UPDATED 8.30.2015

追悼 菊地雅章
R.I.P.: Masabumi “Poo” Kikuchi (1939-2015)

追悼 菊地雅章 Masabumi “Poo” Kikuchi 1939-2015
photo: Arne Reimer/ECM Records


菊地雅章 ピアニスト/コンポーザー

1939年、東京都生まれ。太平洋戦争中に福島県会津若松市に疎開、第2の故郷となる。6歳でピアノを始め、東京芸大付属高校作曲家に学び、18歳でプロとして活動開始。1960年には金井英人(b)、富樫雅彦(ds)と共に高柳昌行(g)の「ジャズ・アカデミーに参加、ジャズの方向性を探る。1960年代にはビッグバンドのピアニストとして美空ひばりとも共演。1966年、渡辺貞夫のグループに参加、1968年、日野皓正とクインテットを結成、アルバムを制作、両人とは終生を通じた付合いとなる。同年、ソニー・ロリンズの日本ツアーにも帯同した後、バークリー音大に留学するも翌年帰国。1970年、滞日中のゲイリー・ピーコックと親交を結び、『Voices』『銀界』など4枚のアルバムを制作、90年代のトリオ「テザード・ムーン」につながる。1972年、日本で結成されたギル・エヴァンス・オーケストラ(GEO)でギルと共演以来、70~80年代のGEOへの参加など終生の親交を結ぶ。1972年渡米しエルヴィン・ジョーンズのグループに参加、『Hollow Out』を録音、帰国したが翌1973年NY移住を決意、渡米する。1980~81年、エレクトリック・マイルスを源流とするアルバム『ススト』『ワン・ウエイ・トラベラー』を制作、大反響を呼び、1987年結成のライヴバンドAAOBB(オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギバンド)へと展開する。1983年頃から、シンセサイザーに集中、プログラミングとインプロヴィゼーション、ライヴ・ミックスを合わせた新しい手法「リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマン」を開発、1989年までに“サウンド・スカルプチュア”シリーズとして映像のための多くの作品を制作する。1990年、ゲイリー・ピーコック、ポール・モチアンとのトリオ「テザード・ムーン」の活動を開始、多くのアルバムを制作する。モチアンとの親交はモチアン・グループでのクラブ・ギグ、ライヴ録音、さらには、ECMへのトリオ録音『サンライズ』へと継続した。
一方で、2002年頃から自宅ロフトでソロによる「at home project」を始め、従来のジャズのイディオムに囚われない独自の音楽の発見、深化に努めていたが、2007年頃からは、トーマス・モーガン(b)、トッド・ニューフェルド(g)とのトリオによるヴァージョンも並行。その成果をソロでは2012年10月のSOUND LIVE TOKYO、TPTトリオは2012年6月ブルーノート東京で披露され、共にリスナーの深い共感を得ることに成功した。


ECM ● Masabuki Kikuchi 1939~2015
Gary Peacock ● A constant source of inspiration for me
村上 寛 ● 厳しく厳しく音楽を、サウンドを探究し続けたPooさん
Dave Liebman ● 完璧なアーチスト
Ethan Iverson ● 日本庭園 追悼 菊地雅章〜もっとも特異なジャズ・ピアニストのひとり
及川公生 ● 俺をインスパイアーさせるサウンドを出せっ!
杉田誠一 ● 「音楽は、人間の“生”のすべてではない」
望月由美 ● あの唸り声も音楽の一部なんだよ!
Andreas Schmidt ● 終わっては、いない
五野 洋 ● Pooさん、またメールします
淡中隆史 ● 「911同時多発テロ」のはじまりをプーさんと見ていた。
新井知行 ● 速くて重い「浮遊」
Sun Chung ● 間違いなくPooは天国にいる
本宿宏明 ● 『山本邦山/銀界』を解剖する
末次安里 ● 菊地雅章を撮る
James Armstrong ● Little Abi
Tod Neufeld ● 彼の様な人間の存在しない世の中の方が信じ難い
Thomas Morgan ● どこまでも正直で妥協を許さない男
多田雅範 ● 菊地雅章TPTトリオ@ブルーノート東京
伏谷佳代 ● Sound Live Tokyo 菊地雅章ピアノ・ソロ
Gene Perla ● もの静かだが意志の強力な男
Paul Bley/Carol Goss ● なんと心の熱い素敵な男なんでしょう
上原基章 ● We Loved Poo Madly
William Spaceman`Patterson ● Pooの思い出
上田 力 ● 期待しよう
内田 修 ● プーさんへ
菊地あび ● 父・菊地雅章
稲岡邦弥 ● Pooさんのこと
杉田誠一 ● 追悼 菊地雅章
(到着順/arrival sequence)

ECM ● Masabuki Kikuchi 1939~2015

Pianist Masabumi Kikuchi, one of jazz’s most original musicians, has died in New York, aged 75. Born in Tokyo, Masabumi Kikuchi, known to musicians everywhere by his nickname Poo, played with Lionel Hampton and Sonny Rollins while still a teenager, and made his recording debut in the early 1960s with Toshiko Akiyoshi and Charlie Mariano. In the 1970s he collaborated with Gil Evans and Elvin Jones and led his own groups, drawing influence from Miles Davis, Duke Ellington and Thelonious Monk, as well as from Stockhausen, Ligeti and Takemitsu. Although he recorded only one studio album for ECM - “Sunrise” released in 2012 - he was an inspiration for musicians associated with the label, including Gary Peacock, Paul Motian and Thomas Morgan, admired for his rigorous individuality and his determined distance from all trends. In his last years Poo began to play a more inner-directed music, pursuing what he termed “floating sound and harmony”, and which he documented on many private recordings. “I’m more free now”, he announced at 70, “because I started believing in myself. When I sit down at the piano I do not prepare what I will play nor do I think about how to play, and I believe I found the way of putting out something new, and I guess I could call it my own”.

ジャズのもっともオリジナルなミュージシャンのひとり、ピアニスト菊地雅章がNYで逝去。享年75。Pooのニックネームで知られる菊地雅章は東京で生まれ、十代の頃からライオネル・ハンプトンやソニー・ロリンズと共演、レコード・デビューは、60年代初期の秋吉敏子とチャーリー・マリアーノ。70年代にはギル・エヴァンスやエルヴィン・ジョーンズと共演した他、自己のグループを率いた。音楽的な影響は、マイルス・デイヴィス、デューク・エリントン、セロニアス・モンクと並んでシュトックハウゼン、リゲティ、武満徹。ECMへの録音は1作(2012年リリースの『サンライズ』)だが、ゲイリー・ピーコック、ポール・モチアン、トーマス・モーガンなどECM関連のミュージシャンにインスピレーションを与えるとともに、その際立った個性といかなる流行からも超然とした姿勢は賞賛の的になっていた。晩年は、さらに内面に向かう志向を見せ、“浮遊する音とハーモニー”を追求、その営為の多くを自ら記録していった。古希(70歳)を迎えたときの彼の語録;“以前にもまして自由になった自分がいる。それは自分自身を信じるようになったからだ。ピアノに向かうときは何を演奏しようかなどと構えることはないし、どのように演奏しようかとも考えない。新しい何かを表出する術(すべ)を見出したと信じているし、それが自分独自のものであるとも思う”。

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Gary Peacock ● A constant source of inspiration for me

I too was saddened to hear of Poo's demise...a fate we all must ultimately encounter.

As you know, it was through Poo that I was able to record two albums for Sony records while living in Japan.

Poo's spirit of musical adventure and strong commitment to discovering his 'sound' remains a constant source of inspiration for me. His last recordings with guitar and bass are true evidence that he DID discover his 'voice'.

I will miss him but I will not miss his spirit which is with me 24/7.

僕にとっての絶えざるインスピレーションの源泉

いつかは僕らの誰もが受け入れざるを得ない運命とはいえ、Pooの逝去を聞き悲嘆に暮れている。

知っての通り、僕が日本に滞在中、2枚のアルバムをソニー・レコードに録音できたのはPooのお陰だ。

Pooの音楽における冒険心、自分の“音”見つけようとする強力な執着心はいつも僕にとってのインスピレーションの源泉だった。彼がギターとベース(訳注:トッド・ニューフェルドg、トーマス・モーガンbによるTPTトリオ)との3人で最後に遺した一連の録音は、彼がついに自分の“ヴォイス”を見つけたという何よりの証拠だ。

彼がいないのは寂しいが、彼のスピリットはつねに僕の中にいる。(ベーシスト)

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村上 寛 ● 厳しく厳しく音楽を、サウンドを探究し続けたPooさん

Pooさん、菊地雅章さんは私が一番影響を受けた音楽家であり、私をミュージシャンとして教え育ててくれた人です。
初めてPooさんに会ったのは銀座ジャンクで、Pooさんバンドがリハやってるから聴きに来いと言われ、行ったところ1、2曲やれと...それがどうもオーディションだったようで しばらくしてあの菊地雅章セクステットで演ることになったのでした。
ここで色々教えてもらい、また、経験させてもらいました。
私の初めてのレコーディングは、 Pooさん、ゲイリー・ピーコックとのトリオでの『East Ward』でした。このトリオでは後に山本邦山さんが加わり『銀界』をレコーディングしています。
他にも、ジョー・ヘンダーソンを迎えてのコンサート、ツアー。ジョニー・ハートマンとのツアーなど、素晴らしい経験をさせてもらいました。
何が一番良かったかと言えば、菊地雅章6に入った当初、毎日と言っていい位 夜中にジャンクでリハをしてたことです。一年くらい続いたかなぁ。

厳しく厳しく音楽を、サウンドを探究し続けたPooさん、本当に本当にありがとうございました!!(ドラマー)

Pooさんとの録音歴(録音順)
・East Ward '70/2/4,5
・Re-Confirmation '70/3/16
・Poo Sun '70/8/22. 9/7,9
・銀界 '70/10/15,20
・Collaboration1,2 70/10/8,13. 11/14
・Dancing Mist in concert '70/11/13
・All about Dancing Mist '70~'71
・Voices 71/4/5
・Paysages '71/6/22
・Joe Henderson, Kikuchi, Hino in concert '71/8/5

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Dave Liebman ● A complete artist

"Poo was one of the most focussed musicians I have known. He was a complete artist who knew what he wanted musically. I had a lot of respect for his efforts and enjoyed the gigs we were playing together with Elvin Jones."
Dave Liebman

デイヴ・リーブマン ● 完璧なアーチスト

Pooは僕の知る中でも最も明確な意志を持ったミュージシャンのひとりだった。つまり、彼は自分がどんな音楽を演奏したいかを認識していた完璧なアーチストだった、ということだ。彼の努力に対しては大いに尊敬の念を抱いていたが、エルヴィン・ジョーンズと共演したギグでは大いに楽しんだ。(ミュージシャン)

Dave Liebman デイヴ・リーブマン サックス奏者

1946年、NYブルックリンの生まれ。9歳でピアノ、12歳でサックスを始め、コルトレーンを生で聴いて本格的にジャズに目覚める。NY大学では歴史学を専攻。在団中はマイルス・デイヴィスの片腕として活躍。自己のグループとしては、Open Sky、Lookout Farm、QUESTなど。2010年、NEAジャズ・マスターに。菊地とはエルヴィン・ジョーンズ・グループ、アルバム『ススト』『ウィッシズ』で共演

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Ethan Iverson

Japanese Garden
RIP Masabumi Kikuchi, one of the most idiosyncratic jazz pianists
Ethan Iverson

When young, Masabumi mastered the modal language and played it with Elvin Jones. A little later he did electric funk with Gil Evans and Miles Davis. He studied composition with Gil, transcribed Alban Berg, hung out with Toru Takemitsu. Eventually, to engage with the Paul Bley tradition, he hired Gary Peacock and Paul Motian. This was the final term paper, for from about the mid-'90s on Masabumi sounded like nobody but himself.
Masabumi was a troubled, combative personality. A real old-school egotistical 20th-century artist of the highest order. His best music has extraordinary vulnerability and corresponding extraordinary magic.

After his champion Paul Motian died it was only a matter of time before Masabumi left as well.

Sitting and listening to Masabumi improvise in his chaotic apartment where the only working item seemed to be a perfectly tuned and maintained concert Steinway will always be a treasured memory.

*Interview with Masabumi Kikuchi;
http://dothemath.typepad.com/dtm/interview-with-masabumi-kikuchi.html

日本庭園
追悼 菊地雅章〜もっとも特異なジャズ・ピアニストのひとり
イーサン・アイヴァーソン

若かりし頃、菊地はモード奏法を会得した上で、エルヴィン・ジョーンズと共演した。しばらくして、菊地はエレクトリック・ファンクをギル・エヴァンス、マイルス・デイヴィスと演奏した。彼は、ギルに付いて作曲を学び、アルバン・ベルクを採譜し、武満徹と時を過ごした。行き着いたところは、ポール・ブレイの伝統。実行するためにゲイリー・ピーコックとポール・モチアンを誘い込んだ。これが終着駅で、90年代中頃以降、菊地の音楽は菊地独自の、誰のものでもなくなった。

菊地はいつも問題を抱えた闘争本能むきだしの性格だった。まさに、自尊心の強い古いタイプの20世紀型だが、まごうことなき第1級のアーチスト。彼の最高の音楽は比類ないほど脆いものだったが、同時に比類ないほどの魔法を秘めていた。

彼の盟主だったポール・モチアンが死んでからは、彼があとを追うことは時間の問題だった。

雑然の極みたる彼のアパート---そこで機能するものといえばつねに完璧に調律されたコンサート・スタインウェイだけのようだったが---で、腰を下ろし彼の即興演奏に耳を傾けることはいつも至上の喜びだったことを思い出す。(ピアニスト)

*インタヴュー by イーサン・アイヴァーソン
http://www.jazztokyo.com/interview/interview116.html

Ethan Iverson イーサン・アイヴァーソン ピアニスト/コンポーザー/批評家

1973年、ウィスコンシン生まれ。マーク・モリス・ダンス・グループの音楽監督を経て、2000年“ポスト・モダン・トリオ”「バッド・プラス」を結成。フレッド・ハーシュ、ソフィア・ロゾフにピアノを学ぶ。菊地雅章に私淑、ロフトに出入りする中でインタヴューを敢行、自身のブログ “ dothemath”に掲載。

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及川公生 ● 俺をインスパイアーさせるサウンドを出せっ!

