UPDATED 09.26.2007

追悼 富樫雅彦 00 略年譜 編集部 01 To Togashi Richie Beirach 02 追悼 富樫さん 佐藤允彦 03 蝶々とクロワッサン 及川公生 04 To Togashi Paul Bley 05 ああ!!富樫さん 沖 至 06 富樫さん 加古 隆 07 富樫さんのフォー・ビート 五野 洋 08 富樫雅彦さんを想う 佐藤良武 09 富樫さんの思い出 日野皓正 10 Farewell Togashi-san Gary Peacock 11 トリビュート Nobu STOWE 12 追悼 富樫さん 横井一江 13 富樫さんの思い出 稲岡邦弥 14 僕が敬愛するミュージシャン、富樫雅彦	悠雅彦(悠々自適 Vol.15) 15 富樫さん、またどこかで・・・富樫さんと“SABU”豊住さんの45年間の友情	望月由美(YUMI’s ALLEY Vol.17) 16 富樫雅彦〜The Next Cycle	稲岡邦弥(連載コラム Vol.18) 17 富樫雅彦歓送会

00 略年譜 編集部


1940年3月22日、東京に生まれる。父雅昭は、チェロ、ベース奏者。
1946年(6才)ヴァイオリンを始める。
1954年(14才)ショーティ・ロジャースのレコードを聴いてジャズに惹かれる。
1955年(15才)松岡直也トリオのドラマーとしてプロ・デビュー。以後、八木正生トリオ、渡辺貞夫コージー・カルテットで演奏。
1961年(21才)高柳昌行、金井英人、菊地雅章らとジャズ・アカデミー結成に参加。
1965年(25才)富樫雅彦カルテット(山下洋輔、武田和命、滝本国郎)結成。同時に渡辺貞夫カルテット(1965)、ESSG(1969)でも活躍。
1969年(29才)佐藤允彦と双頭バンドESSG(実験的音響空間集団)結成。高木元輝、沖至が参加。
同年、映画『連続射殺魔』の音楽「アイソレーション」を録音。
1970年1月14日 (30才) 不慮の事故により胸から下の自由を奪われる。
1973年(33才)“インスピレーション&パワー14〜フリー・ジャズ大祭”で、佐藤允彦とのデュオにより再起。
1975年(35才)『スピリチュアル・ネイチュア』日本ジャズ・ディスク大賞金賞受賞
1977年(37才)「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ‘77〜Jazz of Japan」に出演
1979年(39才)渡欧、パリでレコーディング。
1980年(40才)第19回南里文雄賞受賞。
1986年(46才)S.レイシー、D.チェリー、D.ホランドを招いて音楽生活30周年記念コンサート。2枚組みライヴ・アルバム『ブラ・ブラ』制作。
1992年(52才)JJスピリッツで「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ‘92」に出演、ライヴ・アルバムを制作。
1993年(53才)音楽生活40周年記念ソロ・アルバム『パッシング・イン・ザ・サイレンス』制作。
2000年(60才)音楽生活45周年記念コンサート 於 東京国際フォーラム・ホールC
2002年7月(62才)新宿ピットインでの日野皓正とのデュオ演奏を中断。
同年10月、新宿ピットインでの佐藤允彦、日野皓正との演奏をキャンセル、演奏活動から引退を表明、作曲活動に移る。
2007年8月22日、心不全のため他界。

 

 

01 To Togashi Richie Beirach


Togashi was a one in a million musician and composer. He overcame his disabilities and became even more heroically focused and brilliant. Over many years I have made some of my best recordings with him. He will be very missed by his friends and fans and me.

 富樫は、100万人のミュージシャンと作曲家の中の唯一の存在だった。彼は障害を克服したばかりでなく、輝ける英雄的存在となった。私は、何年にもわたって彼とレコードを制作してきたが、私のベストの作品の何枚かは彼との共演作に含まれている。友人やファンが彼の死を多いに惜しむだろうが、私もそのひとりである。(ピアニスト)

 

 

