Jazz and Far Beyond

コルトレーンナイトはドラムスの石田博嗣が1992年より始めているトリビュート・コンボ。今年は生誕百周年と60回忌が重なり、特別気合が入っていたように思う。
アンジーヌ・ド・ポワトリーヌとロバート・グラスパーをどうしても観たくて、無理を押してニューポート・ジャズ・フェスティバルに行ってきた。本当に行ってよかったと、しみじみ思う。
オランダのサックス奏者、ベン・ヴァン・ゲルダーとギタリスト、レイ二エル・バースが岡山・蔭凉寺に登場。長年続く彼らのデュオ・プロジェクトでは、2人の限りない音楽探求の現場を目の当たりにする。
「Polyphonia」は、関西拠点のコントラバス奏者、森定道広が指揮を執り、ルネサンスからバロック期にかけて書かれたポリフォニー作品を中心に演奏するグループ。ジャズ・即興演奏家が多数参加している。
素敵なホールで素晴らしい演奏家と歌手による巨匠の作品を堪能した。
コンテンポラリーダンスから出発して独自の世界を作り上げている望月紅華、シカゴで即興音楽の道を切り開いてきたタツ青木、ふたりの一期一会の邂逅。
Text and photos by A
これだけの人数のオーケストラを、どのように響かせ、どのように聴かせるのか。
内なる情熱がほと ばしる、能や歌舞伎の「静中動あり」にも通じるアジア的な表現へのシフト
ギター一本で、ハーモニカの旋律とともに、さがの歌は作品の実存を引き立てていた。
ヨーロッパのファンはオリジナルやインプロを真剣に聞いてくれる。
55回目となったメールス・フェスティヴァルは、会場を市街地に近い場所、中世に建てられたメールス城の近くにある広場に移し、5日間に亘って開催された。
不測の事態が重なりつつ。結果的に「没入型」とはまた異なる音楽映画が現前してしまう。
グランドフィナーレでは、鴈治郎が音頭を取り、上方歌舞伎の存続と支援を観客に向けて力強く訴えかけました。
ジスモンチ、ブラジル音楽に惚れ込んでいた人達が、初体験の人達を巻き込んで新たなコミュニティを形成する。
ポスト・クラシカルとカテゴライズされるヘニング。ライブで聴いた彼の演奏は、不自由な時代を過ごした人間が自力で獲得した「自由」のパワーと喜びに溢れていた。
未公開映像を含めた、ドキュメンタリー映画『カウント・ベイシー』を観て。
毎度ながらMODEに集まる若者の柔軟な感性には驚きと喜びを感じる。実験的な芸術を通じた「交換・交流」の場としてのMODEが支持されている証拠に違いない。
ジェリー・ヘミングウェイが来日、アイルランド在住のピアニスト木村泉とのデュオでのツアーを行った。
中川家3世代に加え、ドラムとチューバとバンジョーに世界的名手が勢揃いした「TRAD JAZZ COMPANY」は、古き良きニュー・オーリンズの音楽を現代に伝えるには日本一のスーパーグループ。ラ・フォル・ジュルネならではの大人の歓びのひととき。
関西で活動を積み重ねる独創的なトリオ・IOSUIが、はじめて関東でライヴを行った。演奏に向けた想いとともに、それぞれの来し方行く末についてインタビューを行った。
アムステルダム・コンセルトヘボウの『圧倒的に豊かな音』に愕然とした。箱物はやたらと増えているのに、こういうクオリティのホールを日本でも作ることは出来ないのだろうか?