録音に於いて、マイクロフォンとモニター・スピーカーに強烈な音質思考を持っていた。私が接したミュージシャンの中でも極めて異色の存在。
NYのスタジオにお邪魔した時、今、凝っているのはB&K(現 DPA)だ!無指向の4006Aが最も気に入っていると自らマイキングの仕草を。
これから日本で録音をするスタジオ内の状況から、無指向は無理だな...不安がよぎる。
案の定、東京のスタジオにて心配は的中。富樫雅彦、ゲイリー・ピーコックと、お互いのサウンド空間を共有させるプランは崩壊。それでも、私はブースを使いたくないので、単一指向性の4015A に切り替える承諾を。
しかし、Pooさん、不満そう。
プレイバック中に、俺をインスパイアーさせるサウンドを出せっ!と強烈。
これは、今でも忘れられない。
さらにモニター・スピーカーにまで言及が。Meyer Sound HD-1を手配して欲しいと。手配を終えてスタジオに到着するまで、ピアノのサウンド・チェック。4015A×2をオンマイクで。
この録音は、今で言う「ハイレゾ録音」。96kHzハイサンプリング、DATでも発売された。(録音エンジニア)

及川公生 Kimio Oikawa

1936年福岡県生まれ。FM東海(現 東京FM)技術部を経て独立。大阪万国博・鉄鋼館の音響技術や世界歌謡祭、ねむ・ジャズ・イン等のSRを担当。1976年以降ジャズ録音に専念し現在に至る。2003年度日本音響家協会賞受賞。東京芸術大学、洗足学園音楽大学非常勤講師を経て、現在、音響芸術専門学校非常勤講師。AES会員。

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杉田誠一 ● 「音楽は、人間の“生”のすべてではない」

いつだって、突然炎のごとく、である。
2015年7月7日、Pooさんこと、菊地雅章氏が死去。
翌7月8日には、唯一一目置いていた相倉久人氏が死去。相倉氏は、ぼくに、Pooさんを紹介してくれた評論家である。
渡辺貞夫氏が、帰国して、銀座「ギャラリー8」で演奏した瞬間から、(日本の)ジャズの歴史が、大きく変わる。バークリー理論が、持ち込まれたからである。
ぼくは、現場主義を貫いてきた相倉氏と、銀座「オレオ」で会う。ズバリ、ジャズを牽引していくのは、誰か?
「山下洋輔と、菊地雅章でしょうね」
洋輔は、想定内であったが、Pooさんは、意外であった。現場は、丁度銀座から新宿へ移行しつつあった。
「ピットイン」で、初めて菊地=ヒノテル双頭コンボを聴く。メンツは、村岡 健(ts) 稲葉国光(b)
日野元彦(ds)である。殆どがPooさんのオリジナルなのに、まず、ぶっ飛ぶ。
日本のジャズは、固有のおもしろさを確立するに違いないと、ぼくは、予見する。
Pooさんは、苦悩に満ち満ちている。帝王マイルスをいかに超えうるか?
ピアノにならない音が、声に出てしまう。
バド・パウエル、オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンクの、肉声とは、異質の存在である。
ぼくは、いつもその在りどころを注視してきた。
「ピットイン」の後、Pooさんは、バークリーに留学。愛娘アビちゃんを授かる。
帰国後から、Pooさんとの深い関わりが始まる。確信に満ちた『リ・コンファメイション』発表前からである。
Pooさんは、言い切った。「音楽は、人間の“生”のすべてではない」と。

約1ヶ月半、ギルとPooさんがこもったグリーンポイントのスタジオで、同じ空気を吸って実感したこと。それは、両者とも、絶対に虚飾を頑なに廃し、自ら妥協を許さないということである。
こうしてついに、ECMから、リーダーアルバムという、快挙を成し遂げる。あのマイルスの呪縛から、抜け出し、ついに同時代のアーチストとして、正当に、証左されたのだ。
少年時代、自宅にピアノがなく、会津若松中のピアノを頭を下げて弾かせてもらったときく。実は、Pooさんのご両親におあいしたことがある。父君は、日本画家。裏庭に牡丹を育て、牡丹しか描かない。
菊地家の「血の真実」が、ここにある。
まだまだ書きたいことは、山ほど、、、。
Pooさんは、ぼくの結婚式で、ピアノを弾いてくれました。静かなる乃木神社で。あのとき、約束しましたよね。葬式にも弾いてくれるって。ぼくと、たかだか5歳しか、違わないのに、先に、、、。
相倉久人さん、貴方が現場を離れた理由は、1970年前後、ミュージシャンがオルグられて翻弄されていくのが耐えられないからだ。と、最後にお会いしたとき、おっしゃいましたね。きっかり1年前です。ぼくは、生きます。死ぬまで、現場で。
相倉さんの遺作「されどスイング」読みました。さよなら、相倉さん !
なお、Pooさんの遺作は、上野文化会館でのソロと決まった。
心底、ご冥福をお祈りします。合掌!

http://www.jazztokyo.com/column/sugita/column_77.html

杉田誠一 Seiichi Sugita

1945年4月、新潟県新発田市生まれ。獨協大学卒。1965年5月、月刊『ジャズ』、1999年11月、『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月、横浜市白楽に cafe bar Bitches Brew for hipsters onlyを開く。著書に写真集『ジャズ幻視行』、『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』

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望月由美 ● あの唸り声も音楽の一部なんだよ!

菊地さん、POOさんを目の前で聴いたのは1967年の初夏、「駒込ジャズ・ギャラリー8」であった。まだ夕陽の残る明るい夕暮れどき、下町の風情がただよう駒込の路地を探しもとめてギャラリー8の辺りまでたどり着くと渡辺貞夫とチャーリー・マリアーノの姿が目に入ってきた。停めてあった車に背を持たれ談笑している。お店の入り口の近くまで近寄ると貞夫さんが自分たちの演奏を聴きに来てくれた女の子と気づき目を合わせてにっこり笑って軽く会釈をしてくれた。明るく快活な貞夫スマイルはかっこいい。チャーリーはあの太いゲジゲジ眉をハの字にしてちょっと困ったような、でも人の良さそうなチャーミングなしぐさで挨拶してくれた。

キャパはもうすっかり忘れてしまったが、ライヴ・ハウスというよりは普通の喫茶店という印象。かなり狭いフロアでピアノもドラムも目の前、フロントは貞夫とチャーリーのアルトの2管、ピアノが菊地雅章さんでドラムは富樫雅彦、ベースの方は失念(多分、原田政長さん)。お目当てはアルト・マドネスと富樫さんのドラムであった。
貞夫さんとチャーリーがつい先ほどまで道端で笑っていたのが嘘のように火のように燃える。さらに富樫さんのシンバル・レガートが二人を煽る。余りの熱気に店内は異様に静まり返っていたように記憶している。その静けさの中に菊地さんのピアノがカーン、カーンと乾いた音を響かせる。そしてピアノの音に拮抗するように、いや、それ以上に異常な唸り声が聴こえてきた。これではピアノの音が聞こえないのではと思い、私は不遜にもお店の方と思しき青年に、<あの唸り声を辞めさせてください、なんとかなりませんか?>とお願いしたのだった。
その青年は、<あのね、あの声も音楽の一部なんだよ!>と教えてくれた。

それから20年ほどたったある日、SABU豊住芳三郎と昔話を交わしていた時に駒込のいきさつを切り出したところSABUは、その青年って僕だよ、あのころ、僕は富樫さんのボーヤをやっていてね、あの場に居たんだけどね、POOさんの唸り声を止めてくれなんて言われるのって初めてだし、大体、若い女の子があんな所へ来るのも珍しかったのでしっかり覚えているよ、ということになり二人で顔を見合わせて大笑いをしたことを思い出した。 POOさんとの次なる再会は1999年の4月、新宿ピットイン、渋谷毅オーケストラを聴きに来られたときだった。
POOさんと渋谷さんは東京芸術大学の付属高校での同級生で、この年はエリントン生誕100年にあたり、渋谷さんは『エッセンシャル・エリントン』(Yumi`s Alley)を、POOさんは渋谷さんとのデュオでエリントン集『タンデム』(VERVE)をつくっていて二人の会う機会は多かったのかもしれない。
一部のステージが始まる前、カウンターの前でPOOさんと渋谷さんが楽しそうに談笑していたので渋谷さんに声をかけてお二人のツーショットを撮らせていただいた。
渋谷さんは一枚だけよ、と一声かけて、シャッターを押すとどこかへ行ってしまった。
一人になったPOOさんにあらためてお願いすると、それまでぐしゃぐしゃに丸めて持っていたスプリング・コートをきちっと4つ折りにたたんで腕にかけてじっと優しい眼差しでファインダーを見てくれた。
このとき、なんてきちっとした礼儀正しい方なんだろうと思った。
ステージが始まると関係者席の隅の方でリラックスされた姿勢で一部の最後まで聴かれ、終わるとすっと帰っていった。
ミュージシャンというより、アーティストといった風格を感じた。

POOさんのアルバムではゲイリー・ピーコックとのものとテザード・ムーンが好きでよく聴く。
POOさんはゲイリー・ピーコックが日本に滞在していた1970年ごろの2年間、共演する機会を沢山作りゲイリーとの交流を深め、そしてゲイリーを支えた。この頃の作品では二人に富樫雅彦さんが加わったものが好きでとりわけ『VOICES』(SONY)が耳に優しく響いてくる。
そしていちばんPOOさんを身近に感じるのがテザード・ムーンの諸作。なかでも3人の出会いからトリオとして有機的に動き出す気配をそのまま形にした『FIRST MEETING』(W&W)が最も印象が強くて、いまだによく聴かせていただいている。1990年、増尾好秋さんが2トラックで録音したとジャケットに記載されているが、その澄み切った静けさこそがテザード・ムーンの世界だと思う。心を無にして聴いてみた。3曲目、3人の長い瞑想から徐々にイン・テンポになりやがて一つのメロディーがピアノからつむぎだされる、ソー・イン・ラヴ、Pooさんの世界にひきこまれる。

若い頃はわがままも多く大変な人だったと聞いているが晩年は大病と闘いながら、ふっといなくなってしまったPOOさん、撮らせていただいた写真をみていると涙があふれてくる。(Yumi’s Alley 主宰)

望月由美 Yumi Mochizuki

FM番組の企画・構成・DJと並行し1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi's Alley」主宰。『渋谷 毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。

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Andreas Schmidt ● Not Ended

Masabumi Kikuchi had to leave. Or he simply paused his presence with the people around him. He did not end it. The flowing energy of his soul and heart will continue as his music was a flow of his subconscious in the past ten years. Interrupted by the pauses he made for the regular life: Sleeping, eating, meeting people. After years of searching, he found, somewhere in the universe, “his music” - which he played and recorded in his loft in Chelsea/NYC. Alone, but also with many musician friends. You can watch some footage in the great short documentation “Out of Bounds” by Thomas Haley.

I remember stepping into his world, when my piano teacher Aki Takase gave me a recording of Kikuchi in 1992, which was his first CD with Paul Motian and Gary Peacock. From that point on I was mesmerized by his piano sound, his playing concept and his taste for, at times, abstract but beautiful music. This was in the 1990s, where he recorded songs by others. When I was visiting New York in 1995 for a few weeks, Lee Konitz, with whom I recorded my music in 1994, gave me Kikuchi’s telephone number. When I called him, he immediately invited me to his home. It was a really great place, full of his energy. I adored him and he actually behaved like we’ve already met many times before. He cooked rice for us and told me about the music he was listening to. We even went to his Steinway, where he tried to figure out a certain chord and phrase from a Paul Bley recording. So we both listened and wrote down the Bley music notes. This was a nice coincidence, because Paul Bley was actually the former lodger of his loft. I also met Paul Bley in the 1990s, where I had the chance to interview him for my thesis of my Jazz studies in Berlin/Germany.

In the following years, I visited NYC about ten more times and each time I hooked up with Kikuchi. Sometimes for hours, a few days during a week, where we would also do everyday things such as going to the drugstore together ( https://www.youtube.com/watch?v=ehIG-a_DZEs ).

During the 1990s, his music started to change and at the beginning of the new century Kikuchi more and more talked about his search for individual music that he was looking for. Instead of songs by others. Improvised music, which is just as great and meaningful as a composition. For instance like one of his favorites Toru Takemitsu. More and more DAT tapes and CDs of contemporary composers were to be found in his loft. Recordings he did of himself, improvising. So that he could, when later listening to it, gradually find out who he is and what he can still change about his playing. When I was in Berlin, Kikuchi sent me some of his private recordings over the years and even asked me about my opinion. That was the first time I heard the “new Kikuchi”. At his home. In his idle moments. It was heartwarming, irritating, bigger than life and beautiful - a piece of art. In peace with the world around him. He reached for his inner self and was able to transcend the stream of sounds coming from “somewhere” through him on to the piano. Through concentration and trust to his instinct, he could delve into the place, where he heard the music of which he became the transmitter.

