
トリフォニーホール≪ゴルトベルク変奏曲≫2009
イシドロ・バリオ
2009年2月17日(火) すみだトリフォニーホール
ソレル/ソナタ ヘ長調KIB.22
ロンド ヘ長調KIB.23
ソナタ ニ長調KIB.21
ソナタ イ長調KIB.28
J.S.バッハ/ゴルトベルク変奏曲 ト長調BWV988
昨年6月のシェプキンの衝撃(本コラム028参照)、つい昨日のよう。の、トリフォニーのゴルトベルク・シリーズの続編に出かけた。母国スペイン18世紀の作曲家アントニオ・ソレルを弾いた演奏によって注目を集め、ゴルトベルクの録音で評価を確立したというイシドロ・バリオが、天衣無縫、熱く激しいピアニズムという触れ込みで初来日。・・・Isidro Barrioでぐぐるとソレルを弾く動画があった。なるほど、ね、これは魅惑的です。が!コンサートで聴いたソレルの演奏は気負いのせいか指運びが揺れているようで、ちょっと精細を欠いていたようです。
思いっきり期待したゴルトベルクの演奏、も。なにか自信なさげで、天衣無縫と言うよりも、酔ってませんと言いわけしている酔いどれのような指さばきで、「う・・・、これって、下手なんじゃないのか?」と思わされてしまうだめだめな滑り出し。だけど、下手ではないのだ。なにか、どもりやなまりのクセみたいな個性によって一貫しているものがあった。なんだろ、なんだろ、と、思っているうちに演奏は終わってしまった。
アンコールになって弾いたファリャとトゥリーナの曲、どちらもスペインの作曲家だ、とは、あとで調べてわかった、の、スパニッシュだましい満載の見事な演奏にハッとする。スバラシイ!ブラボー!あ、そうか、彼の演奏はフラメンコだったのか!と気づいたのも後の祭り。ざざっと記憶を巻き戻してバリオのゴルトベルクを解釈しなおしてみると・・・あながち悪い演奏でもなかったんじゃないだろうか?・・・。あと。アンコールの3つ目の即興演奏は・・・即興リスナーの耳からすると、ちとがっかりなり。
聴いているときはよくわからなくて、あとから演奏を思い出して納得する。
そういうしちめんどうくさいことをさせるあたりは、バリオの入り組んだ野望だったか。最前列のオバちゃんに熱い抱擁をアピールするスペイン魂には、パンフレットでヒゲを尖らせて威嚇してこっちを向いていた人物と同一なのか、その落差に、ほろっといとおしくなってしまいました。
関係ない話をするけど、パット・メセニーの代表曲のひとつ「ファースト・サークル」がフラメンコだ!と、気づいたのか、誰かから指摘されたのか忘れてしまったけど、そう指摘されてしまうと音楽の謎が失われるようでとてもがっかりなところがあります。バリオさんも、フラメンコだと安易なことを言われるといやかもしれません。
新しいうたを創る会 第14回演奏会
〜出遭いつむがれる声の種々相〜
2009年2月20日(金) 四谷区民ホール
波多野睦美(ソプラノ)、田中信昭(指揮)、中島香(ピアノ)、新しい合唱団
松平頼暁 : Le Tombeau de Olga Brodsky オルガ・ブロスキーの墓 2007
高橋悠治 : 「夜、雨、寒さ」 無伴奏混声アンサンブルのために 2006 委嘱作品
EZLN(サパティスタ民族解放軍)副司令マルコスの語るマヤの神話『密林のことば』から
間宮芳生 : 「焼かれた魚」 小熊秀雄作の童話による独唱・合唱とピアノのための
2008新しい合唱団+新しいうたを創る会委嘱新作 初演
柴田南雄の『王様の耳』(青土社1986)をむかし読んではいて。雑誌のコラム名を考えていたときに、その執筆のためにロヴァ・サキソフォン・カルテットを聴きに出かけられない事態となったところから「ロヴァの耳」というタイトルを思いついていたこともありました。あらためて『王様の耳』を読むと、中島健蔵の密葬(1979)で松村禎三作曲『暁の賛歌』が流れていた、とか、中島健蔵は三善晃『レクイエム』初演時に誰よりも力強い絶賛をした、という記述に、目が奪われます。「北越戯譚」というページでは、柴田さんと田中信昭さんが子どもたちとわらべ唄を基調にした作品を創りあげている様子が書かれている。