世界で活躍し、ECMやブラジルもリスペクトする3人の初共演。素晴らしいオリジナルの数々を持ち寄り、他にジスモンチ、ホイーラー、ハーシュ、ウィンストン、ジャヴァン、谷川&武満なども交え美しく歌い上げた。
衒(てら)いなく穿たれた音は瞬時に柔らかさを湛え、響きは「通時」から「共時」へとその性質を変える。永遠のように慈しむ一瞬、内観とともにゆっくりと攪拌される「時」。
この若き音楽家パブロ・バジェは、まさにタンゴの奥深さと未来を背負っているのだろう。
サインホ・ナムチュラクが7年ぶりに東京で公演を行った。
今回は人ならば還暦にあたり、特別な興味を覚えた。ジャンル特定の小さめのハコを60年維持するとは世界にもめったになく、演奏を聴きに行くというより式典に参加するような心持で会場に向かった。
7回目を迎えた熱海未来音楽祭は、11月29日と30日の2日間に亘って行われた。
ちょうどその日は冬至に当たった。ゆず湯の代わりにアキオン(昭男の音)をいただいて、耳もからだも温ったまった。ほっこり満足のひとときだった。
トーマス・モーガンのベース・ソロ、トミーカ・リードのカルテット、その圧倒的な想像力と集中力。
矢沢朋子のピアノは、より深いところでのバーバリズムという新たな段階に進んでいることを感じさせた。
瞑想的なサウンドでありながらロックの覚醒感を伴う60分は、これまで体験した実験音楽や即興音楽では味わったことのない原初的な興奮と至福感に満ちていた。
伝統の中に落ち着くのではなく、八木美知依が探求している現代の音楽としての箏アンサンブルのひとつのマイルストーンとなる公演だった。
今年は大友良英が個人的にアジアン・ミュージック・フェスティヴァル (AMF) を始めてから20周年に当たる。それを記念した公演が行われた。
矢野顕子のソロと森山威男を中心とするクインテットで現代を生きるミュージシャンの今の演奏を聴かせる。
アルベルト・ノヴェッロの投射光がサウンドの媒体となり、ピエロ・ビットロ・ボンの執拗かつ強粘性のサックス、アンドレア・グリリーニの絶えることのない揺動とともに、全体として物語性をもつ即興演奏を繰り広げた。
このピアノトリオのサウンドはとても独特で、ピアノのプリペアドを始め3者がいろいろなエフェクトを使っている。
斉藤はきわめて優秀な奏者だが、彼に課せられた使命は偉大な先覚者を乗り越えることにある。
謝明諺カルテット台湾公演に見る日本のフリージャズ・ミュージシャンとの世代を超えた共演と交流。
現代作品においては、ギターが有するポテンシャルを、現代奏法を用いるなどしてどこまで高められるか。
音楽フェスティバル「Miło mi(ミヲミ)~サウンド・カルチャー:ポーランド×日本」は大阪で開催された国際交流企画。関西万博で海外文化への関心が急上昇した大阪の「なんばひろば」で賑やかなコンサートが続いた。
ロサンジェルス在住のピアニスト、ジョシュ・ネルソンのThe Discovery Project、2025年ヴァージョンでは、新加入ベーシストをフィーチャーし、東京と関西でツアーを行った。
ベース奏者ヴィニシウス・カジャードが初来日した。そのうち、立ち会うことができた東京での2夜について報告する。
<夜空ノムコウ>で知られるシンガーソングライター川村結花が30周年を記念してオールタイム・ベスト盤『Melody Maker』がリリース。メンバーの温かい想いと楽しさに溢れたバンドライヴが行われた。
それから43年が過ぎた。その2人がまだ大勢のファンの前にいて、幸せを送り続けてくれている、その光景に胸を熱くした。
池本が、NYでダニーと初めて会ってから10年。自分のislesで、同じステージに立てていることの幸せを、奇跡のようにかみしめている。
楽しみにしていた行本 清喜氏のSoulbleedのコンサートを観にNYCのNubluに出かけた。昨年動画を観た時から彼らのグルーヴに魅せられ、この日が来るのを首を長くして待っていた。生で体験した彼らのグルーヴは想像を絶した。グルーヴ・ヘヴン!