A Trio with Thomas Morgan (bass) and Michael Attias (sax) were exploring for this new music together. Also a Quartet with Thomas Morgan (bass), Todd Neufeld (guitar) and R.J.Miller (drums). They always sounded like a unit. Bigger than the sum of the single parts. I think he was happy finally being able to do his music. Perhaps sometimes he wasn’t due to the fact that not many people, booking agents or record labels offered him the chance to convey these sounds to the world. There are exceptions though like the TRIO CD for ECM with Paul Motian (drums) and Thomas Morgan (bass), or the Quartet recording with Kresten Osgood (drums), Thomas Morgan (bass) and Ben Street (bass).
He did communicate with a lot of people. Friends. Musicians. Label owners.
Together with Paul Motian, Kikuchi played each year for a couple of weeks at the Village Vanguard in NYC and many of these concerts are on CD. The label Winter & Winter featured a lot of these great moments, where you can also hear hints of the “new Kikuchi” style.

I remember when Kikuchi was seriously ill laying in the hospital for the first time, I was speaking to Paul Motian on the phone asking him if there is anything we could do for him. Paul was very sad. Through NYC friends the project „Healing Songs” was born: “Music for Masabumi Kikuchi“ made it possible for Kikuchi to go back into life and music. During these past 10-15 years Kikuchi became an inspirational figure for many musicians. He showed a way of total dedication to the art of improvisation. Jazz. Musicians came up with projects, where his influence is clearly audible. Jakob Bro did the flowing "Balladering" album with Lee Konitz (sax), Paul Motian (drums) and others, which could be seen as a reflection of the lower dynamics and slower movements of Kikuchi’s music. Pianists such as Jacob Sacks and Soren Kjaergaard have learned a lot by listening to Masabumi Kikuchi. The versatile and sometimes eclectic pianist Ethan Iverson from the band THE BAD PLUS talks a lot about Kikuchi. He did a beautiful interview, which is part of his BLOG that reaches many people all over the planet ( http://dothemath.typepad.com/dtm/interview-with-masabumi-kikuchi.html ).

I also do my own little music improvisations and compositions, which have, as I would say, a huge touch of Kikuchi’s music ( https://www.youtube.com/watch?v=kLaU8FlxGc4 ). A friend of mine that lives in Berlin, the Moroccan pianist Amine Mesnaoui, states that Masabumi Kikuchi is the most important and favorite musician he has ever been listening to. Amine is a master of improvisation from scratch ( http://vimeo.com/117859232 ).

In my opinion, all of these afore mentioned musicians have found their own voice on their instrument and in their music. It’s not about imitation. It’s about recognizing and feeling the truth and honest way of Kikuchi’s art. Those messages are the ones that let the art of Jazz further develop. Taking liberties in your mind. Putting back the emphasis on risks, individuality and improvisation. Expressions of their time. The spirit of the age. Slowing down time. Quieting the mind, so that the human can hear the voices of the essence of life: Love.

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andreas schmidt ( pianist, composer ) born 1967 in berlin, germany. his first jazz teachers on piano were walter norris and aki takase in 1987.
aki also gave andreas a recording of masabumi kikuchi. andreas did go into jazz standards playing, free improv and original tunes.
he studied jazz piano at the jazz university in berlin. other teachers were david friedman, kirk nurock and jerry granelli.
with granelli he also did his first CD, together with lee konitz ( HAIKU ). other bands and projects through the years made him perform worldwide and play on about 35 cd´s.
in 2016 a trio cd will come out at UNIT RECORDS.
andreas plays since 1996 every monday at the jazzclub a-trane in berlin. he was joined there and on his cd´s by gary peacock, david liebman, thomas heberer, mark murphy, jay clayton and many others.

アンンドレアス・シュミット ● 終わっては、いない

菊地雅章は逝かざるをえなかった。あるいは、彼を取り巻く人たちに存在を中断されたと言っても良い。でも、終わってはいないんだ。彼の魂と心のエレルギーは絶えず流れ続けるだろう。彼のここ10年の音楽が彼の意識下の流れであったように。睡眠、食事、打合せなど普段の生活の中で自分の音楽の休止符的営為で中断されたと同じこと。彼は、何年もかけて探し求めた“自分の音楽”を宇宙のどこかに見つけたんだ。そしてその音楽をNYC/チェルシーの自家用ロフトで演奏し記録し続けた。独りで。あるいは仲間のミュージシャンたちと。そのいくつかは、トム・ヘイリーが制作したドキュメンタリー『Out of Bounds』で垣間見ることができる。
僕が初めて彼の世界へ足を踏み入れたのは、僕のピアノの教師、高瀬アキから1992年録音のCDをもらったとき。ポール・モチアンとゲイリー・ピーコックとの最初のアルバム。それ以来、僕は彼のピアノ・サウンド、演奏コンセプト、そして時には抽象的だが美しい音楽の味わいに魅了され続けている。90年代、彼は既成曲を録音していたが、1995年、僕は数週間NYに滞在し、前の年にリー・コニッツと自作曲を録音した際、リーから菊地の電話番号をもらっていたことを思い出した。電話をしたところすぐに自宅に招いてくれることになった。
そこは彼のエネルギーに満ちた何と素晴らしい空間だったことだろう。僕は彼の虜になり、彼は僕を古くからの知り合いのように応対してくれた。ご飯を炊いてくれ、彼が聴いていた音楽について語ってくれた。さらに、彼のスタインウェイに導いてくれたので、僕はポール・ブレイのある曲のコードとフレーズについて質問してみることにした。ふたりでブレイの録音を聴きながらメモを取ったりした。菊地のロフトにはかつてブレイが住んでいたことがあるとのことで、偶然の一致に驚いた。じつは、僕は90年代にブレイに会ってインタヴューまで付き合ってもらったことがあり、ベルリンでジャズを勉強中、論文に引用させてもらった。その後何年かにわたってNYを10回以上訪れているが、その都度菊地には会っている。時には、週に数日、しかも1回に何時間も語り続けたこともある。ドラッグストアへ買い物にでかけたこともあったなあ( https://www.youtube.com/watch?v=ehIG-a_DZEs )。
90年代に入って彼の音楽は変わり始めたが、新世紀に入ってから彼は自らが追求する独自の音楽についてとめどなく語り続けるようになった。他人が書いた曲への興味を失ってしまったのだ。即興音楽、それは例えば彼が好きな音楽家のひとりである武満徹の音楽同様、素晴らしく、示唆に富んだものである。彼のロフトには現代音楽の作曲家のDATやCDがたくさんあった。彼が自身で録音した多くのテープ。すべてが即興演奏。あとで聴き直し、おのれ自身を見出し、そこからさらに発展させる。それが彼が採った手法であった。ベルリンにいる僕にそれらのテープを送ってよこし、ときには僕の意見をもとめることさえあった。それが、僕が“新しい菊地”に触れた最初の瞬間であった。自宅で。ゆっくり時をやり過ごしながら。心和ませる音楽ではあったが、時には焦燥感を滲ませることも..。人生よりも大きな、美しい、芸術の断片.,.。彼を取り巻く世界の中の平和。彼は内面に潜むおのれ自身に到達していた。“何処(いずこ)”から発する音の流れを自身を通してピアノに伝えていた。一心に集中し、おのれの直感を信じおのれの内面から聴こえる音楽を媒介していた...。
トーマス・モーガン(b)とマイケル・マティアス(sax)とのトリオも一体となって彼の新しい音楽を追求していた。トーマス・モーガン(b)、トッド・ニューフェルド(g)、R.J.ミラー(ds)のカルテットも同様。彼らはいつも一体となって聴こえていた。単なる個人の総体以上の大きさとなって。究極的には彼自身の音楽を演奏できるようになって彼は幸せだったと思う。積極的に彼の音楽を世界に向けて発信する機会を彼に提供する協力者やブッキング・エージェント、レコード・レーベルが多くはなかったという点では、幸せではなかったかも知れないが。ポール・モチアン(ds)とトーマス・モーガン(b)とのトリオ・アルバムをリリースしたECMや、クレステン・オスグッド(ds)、トーマス・モーガン(b)、ベン・ストリート(b)によるカルテットのような例外もあったが...。
彼は、ひとびと、友人、ミュージシャン、レーベル・オーナーたちと積極的にコミュニケーションを取り合っていた。
たとえば、ポール・モチアンとは、1年に2週間、NYのヴィレッジ・ヴァンガードに出演しており、そのコンサートの多くはCD化もされている。これらの素晴らしい瞬間の多くを記録に留めたのはウィンター・ウィンターというレーベルで、これらのCDを聴けば新しい菊地の音楽スタイルのヒントをつかむきっかけが得られるだろう。菊地が最初に大病を患って入院したことを知って、電話でポール・モチアンに何か手助けできることはないだろうかと尋ねると彼は菊地をとても不憫に思っているのが分かった。NYの友人たちを通じて「Healing Songs:Music for Masabumi Kikuchi」というプロジェクトを立ち上げ、菊地が日常の生活と音楽に立ち戻れる手助けをした。ここ10年から15年の間に菊地は多くのミュージシャンにとってインスピレーションの源泉となる存在になっていた。彼は、即興という芸術に全霊を捧げる方法を示した。その影響が明らかなプロジェクトがジャズ・ミュージシャンによっていくつか立ち上げられた。たとえば、ヤコブ・ブロ(g)は、リー・コニッツやポール・モチアンらと“浮遊するバラード・アルバム”を制作したが、これは菊地の音楽に特徴的な“弱いダイナミクス”と“ゆるやかな動き”を反映させたものと言えよう。ヤコブ・サックス、ソーレン・シャールガールトなどのピアニストは菊地の音楽を聴いて多くを学んでいる。懐の深い音楽性で知られる「バッド・プラス」のピアニスト、イーサン・アイヴァーソンは菊地について語る機会も多い。彼は菊地の素晴らしいインタヴューを自身のブログに掲載しており、いつでもアクセスは可能である(http://dothemath.typepad.com/dtm/interview-with-masabumi-kikuchi.html )。じつは僕自身も菊地から多大な影響を受けた即興と作曲の小品を公にしている(http://dothemath.typepad.com/dtm/interview-with-masabumi-kikuchi.html )。ベルリンに住む僕の友人でモロッコ人のピアニスト、アミン・メスナワは、菊地雅章をもっとも重要かつ愛聴するピアニストと認めている。ちなみに、アミンはスクラッチ系に由来する即興演奏の大家である。僕の考えるところ、これらのミュージシャンたちはすべからく、自分たちの楽器と音楽にそれぞれ独自のヴォイスを見つけている人たちである。つまり、それは模倣に関する問題ではなく、菊地の芸術に特有の真実と偽りのないやり方を認め、感じているという問題である。僕はこのメッセージをジャズという芸術をさらに発展させるために表した。リスクを恐れず個性と即興に重点を置く。自分独自のタイムの表現。歩みを緩め、心を鎮めれば、ひとは人生のもっとも大切な声を聴くことができるのだ。愛を込めて..。

アンドレアス・シュミット

ピアニスト/コンポーザー。1967年、ベルリン生まれ。1987年、ウォルター・ノリスと高瀬アキについて初めてジャズ・ピアノを学ぶ。ベルリンのジャズ大学に学ぶ。CDデビューは、ジェリー・グラネリ、リー・コニッツらとの『HAIKU』。
2016年にUNIT RECORDSからトリオ・アルバムを発売予定。1966年よりベルリンのジャズ・クラブ「A-Train」に毎月曜日出演。共演者は、ゲイリー・ピーコック、デイヴ・リーブマン、トーマス・ヘベラー、マーク・マーフィー、ジェイ・クレイトン他。

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五野 洋 ● Pooさん、またメールします

Pooさん、大変ご無沙汰しています。
最後に会ったのは2012年10月東京文化会館小ホールのソロ・コンサートでしたね。終演後、結構上機嫌だったので嬉しかったです。凄くいいコンサートでした。
Pooさんに初めて会ったのは確か1972年ごろだったと思います。Pooさんは覚えてないと思いますが、僕ははっきり覚えています。1971年に日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)というレコード会社に入社、仙台営業所に配属され見知らぬ土地で暇を持て余す日々をおくり、夜な夜なジャズ喫茶カウントに入り浸っていたのですが、そんなある時、宮城県体育館で行なわれたジャズフェスに学生時代の先輩チンさんの名前を発見して早速楽屋にチンさんを訪ねたのです。チンさんはPooさんのセクステットのベーシストとして来ていました。メンバーはPooさん(p、kb)、中村よしゆき(ds)、岸田恵二(ds)、峰厚介(ts)、宮田英夫(fl)のツー・ドラム編成だったと思います。まだヒットする前の<ラ・フィエスタ>を演奏したのと、楽屋で岸田さんがPooさんに絞られていたのを憶えています。終演後厚かましくも打ち上げに参加し、そこで事件は起きたのです。地雷也という炉端焼の店で名物のニシン丸焼きを美味そうに頬張ったPooさんが何と骨を呑み込んでしまい、救急車まで呼ぶ騒ぎになったのです。やっぱり天才はやることが違うなあ、と妙に感動したので記憶に強く刻み込まれたのだと思います。あれ以来ニシンの丸焼きを見るとPooさんを思い出します。その衝撃の出会いの翌年Pooさんはニューヨークに行ってしまったので、長い間会う機会はありませんでしたが、その後念願のジャズ担当になった僕はPooさんが帰国する度に夜遅くまで青山のボディ&ソウルで話をするようになりましたね。そして1994年峰さんとのデュオ『DUO』、ソロ・ピアノ『After Hours』と立て続けにライヴ録音させていただきました。Pooさん菌に完全に感染してしまったという訳です。2004年に会社を辞め、55 RECORDSを立ち上げてからも、ニューヨークに行く度に自家製梅干しなどを持参してPooさんのロフトにお邪魔して色んな話をしましたね。DATで録ったソロ・ピアノもいろいろ聴かせてもらいました。ある時ヴィレッジ・ヴァンガードで聴いたポール・モチアンのバンド、とくに久々に会ったグレッグ・オズビーのサックスに魅せられ、楽屋でPooさんとのデュオ企画を提案しました。その話をPooさんにしたらPooさんもグレッグを買っていて面白いね、という話になり、2005年アヴァターでの録音が実現、おまけに二人を日本に呼んでツアーまでやってしまいましたね。Pooさんの発案で『KO Project』という名前がつきました。こうやって文章で書くと数行で終わりですが、録音、リリース、ツアーは本当に大変でした。当時、周りの諸先輩方のアドヴァイスも聞かずに暴走したツケは大きく、結果的には高い授業料についてしまいました。でもPooさんのせいではありません。Pooさんの強力な音楽、時に見せるあの笑顔は何ものにも代えられませんから。
今聴いてもあの『KO Project』はフレッシュで、世界中どこのレーベルにもない強力なマスターピースだと自負しております。