02 追悼 富樫さん 佐藤允彦


 「オレが死んでも悲しむことないよ。こういう毎日から解放されて良かったね、メデタイメデタイってドンチャン騒ぎして祝ってくれ。」
 貧血が進行して車椅子に一分と座っていられなくなり、演奏活動を断念した2002年9月以来、病床から頭をめぐらして見える空間だけを世界として生きていた富樫雅彦さんがよく云っていた言葉です。
 車椅子に乗れさえすれば、信州へ蝶の採集に行くことも、パリの石畳を散策することもできるのに、という思いはいつも心の底にあったはずです。
 しかし体は自室の幅120cmほどのマットレスから少しも動けなかったけれど、富樫さんは宇宙を自由に飛び回っていました。手をのばせばスタンドを取り払ったエレクトリックピアノがあり、描くぞ、と云えば夫人が即座にキャンバスとパレットを用意して、彼のイメージは旋律や風景となって次々に記録されて行きました。
 何と豊かな精神生活だろう、とうらやましくなる時もあるほどでした。
 彼がもしこの期間を文章にしていたら、正岡子規の『病牀六尺』に匹敵する作品になったはずですが、そのかわり多くの絵と4枚のCDが残りました。
 富樫雅彦が類いまれなパーカッショニストであった時代に続いて、画家、作曲家としての時代といえる5年間があったことを、我々は記憶しておかなくてはならないと思います。
富樫さん、おつかれさまでした。そして、ありがとう。(ピアニスト/作・編曲家)


 

 

03 蝶々とクロワッサン 及川公生


 TCPの亀川さんの依頼で、東映制作ビデオ『モメンツ・オブ・ライフ』(1984)の、富樫雅彦パーカッション・ソロの音声の仕事をした。演奏の映像は当然だが、蝶々蒐集家としての一面を見せる映像でもあった。その撮影にお付き合いできたことが強烈に印象に残っている。
 標本として納められた蝶々を冷蔵庫から愛おしそうに取りだして縁側に並べた。
 その量の多さに驚いたが、なにより心を動かされたのは、蝶々に対する愛情の細やかさである。撮影班の人たちは、富樫さんの細やかな神経など無視するかの様に、テキパキと仕事に取りかかる。パッとライトが灯される。「えっ!!ヒ、ヒ、光なんて当てるなよ!」と富樫さんが怒鳴った。「光を当てると羽が反り返ってしまう」と。撮影が終わって、「その人にとって、どれほど大事なものか、分かっているのかっ!」と苦言を呈していた。
 一つ一つ、膨大な標本群を見せていただいた。「これは沖縄の何処にでもいる種類だけど」「これは珍種だよ」「これは富士山の麓で採ったんだけど」「ほら、この斑点の所、」と、時間がアッと言う間に過ぎてしまった。まだ標本にする前の蝶々も見せて下さった。丁寧に幾重にも紙にくるんだ見本を見せて下さる、その手つきは今も印象に残っている。繊細なガラス細工を手に取る、あの手つきに似ている。愛しい、がにじみ出ていた。
 クロワッサンは、大好物であったらしい。麻布のベーカリーのクロワッサンは絶品、「美味いよ!」と、顔中に幸せがみなぎっていた。美味しいところのお店が幾つか候補に挙がる。コンビニのクロワッサンは、「あれは食い物じゃねーよ、形だけ」と。それ以来クロワッサンの美味しいのを見つけると富樫さんに教えたいと、思っていた。
 後一つ、「J.J.スピリッツ」のライブ・アンダー・ザ・スカイの録音の時、野外だから当然、風は注意していた。マイクは全て風防止の処置をしたが、それでもゴボゴボ雑音が入る。参ったなあー!!音質は犠牲にして、電気的手段を講じるしかないかと諦めかけていた。ところが本番、あの富樫さんのドラの一発が効いたのか、ピタリと風が止んだのである。奇蹟。(録音エンジニア)


 

 

04 To Togashi Paul Bley


"Togashi - keep you back to the wall."

富樫、身を守るんだぞ!
ポール・ブレイ(ピアニスト)

 

 

05 ああ!!富樫さん 沖 至


 僕にとって コワイ人 と言うのが今だに二人居る、東の富樫雅彦と西の宮本直介だ。
 “コワイ”とはすなわち僕に関しての全てを視抜かれている、と僕自身が視抜いているからであり、又コワイ=優しいでもある。
一番敬意を評する音楽家でもある。
 僕が一寸エエカッコしてやろうと思っても、この二人にはバレてしまう、と言う僕自身の意識が働いて何だか普段の自分ではなくなってしまう。
と言う危険性に駆られてしまうのだ。おそらく僕が死ぬまでこの二人はコワ人であろう。