『超ジャズ』の刊行記念ライヴに出演したミュージシャンは3人。ビッチェズ・ブリューで定期的な演奏機会を得た纐纈之雅代(サックス、ギター、ヴォーカル)と香村かをり(韓国打楽器)、そして出演時のことを強烈に覚えているのなか悟空(ドラムス)である。
大阪・関西万博「ショパン・ウィーク」期間中開催の「ショパン作品をジャズで再解釈した特別な4公演」
ポーランドのレジェンド、アンドジェイ・ヤゴジンスキ(piano)も登場。ショパン・ジャズの歴史と現在を描く企画。
大阪・関西万博の関連プロジェクトとして、ポーランドのジャズ・アーティスト9組の公演が大阪と東京で行われた。ポーランドでとりわけ勢いのある音楽家、グループを間近で聴く貴重な機会となった。
テリ・リン・キャリントンが歌手のクリスティ・ダシールと組んでリリースしたアルバム『We Insist 2025!』は、マックス・ローチが1960年にリリースした『We Insist!』へのトリビュート作品。しかし本人がMCで話したように現代の視線により「reimagine」された音楽であり、驚くほど鮮烈だ。
NYCマーカス・ガーベイ公園で開かれたチャーリー・パーカー・ジャズ・フェスティバルのリポート。
このトリオの結成初期から聴き続けてきたファンを、彼らはBlue Note Placeに連れてきたのである。そして彼らは、そんなプレッシャーを包み込むような高揚感に転化し、すばらしい演奏を聴かせてくれた。
ショーロクラブをはじめ幅広い活動で既視感のない音を追求する鬼才 沢田穣治。沢田を敬愛する立命館大学教授にしてピアニストの神子直之。ECMリスペクトを共有する2人の初共演が、両者のオリジナルにケニー・ホイーラーの名曲を交えて実現した。
二人はやりとりの名人芸を静かに展開した。速弾きへ向かう技巧の炸裂ではなく、互いに相手の出方に即興で反応するジャズの基本に立ち返る芸の確認で、二人の音楽的境地の達成と思えた。
ジェシカ・アッカリーがはじめての来日ツアーを行った。ジャズ・即興シーンでこの数年間注目度が高くなってきたギタリストである。
不気味さをまぶしたヴェルヴェットの弱音が無限に拡張してゆく異世界。皮膚全体から多孔的に染み入る波動に戦慄。次元が違う。
音響体験としても面白いコンサートだった。何よりも齢を重ねても好奇心旺盛なテリー・ライリーのチャーミングさとその創造意欲に感銘を受けた。
70歳を超えてもなお、ストイックに挑戦を続けて自分を磨き続けるパット・メセニー。2025年のソロ・コンサートは、2024年をはるかに上回る驚異的なクオリティだった。
シカゴのフリージャズ・シーンにおける活動が長いタツ青木だが、このところ帰国して東京での演奏を行う機会が増えてきた。今般の再来日で組まれたギグ、さらに先行する形での舟遊び。
エリック・ミヤシロの呼びかけで結成されたトランペット奏者4人からなる新ユニット「4TRP. Legends」は、世界中の人にレジェンド達の魅力とトランペットの魅力と無限の可能性を伝えていくことだろう。
奇しくも現実のコンクラーベが後を追うことになった珠玉のミステリー映画。映像美と研ぎ澄まされた音響に惹かれるが、主人公ローレンス枢機卿の苦悩と葛藤に「バシェの音響彫刻」の一種を、緊張感の表現に弦楽器のスタッカートの旋律を多用しているのが印象的だ。
今回、その場をキーファー作品が占め、その存在が語りかけてくることに存在で返すと、田中泯はパフォーマンスの後に語っていた。
こんなピアニストがいたという発見と、その哀惜の念をこんなかたちで映像表現できるという驚嘆に心を持っていかれた。
台湾の謝明諺が「大」が付くヴェテラン安田芙充央と初共演。注目度が高かったようで、会場には台湾から日帰りで観に来た猛者もいた。
ポーランドの現代ジャズを紹介するイベント、ライヴ、トークショー、DJの3部構成。
元「オルケスタ・デ・ラ・ルス」の創立メンバーを核にした、少し懐かしさのある強力なサルサ・バンド『オルケスタ・デラックス』がデビューした。「デラックス」というだけあり、楽しさもメンバーも超豪華だ。
アートのパワーは人々のパワーに通じている。
初めて生演奏による今回のケルン・コンサートを観賞した感想の総括としてはやはり生演奏は素直にいいものだ。
今年で10回目となる田村夏樹・藤井郷子の昼夜ぶっ通しライヴ「あれもこれも」が2月2日に新宿ピットインで開催された。
若手の沼尾と鈴木がベテランの大友、磯端とそれぞれデュオ・セッションを行う。
などでルイの複雑な気持ちを伝える場面もあり、この話題を避けてはいないのも良かった。
ソプラノサックス奏者、Joe Rosenbergが率いる2管コードレスカルテットには、関西拠点のプレイヤー3人が加わった。中身の濃いインプロヴィゼーション、曲展開の面白さは、今年も期待通りだった。
色彩豊かな音世界を描く3人が2月大阪に初めて集い、衝撃のケミスリーを生み出す奇跡のライヴとなった。4月20日、下北沢「No Room for Squares」で東京初演を予定しており、この奇跡の出会いとサウンドをぜひ体感して欲しい。
今回は必要性に駆られ、ケンドリック・ラマーのスーパーボウル・ハーフタイム・ショーを取り上げた。どのニュースメディアも「この先何年も語り継がれる」と評価したラマーのアメリカ批判メッセージは確実に彼の天才性をヒップホップ界以外にも知らしめることになった。
「この2人、恐ろしいほど進化してる!!」期待を遥かに超えた素晴らしい演奏だった!
