デレク・ベイリー Derek Bailey 1930—2005 Photo: Courtesy of European Free Improvisation Pages http://www.shef.ac.uk/misc/rec/ps/efi/efhome.html |
追悼 デレク・ベイリー ■『デレク・ベイリーそしてSABU、ブロッツマン〜「足穂」の想いで』望月由美 ■デレク・ベイリー・インタヴュー |
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text+photo 望月由美
デレクの訃報を知ったのは某Web siteだった。やっぱり、と思った。昨年(2005年)の夏、SABU(豊住芳三郎)がジョン・ラッセルのプロデユースによりロンドンの「MOPOMOSO」フェステイヴァルで“SABU TOYOZUMI PROJECT”を行うことになったと知らせてくれた。そのときのプログラムにはエヴァン・パーカー、フィル・ミントン、ポウル・ラザフォード等、錚錚たる即興芸術家達の名前が連ねられていた。しかし英国を代表するデレクの名前がなかった。SABUに聞いた。「いま、スペインに行っちゃっているんだよね。それと、あんまり体調がよくないみたい」それから5ヶ月、またひとつ神秘が消えてゆく。
1987年11月19日(木)の夜、SABUに招かれて新宿から小田急線でたっぷり1時間、大和駅近くのジャズ・バー「足穂」を訪れた。80年代はフリー・フォーム・ミュージシャンの交流が盛んで、SABUもJ・ゾーン、N・ローゼンバーグ、M・メンゲルベルク、L・スミス、F・V・ホーフ、H・ライヒェル、等々多くのミュージシャンをたて続けに招聘しフリー・インプロビゼーションを目の当たりに繰り広げてくれていた、そんな時期の一夜である。デレクにとっては、故間章さん、舞踏家田中泯さんの招聘に続いて3回目の来日であった。SABU 42歳、デレク 55歳。そしてもう一人ペーター・ブロッツマンがジョイント、3人の一夜かぎりのパフォームであった。 フラノのズボンにツイードのジャケット、黒いカシミアのセーターに真紅のマフラーを纏って入ってきた長身のデレクはいかにもお洒落な英国紳士といった佇まいを漂わせていたのがいまでも鮮烈に残っている。
楽器は生ギターとエレクトロニクスのセット。この夜はブロッツマンも加わるということもあってか店内は超満員、急遽裏のキッチンが控え室に使われた。いざ本番という時には、ファイブ・スポットのコルトレーンさながらSABUもブロッツマンもカウンターごしに飛び降りて自分の場所に着いた。 デレクは最初に生ギターのソロでしっとりと聴かせ、続いてブロッツマンとのデユオ、SABUとのデユオ、最後にデレク、ブロッツマン、SABU3人で演奏、すべてが即興であった。
「どこでもデレクはワンステージ構成を好んだね、自分のソロから始まってデュオ、トリオというフォーマットになるんだよね」 「いわゆる日本流の打ち上げは嫌いね、ステージが終われば直ぐホテルに戻っちゃうんだ」 SABUは招聘したミュージシャンは自宅に泊めてもてなし、一緒に行をともにして交流を深めるのが常であったが、デレクの場合、SABU家へのホームステイはせずにホテル住まいをしていたということである。 「食事はミックス・サンドとスパゲッテイしか食べなかったよ、あと、リンゴはよく食べていたね」 「それから、喫茶店みたいな雰囲気は嫌いでね、ホテルのラウンジみたいな広い空間で紅茶を2〜3杯飲むんだよ」 SABUは思いを噛みしめるかのように熱く語る。 「デレクを呼んで一緒に演ったことはよかったね、プロのミュージシャンだって聴いているだけではなく一緒にプレイしてこそ解ることも沢山あるんだよね」 「理論も、ノートも、開放も、始めは手探り状態があってもあとからずっしりとくるんだよね」 「それが本当に凄いミュージシャンなんだよ」 写真はすべて当夜の「足穂」でのものである。8ミリビデオも撮影したことを思い出し古いデッキを探し出して電源を入れてみた。ランプが点灯しない、8ミリデッキも永眠してしまったのである・・・デレク・ベイリー・フォーエヴァー。(2006.1.8)
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