Pooさん、ありがとうございます。
またメールします。(55 RECORDS 代表)

五野 洋  Hiroshi Itsuno

1948年西宮生まれ。早大ハイソ(ギター)でジャズに目覚め、日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)に入社。1987年からジャズを担当し、2004年退社。同年、55 RECORDSを立ち上げ現在に至る。

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淡中隆史 ● 「911同時多発テロ」のはじまりをプーさんと見ていた。

2001年9月10日、11日に東京ベイエリアのIRC2スタジオで菊地雅章「スラッシュトリオ」のレコーディングを行った。「観客の前でレコーディングしたい」というプーさんの要望にこたえ、30席ほどの「客席」を設けてのスタジオ・ライヴ・レコーディングだった。11日午後、セッションのブレイクで何気なくスタジオ・ロビーのTVをONすると巨大な煙が上がるNYワールドトレードセンターが大写しになった。ロビーにいた我々、プーさん、多田雅範、山下邦彦、マーク・ラパポート達は無音のモニターの画像に凍り付いたが、その瞬間は何が起きているのか、TVに映っているのがパニック映画なのか、実際に火災が起きているのかすらもわからなかった。「ニューヨークのワールドトレードセンターが炎上しています」という音声で事実を理解した。まもなく火事ではなく飛行機がビルに「衝突」したことを知り、2機目の「突入」の後タワーが倒壊する時に何が起きて、何か巨大なことが起きようとしているのかぼんやりとわかってきた。「911同時多発テロ」のはじまりをプーさんと見ていた。
スタジオに来ていたマーク・ラパポートが「テロだ、大変な事になる」とバイクで帰っていったのを覚えている。NYのプーさんのアパートメントからも遠くないロウアー・マンハッタンの出来事、その後のアメリカや世界のあり方を変えた「911」に彼は大きなリアリティを感じていたと思う。
1970年代より2015年まで40年以上プーさんはNYに住んだ。多くの日本人ジャズミュージシャンがNYに移り、やがて日本国内での活動に戻っていくなかでプーさんは日本に本拠を移すこともなく最期まで暮らした。ソニー・ロリンズ、エルヴィン・ジョーンズ、ギル・エヴァンス、マイルス・デイヴィスなど多くの音楽家達と活発な活動を行いギルのオーケストラに参加、プロデュースも行った「ライブ・アット・ザ・パブリックシアター」(1980年2月)、「ススト」セッション(同年11月)、など80年代前期までが最も多忙な時期だったと思う。90年代以降に活動期を過ぎても穏やかなNY郊外にスタジオを構える事もなくミッドタウンに住み続けた。ダウンタウンのライブスポットやアバターなどスタジオへ徒歩距離のアパートメント、スタジオに住み続けたが、ライブや他のグループとの活動、スタジオなどにスジュールを占められるジャズ・ミュージシャンの生活とは違い、まるで「隠遁者」にも近い沈思黙考の時期も永かった。以降NYではテザート・ムーンやポール・モチアン・バンドなどの限られたミュージシャンとのみの活動が多く、日本やヨーロッパでのレコード制作、ライブが増えて行く。
2000年代に入り自宅での「at home project」として膨大なソロ音源を残している。いずれ広く聴かれていくべき音楽だと思うが、ここで聴かれるプーさんの清らかな音楽の結晶には新たな世界観がある。同じピアノ・ソロであっても「ATTACHED」(1989年)から「AFTER HOURS」(1994年)に至る重くセンチメントな音楽とは明らかに違う浮遊する清透な音たちは聴き手に圧迫感を与えない、というか平明で開放感を与える世界が開けてくる。この流れが後の東京文化会館でのソロ(2012年)、同年ブルーノート東京でのライブの時期にレコーディングされた未発表のトッド・ニューフェルド(g)、トーマス・モーガン(b)とのデュオ音源に通じる2000年代プーさんのひとつの顔の出発点だったと思う。
対称的にアクティブなムーヴメントは、2000年以降の日本人トリオ;杉本智和(b)、本田珠也(ds)との「ON THE MOVE」(2001)、2001年結成の菊地雅晃(b)、吉田達也(ds)との「スラッシュトリオ」の二つに結実した。「スラッシュトリオ」の「911」のレコーディングは 『SLASH 1°』、『SLASH 2°』(2001、2002)、翌年横浜モーションブルーでのセッションが『LIVE AT Motion Blue Yokohama VOL.1』、『VOL.2』(2002、2003)の各々2枚となってリリースされた。「スラッシュトリオ」4枚には乾いた暴力性や非ジャズ的なといった共通性があった。変拍子ドラマーの吉田達也にバンドのリズムに同化することを拒ませ、2者の違和感がユニットの核となり構造を決定する。レコーディング後のスタジオでのミックスの過程でプーさんは「ハイファイは良くない」を繰り返して造形的な音作りを考えていたのが印象的だった。
2004年にはテザード・ムーンでの大きな成果『Experiencing Tosca』があり、次いでグレッグ・オズビー(as)とのデュオ『Beyond All』(2005)がリリースされ12月浜離宮朝日ホールでのライブが行われた。グレッグ・オズビーは2003年にピアニストのマーク・コープランドとも2枚デュオ・アルバム『NIGHT CALL』、『ROUND AND ROUND』(nagel heyer)を残している。グレッグ・オズビーの2つのプロジェクトでのプレイ・スタイルの比較はプーさんの音楽を理解する良い素材となると思う。『Beyond All』での個と個の違和感を残したままでの「共演」とスムースに相手を触発し合って多弁に語るコープランドとのグレッグ・オズビーのスタイルとの違いは凄まじいものがあり興味は尽きない。コープランドとの共演でジャズ・ミュージシャンとしては自作にもまさる素晴らしい音楽を奏でているグレッグ・オズビーがプーさんとのデュオでは自身、新たなスタイルを発見している。
その後のリリースとしては日野皓正との2枚、待望のECMよりの 『Sunrise』(2012)がある。ブルーノート東京公演ではよりエッセンシャルな他者との共演がなされたようだ。
聴き手によって全く違う聴き方、愛され方が成立する音楽がある。「菊地雅章の音楽」は、日本のジャズ・ミュージシャンとしてはその典型だと考えてきた。プーさんの音楽を永く愛してきた制作者、ライター、ファン達とプーさんの音楽について語り合うことは驚きの連続だった。各々が自分とは違う理解をしていて触発されることが多かったのだが、それこそが素晴らしい音楽の証ではないかと思う。「2000年以降」のプーさんの音楽は未発表の音源の発表を待たないと大きな流れが見えてこないが、2015年8月10日までの音楽が誰かの手によってプーさんの完璧な「クロニクル」として完成し、知られていないレコーディング、未発表音源の記録が明らかにされて、この時期のミッシング・リンクが解かれることで菊地雅章のナゾが解かれる日が来ると思う。
淡中隆史

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新井知行 ● 速くて重い「浮遊」

2010年当時未完、そしておそらく完成を見ることはないであろうドキュメンタリー『Out of Bounds』の中で菊地さんは、1時間か2時間の最初から最後まで完璧なソロ・コンサートをやることが目標とおっしゃっていました。自分のものだと思える音楽ができれば幸福に死ねるとも。自分にとってジャズとは菊地さんのことであって、マイルス・デイビスもセロニアス・モンクもポール・ブレイも菊地さんの真似をしているに過ぎないと思っていましたし、ジョージ・ラッセルにリディアン・クロマティック・コンセプトなんてくだらんと言い捨てて仕事を蹴ったというお話にもそりゃあそうでしょうねと相槌を打ってしまっていましたが、菊地さん自身の基準で「完璧」なソロ・コンサートというのは想像もつかず、それが聴きたい、あるいは少なくともそれに向かう一歩が聴きたいと思い、自分の関わっているフェスティバルに出演していただけることになってからは、当時のディレクターと、ジョージ・ラッセルと同じように蹴られても不思議ではないと話しつつ、ジョージ・ラッセルどころではない自分たちの圧倒的な未熟さを思い知りながら、高橋哲さん、川田恒信さんをはじめとする海千山千のプロデューサー、レコード会社の方々のご支援をいただき、故・小沼則仁さんの調律を得て、数ヶ月で通常人間が学び得る量を超えると思われる学びを通過し、どうにか実現にこぎつけましたが、菊地さんという人物を直接知るようになって間もない自分でも、完璧には程遠い、まだまだ死ねないと菊地さんがおっしゃるに決まっていることは分かっていました。しかし2012年10月26日、東京文化会館小ホールでの演奏は完璧でした。ポケットの中で小銭の音がしないよう、財布から出して1枚ずつ平らに床に置いて聴きました。ニューヨーク・タイムズの取材で菊地さんは、「俺は全ての間で浮遊していたい(I like to be floating between everything)」、そして「浮遊」のしかたをボサノバから学んだとおっしゃっています。しかしその「浮遊」は、同定されることの拒絶とか、中性的な空間性の創出とか、そういったことではなく、極大と極小の間を音速で、あるいは音速を超えて移動しようとする、ジョアン・ジルベルトのそれと似た、速くて重い「浮遊」だったように思います。(Sound Live Tokyo ディレクター)

新井知行 Tomoyuki Arai

1974年、横浜生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科演劇映像専修修士課程修了。坪内博士記念演劇博物館図書室での資料整理、劇団解体社スタッフ、原水爆禁止運動や非正規労働者組合運動のための映像制作、翻訳業などを経て、2005年ごろよりPARC - 国際舞台芸術交流センター勤務。「PPAF(ポストメインストリーム・パフォーミング・アーツ・フェスティバル)」「TPAM(旧東京芸術見本市/国際舞台芸術ミーティング in 横浜)」「Sound Live Tokyo」などに関わる。

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Sun Chung ● Poo surely is in a better place

I was first introduced to Poo and his music in 2010. It was a fortuitous meeting, as my intention was to go hear Paul Motian at the Village Vanguard. To my surprise during the concert, it was Poo that was the musical highlight for me. The solo parts he played during the concert were of rare depth and beauty, something not often heard these days where technique seems to be the overriding factor. I went to converse with him immediately after the concert, and talked to him about making a record. He agreed and this is how our association began.
I am not exactly sure why but we had a very good rapport and similar musical sensibilities from the get go, so we subsequently recorded together twice in the last five years. It was always an adventurous and a nerve racking experience to go into the studio with Poo, because you never knew on which kind of pain medication he was on. Once during the middle of a session, he took a pain killer so strong that he was knocked out for several hours, so me and the sound engineer had to wait until he woke up to resume recording. The next time, he wanted cognac, but I managed to convince him otherwise.
As anyone who knows Poo, he had major health problems which affected his mental state, especially his memory. Since being acquainted with him, I came to learn that every moment of his life was an incessant struggle, as he was in constant pain, confusion, and financial troubles. However he kept on going and going, through pure grit. He went on because he lived for his music, and was driven by it. He was a true warrior in this sense. He pushed the music to it’s limits until the very end.
I tried to help Poo in the best way I could, from going out to restaurants and museums, to daily chores such as grocery shopping and helping him with organizational matters. In these moments, he was happy, and his genuine smile was a pleasure to see.
However after a while, his instability took it’s toll and made our relationship unsteady. Despite these issues, we stayed in touch until almost the end.
Poo has taught me a lot about the struggles of life and I will always be grateful to him about that. He will be missed for his music. He will be missed for his life of courage in a world in which he could find no peace with his surroundings. Poo surely is in a better place.