数十年間偽名で逃走した挙句、死の間際医師に「桐島聡として死にたい」と訴えた。
じわじわとした独特の「ゆらぎ」の境地と甘やかなる思索性-このボーダーレス時代にはいかにも得難い。
北欧から即興演奏のトリオが来日した。コントラバスのクリスティアン・メオス・スヴェンセンは過去に何度も来日しており、またポール・ニルセン・ラヴ(ドラムス)、田中鮎美(ピアノ)らとの共演で国内でもわりと認知度が高い。ドラムスのクレステン・オズグッドは菊地雅章(ピアノ)やドクター・ロニー・スミス(オルガン)などレジェンドとの共演盤を残しており経験豊富だ。バスクラリネット、クラリネット、フルートを吹くアンドレアス・ロイサムは初来日。
ロバート・グラスパーがボストンに来ると必ず出かけているが、ピアノ・トリオでのライブは初めてだった。あまりの凄さに失神寸前だった。なぜこんなに彼らに魅了されるのか、理解できないから何度でも足を運んでしまう。
ロンドン、アヴァンギャルド音楽の聖地「カフェOTO」での3日連続公演の最終日は、「あまちゃん」と盆踊りのプログラム。大友はこれが受け入れられるか不安だったが、スタンディングの観客が大熱狂しひとつになる感動の夜となった。
八木美知依がこれまでにない顔ぶれで演奏するというので、下北沢 Lady Jane へ出かけた。
エキセントリックな軸に振り切ろうと思えばいくらでも「スタイル」らしきものを提示できる選曲ながら、舘野も有吉もそうしたエゴとはひたすら無縁である。
NYで活動を続ける石当あゆみ(サックス)のミニツアーが行われた。再演のほか新たなミュージシャンとの手合わせもあり、ふたたび東京の即興シーンに足跡を残した。
シフの実際の演奏は録音を遥かに凌駕する。定評あるバッハだけでなくベートーヴェンのソナタ3曲がとりわけ素晴らしかった。
ジョビンと坂本龍一が繋いだ日本とブラジルの深い音楽の絆。優れた音楽は新たな手により、形を変え世界に受け継がれていく事を実感させるライブだった。
演奏曲はほとんどどがマリアの作曲で、鳥など自然や身の回りのことが発想の元になっている
香港映画のサウンドトラックの多様さやすばらしさに改めて気づき、より深く知るきっかけにもなった
この日のためにオーガナイズされた11人編成のスペシャル・バンドによる貴重なライヴ
UKジャズの奇才ジョー・アーモン・ジョーンズがBaroomで栗原健を迎えて行なったスペシャル・ライヴ
JAZZ ART せんがわの面白さは独自のプログラミングにある。総合プロデューサー巻上公一、そして坂本弘道、藤原清登という3人のプロデューサーの協働体制が功を奏して、間口が広く、新たな出会いのある開かれたフェスティヴァルになっている。
ECMレコードというのは、マンフレート・アイヒャーという「耳の音楽家」によって選ばれ繋がれた、膨大な量の世界の音の図書館である。
政情不安で治安も悪く、貧しい家庭から希望を持ってオーケストラの練習に励む子ども達、希望の星であるスター指揮者ドゥダメル、その試練と苦悩。感動する。間違いない。感動した。
このコンサートは、ピアニストの矢部優子がYouTubeでたまたま聴いたアイヌの子守歌<60のゆりかご>に心を動かされ、アポイントひとつ取らず北海道まで旅をしたことに端を発する。演奏が終わるころ、ホールは多幸感に満ちていた。
時に刃(やいば)のような協奏を各々のソロが受け止める刹那に覗く、流れ落ちるパッション、それを単音に収斂させるタフネス―目の当たりにする度に、クァルテットを構成する個人と総体、その互角の強度を再認識する。
舘野泉を触媒として更新される音風景は、拡張を止めない。