 1960年も終わりの頃、恵比寿の富樫家からほんの500mほどの所のアパートに横浜から引っ越しして来た。なぜならば富樫さんの近くに居を構えたかったからである。

 その頃の僕の音楽活動は自分自身の芸術的活動とJazzグループ、そして峰厚介、吉沢元治、高柳昌行等とも共演した。
 Mr. TogashiとはESSG(M佐藤、M富樫、M高木、I沖)と言う実験的Soundを追求するグループに参加、色んな音体験をさせてもらった。
 ライブ終了後は何時も富樫家に転がり込んではワイワイと楽しみ、ボビー・ハケットの心地よいトランペットを聴きながら、蝶の採集の出発時間、午前5時を待つのであった。

 蝶の採集では金沢文庫、多摩湖、日ノ春あたりに出掛けたが、あまり収穫の無い時は富樫さんも僕も大好物の大根の葉っぱを沢山採って帰った。
 しかし、我々はだんだんと“蝶道”にのめりこんで行ったのだ。渋谷にある滋賀昆虫でプロ用の標本箱、展翅台、その他を購入する費用なども結構の支出になった。採集場所に関してもだんだん遠出する様になり、長野県の美ヶ原、房総半島南端などにも行った末、遂には、かなりの日本の蝶が採集できたのであった。その後は我々蝶コレクターのあこがれの的ゼフィルス(小さなシジミ蝶科の一種)の採集だった。
 ある日、Jazzメンの蝶コレクターの先輩こと、ピアノの徳山さんに情報をいただいてマムシの出る房総半島の最南端まで天然記念物であるゼフィルスの一種のルーミスシジミを求めて我らは6段繋ぎの長い網を持参、15mほどのブナの木を舞うこの珍蝶を求めて,,,,しかし一度目はこの珍蝶には巡り逢えなかった。音楽仲間の高木元輝、翠川敬基なども我々蝶仲間に参加する様になった。

 その頃の僕の私生活はある時期 少々乱れていた様であった。丁度富樫雅彦の『We Now Create』がリリースされた頃だ。
 完璧主義者でもありコワイ富樫さんはそのレコーディング・セッションのTpにベテランの伏見哲夫さんを選んだ、僕の自業自得である。
 ちなみに富樫さんの蝶の展翅に関しては本当に完璧なのである。羽、触角、がキッチリと、誰も真似が出来ないほどに、

 ゲテモノ、偽物、意気がり、を決して受け付けない、しかし、誰よりもクリエイティブな、本物しか受け付けない ああ!富樫さん_(トランペッター/在パリ)


 

 

06 富樫さん 加古 隆


 富樫雅彦さんと初めてお会いしたのは、1976年の冬でした。
 その年、僕はフランスから一度帰国し、翌年1月に帰国コンサートを開くことになったので、その共演をお願いするため御宅へ伺ったのです。
 面識のないミュージシャンからの直接の依頼にもかかわらず、富樫さんは気持ちよく応じてくださいました。そのコンサートがきっかけとなり、しばらく後に結成された富樫雅彦カルテットのメンバーの一員(ピアニスト)として、それからの数年間をご一緒する機会を得ることが出来ました。
 僕はそれまでにも、ヨーロッパでは何人かの名のあるミュージシャンと共演し、さまざまなことを学んできましたが、富樫さんとの演奏は、今までの体験とはまた一味違った特別なものでした。日本の風土に根ざし、日本人特有の「1つのことを極める」という性質が殊更強く、自分の出す音にとことんこだわり、深く追求していく姿勢は、真に求道者、富樫雅彦の音楽家としての在り方そのものであったと思います。
 コンサートやレコーディングの前に、あれ程細かく綿密に楽器のピッチや音色を調整していたドラマーは他には知りません。
 また、ジャズというジャンルでありながら、音と音との間、いわゆる音が鳴らない空間、−間合い−の重要性を敏感に感じ取り、強く意識して表現に取り入れていたのも、日本人ドラマー富樫雅彦でした。
 その後、僕の進む音楽の道がいつしかジャズから離れていったことや、富樫さんが東京を去られたこともあり、長い間お会いする機会を持てないうちに、とうとう遠くにいかれてしまいました。
 音楽の話をされるのが大好きで、よく御宅にお邪魔したのですが、典型的な夜型タイプの方で、いつもおいとまをする時には夜が明けていました。30年も前の、当時のなつかしい想い出です。
 富樫さんのご冥福を心からお祈り致します。(作曲家・ピアニスト)