サン・チャン ● 間違いなくPooは天国にいる

僕が初めてPooとPooの音楽に出会ったのは2010年のこと。そもそもはヴィレッジ・ヴァンガードにポール・モチアンを聴きに出かけたときだから、出会いは偶然だった。なんと、当夜の僕にとって最大の音楽的関心事はPooになってしまったのだ。彼が弾くソロはどれもありえないほど深く、美しく、テクニックがもてはやされる昨今では滅多にお目にかかれない内容だった。セッションが終わるのを待ちかねてレコーディングの話を持ちかけたところ彼の同意を得られ、これが僕らの付き合いの始まりとなった。

何故だか理由は定かではないのだが、僕らは当初から気心が知れ合う仲となり、音楽の感受性も似通っていたので、ここ5年間で2度レコーディングの機会を持った。しかし、Pooとスタジオに入るのはいつも出たとこ勝負でかつ神経にこたえる体験だった。彼がどのような鎮痛処置を施すか分からなかったからだ。たとえば、セッションの途中で彼が強力な鎮痛剤を服用したために倒れてしまい、彼が目覚めて録音を再開するまで僕とサウンド・エンジニアは何時間も待機せねばならないことがあった。また、コニャックで紛らわせようとしたこともあったが、なんとか説得して思い留まらせた。

Pooを知っている者は誰でも認識していたように、彼は彼の精神状態、とくに記憶に影響を与える重大な健康障害を抱えていた。彼と交友関係ができて以来、僕は彼の人生の瞬間瞬間が絶え間ない肉体的苦痛、混乱、金銭問題に起因する戦いの連続であることを知るようになった。しかしそれでもなお彼は歯を食いしばって前進することを止めなかった。なぜなら、彼にとって音楽が生きる目的であり、音楽に突き動かされて生を永らえていたのだから。その意味で彼は真の戦士であった。彼は真の意味で極限まで音楽を追い詰めていた。そんな彼に僕はできうる限り助けの手を差し伸べた。レストランやミュージアムに誘い出すことから食料品の買い出しなどの日常の雑務まで、また、市当局とのやりとりの手助けも。そんな時、彼は幸せだった。彼の汚れのない微笑みを見て僕も嬉しかった。やがて彼の不安定さが限度に達し、僕らの関係も正常ではなくなった。それでもなお、ほとんど最後まで僕らが関係を断つことはなかった。

Pooは僕に生きることの戦いについて多くのことを教えてくれた。そのことについて僕が感謝の念を忘れることはないだろう。彼の音楽を聴いて誰もが彼を思い出すだろう。彼は周囲の者とは平和な関係を築くことはできなかったが、彼の勇気ある生き方を忘れる者はいないだろう。間違いなくPooは天国にいる。(ECM プロデューサー)

Sun Chung is Grammy nominated producer and has worked with musicians such Paul Motian, Egberto Gismonti, Andrew Cyrille, Eberhard Weber, Aaron Parks and Bill Frisell.
He is currently works for German based label, ECM records.

サン・チャンはグラミー・ノミネートのプロデューサー。これまで手がけたミュージシャンは、ポール・モチアン、エグベルト・ジスモンチ、アンドリュー・シリル、エバーハルト・ウェーバー、アーロン・パークス、ビル・フリゼール。
現在、ドイツのレーベルECMに勤務。

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本宿宏明 ● 『山本邦山/銀界』を解剖する

www.jazztokyo.com/column/analyze/001.html

本宿宏明 Hiroaki Honshuku

東京生まれ、鎌倉育ち。日大芸術学部フルート科を卒業。在学中、作曲法も修学。1987年1月フルートを学ぶためバークリー音大入学、同年9月ニューイングランド音楽学院大学院ジャズ作曲科入学、1991年両校を同時に卒業。ニューイングランド音楽学院では作曲家ジョージ・ラッセルのアシスタントを務め、後に彼の「リヴィング・タイム・オーケストラ」の正式メンバーに招聘される。本年9月、ブラジリアン・ジャズ・バンド「ハシャ・フォーラ」を率い、新作CD『ハシャ・ス・マイルス』(インパートメント)発売記念ツアーを予定。
http://www.jazztokyo.com/event/event008.html
http://www.rachafora.com/ja/shows
参考リンク;
*Interview
http://www.jazztokyo.com/interview/interview119.html
*CDレヴュー
http://www.jazztokyo.com/five/five1018.html

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末次安里 ● 菊地雅章を撮る

末次安里 Anri Suetsugu

1954年、東京生まれ。女性誌記者を皮切りにフリー一筋の著述家。月刊「Out There」の編集・発行人を経て、「Jazz Today」を創刊。Ustreamの公式番組「BlowUp! Shooting」(http://www.ustream.tv/channel/blow-up-shooting) の編集長を。

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James Armstrong ● Little Abi

The maestro's untimely passing caused me to create this tribute; an artifact in memory of great musician. Little Abi is a microcosm of Kikuchi-san's work; like the Russian author and dramatist Anton Chekhov, he conveys an entire universe in a very short space.

I was able to track down the Philips Japan LP 'Hollow Out', and completed the transcription in one afternoon. There's an extremely skillful blending of modes in this piece, and a gorgeous, two-bar phrase at its conclusion. Just listen to the resonances; you're drawn into an utterly surreal environment.

マエストロの不慮の死によりこの追悼をすることになった。偉大なるミュージシャンの追悼のための営為。<リトル・アビ>は、菊地さんの作品の小宇宙である。それはロシアの作家、劇作家アントン・チェーホフのように、極小の空間のなかに全宇宙を描き出している。
ある日の午後、日本フィリップスのLP『ホロウ・アウト』に収録されている<リトル・アビ>を抜き出し、採譜してみた。この曲には複数のモードが極めて巧みに組み合わされているが、最後の2小節がキモだ。レゾナンスに耳を傾けてみたまえ。すばらしく超現実な世界に引き込まれるはずだ。

James Armstrong is a professional musician, composer, and teacher from San Jose, California. Since 2009, he has recorded original solo piano works in the San Francisco Bay Area. In recent months, his work has focused entirely on practice and transcription, completing rare scores by Andrew Hill, Woody Shaw, and others.

ジェームス・アームストロング。カリフォルニア州サン・ホセ出身のミュージシャン、作曲家、教師。2009年以来、サンフランシスコのベイエリアで自作のソロ・ピアノ曲を録音してきた。最近は、アンドリュー・ヒルやウディ・ショウらの隠れた作品の研究や採譜に集中している。

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Tod Neufeld

I finally met Poo in earnest in the stairwell of the Jazz Gallery in early 2008. He called me the next day to meet, and a few days later I arrived at his place to talk about music. Immediately we were friends. Some months later we finally played together, and it immediately led to the formation of his band TPT, a trio with bassist Thomas Morgan.

It was such a thrill to play in that band. Poo's piano was the richest, most beautiful and violent musical language I had ever heard. Always different and fascinating musical ideas emerging from his piano, and always with the deepest inspiration. All through some kindof secret relationship he had with the overtones. Each moment seemed to be alive and unpredictable where it may lead next. This way demanded the most from us; there was no escaping his intensity. Over those years, we stayed very sensitive to the dynamics between us, and we developed our own language as a group. Playing and recording so many times with those guys at Poo's loft was as much as a musician could ever ask for.

Poo was on his extreme artistic path right till the end. What an example he set for us in that way. And while he was as complicated a person as I've ever met, he was a true friend.

It was always hard to imagine that someone like him could exist in this world. But, now that he's gone, it's very difficult for me to imagine this world no longer with someone like him.

Poo taught me so much. I am very fortunate to know him.

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Todd Neufeld (b. 08/05/81, Huntington, NY) is an electric and acoustic guitarist based in Brooklyn, NY. Performing at venues across New York, USA, Canada, Japan, Europe and South America for the past 15years, Todd has appeared with Masabumi Kikuchi's TPT Trio, TyshawnSorey's Koan, Oblique and other ensembles, the Samuel Blaser Quartet,the Sergio Krakowski trio, and various bands led by Lee Konitz, TonyMalaby, Gerald Cleaver, Dan Weiss, Aaron Parks and many others. Since2009 Todd has been featured on recordings released on PiRecordings, CleanFeed Records, 482 Music, Ruweh Records and more. His playing hasbeen recognized by critics internationally as a completely uniquevoice in the contemporary Jazz and improvising scene. Todd is currently at work on his first album as a leader to be recorded withhis current two-drummer band.

トッド・ニューフェルド ● 彼の様な人間の存在しない世の中の方が信じ難い

プーと正式に出会ったのは、2008年の初め、ジャズ・ギャラリーの入り口の階段でのことでした。次の日に彼が電話をくれて僕達は再び会う約束をし、その数日後、音楽についての話をするためにプーのロフトへ行きました。僕達はすぐに仲良くなりましたが、やっと一緒に演奏することができたのはそれから数ヶ月後のことでした。一緒にプレイし始めてから間もなく、僕達はベーシストのトーマス・モーガンと共にTPTというトリオを組みました。

TPTでの演奏にはぞくぞくするような感動がありました。プーのピアノは、僕が今まで聞いた音楽的言語の中で最も素晴らしく、深みがあり、美しく、そして暴力的でした。彼のピアノ演奏には、いつも新しく魅力的なアイディアがあり、それはいつも深いインスピレーションを与えてくれました。そのアイディアの多くには、彼の持っていた倍音への理解が関係していると思います。プーとの演奏は、瞬間瞬間がまるで生き物のようで、次にどこに向かうのか全く予測不可能でした。そのような状況で常に僕達は自分自身の限界を試され、その強烈さから逃げ出すことは一切許されませんでした。数年間の共演の間、僕達はお互いの「ダイナミック」に対して繊細であり続けました。結果として、TPTというグループ特有の音楽的言語を構築することができました。プーのロフトで、TPTの演奏やレコーディングを重ねたことは、ひとりの音楽家として、何にも代えがたい経験となりました。

最後の最後まで、プーは究極的な芸術への専心を続けていました。後に続く我々にとっては、本当に素晴らしい目標を掲げてくれました。他に類を見ないくらいの複雑な人ではありましたが、僕にとっては、真の友人でした。

この世の中にプーみたいな人が存在したということは、信じ難いことでした。しかし彼が亡くなった今、彼の様な人間の存在しない世の中の方が信じ難いのです。

プーからは、本当に沢山のことを教わりました。彼との出会いに感謝しています。(ギタリスト)

photo:Jimmy Akagawa

トッド・ニューフェルド Todd Neufeld

1981年、NYハンティントンの生まれ。ブルックリンを拠点とするアコースティック、エレクトリック・ギタリスト。共演歴は、菊地雅章のTPTトリオ、タイショウン・ソーレイのKoan、Obliqueを含む各種アンサンブル、サミュエル・ブレイザー・カルレット、セルジオ・クラコウスキ・トリオ、リー・コニッツ、トニー・マラビー、ジェラルド・クリーヴァー、ダン・ワイス、アーロン・パークス他。2009年以降のレコーディング歴は、PiRecordings、CleanFeed Records,、482 Music、Ruweh Records他。コンテンポラリー・ジャズ、インプロヴァイジング・シーンにおいてその極めて個性的なヴォイスが国際的に批評家から高く評価されている。現在、自己のダブル・ドラム・バンドによる初のリーダー・アルバムを制作中。

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Thomas Morgan

I met Poo-san eight years ago when he introduced himself to me at a gig and asked me to come over to his apartment to play, which I ended up doing many times. He showed me a new way to improvise, with ametric and unquantifiable rhythms, shifting tonalities and intervals considered according to their place in the overtone series, and sudden changes of direction and texture at just the right, unexpected moment. As an artist and as a person he was completely honest and uncompromising. If anything got in his way as he made his sublime music, he would cast it away violently or interrupt the proceedings. Sometimes he may have gone too far. But music was always his first concern, and in effect he kept his integrity and passion to the end, continually improving himself -- "growing up", as he would say. The world has gained much from his efforts, and I count myself very lucky to have had him as a colleague, mentor, and friend.

トーマス・モーガン ● どこまでも正直で妥協を許さない男

初めてPooさんに出会ったのは8年前。僕のギグにやってきて自分が何者かを告げてから自分のロフトに来て手合わせするように請われた。結局は、何度も彼のロフトを訪ねることになったのだが。彼には新しいインプロへの考え方を教えられた。例えば、拍子記号の概念に反して割り切れない位置を使ったり、ビートと関係ない位置を使ったり。例えば倍音のそれぞれの位置を使って調性や音程を動かしたり。例えば、結果的には正しいと感じられるのだが予想外の瞬間に方向性や色彩を反転させたてみたり。

ひとりのアーチストとして、また一個の人間として彼はどこまでも正直で妥協を許さない男だった。彼は音楽制作に対し、もしなにか気に入らないことが起こるとそれを激しく否定したり、すべてを投げ出したりもした。時には、極端に行き過ぎてしまうこともあるのだが。しかし、彼にとってはつねに何を措いても音楽が最大の関心事だった。事実、彼は最後まで誠意と情熱を究極の状態に維持しつつ、自身をより高めることを怠らなかった。彼は自分でそれを“成長し続けること”と言っていた。世の中は、彼の努力の結果から多くのものを得ていた。僕自身、彼を音楽仲間、師、そして友人として持てたことをとても幸せに思っている。(ベーシスト)
photo:Jimmy Akagawa

トーマス・モーガン Thomas Morgan

1981年カリフォルニア州ヘイワードの生まれ。2003年NYのマンハッタン音楽学校を卒業。ポール・モチアンのバンドを経て菊地雅章と出会い数々のセッションを重ね、影響を受ける。『菊地雅章/サンライズ』を初めECMでの録音も多く、新世代をリードするミュージシャンのひとりと目されている。2008年に「日野=菊地クインテット」、2012年には「菊地雅章TPTトリオ」で来日、ゲイリー・ピーコックを継ぐ思索的なプレイを披露、強烈な印象を残した。
http://www.jazztokyo.com/interview/interview118.html

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多田雅範 ● 菊地雅章TPTトリオ@ブルーノート東京

http://www.jazztokyo.com/live_report/report448.html

『菊地雅章/サンライズ』
http://www.jazztokyo.com/five/five879.html

多田雅範 Masanori Tada

Niseko-Ross y Pi-Pikoe:1961年、北海道の炭鉱の町に生まれる。東京学芸大学数学科卒。元ECMファンクラブ会長。音楽誌『Out There』の編集に携わる。音楽サイトmusicircusを堀内宏公と主宰。音楽日記Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review。

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伏谷佳代 ● Sound Live Tokyo 菊地雅章ピアノ・ソロ

http://www.jazztokyo.com/live_report/report476.html

伏谷佳代  Kayo Fushiya

1975年仙台市生まれ。早稲田大学卒。現在、多国語翻通訳/美術品取扱業。欧州滞在時にジャズを中心とした多くの音楽シーンに親しむ。趣味は言語習得にからめての異文化音楽探求。JazzTokyo誌ではこれまでに先鋭ジャズの新譜紹介のほか、鍵盤楽器を中心にジャンルによらず多くのライヴ・レポートを執筆。

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Gene Perla

I visited him a few years ago when he was very ill and in an unpleasant medical facility. It appeared that almost everyone in the place, except the workers, were dying. Sad situation, and I could see he was in pain but so pleased to see me. He pulled out a playback system and was happy to let me hear some new recorded works of his. I remember him as being a quiet, intense man, and when he and I were playing with Elvin, the grunting and growling noises the two of them made were a symphony themselves. His time feel on some of the faster things we played was not as locked in as Herbie, Chick and others, but his playing on ballads were exquisite. Lots of space and thoughtful melodies. I stayed in touch with him on and off through the years and at one point recommended he get in touch with the Jazz Foundation of America because he was behind in paying his rent and had not enough income. I don't know if he contacted them. There was also a benefit some years ago in NYC for him. Quite a few musicians showed up and played, me included. I don't know what the result of the event was in terms of how it benefited Poo. I remember having many good times with him and his American wife (can't remember her name). We were always joking and having a good time.

