アブデル=ラーマン・エル=バシャ ピアノリサイタル
2009年4月22日(水) 東京文化会館 小ホール
ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 op.27-2「月光」
ベートーヴェン:ピアノソナタ第21番 ハ長調 op.53「ワルトシュタイン」
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ラフマニノフ:ショパンの主題による変想曲 op.22
アブデル・ラーマン・エル=バシャ(Abdel Rahman El Bacha, 1958年10月23日 - )、アラブ系レバノン人のピアニスト・作曲家。
昨年11月の『ル・ジュルナル・ド・ショパン(ショパンの音楽日記)』で6人のピアニスト、エル=バシャ、ケフェレック、児玉、ジュジュアーノ、バル=シャイ、ヌーブルジェ、を、聴き、見事なまでにこの年令順にピアノの実力が並んでいることが明白であり、上昇する未知数を保持する2名(児玉・ジジュアーノ)にこそおれはピーピコ賞を捧げることにした。うしろの2名はまだまだだ、まずむりだ。あたまの2名(エル=バシャ、ケフェレック)はもう充分に世界的な評価を得ているだろう高みは認めるが、揺らめく炎のような児玉・ジジュアーノの誘惑を上位にとった。
そのとき鉄人と形容した、そのエル=バシャ。彼は、6日間で16回の連続リサイタルを行いすべて暗譜でショパンの独奏曲すべて演奏する、そういう超人的なこと何度もやっているんだそうだ。
11月に披露した規範演技的な涼し気に鉄人ぶりの片鱗を披露したショパン、とは、一味違った、不敵なものを漂わしたコンサートであった。「正確で強めの演奏ならいつでもできる、だが、それでいいのか?おれはおまえらに問いたいのだ、強ければそれでいいのか?正しければそれでいいのか?・・・」と言っているのであった。
強ければそれでいいんだちからさえあればいいんだ、と、「みなし児のバラード」を歌ったのは昭和40年代のテレビアニメ・タイガーマスクであったが、このエル=バシャの孤高さにも同じ位相を感じる。やさぐれた鉄人、というイメージだ。どんなんだ。
手の甲が高く映る。ベートーベンをガンガン打ち付けるように造形してゆくのは、後半のラヴェル、ラフマニノフへの布石であった。石柱が積み上がるようなラヴェル、ラフマニノフ。こういうのを聴いてしまうと、邦人のピアニストのなんと非力に児戯めいて映ることか。こういうピアニストが玄人受けするピアニストというのだろう。
「コンサートホールを楽器にしてしまう」チカラは確実にある、が、この日のエル=バシャには、どこか翳りがあった。彼は、何と格闘しているのだろう。来日公演で日程が詰まっていたからでもなさそうな、うっすらとした疲労の色彩に、わたしは感動しながらもとまどっていた。
タイガーマスクに変身してない伊達直人のようにおのれのピアニズムに苦悩しながら孤児院へ寄付を続けてたりしているのだろうか。
東京ニューシティ管弦楽団 第61回定期演奏会
2009年4月24日(金) 東京芸術劇場 大ホール
指揮:村中大祐 ヴァイオリン:漆原朝子 コンサートミストレス:鈴木順子
メンデルスゾーン:序曲「美しきメルジーネの物語」
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
シューベルト:交響曲第7番ハ長調「ザ・グレート」
いまだ明治学院チャペルでのすばらしい指揮の記憶の鮮やかな樋口隆一さんがプログラムの解説を書いている。メンデルスゾーンのこの曲について、「ヘ長調、4分の6拍子の序奏は、シューマンが「魔法の波の音型」と呼んだ分散和音で始まるが、ワーグナーはこれをそのまま楽劇《ラインの黄金》において、水底から立ち上がる泡の表現として用いている。」聴く前に読んどいてよかった。ほおお。なんか勉強になるなあ。最近、メンデルスゾーンがとても好みです。
ベルクの「ある天使の思い出に」は、かなり最初に聴いた現代音楽の作品でした。誰の演奏だったのだろう。少女の横顔の青いジャケでした。最近、クレーメルのも聴いた。この日の演奏は漆原朝子さんです。透明で柔らかい色調の音色、しっかりとした高音の表現に魅せられました。オケとのコンビネーションは、もうワンランク上があるかな、という手堅い出来。生で聴ける醍醐味を充分味わうことができました。
シューベルトの「ザ・グレート」は初めて聴く。なんか、こう、退屈な曲だ。大好きな歌曲やピアノソナタのシューベルトを探してしまうからなのか、おいらの探し方が悪いのか、そもそも探すことが間違っているのか、さっぱりわからないままで聴き続ける。待てど暮らせど。がくーっと疲れて帰ってきましたが、シューベルトに「出直して来なさい!」と言われたような気もする。この日の指揮者が一本調子に感じられた、というのも影響しているか。いや、曲が良くない。え?やはりおいらの偏向耳が良くないのだろうか。
高橋アキ ピアノ・ドラマティックVI:シューベルト三大遺作ソナタを弾く!