 

 

07 富樫さんのフォー・ビート 五野 洋


 1991年のある日、鯉沼利成さんから「五野クン、富樫のフォー・ビートのレコ−ド一緒に作らないか」という電話があり、一瞬驚いたが直ぐに「でもハイハットなしでフォー・ビート出来ますかね?」と素朴な疑問が口から出た。今となってはホントにお恥ずかしい質問だが、その時は正直にそう思ったのだ。話がとんとん拍子に進んで6月の初旬、今はもう跡形もない六本木のセディック・スタジオでレコーディングに入り、富樫のシンバル・レガートから叩き出される、美しいスイング感、強烈なパルスを目の当たりにして圧倒された、と同時におのが不明を恥じたのだった。富樫雅彦はシンバル・レガートだけでスウィングするのである。
 このプロジェクトは、メンバー、曲目の選定、リハーサル等、普通なら必要なプロセスは一切なし。何故なら、富樫は佐藤允彦(ピアノ)、峰厚介(テナー・サックス)、井野信義(ベース)とクァルテットを組んで定期的に新宿ピットインなどに出演しており、彼の頭の中ではこのメンバーでフォー・ビート、ビ・バップをやるというコンセプトは既に固まっていたのだ。JJスピリッツというバンド名も決めていたというから恐れ入る。そう、Japan Jazz Spiritsである。もちろん永年の盟友、佐藤允彦の音楽的、精神的アドヴァイスがあったことは言うまでもない。
 レコーディング初日は富樫の楽器をどういう音で録るかという音決めに時間がかかり、なかなか進まなかったが、いったん音が決まると快調なペースで次々にOKテイクが録れ、当初アルバム1枚の企画だったのだが、鯉沼プロデューサーの英断でもう1枚分録ることが出来た。『Masahiko Togashi & J.J.Spirits Plays Be Bop Vol.1』というタイトルで1991年10月に発売された1作目が大評判をとり、その年のスイングジャーナル誌ジャズ・ディスク大賞日本ジャズ賞を受賞。翌1992年初頭にVol.2発売。7月にはパット・メセニー、マーカス・ミラー、V.S.O.P.等に交じって「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ'92」に出演し、そのLIVE盤を発売。翌1993年の全曲富樫のオリジナルによる『Step to The Next』発売まで快進撃が続いた。4枚のアルバムと3年間の軌跡は富樫雅彦のレギュラー・グループの中では長い方ではないだろうか。
 富樫が生前敬愛していたマックス・ローチも美しいシンバル・レガートを身上としていたが、富樫より1週間先に逝ってしまった。きっとあちらでシンバル・スタンドをセッテングして一緒にスウィングするのを心待ちにしていたに違いない。(ユニバーサル・ジャズOB/現55レコード代表)


 

 

08 富樫雅彦さんを想う 佐藤良武


 私がまだ30才ぐらいのころ、当時のピットインは、今では写真でしかみることができませんが、木造屋の1階にあって、外ドアに続く内ドアを開けると店に入ることができました。出演当日の夕方、昼の部の演奏が終わる頃に、外ドア近くの路上にワゴン車が横付けになり、富樫さんは奥さんとボーヤのサポートで車いすに乗り換え、店のスタッフの誘導により、店の中の楽屋へと向かいます。私は、ピットイン歴代のマネジャー達のミュージシャンへの完璧な補佐もあり、どちらかというと現場の陣頭指揮にあたるよりは、店の仕切りは当時からスタッフに任せていました。しかし、ミュージシャンの演奏は気になるもので、やはり真剣に聞かざるを得ません。まして、富樫さんの演奏となると、そのドラミングの凄さもさることながら、その不屈の精神にも強く惹きつけられていました。そして、回を重ねて聞く度に、共演する多くのミュージシャンの心境が、私にも伝わってくるような気がしていました。シャイな富樫さんと少しずつではありますが、言葉を交わし、親しくなるにつれ、彼はピットインをホームグランドとして、私どもと長くお付き合いすることになります。数えてみると、富樫さんの出演は1966年から現役を引退するまで36年に及びます。しかし、2002年に現役を退かれても、引退したような気がしないのは、富樫さんの精神がずっと現役のままだったように思えてなりません。このことは音楽家としてとても大切なことだと思います。お見舞いに伺ったときにもなおいっそう、その思いを強くしました。本当に、富樫さんは、ピットインの42年の歴史の中にあって欠かすことの出来ない重鎮の1人であり、言い換えればピットインの歴史を作り上げた1人ともいえます。そして、ピットインの未来にむけても、多大なる影響を残した偉大なるミュージシャンです。
 ここにご冥福をお祈りします。(ピットイン オーナー)