ジーン・パーラ ● もの静かだが意志の強力な男

数年前、彼の体調がひどく悪かった頃、あまり快適ではなさそうな医療施設に入所している菊地を見舞ったことがある。そこに勤務しているスタッフを除いて入所している者がみな末期患者であることは明白だった。悲惨な状況で、菊地もまた苦痛にさいなまれていたが、僕を見てひどく喜んでくれた。プレイバック用の装置を取り出し、最近録音した自分の演奏を嬉しそうに聴かせてくれた。

菊地はもの静かだが意志の強力な男であると記憶しているが、彼と僕がエルヴィンのバンドで演奏しているときは、菊地とエルヴィンが発するノイジーな激しい唸り声はそれだけでシンフォニーを構成していた。僕らが演奏したテンポの速い曲での菊地のタイム・フィールはハービーやチックなどのようには盤石ではなかったけれど、バラードでの菊地は素晴らしかった。充分なスペースと考え抜かれたメロディ。

その後、折りに触れ連絡をとりあっていたが、あるとき彼が家賃を滞納していることと収入が充分でないことを知って、全米ジャズ基金(Jazz Foundation of America) に連絡をとることを勧めた。実際に彼が連絡をとったかどうか確認はしていないが。

何年か前。NYCで彼のためにベネフィット(慈善)コンサートが行われた。多くのミュージシャンが参加し、演奏した。僕も参加した。Pooをサポートするという意味でどれだけの結果が得られたかは詳らかではないが。

菊地と菊地のアメリカ人の奥さん(名前を失念したが)とは何度も楽しいときを過ごした。いつもジョークを言い合いながら、楽しいひとときだった。(ベーシスト)

参考リンク;
Healing Songs: Music For Masabumi Kikuchi
http://dothemath.typepad.com/dtm/2010/09/masabumi-kikuchi-benefit.html

Gene Perla ジーン・パーラ ベーシスト

1940年、ニュージャージー州生まれ。バークリー音大とボストン音楽院ではピアノを専攻していたが、その後ベースに転向。70年代にはPM Recordsを主宰。菊地雅章とは1971~73年、エルヴィン・ジョーンズ・グループ時代に共演。アルバムでは『Hollow Out』(Philips/1972)で、エルヴィン、菊地とトリオを組む。

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Paul Bley/Carol Goss ● What a passionate, wonderful man

When Paul played at Birdland -
Poo came up to him after a set,
with tears in his eyes, and said,
"I just can't play wrong!"

What a passionate, wonderful man.
He should still be with us.

Paul Bley/Carol Goss

ポール・ブレイ/キャロル・ゴス ● なんと心の熱い素敵な男なんでしょう

ポールがバードランドに出演していた時のこと、セットが終わるとPooがポールのところにやってきて、目に涙をためてこういうの、「もう間違ったことは弾けないよ!」。
なんと心の熱い素敵な男なんでしょう。
彼は今も私たちの心の中にいます。

ポール・ブレイ/キャロル・ゴス

Paul Bley ポール・ブレイ ピアニスト

1932年、カナダ・モントリオール生まれ。ECMにあってソロ・ピアノの伝統の先駆者となる。70年代初期、菊地雅章はNYダウンタウンのポールのロフトの留守を預かっていたことがある。菊地に最大の影響を与えた。
Carol Goss キャロル・ゴス 映像作家
70年代以来ポールのパートナーとしてレーベルImprovising Artistsを運営。

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上原基章 ● We Loved Poo Madly

チェルシーにあるプーさんのロフトを初めて訪ねたのは1985年3月のこと。現地の電話帳でプーさんを探し出し、「将来はジャズ評論家になりたい」と話すと「お前、バカなこと言ってんじゃないぞ!」と散々に説教された。1週間後にスイートベージルでギル・エヴァンスにあった時にその話をしたら、ギルは「ヤーッ、プーはエキセントリックな奴だけど、本当に天才なんだよ」とニヤッと答えた。その2年後、NYブルーノートのアイアート・モレイラ公演に行った時、バーカウンターの前で偶然プーさんと再会した。こちらが緊張していると、満面に笑みを浮かべて「ヨォ、元気か?あの時は怒鳴ってごめんな。ずっと気にしてたんだ。来週バンドでリハをやるから、よかったら来ないか?」と言ってくれた。翌週、指定されたブルックリンのスタジオ(あの『ススト』をレコーディングした場所)に行くと、プーさんの他にアイアート・モレイラ(パーカッション)、ジュニー・ブース(ベース)、ドラムはエリック・グラヴァットだったか、ビクター・ジョーンズだったか(記憶が曖昧)、そしてギル・エヴァンスが居た。僕はギルと並んでソファーに座りながら、リハーサル風景を眺めていた。そのリハは、クロード・ガニオンの映画『ケニー』のサントラのためのもので、ヴォーカルにはギルのラインからスティングが参加予定だったという。しばらくして監督のガニオンもスタジオにやってきてリハを聞いていたが、休憩時に隅でプーさんと話を始めた。どうも監督のイメージとテイストが異なっていたようで、最初は静かだったのがやがて怒鳴りあいになり、サントラのプロジェクト自体がオジャンとなってしまった。その2日後にプロデューサーだった稲岡氏(※このサイトの主宰者)が急遽日本から駆けつけてきて、何故かそのミーティングの場にも一緒に居ることとなった。

プーさんというアーティストは、文字通り自身の中に「天使と悪魔」を同居させていた人だった。僕に限らず、ミュージシャンや関係者の多くがプーさんの醸し出す至高の音空間と一瞬の笑顔に惚れ込み、騙され、散々な目に遭い、でもほだされ、惚れ直し、また裏切られたような思いを味わい、完全に縁を切ってしまった人、遠くから見守るだけの距離感を保った人、それでも最後までサポートしようとしてくれた世界中の人、人、人。プーさへの支援のために立ち上がったクラウド・ファウンディング、「新宿ピットイン」やNY「ポアソン・ルージュ(旧ヴィレッジ・ゲート)」で行われたベネフィット・コンサート、個々の繋がりでの直接的生活支援の数々。皆がプーさんから受けた贈り物に恩返しをしたかったのだろう。少なくとも、僕はそうだった。

7月31日、新宿ピットインで追悼ライブ「We Love Poo」が行われた。元々は本田珠也3デイズの最終日として日野皓正さんとのデュオが企画されていたものを、急遽長年の盟友だった峰厚介さん、珠也とともにOn The Moveトリオを組んでいた杉本智和とNYで公私ともに多大な薫陶を受けた須川崇志の2人のベース、そして同世代の仲間としてピアノの佐藤允彦が加わり、プーさんの<驟雨><リトル・アビ><ダンシング・ミスト>が演奏された。カメラマンとしてファインダー越しにステージを見ていると、熱い演奏が繰り広げられるほどに菊地雅章という偉大なアーティストを失った寂寥感がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。

プーさんからのメールを整理していて、こんな文面を見つけた。2年前の7月、プーさんのロフトを訪れる数日前に送られてきたものである。

“ 昨夜、一週間程前に録音して、Avatarに部屋を持っている内藤さんにmix downしてもらっておいた四本のDATの内の一本を聴いていたんだが、それが殆ど完璧と云って良い位のquality、それも「今」俺に聴こえてくるものに仕上がっている。ついに「やった」という感じだ。でも長かったよな。
でもここまで来れば、これからはいろんな意味で俺の人生も楽になるだろう。
本当にそうかな?
上原くんが来たらとりあえず一緒に乾杯しよう
poo”


この音は、プーさんから託されて僕の手元にある。この他にも、菊地雅章の遺産として世に残さなければいけない音が、方々にいくつもある。それをどう形にしていくか、最後までプーさんに付き合った人たちへの遺言と思って、鋭意相談して進めていきたいと思う次第です。

上原基章 Motoaki Uehara

元SME ジャズ担当。学生時代から晩年まで、公私にわたって交流。プロデュース:菊地雅章P.M.P(with マーク・ジョンソン、ポール・モチアン)『マイルス・モード』リマスタリング:『ススト』『ワンウェイ・トラベラー』の他、渡辺貞夫、日野皓正、ゲイリー・ピーコック、アル・フォスター等のCBSソニー時代の参加作品多数。

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William Spaceman`Patterson ● Reflections of Poo

I miss my friend... In thinking about Masabumi Kikuchi or "Poo" I smile and see his big smile. I first was introduced to Poo by Miles Davis' drummer Al Foster back in the late 70's .I remembered Poo from seeing him perform with Elvin Jones at the Jazz Workshop in Boston when I had attended Berklee College of Music. Al told me Poo was looking for a guitarist for the record he was recording, it was some Miles Davis influenced groove record. Even though I didn't do those sessions a few years later Poo was getting ready to record what would become the legendary "Susto" record date and he was auditioning guitar players. He must have had every guitar player in NYC come through, but we connected and the rest... We did the recording and it was incredible. Some of the sessions ended up on "Susto" and "One Way Traveler" so many great musicians on those recordings.

When it came time to actually play some of this music live Poo called me. He was trying out different combinations of players a few of the cats that played on the albums like Victor Jones, Ayib Dieng, and myself where to be the core of what would eventually become the AAOBB (All night,All right, Off-white, Boogie Band ). We spent long hours and many days working out the music. Poo had melodic and harmonic ideas which we groovealized and expanded the improvisational nature of within the groove. Poo wanted to add a second guitarist, since we had maybe 4 at one time on some of the recordings and Thomas Donker was recruited. We had played together back in the day around the NY scene and we loved his blues approach, together we could encompass a multitude of different guitar textures. We went through it and exhaustive search for the right bass player to hold down the bottom, we discovered Konrad Adderley incredible young bases with so much depth. We spent so many hours just practicing, playing, laughing, eating, carrying on, it was an incredible process. I think we would play for maybe 9-10 hours a day at Poo's loft studio he set up in Greenpoint.

This is going to be the first time that Poo took this concept live to Japan and he was very excited about this process. He was going to reunite with his longtime friend, and mentor Sadao Watanabe to perform at Sadao's BRAVAS club event in Shibuya, Tokyo . There are many tapes of rehearsals too. It was a wonderful process. And great music. Poo is very sensitive, so the concept inside the music was to allow the music to grow within itself, it required not only great playing but great listening. Poo was always conscious about allowing the openness of expression to happen. We would discuss different harmonic concepts and since we both loved Miles, Gil Evans, Stravinsky, Sly Stone, James Brown, Stockhausen, and Gospel music, we could relate how different textures of music could coexist with one another. Like myself Poo is a musicologist, he understood the progression of different musics through the ages and had an exhaustive collection of different styles, classical music, jazz, pop, soul, funk, gospel, and like myself, love it all. So the boogie band put all these different elements together and it was something special. We went to Japan played the Bravas club with Sadao and it was amazing! very different from what Sadao is known to do. I think Poo enjoyed taking Sadao out of his comfort zone and that allowed him to bring out this inner ferocity that the music he had been playing in recent times didn't bring out. I remember Sadao played some amazing saxophone. Poo knew exactly what melodies to put in horn to make him shine it was incredible. With the next edition of the boogie band we had Antoine Roney on saxophone, incredible! Antoine is the brother of Wallace Roney and himself an alumni of the Elvin Jones band, in the lineage of John Coltrane he brought to the band another sense of spirit. Again we would go into massive rehearsing working out all different types of cross rhythms polytonality and pure funk , always a labor of love because we all just love to play.