今年の「秋のアキ」は新たな出会いがあった。それが何らかの形で今後繋がっていけばいいなと思う。
北村は今年95歳(!)だが、クラリネットの音色は世界一美しいのではないか、と思わせるほど澄んでいる。
『Love Supreme』のコルトレーンでしられる黒人写真家チャック・スチュアートの回顧展とライヴ。
脊椎損傷から再起した天満敦子の<望郷のバラード>と寺島夕紗子の<さとうきび畑>の完唱に胸を熱くした。
ジルにまた会える、それも京都で会えるとは思ってもみなかった。御年八十うん歳、今回は三人息子と孫娘のファミリー・バンド、最小限だが信頼は厚い連中で後ろを固め、休憩なし、気がつくと二時間。
完全に今を生きたものであり、即興音楽の枠組みを超えた新しい表現だった。
異能のサックス奏者クリス・ピッツィオコスが7年ぶりの来日を果たした。ここでは、東京における3箇所のギグを報告する。
どんなに激しくとも、決して攻撃的でも破壊的でもなく、微光に包まれるような、どことなく温かな手触りが感じられる、じつに不思議な演奏
ベーシストの阿部真武とギタリスト/サウンドアーティストの津田貴司によるソロ&デュオ。大阪市、阿波座のシェ・ドゥーヴルにて充実したライヴを体験した。
たしかに心底から魂を揺さぶられる感動的なフィナーレではあった。
展示作品そのものが演奏の方向性に強く関わっている。
4時間に亘るイベントは、表現者としての彩Sayaの今後の飛躍を予感させる生命感に溢れていた。
Dai Kimoto & His Swing Kidsは10月に日本全国10カ所以上を回るツアーが組まれている。
芸術性の高い音楽と最高の録音技術が重なった時にしか味わえない、貴重な瞬間の連続。様々なシーンの描写も美しく、どこを切り取ってもECMのジャケットを彷彿させるような、創造性に満ちたものであり視覚でも楽しませてもらった。
もはやカーラ・ブレイ作品への取り組みは、吉田のライフワークと言っていいのかもしれない。
ことばの間合いと音の間合いから『源氏物語』という古典が現代人の感性で物語として立ち上がってくる、そんなひとときだった。
ザイ・クーニンはマレー系のシンガポール人であり、タブローや立体作品を創造するアーティストであり、音楽家であり、身体表現者でもある。今般再来日し、傑出したインプロヴァイザーたちとの共演を行った。
コンサートは瀬川氏が献身的に愛したビッグバンドによる3部構成
この二人の奏者は過去の音楽的遺産をしっかりと引き受けながら、それを巧みに組み換えて現在に活かしているところに共通性がある。
ライヴに行くと、出演者じゃない音楽家の方をよく見かけます
“演奏者も観客も含めた新世代の実験音楽”―これがMODEのコンセプトかもしれない。そしてそれは決して”世代交代”ではなく、”世代を超えた実験音楽の輪廻転生”であることを、この日のコンサートが証明していた。
シカゴのフリージャズ・シーンにおいてタツ青木の存在は欠かせないものであっただろう。今般の再来日で組まれたギグはふたつ。年齢的にはかなり年下のミュージシャンたちとの自由即興、そして大御所・山下洋輔との邂逅である。
台湾のサックス奏者・謝明諺(シェ・ミンイェン、通称テリー)が再来日した。15日間(2024/6/11-25)で17回ものギグを行う濃密さ、しかもオフ日にもセッションに出かけるという凄まじさ。本稿では筆者が企画した3回の演奏について振り返る。
世界各国から参加する気鋭のミュージシャン達の奏でる音楽は、その国の情景や情勢をも想像させ、エネルギーと希望に満ち溢れる。ジャズを通して世界を旅した音楽漬けの3日間!