 

 

09 富樫さんの思い出 日野皓正


 富樫さんとの最初の出会いは、彼の出所の出迎えだった。富樫さんたちとジャズ・アカデミーカルテットを組んでいたPooさん(菊地雅章p)に誘われてついていった。僕らはそのまま「マヌエラ」というライヴをやっているレストランに出掛けた。僕はトランペットを持ってなかったので、マラカスで演奏に参加したところ、あとで富樫さんから「君はすごいリズム感してるなあ」と誉められたことを覚えている。
 じつは、富樫さんのことは親父から聞いて知ってはいた。富樫さんの親父さんのバンドで僕の親父がトランペットを吹いていたんだ。親父が言うには「富樫さんの14,5才の息子がいるんだが、仕事場へバスで移動する間ずっとスティックで叩いている。お前も見習ってしっかり練習するんだぞ」。富樫さんは服役中もずっと床を叩いていたらしい。
 富樫さんはあるときからフリーの方へ行ってしまったので、あまり一緒にやる機会はなかったけど、リッチー・バイラークpと3人でやったレーザーディスクの『エアーズロック』。彼のセンシティヴィティとデリカシーにあらためて驚いた。その後、93年にPooさんとジェームス・ジーナスbのカルテットで、内田先生がプロデュースした浜松のジャズ・フェスに出演したカルテット。それに99年の6人編成のバンド。富樫さんと演奏していていつも思うのは、自分のスペース、というか宇宙をもっている人だということね。努力もしているけれどやはり天性のものが大きいと思う。
 プレイができなくなって、ミュージシャンが見舞いに行ってることは知ってたんだけど、僕はあえて行かなかった。薄情と思われたかもしれないけど、僕の心の中で憧れの富樫像というのがあってそれを壊されたくなかったんだ。(9.02談/文責・稲岡)
 註:日野さんのマネジャー田淵等氏がフォローしてくれた。「じつは、富樫さんの最後のピットインも日野とのデュオだったんですよ」。新宿ピットインの店長・鈴木寛路氏に確認したところ、「2002年7月27日、日野さんとデュオで演奏していた富樫さんが貧血をおこし、起き上がれなくなってしまったんです。結局、日野さんがトランペットのソロやタップまで繰り出してステージを埋めてくれました。11月にも、富樫さん、佐藤さん、日野さんのトリオが組まれていたんですが、この夜は、佐藤さんと日野さんのデュオで通しました」とパソコンのデータで確認しながら語ってくれたのだった。

 

 

10 Farewell Togashi-san Gary Peacock


You will always remain a source of inspiration for me, personally and musically.
Though we may suffer the vicissitudes of life, you have shown that the creative spirit is unstoppable.

Thank you.

さようなら 富樫さん

君は僕にとっていつもインスピレーションの源泉でいてくれることだろう。個人的にも、また、音楽的にも。僕らに人生の苦難は付きものだろうけど、君は、創造的な精神は不断であることを示してくれた。
ありがとう。
ゲイリー・ピーコック(ベーシスト)

 

 

11 トリビュート Nobu STOWE


 富樫雅彦さんの訃報を亡くなった次の日 (8月23日)、稲岡編集長からのEメールで知った。高校卒業まで日本で過ごし、アメリカに来てからも定期的に帰国していてライブに行くチャンスは在ったはずだが、一度も果たせなかった。そんな新人ピアニストが言うのは気が引けるのだが、富樫さんの音楽はインスピレーションの源であり、いつか是非一緒に演奏をさせて貰いたかった。

 そのような事を考えているうちに、富樫さんの盟友佐藤允彦pさんのホーム・ページで富樫さんの演奏者としてのリタイアを知りショックを受けた時を思い出した。それは、2002年の暮だったと思うが、富樫さんの音楽 (CD) と出会ったのは、その1〜2年前シカゴでだった。