田中信昭さんが1991年に創立した新しいうたを創る会の公演を聴いた。
松平頼暁の曲は、詩と図形と指示によってシステマチックに読まれる音声、といった作品で、こういう実験くんのコンポジションについては、正直、わけわかんない。はて?と、聴いていると、偶然にステージと左右の読み手の音声が、ハッと反射的な快楽を耳に残してゆく。それはそれで予想外の面白味と言えるのだろうけれども、だけど、そのためにこの構成が必要であるか、というと・・・、なんとなく労多くして、という気がしないでもない。合唱と詩、意味をシステマチックに分解する、のだろうか。なんかのアンチテーゼ。たとえば高橋悠治?この手法は新しく、は、ない気がする。2007年に、こう作曲する、・・・理由、・・・理由は必要か?・・・よくわかりません。でもこの作品、08年2月17日「現代の音楽展2008 現代合唱の領域II」に出品されているもので、ううむ、現代合唱の領域にはまだ手が、耳が届かないのかもしれません。
高橋悠治の曲は、歌になっていた。合唱になっていた。不思議なハーモニーがあちこちに聴こえ、この日のほかの二人の作品と決定的に和音の狙いの次元が異なっていたように聴いた。合唱のハーモニーも得意なのか、高橋悠治。作曲ノートを読むと、演奏者の自発性と協同作業によってつくりあげるプロセスとしての音楽、とある。あらま、高橋悠治が狙いすましてハーモニーを造形したのではないのですね。合唱団のみなさんのちからによるもの?でもコンポジションにも負っているとも言えるわけだし。歌声がぐるぐる回って聴こえてとても素晴らしかった。
サパティスタ民族解放軍、といっても、帰ってグーグルで検索しなければわかりませんでしたけど、この「夜、雨、寒さ」という詩・・・。
http://www.suigyu.com/yuji/ja-works.html
このサイトで作品に触れてください。神々はとっくに死んだ、生きるために、が、最後のフレーズ。
おれ、子どもの頃、神々みたいのがいたように思い出す。副司令マルコスがこの詩を、借り物ではないこのコトバを、自分の言葉として発する、そういう精神のありよう、を、想像してみる。世界がどのように見え始めた生なのか。・・・ちょっとおおげさかもしれませんが。空想ではなく、想像してみる。リアルなものとして想像してみる。そうするとき、その精神といったものを想像してみるとき、私はどこかで彼になっているかもしれない、と、思い、彼は彼ではなく、わたしであったりしはじめる・・・。
休憩時間。ロビーで、小熊秀雄(おぐまひでお)の詩集が売っている。あと2冊しかない。2せんえんする。2せん4ひゃくえんしかない。たばこも切れかかっている。これから夜勤のメシ代も要る。でも、今買っておかないと出会いそこねる気がする。おれ忘れぽいし。おじさん、この詩集ください。ああ、また持ちゼニ使いはたしてしもうた。
小熊秀雄の詩。おれも北海道出身だ。おれは炭鉱夫の孫だ。小熊秀雄は、小熊秀雄こそはパンクだ。無鉄砲だ。純粋な魂だ。マヤコフスキーの影響もあったか。ウィキペディアで調べたら小熊秀雄はSFマンガの先駆者でもあったともいう。
間宮芳生が題材にした童話「焼けた魚」、この童話はアーサー・ビナードの翻訳英文がついて06年パロル舎から絵本になってもいる。焼けた魚が最後に海に向かいたくて、からだの一部を差し出しながらいろんな動物にたのんで海まで運んでもらおうとする哀しいお話だ。
ステージは大きな紙芝居をしながら合唱を聴く、というスタイル。合唱は、なにか、大きな物語を描くちからがあるように感じる。哀しい主人公の魚に対する思惟といったものが、その後何日間も耳から離れなかった。この童話に宿った、小熊秀雄の精神といったものもまた。
紀尾井の室内楽 vol.14