We were very intent upon making the music something special. so we went to Japan again this time at the Pitt Inn in Roppongi it was more amazing performances always surprising. New directions and our destination some times took curves we leaped, we dug underneath the ground, we levitated, but we got there, and when we did Wow! Lookout! To explain how this ensemble would create is very difficult, because you have to bring together the right elements of players to achieve certain goals. Everyone's experience leading up to that moment was very important. Everyone had to bring their A game always, or be devoured in the midst, lol! Back in New York we would always practice and do some occasional hits around the city one time we had Wallace Roney join us on trumpet. Then we had another time that we came to record I don't remember the location but we added a third guitar this time which was Kelvyn Bell so, it was Kelvin, Tomas, myself on guitar Konrad, on bass, Victor Jones on drums, Ayib on percussion, and Poo's friend from Japan Mine played the saxophone that became the recording AAOBB. Poo's love of different styles of music always influenced the direction which the band took. At that time Poo was digging what Prince was doing. The element of Miles Davis is always present because of our connection to Miles.

Some times I felt like the glue with poo, he would trust my suggestions for players and we would try out different cats. Now those tapes of rehearsals are incredible. Poo was very specific about what he wanted, now he may not have always articulated exactly what it was but he knew inside so when he heard it boom! and he just smiled and just lifted this up and it would be on. On the other hand sometimes he would be frustrated because some of the cats wouldn't bring what he was trying to get to. So back to the drawing board always. Somehow it seems that he must have liked whatever it was I was doing at the time because he would confer with me about what we needed to do. Poo could be very soft-spoken sometimes, so you had to lean in and hear him, sometimes his accent could become so thick that you had to ask what was that again? If he didn't have it in words he would put on a musical example and say how do we add this element to what we doing ? Sometimes this created a paradox of semi confusion, I think he liked it too. One thing I remember and it's funny, we started playing "New Native"(from Susto) and the crowd roared like as if it was up pop song that they knew so well. Remember we recorded that album way back in the early eighties and it wasn't readily released in the US. So we had no idea of how it was received in Japan back then. I found out later it received legendary status and I can understand it. I mean the personel included from Miles Davis'groups...Steve Grossman, David Liebman, Sam Morrison, Barry Finnerty, Airto Moriera, Billy Spaceman Patterson, Billy Hart. There was Teramasu Hino, Richie Morales, Victor Jones, Ronnie Drayton, Marlon Graves, James Mason, Butch Campbell, Adam Falcon, Hasan Jenkins, Gil Evans did some great arrangements with us and spent a lot of time in the studio. Gil loved Poo, who would always talk about how they shared information about orchestration and harmony. Gil Evans! what can I say! This music represented an important part in the development of electronic instrumental music. Poo’s exploration into different synthesizers, and myself exploring different sonic electronic pallets of sound with different combinations of pedals and guitar synthesizers was groundbreaking. And sometimes you just love the way Poo rocked that organ! He had learned from Miles some of those close voice leading harmonies. And the groove so important, never let it stop, even in the ballad it must groove... the last time we played in Japan we added two new drummers, Alfred Alias, who was Don Alias' nephew, and Leslie Ming on electric drums, again, Antoine Rooney played saxophones, Ayib Dieng on percussion and we added Brandon Ross on guitar, because Tomas couldn't make the trip that time. These shows are recorded on video and audio as were the AAOBB concerts and SADAOS concerts somewhere there exists video footage of these bands. I just found some recordings Poo did on one of my music projects, man he played some blues on here! I miss my friend, my brother from another mother, Peace, Space

ウィリアム(ビリー)“スペースマン”パターソン ● Pooの思い出

思い出すなあ...。菊地雅章、つまりPooのことだが、のことを考えると笑みがこぼれ、彼の笑い顔が蘇ってくる。Pooに引き合わせてくれたのは70年代も後期、マイルス・デイヴィスのドラマーだったアル・フォスターだ。もっとも 僕がバークリー音大の生徒だった頃、ボストンの「ジャズ・ワークショップ」でPooがエルヴィン・ジョーンズと演奏するのを聴いたことを覚えている。アルによれば、Pooがマイルス流のグルーヴのレコーディング中でギタリストを探しているということだった。その時は実現しなかったのだが、数年後、後に伝説のアルバム『ススト』となるレコーディングの準備が整い、ギタリストのオーディションが始まった。NY中のギタリストがオーディションを受けるような騒ぎだったが、顔見知りだった僕が残った。レコーディングは最高だった。
『ススト』『ワン・ウェイ・トラヴェラー』としてアルバム化されたのだが、多くの素晴らしいミュージシャンたちが参加していた。

時が巡り、アルバムの曲のいくつかをライヴで演奏することになり、Pooから電話で呼び出しがあった。彼はヴィクター・ジョーンズ(ds)やアイーブ・ディーング(perc)などアルバムに参加した何人かのミュージシャンを集めて幾つかのコンビネーションを探っていたが、結果的にはこれらのメンバーがAAOBB(オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギバンド)の中核となった。Pooがメロディーやハーモニーのアイディアを出し、僕らがグルーヴを造り、それをベースにインプロヴィゼーションの展開を考えた。アルバムでは一度に4人のギタリストを使ったこともあったので、Pooがもう一人ギタリストを欲しくなり、トーマス・ドンカーが加わることになった。僕とドンカーはかつて共演したことがあったのだが、皆、彼のブルース・アプローチを気に入ってくれた。僕らはふたりであらゆるギターのテクスチュアを醸すことが可能だった。そのうちボトムを支えてくれる強力なベーシストの必要性を感じ、コンラッド・アダレイというベーシストを見出した。彼はまだ若かったが素晴らしいボトムを弾き出してくれた。僕らは何時間も練習に明け暮れ、演奏し、笑い、食べ、また演奏に戻り、それは素晴らしい流れだった。僕らは1日9時間から10時間は演奏していたと思う。Pooがブルックリンのグリーンポイントに構えたスタジオでのことだった。

これが初めての訪日のためのバンドのコンセプトで、Pooはこのプロセス二とても興奮していた。Pooは東京の渋谷で開催される渡辺貞夫のイベント「ブラバス・クラブ」で、長年の付き合いであり師でもある渡辺貞夫とのリユニオンを考えていたのだった。リハーサルのテープがどんどん溜まっていたが、その過程は素晴らしいものだった。Pooはとても感受性の鋭いミュージシャンだったので、音楽の内なるコンセプトは音楽の中で音楽自身に自ら成長を促すものだった。だから、いい演奏をすることと同時に音楽に注意深く聞き耳をたてることも重要だった。Pooがいつも意識していたのは自由な表現を可能にすること。僕らは新しいハーモニーの概念について語り合い、また僕らは共にマイルス、ギル・エヴァンス、ストラヴィンスキー、スライ・ストーン、ジェームズ・ブラウン、シュトックハウゼンからゴスペルまでが嗜好の対象だったので、新しい音楽のテクスチュアがお互いにどのように関係し合うかについても語り合った。僕同様、Pooは音楽については学者肌だったので、いろいろな音楽の時代を経た変遷を理解しており、またそのコレクションもクラシックからジャズ、ポップ、ソウル、ファンク、ゴスペルまで膨大で、しかもそのどれをも愛していたという点でも僕と同じだった。だから「ブギバンド」にはこれらの様々な要素が詰め込まれており、そういう点でも異色だった。我々のバンドは日本を訪れ渡辺貞夫と共演することになったのだが、渡辺が通常演奏している音楽とはまったく違うという点で驚くべきことだった。思うに、Pooは渡辺貞夫をいつも安住している快適ゾーンから圏外へ連れ出し、近年渡辺が演奏している音楽からは生じえない内的な狂気を発揮させることを楽しんでいるように見えた。
事実、僕はサダオが素晴らしいサックスを演奏したことを記憶している。それはPooがサックスにどのような音楽を演奏させたら輝かせることができるかを知っているからだった。結果は大成功だった。次のヴァージョンでバンドにはウオレス・ルーニーの兄弟のアントワーヌというサックス奏者が参加したのだが、彼はエルヴィン・ジョーンズ・バンドの同窓生で、コルトレーン直径でもある彼はバンドにまた新たなスピリットを吹き込んでくれたのだった。そしてまた僕らは練習に明け暮れることになるのだが、複数のリズムや調性の絡み合いや一方ではどファンクを試行錯誤し、練習はきつかったが、誰もが演奏することを愛していたので苦にはならなかった。

僕らはいつも音楽に独自性をもたせることを心がけていたのだが、2度目の訪日では六本木のピットインを中心に演奏し、以前にもまして素晴らしい演奏ができ、驚きの連続だった。時には、方向性や目的地が急激に変わることもあった。跳んだり、地下にもぐったり、空中を浮遊したりもした。着地点が見つかり成功したときは、ワォ!やったぜ!という感じだった。しかし、このアンサンブルがどのようにして成立したかを説明するのはとても難しい。なぜなら特定の目的を達成するために、それぞれのプレイヤーの目的に沿った要素をひとつに束ねる必要があるからだ。各自の体験をその瞬間に集結させることがとても重要である。各自の集中力が拡散してしまったら最後、空中分解してしまう。NYに戻ってまた練習が再開した。ときには新しい才能を求めて街に出ることもあったが、トランペットのウォレス・ルーニーがバンドに参加したこともあった。場所は覚えていないのだが、レコーディングのためにケルヴィン・ベルという3人目のギタリストを加えたことがあった。つまり、ケルヴィン、トマス、それに、僕。ベースにコンラッド、ドラムスのヴィクター・ジョーンズ、パーカッションにアイーブという布陣。このときのサックスはPooの友人で日本人の峰(厚介)。Pooは好んで音楽のスタイルを変えたから、バンドの方向性もその都度変わらざるを得なかった。そのときは、Pooはプリンスの音楽を追求していた。僕らの関係からいつもマイルスの流れが反映されていることに変わりはなかったが。時に僕はPooを自分の師的存在に感じることがあった。彼は僕のミュージシャンの見立てを信じてくれていたので、新しいミュージシャンを試しに使ってみることもあった。そんなわけで、リハーサルのテープが恐るべき量になった。Pooは自らの要求に対しては非常に厳格だったが、ときにはそれを正確に言葉で表現することはしなかった。演奏を聴きながら、自分が欲する音が出たときはニコリと笑って指を立てたので、それと分かる仕組みだ。逆に自分の思う音にならない時はイライラし、最初からやり直すことを命じた。僕自身はPooといろいろ話し合う機会も多かったので、僕のやることは何でも受け入れてくれたようだった。彼の声が小さい時は耳を澄ませ、発音が聞き取りにくいときは言い直してもらう必要なときもあった。言葉で表現できないときは音楽で示した上で、そのやり方も伝えてくれた。時には盾があってやや混乱する時もあったが、それを嫌がってはいなかった。僕が覚えていることで面白かったのは、『ススト』に収録されている<ニュー・ネイテイヴ>という曲を演奏し始めた途端、聴衆がよく知っているポップ・ソングのようにどよめいたんだ。だけど、このアルバムが録音されたのは80年代の始めで、アメリカでは発売されていないんだ。当時、この曲の日本での受け方はどうだったのだろう。後になってわかったことは、このアルバムはすでに伝説的な存在になっていたことだ。つまり、メンバーの多くにマイルス・バンドのOBがいたこと...スティーヴ・グロスマン、デイヴ・リーブマン、サム・モリソン、バリー・フィナティ、アイアート・モレイラ、それにこの僕、ビリー“スペースマン”パターソン、ビリー・ハート。バンドに関わったのは他に、日野皓正、リッチー・モラレス、ヴィクター・ジョーンズ、ロニー・ドレイトン、マーロン・グレイヴズ、ジェイムス・メイソン、ブッチ・キャンベル、アダム・ファルコン、ハサーン・ジェンキンス。ギル・エヴァンスは何曲か素晴らしいアレンジを書いてくれたし、スタジオにも顔を出してくれた。ギルはPooがお気に入りで、ふたりはいつもオーケストレーションやハーモニーについて熱心に情報を交換していた。ギル・エヴァンス!何と言ったら良いのだろう!われわれの音楽は、電子器楽音楽のなかで重要な部分を成していたのだ。Pooの新しいシンセサイザーに対する探究心、僕自身のペダルとギター・シンセの新しい組み合わせによる多彩な電子音響の変化に対する探究心、これらは何れも並外れたものがあった。あるいは、Pooのあのグルーヴィなオルガン奏法が気に入ることもあるはずだ。Pooの近接した声部進行のハーモニーはマイルスから学んだものだ。グルーヴは非常に大切な要素なので、止めさせてはいけない、例えバラードの中でもグルーヴは必要なのだ。最後の訪日公演で僕らはふたりのドラマーを追加した。一人はドン・エイリアスの甥のアルフレッド・エイリアス、もうひとりは電気ドラムのレスリー・ミン。そして、サックスにアントワーヌ・ルーニー、パーカッションにアイーブ・ディエング。都合で参加できなかったギターのトマスの代わりにブランドン・ロス。AAOBBのコンサートも貞夫さんのコンサートもビデオ収録された。どこかにそのフッテージが保存されているはずである。Pooが僕のプロジェクトで演奏しているテープを見つけた。何とPooがブルースを弾いているんだ!寂しいぜ、Poo。Pooは僕の異母兄弟だ。(ギタリスト)

ウィリアム(ビリー)“スペースマン”パターソン Billy “Spaceman” Patterson

ギタリスト、アレンジャー、プロデューサー
ニュー・ジャージー州ニュー・ブランズウィックの生まれ。
バークリー音大、ニュー・イングランド音楽学院、ニューヨーク工科大学で学ぶ。ジェームス・ブラウン、マイルス・デイヴィス、オーネツト・コールマン、スティーヴィー・ワンダー、マーカス・ミラー他共演者多数。アル・フォスターの紹介で、アルバム『ススト』に参加したのをきっかけにスストの生ヴァージョンAAOBB(オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギバンド)の結成に参加。菊地の片腕として活躍。同バンドでの来日3度。