 自分のジャズ・コレクションは、その頃既に1500枚を数えていたはずだが、日本ジャズのアルバムは1枚も持っていなかった。近い物といえば、最近亡くなったトニー・スコットclが山本邦山(尺八)等を迎えて創った『ミュージック・フォー・ゼン・メディテーションズ』(VERVE)だけだったと思う。

 もっとも、中学〜大学とロックに凝っていた頃も邦楽には全然手が伸びず、洋楽ばかり聴いていた。それも、イギリスやアメリカ以上にヨーロッパ (特にイタリア) や中南米のマイナーなアルバムまで喜んで買っていた。

 そんな辺境志向は、今も続いている。けれど、富樫さんの音楽は、自分のルーツである日本及びその独自な美の世界に目を向けるきっかけ以上の物を与えてくれた。

 大学院に入ってからゲイリー・ピーコックbの魅力に取り付かれ、彼のECMの諸作はもちろん、サイドマンとしての参加作品も目に付き次第買っていた。そんなゲイリーが日本で残したアルバムがあると知り、興味本位で手に取ったのが『ヴォイセズ』(SONY)。共演している富樫さんや菊地雅章pさんは、名のみ知るという状態だった。

 『ヴォイセズ』を聞いてまずひらめいた言葉は、“日本”。それもウワベだけの異文化融合と違い、日本の伝統を深く理解した上でジャズに昇華させた美を感じた。

 ゲイリーのいつも以上にイマジネーションに富んだベース、菊地さんの感覚的なピアノや村上寛さんの味のあるドラムにもすごく感心した。けれど、ゲイリーの日本文化の本質をえぐり出したような作曲と、他楽器のアンサンブルの間に漂って幽玄美を演出している富樫さんのパーカッションに一番耳を惹かれた。そのプレイからは、アメリカ的なスウィングやグルーブ、またヨーロッパ的な遠近法に根ざした構築美とは明らかに違った日本的な“間”を強く感じた。まるで水墨画をパーカッションで描いているようだと思った。能の舞を見ているようなプレイだとも思った。

 この一枚ですっかりファンになった僕は、それから富樫さん関係のアルバムを集めだし、今数えてみたところリーダー作だけでも30枚以上手元にある。また、富樫さんの参加したアルバムを足掛りに他の日本ジャズを少しずつだけれど発見してきた。でも日本を代表するジャズマンを一人挙げろと問われれば、今でも躊躇なく富樫さんの名を挙げる。

 アメリカやヨーロッパで富樫さんの事を知っている人は、(特に若い世代では) ほとんどいない。こちらでは富樫さん関係のCDは入手困難で、僕のコレクションもほとんど日本からの通販で揃えた。そんな状況を打破すべく(?)富樫さんの音楽を、知り合ったミュージシャンや音楽ファンに熱心に紹介してきている。返ってくる評価が一貫して高いのも、富樫さんの音楽にある確かな芸術性によるものだと思う。

 スイスの高名なパーカッショニスト、ピエール・ファヴレがシカゴにツアーに来た時に話す機会を得た。ピエールに“自分にとってあなたのプレイは、ポール・モチアンdsや富樫さんと同次元に属するものです”というような事を言った。ピエールはすごく感激したらしく、富樫さんとの日本でのデュオの思い出を嬉しそうに語ってくれた。おまけにCDを2枚サイン入りでくれた。(この時のデュオの音源は残っていないのだろうか?)

 去年から一緒にプレイをしているイタリアを代表するパーカッショニスト、アンドレア・チェンタッツォも富樫さんのソロアルバム『リングス』に感動したことを話してくれた。アンドレアは、彼の共演者兼“師匠”でもあるスティーブ・レイシーssから、富樫さんの素晴らしさをたくさん聞かされたらしい。ちなみにアンドレアのディスコグラフィー (ICTUS) には、富樫さんとレイシーのコラボレーションにオーバー・ラップする、レイシーとのデュオ作『クラングス』や『タオ』、ケント・カーターbを迎えたトリオによる『イン・コンサート』がある。また、全編パーカッション・ソロによる作品も何枚か創っている。興味のある方は、是非チェックしてみて下さい。

 実はさる8月25日、ニューヨークでゲイリー・ピーコックにインタビューする機会が在り、亡くなって間もない富樫さんのことも話題に上った。数々の共演が証明しているように、ゲイリーにとっても富樫さんは重要なミュージシャンだったらしく、色々話してくれた。(このインタビューは近日JAZZ TOKYOに掲載予定です。)