藤村実穂子リーダー・アーベント
〜ドイツ・ロマン派の心をうたう〜
2009年3月3日(火) 紀尾井ホール
藤村実穂子(メゾ・ソプラノ) ロジャー・ヴィニョールズ(ピアノ)
シューベルト:泉に寄せて D530(M.クラディウス)、春に D882(E.シュルツ)、ギリシャの神々 D677b(F.v.シラー)、泉のほとりの若者 D300(J.G.v.サリス・セーヴィス)、春の想いD686b(L.ウーラント)
ワーグナー:ヴェーゼンドンク歌曲集 [ 天使/止まれ/温室で/痛み/夢 ]
R.シュトラウス:私の想いのすべてOp.21-1(F.ダーン)、君は心の冠 Op.21-2(F.ダーン)、ダリア Op.10-4(H.v.ギルム)、私の心は黙り、冷たい Op.19-6(A.F.v.ジャック)、二人の秘密をなぜ隠すのか Op.19-4(A.F.v.ジャック)
マーラー:リュッケルトの5つの歌 [ あなたが美しさゆえに愛するのなら/私の歌を見ないで/私は優しい 香りを吸い込んだ/真夜中に/私はこの世から姿を消した ]
*アンコール
シューベルト:夕映えのなかに D.799
R.シュトラウス:モルゲン(明日の朝に) Op.27−4
紀尾井ホールの前から2列目。なんだか今日はいい予感がする・・・。寒い雨が降るひなまつり。ホールの天井を高く見上げる。オペラ歌手のリサイタルは初めてだ。おいらの体験的な参照はこないだの二期会ロシア歌曲研究会第12回定期演奏会(当コラム<039>)、「われ作曲家キュイとソプラノ平山恭子を発見せり!」と心躍ったコンサートかな。
スタインウェイが置かれている。藤村実穂子と白人老紳士が登場。厳かな拍手、高まる一瞬。シューベルトの歌曲「泉によせて」が始まる。第一声、ピアノの第一音、で、時間の感覚を失うような空間に意識が支配される。こ、これはすごい・・・。その抑制された表現、と、能の舞台を観ているような、静寂に内在する制御された大きなポテンシャル、に、耳が釘付けになる。シューベルトに耽溺しない闘争のようにも受信し得るすばらしいものだ。
こ、これがホンモノか・・・。鋼鉄のような表現力に圧倒された前半。・・・ごめん、鋼鉄のような表現力、って、つい書いてしまったけれど、一切否定的なところはないのだよ。威厳、気品、なんて形容は平凡だ。強靭かつ壮大なものだ。
前半が終わったとき、おれは半身を乗り出して拍手した。夢中になって拍手した。ホール全体の拍手は少なくないか?おい、みんな、耳は大丈夫か?と、不思議な感じもした。拍手している最中に、ぶぜんと席を立ついかにもオペラ歌手してました的なおばさんがいた。あれれ?おれはもう拍手に自信を持って、拍手のブラボーを送り続けた。それで。前半が終わって休憩時間、ホールの外へ水を飲もうと会場の後方へ歩いてゆくと。後方に一列、ずらりと並んだ美しいおばさまたちの観客、そのオーラからオペラ歌手だとおれは直感したが、そのおばさんたち、みな顔面蒼白となって無口になっているのであった。藤村実穂子の凱旋公演は、わが国のオペラ歌手たちにとって黒船のようであったか。でもね、二期会のみなさんの歌唱世界はかけがえのない独自なものがあるので、彼女に対抗しようとしたり落ち込む必要はぜんぜん無いと思う。むしろ、かの地の土壌でここまでのホンモノを獲得した藤村をすなおに讃えるべきだ。
前半が終わって藤村実穂子がステージを立ち去る様子は、客席のほうをじっとにらみつけながら歩いてゆくというスタイルだった。それがヨーロッパ・スタイルなのかなと思っていたけど。「どうだ!」と言わんばかりのものであったか。でも、その強い気持ちに相応しい歌唱であったから、むしろすがすがしいものを感じた。
後半は、前半とはまた別人のような^になって、情緒纏綿としたシュトラウス。・・・み、見事すぎる。