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上田 力 ● 期待しよう

 去年に続いて今年もプーさんがグループを引き連れてやってくる。去年の演奏を聴いたとき、プーさんが何故日本での演奏活動に絶望してニューヨークへ生活を移す気になったかを納得...というより、再確認できるような気がした。
 日本を離れてから、もうかなり長い年月がたち、その間、日本のレコード会社とのトラブルなどもあり、すっかりアチラの生活に溶け込んで、良くも悪くも日本人離れしてしまったのじゃないかと思っていたプーさんの音楽は、確かにずーっと日本にいたらこうはならなかったろうという部分を沢山チラつかせているにもかかわらず、プーさんという日本人を真向こうから印象づける個性に満ちあふれたものだった。ギル・エバンスの亜流ではなく、ギルが何よりも大切にし続けた「自由」をプーさん自身の言葉でスポンテイニアスに展開してみせてくれたのである。
 一部の日本人の耳には浦島太郎の音楽みたいに聴こえたかも知れない彼の奔放なマジメさ...それこそがニューヨークという異文化のなかにいるからこそ   花開いた、世界に通用するプーさんの個性であり、だから、彼の音楽はどのような現代的濁流にも汚染されない開放感でいっぱいなのだ。期待しよう。(キーボード奏者)

* 1989年のAAOBB「オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギバンド」来日時に制作されたパンフから再録。

上田 力 Chikara Ueda

作・編曲家 ピアニスト 音楽アナリスト
1925年、東京生まれ。ジャズとポピュラー音楽を違和感なくブレンドさせた作風で、70年後半からのフュージョン・ブームでは先陣を切った。主要バンドは「上田力&パワー・ステーション」。演奏活動と同時に執筆やセミナーなども積極的に展開している。

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内田 修 ● プーさんへ

 菊地君。待ちに待った君がようやく重い腰を上げて「ブラバス・クラブ」に出演してから早いものでもう一年になるんだね。あの「ブギバンド」の衝撃的なサウンドハは、君の音楽の原点のひとつを見る様で、とても感動的だった。僕は人づき合いの上手くない君に代わって、あのバンドを日本に招いてくれた貞夫君と奥さん、そしてマネジメントの稲岡君に心からありがとうと言いたいな。
 その後のニューヨークからの電話では。再びアコースティック・ピアノに燃えて、とうとうソロ・アルバムを完成したと聞いて本当に嬉しかったね。君のピアノは、高柳昌行君と組んだ「ジャズ・アカデミー」時代からずっと聴いている訳だから、きっと僕が一番古いファンかもしれないが、長い思索と研鑽を経た上で、選び抜かれてきらきら輝く様な音が、ごく自然に流れて行くあのソロテープ、僕は胸が熱くなってしまったね。
 そう言えば、最近オーケストラのCDを出したばかりの学生時代からの良きライバル渋谷毅君も、『ススト』を聴いて以来、プーには参ったね。あれは俺にはとても出来ないなあー、そう素直に言ってたよ。
 今度は名古屋近辺でも何度も聴けるから、とても楽しみにしている。どうか体に気をつけて元気に帰ってきておくれよね。(医学博士/ジャズ研究家)

* 1989年のAAOBB「オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギバンド」来日時に制作されたパンフから再録。

内田 修 Osamu Uchida PhD.

1929年、愛知県岡崎市生まれ。名古屋大学医学部卒業。岡崎市で内田外科病院を開業、多くのジャズ・ミュージシャンをケア。自宅スタジオやライヴ・ハウス、ホールで収録した演奏は、膨大なLP/CDと共に日本のジャズの貴重なアーカイヴとして岡崎市図書館に収蔵され随時公開されている。また、昨年より佐藤允彦の監修により厳選された演奏のCD化が始まっている。

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菊地あび ● 父・菊地雅章

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菊地あび

父・菊地雅章のライブ写真をきっかけに独学でカメラを始め、再開発の渦中であった地元の風景を約10年にわたりフィルムで撮り続ける。使用カメラは主にマニュアル一眼レフ、レンジファインダーなど。失われてゆく町の景色や見過ごされる草花などをフィルムに収めることをライフワークとする。

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稲岡邦弥 ● Pooさんのこと

Pooさんに思い残すことがあったとすれば、ピアノのキーに触れないまま逝ってしまったことだろう。もちろん、自宅ロフトの銘器ハンブルグ・スタインウェイのことである。指を横滑りさせるような独特のキー・タッチで象牙のキーの左右が片減りしていた...。
Pooさんから届いた最後のメールは12月20日付け。その10日前くらいから激烈な内容のメールが続いていたから、かなり体調が悪いのではと案じていた。2月に入ってさすがに心配になりトーマス(モーガン、TPTトリオのベーシスト)に問い合わせたところ、返事が返ってきたのがなんと4月の22日。
その間、ECM本社のサン・チャンから、ECM NYからの情報として、Pooさんが年末に再入院、その後、リハビリセンターで療養中との情報は得ていた。トーマスがトッド(ニューフェルド、TPTのギタリスト)とPooさんを見舞ったが、Pooさんの精神状態が良くなく、あまり意思の疎通が図れなかったことを嘆いていた。但し書きに、ジャズ・ファウンデーションの担当者が付いてニュージャージーの介護施設に入所する手はずを整えている、とあった。ミュージシャンが多い施設でピアノも持ち込めるから、という理由だった。Pooさんは、胸の手術の後、痛み止めに大量のモルヒネを投与され、記憶力をやられた無念を何度も口にしていた。メールの内容の錯綜がそれを物語っていた。気胸の他に悪性のものが見つかったとも漏らしていたがそれが何であるか問い詰める勇気は僕にはなかった。怜悧な頭脳の持ち主だったPooさんには意思通りに機能しない自分の脳がどれほど忌々しく、そして、腹立たしい思いをしたことだろう。察するに余りある。
僕が菊地雅章のマネジメントを担っていたのはちょうどバブル景気の時代に合致する。Pooさんのキャリアでいうと指を骨折したためにピアノから離れシンセサイザーに集中していた時代。スタジオでは「リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンス=サウンド・スカルプチャー」、ライヴでは「ブギバンド=AAOBB:オールナイト・オールライト・オフホワイト・ブギバンド」。それ以前にPooさんに関わったのは、トリオレコード時代にジョージ大塚『マラカイボ・コーンポーン』(1979)とギル・エヴァンス・オーケストラ『パブリック・シアター1980』(1981) との2作のプロデュース契約のみ。それだけに、ディレクターとして本格的に四つに組み最初に受けた洗礼は強烈だった。正月を返上してまでブルックリンのスタジオに籠り、山と積まれたテープを聴きながら二人で編集したマスターをクライアントの狂喜する顔を思い浮かべながら持ち帰った。ところが、帰宅した僕を待っていたPooさんからのメッセージは、「やり直し」のひと言...。1ヶ月の共同作業で得たものは何年間分にも相当する貴重なものだったが、マンハッタン・チェルシー(自宅ロフト)からブルックリン・グリーンポイント(スタジオ)を往復するドライヴィング・テクニックもそのひとつ。後にギル・エヴァンスを送迎する幸運にもつながることになった。道中、Pooさんから聞かされた話のなかにマイルスに関するものがあった。1階から2階に上がる階段の手すりに何か白く長い紙が貼り付けてある。近づいて見ると譜面を貼り合わせたもので、4、5mはあったという。マイルスに尋ねるとオペラ「トスカ」の譜面で、トランペットを吹きながら1階から2階へステップを上って行くのだという。テザード・ムーンでトスカを録音したのは、Pooさんなりにマイルスの遺志を継いだものだ。ところで、Pooさんが開発した「リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンス」は、シークェンサーでプレイバックされる予めプロミングされたサウンドを聴きながらキーボードでインプロヴァイズ、それをライヴ・ミックスするというスリリングな手法で、最終的にはCD10枚分位のマスターを仕上げた。今、聴いてもとても新鮮で、むしろ今こそ普遍性を獲得する作品かもしれないとさえ思う。
AAOBBは今や伝説の作品となった『ススト』(1981)をライヴで演奏するプロジェクト。1988年の来日はNYでPooさんの苦労を知った渡辺貞夫さんが「ブラバス・クラブ」に招聘してくれたもので、1週間にわたって渋谷の話題をさらった。エレクトリック・マイルスとギル・エヴァンス・オーケストラのエッセンスが色濃く反映されていたが、やはり菊地雅章のジャズ・ファンクだった。翌1989年の来日は、六本木ピットイン4日間はオーナー佐藤良武さんの大英断。ジャコ・パストリアス始め、来日中のミュージシャンが多数チェックに駆けつけた。一晩、CS放送がライヴ収録し、続く水戸公演が2枚組CDとしてリリースされた。AAOBBの公認記録として残されたものはこのCDのみということになる。九州・嬉野ジャズ・フェス出演とともにアクト川村年勝の尽力である。
突然、NYに呼びつけられたことがあった。長年連れ添ったパートナーとのトラブル収束だった。部屋に入ると無残な光景が広がっていた。彼女が丹精していた観葉植物の鉢が何個も床に散らばり、植物も切り刻まれていた。植物だけではない、彼女の衣類も切り刻まれて散らばっていた。おそらくPooさんの心はズタズタの状態だったのだろう、僕のちょっとしたひと言が逆鱗に触れ、たまたま遊びに来たAAOBBのパーカッショニスト、アイーブ共々ロフトから締め出されてしまった。数日後、ウッドストックのカーラ・ブレイのスタジオに誘い出したところ、カーラから譜面集をプレゼントされて機嫌が直った。それからしばらくして録音されたのが『Attached』(1989)だ。邦訳すれば「未練」といったところか。カーラの譜面集から2曲収録されている。Pooさんのソロでは珍しく情念が溢れ、曲によっては激情が叩きつけられている。CDを聴いたカーラが尋常ならざるエモーションの発露に驚いたのも無理はない。
パートナーとの別離の引き金となったのは、映画「ケニー」のサントラの不発だった。両足をもがれた少年ケニーが身体をスケボーに載せて生活する日本=カナダ合作の感動物語である。音楽の発注を受けたPooさんは作曲を拒み、ひたすら心の中から湧き出る音楽を待った。ピアノに向かって湧き出るフレーズを紡ぎ、カセットに録音していく。ギル・エヴァンスを交えてプレイバックを聴きながら選曲し、採譜する。トランスクリプションを担当したのは、当時ギルのアシスタントを務めていたマリア・シュナイダーである。この手法はしかし制作スケジュールのタイトな商業映画には通用しなかった。納期に遅れた上にカナダから試聴に訪れた監督に充分なプレゼンテーションができなかった。怒った監督はPooさんを馘にし、職業作家に発注すれば3日もあれば仕上げると罵った。もちろん、Pooさんにだってそれは可能だ。しかし、映画のテーマを重く見たPooさんは、音符を組み合わせて曲を作ることを拒み、自らの心の動きを待つことをした。失ったものは大きかったが、Poo さんは音楽家としての良心に従うことを優先させた。ギルもPooさんの音楽家としてのあり方を支持し、この重大な場面でマネージャー/プロデューサーとしての僕はその役割を完全に放棄していた。
2004年の春頃だったか、Pooさんから1本のDATが届いた。音を聴いて驚いた。まったく新しい世界が展開されていた。唸り声が影を潜め、表面だって認められるグルーヴ感も希薄で音が空間を浮遊している...。これを発売できるのはECM以外にはない、いや、ECMから発売すべきだと直感した。しばらくしてNYに飛び、Pooさんと数曲の選曲をやり直した上でDATマスターに仕上げた。ミュンヘンのオフィスでマンフレートに手渡した。これが、のちにECMから刊行された周年記念本『Horizons Touched:The Music of ECM』(2007) のカタログで予告された『at home project』である。その後、Pooさんとマンフレートの間で何度か激論が交わされた挙句、結局発売中止、トリオによる新作のレコーディングに変更、『サンライズ』(2012) のリリースとなった。激論の内容は、自宅ロフトで収録したことによる微弱ノイズとマンフレートによるリヴァーブの付加の問題。Pooさんは、このソロに関してはリヴァーブの付加を頑なに拒んだ。2本制作した『at home project』のDATマスターの1本は僕が預かっているのでいつか遺志を果たせることを夢見ていたが、ECMが2012年の上野文化でのソロ・コンサートを『東京リサイタル』として近々リリースするようなので、その必要もないかと思い始めている。(本誌編集長)

稲岡邦弥 Kenny Inaoka

兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。 Jazz Tokyo編集顧問。

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杉田誠一 ● 追悼 菊地雅章

Archives 撮影:杉田誠一/提供:株式会社電通
1986年9月 @Cracker-Jap Studio, Brooklyn, NY
For Real-time Syntersizer Performance and AAOBB=All Night All Right Off-white Boogie Band
With Lance Massey as the programmer+manipulater

杉田誠一 Seiichi Sugita

1945年4月新潟県新発田市生まれ。獨協大学卒。1965年5月月刊『ジャズ』、1999年11月『Out there』をそれぞれ創刊。2006年12月横浜市白楽にカフェ・バー「Bitches Brew for hipsters only」を開く。著書に、『ジャズ幻視行』『ジャズ&ジャズ』『ぼくのジャズ感情旅行』他。

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