2009年4月27日(月) 東京文化会館 小ホール
シューベルト: ソナタ第19番 ハ短調 D.958
シューベルト: ソナタ第20番 イ長調 D.959
シューベルト: ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
わずか、に、ためらうような、右手のラインが彼女の武器、驚くことなかれ。譜面と指に、演算する知性、の、檻(おり)が左手。
アファナシエフも91年に同じプログラムでサントリーホールを響かせたことがあった。
D960の特別な演奏。
このコンポジションに対する演奏史的な革命はアファナシエフのECM盤によってなされた。
それを参照点にしないわけにはゆかない道程にあって、彼女のドラマは透明である。
言うなれば、アファナシエフにあった西洋の廃頽、死の予感、地獄のトリルを、放たないという特質、と、いったんは書き留める。
高橋アキを観ながら、演奏する背中から肩、頭のゆらぎ具合が高橋悠治に似ているのに気付く。ふたりは兄妹なのだっけ?彼女のほうは、兄のように跳躍力に指を任せないでいる。そんな残酷なことはあってはならない、と、スコアを見つめ続ける精神力に、わなわなと震えんばかりであろうところの厳しさを耐えるようである。
高橋悠治のピアノ演奏は何度も観た。高橋アキは初めてだ。悠治は言ったのだろうか、「おい、アキ、たまには兄ちゃんみたいに古典を弾いて観客を驚かせてしまえ、シューベルトはどうだ」。悠治のピアノは上手すぎる、ゆえに、その感覚的過剰が天衣無縫な天才となって刻まれてしまう。譜面からの跳躍力がずば抜けているのだ。それはより危険な跳躍のように感じる。
高橋アキの厳しい音へのまなざし、が、シューベルトを古典的でありながら新しいものへと蘇らせている、2009年の現在だ。
ピリスもアファナシエフも聴いた、だけど、いま聴きたいのは高橋アキのD960だ、と、その響きの射程を見据えることはできた。それは東京文化会館のホール全体を揺らすはずのものだけど、どこか片鱗にとどまったような気がする。もう少しで旧来の世界にヒビが入るような予感がする。彼女のシューベルトをもっと聴きたい。この気持ちの欲望こそが現代性なのだとおれは思う。
ガブリエル ピアノ クァルテット日本公演
2009年5月9日(土) 洗足学園音楽大学 前田ホール
金子陽子(Pf.)、フランソワ・ソシャール(Vn.)、マルク・デスモン(Va.)、ルノー・ギュー(Vc.)