 富樫さんは佐藤允彦さん、菊地さんのほか、リッチー・バイラーク、山下洋輔さん、加古隆さん、ポール・ブレイとのパーカッション=ピアノによるデュオ・アルバムを何枚か残している。それらの出来はみな素晴らしいし、このフォーマットは自分にとって重要なものなので、富樫さんとのデュオアルバム制作が僕のユメだった。もちろん富樫さんに僕の音楽を認めてもらえたらの話だったけれど。

 残念だが、このユメはもうかなわない。でも、富樫さんの音楽はこれからも僕にインスピレーションを与え続けてくれるだろう。(須藤伸義/ピアニスト/在バルチモア)

 

 

12 追悼 富樫さん 横井一江


 富樫雅彦の創り出す音楽に風景がある、と最初に感じたのはいつだったろう。確かLP『スピリチャル・ネイチャー』を聴いた時だったから、かなり昔のことである。その風景、サウンドの佇まいに日本的なものを感じたのは、欧米人とは異なる自然観が昇華されていたからに他ならない。それはおそらく、日本人ミュージシャンの演奏にポジティヴな意味で日本的なものを感じた最初ではなかっただろうか。
 少し前のことである。ダリ展を観に行った時に、会場の片隅で映していた短いインタビュー映像でダリは、「スーパー・ローカルが国際的に評価されたのだ」といったことを言っていた。メモを取っていなかったので正確ではないだろうが、おおよそそのようなことを言っていた筈だ。ダリの絵画の背景は、よくポルト・リガトやカダケスの風景が描かれている。それだけではなく、創作の根元には古来より様々な文明が行き交ったカタロニアの風土とその精神性があるのだろう。
 考えてみれば、世界的に評価され、歴史にその名を残す芸術家は、ある意味スーパー・ローカルではないか。そしてまた、革新者である。富樫もまたそういう音楽家であると私は思う。彼が独自に探求してきたパーカッション・サウンドは他に例のないものだった。コピー・キャットであるうちは評価は得られない。欧米人とは異なる概念や美学をもつ日本人富樫としての表現をとことん追求してきた音楽家である。これほど自分の立ち位置に自覚的なミュージシャンは数少ない。
 まだメールが郵便で、インターネットのカケラもなかった70年代から、ドン・チェリーをはじめ、海外からやってくるインプロヴァイザーが富樫との共演を望んだのもそれゆえだったと考える。
 スティーヴ・レイシーが日本ツアー直前に亡くなったのは2004年だったが、亡くなる前にかつて日本ツアーに同行し、2004年もツアーがキャンセルになっても再び日本を訪れるつもりでいたGilles Laheurteに、「富樫と出会い、一緒に演奏出来たことをどれほど嬉しく思っているか、彼に伝えてほしい」という言葉を託したという。(註1)
 数多くの録音と作品や絵画が残された。作品や活動の再検証はまだなされていないに等しいが、その貴重な遺産を次世代にも繋いでいってほしいと心から願うし、それが我々の果たすべき役割だと思う。

 富樫の演奏を観た最後は、エッグファームでの佐藤允彦とのデュオである。演奏終了後、なにげなく言葉を交わす機会があった。その時、つのだひろが自分の元生徒だったという話になり、意外な顔をした私にこう言ったのだ。「生徒が自分と同じことやるんじゃ、つまらないだろ。オレは生徒がどっちに行ってもいいように基礎を徹底的にたたき込む。基礎があればどっちにも行けるだろ」と。その時、教育者としても真っ直ぐな姿勢を持っていた人物であったこと、また、それが彼の妥協なき音楽性にも強く現れていることに気付いたのだった。(ジャズ・ジャーナリスト)

註1:Steve Lacy and Japan by Gilles Laheure @ http://www.allaboutjazz.com

 

 