強靭かつ壮大な鋼鉄のような前半に、後半ではさらに情緒纏綿が加わって、どうも、これ以上の“素晴らしさ”を形容するちからはぼくにはない。もちろん、こういうコンサートの体験は、CDなんかには収まるわけがないので、みなさんには是非とも次回の来日公演で体験してほしいと思うばかりです。
おっとー。なんですかなんですか、彼女はコーネリアス小山田圭吾とともに今年のグラミー賞にノミネートされてされているほどの存在なのですね。・・・でしょー!そうでしょう?グラミー賞と、おいらのピーピコ賞はばっちり一致してるんですから。自信がつくなあ。
『金柑少年』
演出・振付・デザイン 天児牛大(山海塾)
2009年3月7日(土) 東京芸術劇場 中ホール
白粉(おしろい)を塗った前衛舞踏集団である山海塾の存在を、テレビで観たことはある。山海塾の『金柑少年』を観てくる。パリで公演したとか、ニューヨークタイムスで絶賛されたとか、伝説の舞踏、とか、言われている。ナマで彼らを観るのは初めて。照明が落とされて、目を見開いているのに真っ暗、という状態で開演。
ああ、異界というのはここのことだったか。あの登場人物はワタシの夢だったか。観終わってから、いろいろ気付く。
あの世界は、あの身動きは、あの無の想念は、あの存在自体は、ワタシの原初的な存在の蠢き、に、かたちを与えるようであった。この舞踏によって、ワタシはかたちを与えられたのだろう。途方も無くなつかしく、血の味がするものであった。
おれは当初、こんな直観を持った。おしろいを塗ったスキンヘッドの人物は、肌色という生命感を無くし、無名の存在となり、それは死者であり、修行僧であり、スペル星人であろうか。スペル星人もゴジラも被爆怪獣という定義をされるが、その受容は対照的である。無念の死を強いられた被爆者、という視点を、山海塾という存在に適用したい。1961年生まれの、ウルトラマンやゴジラは音楽以前のバックボーンである世代の直観だが。この類推は破棄しよう。この表現を、現実界の解釈ゲームへ陥れる矮小化に過ぎないとも思われる。
しかしながら、欧米人の山海塾に対する衝撃は、おれが感じるなつかしさとは一致しているだろうか。
舞台の一幕に、孔雀が登場した。この日の孔雀の身動きの完璧さは何だったのだ?ステージを静かに歩きまわる動作、舞踏者とのコンビネーション、不思議なくらいに見事だった。
<音楽>
さて。この『金柑少年』の音楽について。マイルスとかサンタナとかクラウスシュルツとか、なつかしいレコードが使われていたのだなー、と、思っていたら、実は違ったのだ。
音楽担当の吉川洋一郎さんが、ここで記している。「番外編:東京 <金柑少年>の音楽のこと」
http://www.io-factory.com/html_ja/index_ja.html
これ、実にむずかしいモンダイをはらんでいるように感じるのですが。真贋のはざまに。オリジナルとほとんど同じものを作ってしまったという。
<参照>
岩城京子さんが特別寄稿「清冽な狂気、またの名を魂の創作衝動」を記している。
http://festival-tokyo.jp/program/kumquat/contribute.html
<別稿>
幼い頃からおいらの上のむすめは医薬品のキンカンが大好き。池袋で金柑少年を観終って有楽町線に乗ったら「ごはんたべに連れてって」と娘からメールがあったので、金柑少年を観て、キンカン少女に会った、と、おれはこの日のことを憶えておく。
「全身に白粉(おしろい)をまぶしたはだかのスキンヘッドにしたオトコだけが出てきて踊る舞踏だよ」「おちんこは?」「ガーゼの袋に収めてある」「おっきくなったりは・・・」「しないっ!(怒)」「それにしても就職活動はたいへんだよー」「どんな会社受けてきた?」「今日は築地で朝3時すぎから働くような生鮮卸しの会社」「あ、築地といえば、その舞踏の舞台にはマグロの尾が1200個もかつては使われていてな。最初は築地からタダでもらってきていたんだけど、築地の業者もこれはなにか怪しいと1個5円の値段がついてしまったんだそうだ」「安いね!」「この舞踏の初演は78年だからね」「31年も前なのに前衛なの?」「31年前だから前衛なの」「マグロの尾が1200個もぶら下がっている舞台って、臭くない?」「うん、潮の香りでもあり、生臭くもあり、だったそう。今回の公演ではマグロの尾がデザインされた壁だった」「実物とデザインじゃずいぶん違うんじゃない?」「たぶん・・・ね」