L.v.ベートーヴェン/ピアノ四重奏曲 変ホ長調 op.16
香月修/「プレリュード・アリア・フィナーレ」−ピアノ四重奏のための−(委嘱作品・世界初演)
C.サン=サーンス/ピアノ四重奏曲 変ロ長調 op.41
川崎市溝の口、洗足学園音楽大学前田ホールへ、ガブリエル・ピアノ四重奏団を聴きに出かけた。普段乗っていない渋谷からの東急田園都市線、池袋からのメトロ有楽町線にくらべるときれいなおねえさんがたくさん乗っている。いつだか洗足学園がインフルエンザで学級閉鎖になったときに「手を洗ってないからだ」と、そんなオヤジギャクなことを言うようなオトナにはなりたくないです。すてきなキャンパスでした。
柔らかい均整のとれたアンサンブルのスタートに、ふっとコンサート会場の外側へ連れてゆかれてしまった心境になった。この曲はだれの?とパンフを見て、これがベートーヴェンなの?と思う未熟なわたし、ベートーヴェンの室内楽ってわりとくっきり強めに聴くことが多いという初心者にありがちな先入観、を、その柔らかい4者の音の流れで耳を新しくしてくれる。
それは何か、静かな異議申し立てのようでもあった。柔らかくて、静かに軽いフットワーク。対話する、意見交換する、そこから演奏を作り上げてゆく、そこに魔法がかかったような一瞬が生まれる、と、代表の金子陽子が書いてあることが、そのまま反映している。おいらはどこかで、4つの楽器の音がキンキンに張り詰めたもの、糸が張りめぐらされていて、一糸乱れてない一体感、緊張の弛み・ゆらぎ、を、極上とする評価基準を設けていたふしがある。
これが、フランス音楽のナチュラルかつ自由な強度のある表現様式なのだろうか。こういうのは、メソッドとして学習するものではなく、フランスという風土と生活と言葉の中で空気のように伝播・伝授されるものだと感じる。アカデミーではなく私塾のような環境で受け渡されるもの。
なんか自分の聴取がふらふらにマッサージされて、生まれかわるような、よるべない不安な気持ちと、まだまだ音楽の深みは道のりはるか見渡す限りに続いているのを眺めるような、気持ちになる。
クラシックの審美にも、ドイツ、フランス、イタリアなど、そのカテゴリーで歴史的に組み上げられている感性、それは、そう簡単には手に入らない。コンポーザーで振り分ければ、その色彩はわかりやすい。しかし、その演奏の生成する感性といったものはじつに多彩で、そう簡単に優劣や強弱を断ずることはできないということ。どまどって揺れるような感動を受けながら、おれは、演奏のことを書くのって怖ええな、と、口を真一文字にしながら溝の口駅までの歩道を踏みしめて帰ってきた。
米谷彩子ヴァイオリンリサイタル
2009年5月10日(日) 紀尾井ホール
米谷彩子(ヴァイオリン) 寺嶋陸也(ピアノ)
シューベルト:華麗なロンド ロ短調 D895 Op.70
ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第10番ト長調 Op.96
ペルト:フラトレス
ファリャ:スペイン民謡より
レスピーギ:ヴァイオリンソナタロ短調
柔らかく朗々と弾く米谷のヴァイオリンに、寺嶋の硬質で的確なピアノが輪郭を与えてゆく。とても対照的なデュオは、寺嶋の確信のこもったピアノの造形のちからについ耳が引き寄せられて、寺嶋を聴き続けるようになってしまうおれ。寺嶋のピアノに米谷のヴァイオリンは対抗し切れていないというか、決して寺嶋は独走力演しているわけではない、音楽の輪郭をくっきりとさせるように的確にサポートしているものであるのに、そこを土台に前に出てゆかなければならないヴァイオリンが優しすぎるようだ。
お目当てのペルト作曲「フラトレス」。今や毎年のごとく表彰される世界的なレーベルECMの、クラシック第一弾として世に出た『アルヴォ・ペルト:タブラ・ラサ』(1984)の1曲目、ギドン・クレーメルのヴァイオリンとキース・ジャレットのピアノ、瞠目すべき初共演で、いわばこの曲で、クラシックの世界は一変したのだ。クレーメルとジャレットに比べられるのは酷なはなしではある。伴奏を米谷にしてしまって、寺嶋はじつに寺嶋らしくクールで、ジャレットのように耽溺しない、沈黙に降り立つような「フラトレス」を演奏した。米谷のヴァイオリンも力演だった。
米谷のヴァイオリンの明るさは、彼女が活動するアメリカによるものなのかな、と、あとから考えました。
寺嶋陸也は追っかけなければならないです、みなさん。寺嶋さんのサイトhttp://www.gregorio.jp/terashima/でチェックしましょう。