないですか。主人公の王子が王女トゥーランドットとハッピーエンドに終わるとき、命を賭して王子の秘密を守った召使リューの報われなさだけが残る。確固として残る。不在が屹立していると言っていい。それに、こんな後味の悪いオペラがあっていいものかね・・・あんなエンディングでいいんですか。・・・あれれ?、そういう分析はしばしば行なわれると・・・今調べてみたらウィキペディアに書いてあるじゃないですか!なんなんですか。やめてくださいよもう。
今回の堂々としたフラッカーロの歌唱には、旧態依然としたドラマトゥルギーを排した21世紀らしい重厚でありながら輝く色彩を帯びるというような、いわばフラットで解像度の高いものが提示されていたと思う。20世紀が比較対象にならない、そういうものだった。格調があった。にわかクラシック小僧のニセコロッシが笑止千万という皆さまにおかれましてはCD、LP、SPとりまぜての名盤ライブラリーで自由にお過ごしいただいて、今現在からトップギア状態で邁進している音楽たちとわたしは手をとりあいたい。You Tubeで数ヶ月前のフラッカーロの歌唱を聴いたが、別人のような今回の来日公演の抑制の効かせかただったことがわかる。オペラ歌手審議委員会があれば満場一致で大関昇進が決まった、そういう公演だった。
日本代表というわけではないが、焦点である召使リューを演じた浜田理恵にも他には代えられない声質を伴ったすばらしい歌唱だったことを、あとその切ない美貌を記しておきたい。ああ、おれは恋をしたような気持ちになる。
舞台の設定が中国の外国人租界のような1920年代の風景なのだけど、おれの目にはまるで『千と千尋の神隠し』の世界が投影されていた。それはそれで夢のような時間・・・。夢のようであることは重要で、島田雅彦のNHK教育テレビ知るを楽しむ「オペラ偏愛主義」でひとつの知見を得ていた。オペラは眠たくなっていいもの、ストーリーの整合に囚われてはならない、それは無意識に働きかける音楽体験であるからで、なるほど召使リューの健気な振舞いと「誰も寝てはならぬ」の旋律に宿った強度と幻想の中華大陸の光景とで、ただただ切なくなって胸がいっぱいになり、うまく理由付けができない哀しみに浸された時間に佇んだおれはそれでよかったのだった。ありがとうプッチーニ。
日本テレビ 「深夜の音楽会」公開録画
読売交響楽団 指揮:沼尻竜典 ソプラノ:大岩千穂
2008年10月24日(金) 昭和女子大学人見記念講堂
・モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
・三善 晃:ノエシス〜オーケストラのための
・ワーグナー:楽劇<ニュルンベルクのマイスタージンガー>第一幕への前奏曲
・R.シュトラウス:歌劇<サロメ>から「7つのヴェールの踊り」「サロメのモノローグ」
お目当てはもちろん三善せんせの「ノエシス」。よみ響は手堅いな。指揮の我らが沼尻竜典、わし今日アナウンサが「ぬまじりりゅうすけ」と発音したんでナニまちごうてんねんと突っ込みを入れたくなってたけど、わしがまちごうてた。はずかし。でも「タツノリ!」のほうがあんさんらしいで。このところ全身全霊でベタ100のがんばりを見せる沼尻兄、と、手堅いよみ響による、さすがの「ノエシス」、に、注文をつけるところがないといえばないのだけど・・・、サムシングがはじけないのはどうしてなんだろう。おれ思うに、ねえ、モダンジャズのウィントン・マルサリスのような「これはこうなんだよ、みんな!」という上から目線の意識がないですか?一刻でも早く聴衆にわかってもらいたい焦り、みたいなの。一線を越える表現、というものには、破綻に触れそうになってしまうような、マイナスな成分、それは毒というものかもしれないし、甘味における塩なのかもしれないし、体調不良のトランス状態が引き込むマジックとか、うまく名指すことができないが、ひとことで言えば「傷」というか。卵子は精子によって傷つけられて生命が誕生する、それと同じく。普段運転し慣れていないオケに万全の横綱相撲で挑んで仕上げた取り組みみたいに、サムシングがはじけない、そう聴いてしまいました。この日のプログラムのあんばいとも相関していたか。そんなことを書くと、ないものねだりをしているみたいですいません。ほか。ライブで聴けるとは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、幼少期が懐かしくて嬉しくて至福でありました。なるほど、ワーグナーもシュトラウスも、いまのわたくしにはどっかーんうっとりでオッケーな性格の楽曲なので、ないものねだりも何もないのでした。