益田正洋ギター・リサイタル(東京オペラシティリサイタルシリーズB→C バッハからコンテンポラリーへ no.111)
2009年4月14日(火) 東京オペラシティ リサイタルホール
J.S.バッハ:リュート組曲 ホ長調 BWV1006a (原曲:《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番》ホ長調)
G.F.ヘンデル(福田進一編):ソナタ op.1-15 (原曲:《ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ》)
J.S.バッハ:《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番》ニ短調 BWV1004から「シャコンヌ」
H.ヴィラ=ロボス:5つのプレリュード
M.ダン:アパラチアの夏(2005)
L.ブローウェル:ソナタ(1990)
[アンコール]
ヴィラ=ロボス:ブラジル民謡組曲より「マズルカ」「ショーロ」
ヴィラ=ロボス:12のエチュードより 第1番
息を呑んだ・・・こ、これは福田進一を上回る官能的なタッチだ・・・!手に汗を握ったのは冒頭の3分だった。だけど夢のようなタッチ、は、そのあと、うまく音楽の波に乗らないようだった。益田は暴投しまくるダルビッシュかもしれない。
ブローウェルは聴かせた。
ヘヴィなプログラムだったので・・・、なんて言わないでほしい。スッと、音の響きで瞬殺してほしい。あの冒頭の3分で感じさせた、軽いフットワークで柔らかく羽根が音符を並べるような、これまで聴いたことのない感じ、を、1曲完結させてくれればいいのだ。短い30分くらいのコンサートでもいいじゃないか。
日本一上手いのは山下和仁だろうが、益田正洋はそのラインのギタリストではない。しかし、とんでもなく陶酔的なフレーズを奏でることができるギタリストだ。コンサート全体は、まだまだ上がある出来だったけれど、この才能の片鱗には注目だ。会場にはちょい太おやじになった福田進一も来ていたが、一瞬ヒヤッとしていたことだろうと思う。
おれは97年頃に要町にある現代ギター社のホールに何度か通っていた。ニフティのECM会議室で、福田進一がラルフ・タウナーの「アクアレル」という曲を取り上げているというのでECMオタクのおいらは色めいたのだった。生ギターのことを、「アコギ」と言うのをそこで知った。その昔、武満徹がギターの曲を作曲したのを、ギター界の大御所が「こんなムズカシイのは弾けない」とし、現代音楽とギター界の冷戦状態があったのを、福田進一はその卓抜した技能で武満の曲を弾ききって登場し、スターになったのだ、と、きいた。福田進一の演奏に魅了された。生ギターのライブに魅了された。ハンサムな福田はMCで「なんでもナマはいいですよね?」と若い女性の観客にニヤリとして話してカンペキにスベっていたのを見逃さなかった。いくつか現代ギターのコンサートに続けざまに通った。ドイツ人の現代音楽ばかり弾くおっさんにおののいた。村治佳織ちゃんという可愛らしい女の子もデビューするようで、会場で弾いたのを聴いた。CDではアサド兄弟もあった、タウナーの『ANA』もあった。そのひとシーズンで、おれのアコギの熱中は何かの理由で中断した。
アコギ好きのECMファンにきいたら、「今までの日本の演奏家では故渡辺範彦さんが最高ではないか。現在活躍しているギタリストでは、大萩康司、バルエコ、女性ギタリストでは、中国人のXuefei Yangが注目です。」という。そちらのほうも聴いてみたいです。