13 富樫さんの思い出 稲岡邦弥


 富樫さんが静かに逝った。まるで、アイドルだったマックス・ローチを追う様に。マックスは8月16日、富樫さんは22日だった。シェリー・マンでジャズに目覚めた富樫さんだったが、ドラマーとしての理想はマックスだったようだ。マックスのあの正確無比なタイミングとライド・シンバルの美しいレガート。ポリリズムから生まれる開放されたスペース。富樫さんのキャリアを通じていろいろな形で影響を与えていたようだ。
 富樫さんが亡くなって、ネットに掲載されているディスコグラフィーをあたってみた。事故に遭うまでに録音されたアルバムが40数作、そしてその後に倍以上のアルバムが制作されている。もちろん、リーダー作の他にサイドメンとしての参加作も含めての制作枚数だが、ひとりのジャズ・ミュージシャン、しかもドラマー/パーカッショニストとしては稀にみる多作である。単なる打楽器奏者でなかったことの証左であろう。その中で私が関わったアルバムが17作あり、これには驚いた。もちろんひとりのミュージシャンとしては最多数である。「あんなコワイ人と、17回も?君はマゾっ気があるんじゃないの?」という声が聞こえてきたが、たしかに富樫さんはコワイ人ではあるが、優しい人でもある。自らに厳しい分、他人にも厳しいのだ。職場放棄をされたことが2回あった。一度はスタジオの選択を誤った時。タムを一発叩いて「ここじゃ無理だな」と一言残しスタジオを後にした。もう一度は、コントロール・ルームの環境。オーディオ・メイカーとのコラボ・プロジェクトのため関係者の出入りが多く、集中力の維持が難しかった。限界を超えた富樫さんは「これじゃ無理だよ」と言ってサブ・スタジオに消えた。トリオ演奏だったので、なんとか説得に応じてもらい、事なきを得た。
 電通のアートビデオの音楽制作を担当している頃のこと。富樫さんの蝶のコレクションとソロ・パーカッションの企画に挑戦してみようと思い、松田町の自宅を訪れた。下駄箱の上に葉っぱの上にさなぎの乗ったガラスの小瓶が何十と並べられていた。押入れから次々に出される標本に目を見張った。日本に生息する蝶は全種あるという。「八重山にあまり知られていない生息地があるからそこから取材を始めよう」と提案される。気分はすでに石垣島に飛んでいるのだ。「富樫さん、コレクションされているものをアート的に撮影させて欲しいんです」。「稲岡くん、標本は美術品じゃないんだ。蝶という生き物の生息の完成品なんだ」。どうやら富樫さんは蝶の生態を追うビデオを作りたかったようだ。
 1994年制作のソロ・アルバムに思い出が多い。松田町の自宅に連れていった子犬が飼い犬の中型犬クマと戯れるさまを目を細めて眺めていた。3日間の合宿録音に山中湖畔のスタジオを選んだ。蝶の好きな富樫さんに喜んでもらえると思った雄大な富士の眺望は不発に終わった。「富士山は嫌いだ」「どうしてですか」「余りにも完璧過ぎるだろ。あの美しさにはどうやっても勝てない」。このときは時間的な余裕もあり、セッションの合間に富樫さんの口から問わず語りに昔話が漏れ出した。ドラッグとの壮絶な闘い、崩壊する家庭生活。しかし、完成した音楽『パッシング・イン・ザ・サイレンス』はえもいわれぬ美しさに満ち満ちていた。ヴォリュームを下げてBGMとして聴いて欲しいという。そういえば、富樫さんの部屋には甘いラテン・ミュージックが小さな音で流れていた。自作のBGMが欲しかったのだろうか。
 1999年のポール・ブレイpとのデュオ『エコー』が富樫さんとの最後の仕事になった。両者が楽曲を持ち寄る企画が半年前に決まり、念入りな選曲を経て数ヶ月前に譜面がポールに送り出された。録音現場に到着したポールの口から発せられた言葉にわれわれは愕然とした。「すべてインプロヴィゼーションで行く」。ポールの意向を告げられた富樫さんは潔(いさぎ)よかった。「分かった」。口を真一文字に結び、決然とした面持ちで車椅子のストッパーをカチャと外し、ステージに向かった。
 「ちゃんかあ、ヒーコー」。献身する奥さんに大好きなコーヒーを所望する富樫さんの声が耳にこだまする。(音楽プロデューサー)


 

 

17 富樫雅彦歓送会


去る8月22日他界した日本を代表するドラマー富樫雅彦さんの歓送会が決まった。

[日時]2007年12月8日(土)20〜23時 9日(日)20〜23時
 (出演バンド数によっては、15時〜19時追加の可能性あり。但し、入れ替えなしの予定)
[会場]新宿ピットイン
[発起人]渡辺貞夫、日野皓正、佐藤允彦、山下洋輔
*出演者多数
[お問合せ]新宿ピットイン TEL:03-3354-2024

 

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