今年のメールス・フェスティヴァルで国としてクローズアップされていたのは日本とナミビア。これまで日本からこれほど多様なバンドやミュージシャンが招聘されたことはなかった。
吉田篤貴EMO strings Concert 2024 -noboru- ストリング・ノネットが織り上げる壮大な未体験サウンド
ベニー・ゴルソンは1929年1月25日生まれで、95歳の今も健在。
<モナ・リサ>から<アリラン>で感動的なフィナーレが、「日韓親善」の輪が目の前に。
菅野邦彦が開発した並列キーボード「oHAIo」は、黒鍵の長さを白鍵に、白鍵の高さを黒鍵に合わせて、すべての鍵盤が同じ長さ・高さで並んでいる。
戦後の紆余曲折を経て、文化施設として利用されるようになったブンカ―・ウルマーヴァルは、ミュージシャンの演奏の場としてだけでなく、音楽、アートについて語る場、議論の場として親しまれるようになる。
クリスチャン・プリュヴォとピーター・オリンズが久々に来日、藤井郷子と田村夏樹とのユニットKAZEにモリイクエを加えた編成でツアー、公園通りクラシックスでの2 daysでは与之乃(琵琶)と石川高(笙)をそれぞれ迎えてライヴを行った。
日本公演全体を通して、オープニングのシングルノートを淡々と繰り返す新曲「Rita」から激しい「Rush Hour」や「Truco」まで、非常に多彩な内容で観客を飽きさせない構成だった。初めての人でもドミニク・ミラーがどういうミュージシャンかよく伝わったと思う。
坂田明とイヌイジュンという「オレとオレ」ゆえの音。それはふたりの「オレ」が突破者でなければ成立しないものだった。
平手裕紀 期待の新トリオ始動
曲ごとの記憶を声で表わし、彼の半生を聴くようだった。PAなしでその声を至近距離で聴けたのは、いつもより大きな満足だった。
3日間にわたるペーター・ブロッツマン追悼コンサートの最終日の模様を、ロンドンの Cafe OTO からリポート。
KARMはプラハのミハル・ヴルブレフスキ(アルトサックス、クラリネット)とベルリンのトルステン・パペンハイム(ギター)による即興のデュオユニットである。かれらの特徴はまったく電気を使わないことだ。
テナーサックス奏者3人(西口明宏・陸悠・馬場智章)がフロントに並ぶ。燃え上がり、吹き荒れ、やがて和する三本のサックス。西梅田ガロンの本営業初日は、満員御礼で幕を開けた。
急速な進化を続ける武本和大の新プロジェクト “Departure”
「舞台というカンヴァスを描き切る身体の自在さ」は、この日の出演者すべての共通項。聴き手は視覚と聴覚をフルに動員しながら、演者たちが差し出す内的世界へとり込まれていくことになる。
3日間にわたるペーター・ブロッツマン追悼コンサートの2日目の模様を、ロンドンの Cafe OTO からリポート。
森田潤、グンジョーガクレヨン、Cannonball Explosion Ensemble。それぞれがスタイリッシュですばらしく野蛮な演奏をみせた。
今年最初に出かけたライヴは、実験音楽家ピエール・ベルテ Pierre Berthet、ロンドン在住の彫刻家中島吏英そして坂田明による即興パフォーマンス。続いて「田村夏樹・藤井郷子 あれもこれも2024」と第16回JAZZ ART せんがわへ。
大部分の人が立ち上がり、皆が踊っている。会場は大きな興奮に包まれ、ダンスホールと化した。
パット・メセニー5年ぶりの来日公演の中心となる演目は、なんと「ソロ・コンサート」だった。これまで観たことのないような演奏が繰り広げられたその「ソロ・コンサート」。札幌での公演の様子をレポートする。
Jazz Art せんがわの手本であるメールスが逆にせんがわから学ぼうとしている。これこそ「ひと言で判られないフェスティバル」の真の在り方であろう。
4年ぶりの来日。強さ、速度、相互の意思疎通、すべてにおいて驚くほど高度な演奏をみせてくれた。
北京在住の朱文博(ツゥ・ウェンボウ)と趙叢(チャオ・ツォン)が久しぶりに来日した。また西安出身・ロンドン在住の李松(リ・ソン)は1年ぶりの日本である。3人とも方法論自体から作り上げる者であり、やはり、蓋を開けてみると予想外の展開となった。
そんな大きなスケールが背後にあっても、ムジーククーゲルの表現は、なお清楚でたおやかだ。
2023年11月25日、プロデューサーとして、また文筆家として、大きな功績を残した悠雅彦の追悼コンサートが行われた。亡くなった翌月の開催であり、この場に集まった演奏者、関係者、観客の多さが、悠の影響力の大きさをものがたっていた。そして、展開された音楽の世界は、伝統と革新の両方を同等に重んじる悠の姿勢と重なるものだった。
出会ったことのなかった音楽家3人が集い既視感のない音楽を紬ぎ出す新ユニットのthe second contact。20代のパーカッショニストKanもパンデイロで参加しさらに音の地平を広げた。美しいオリジナルの数々に加え、キース・ジャレット「プリズム」も取り上げた。
肉体に有り余るグルーヴ感を音符の極限にまで宿らせるふたりの演奏は、「形式」があるクラシック音楽であるが故により一層の強度で、音楽することに対する分け隔てのないスタンスや、その普遍的な楽しさを伝えてくれる。
29回目を迎えた本家LFJは、「夜」や天体にインスピレーションを受けた音楽にフォーカス。ドビュッシー<月の光>、ベートーヴェン<月光>、ショパン<ノクターン>をはじめ、ジャズスタンダード、ワールドミュージックまで幅広い音楽を魅せた。
LFJ TOKYOが、COVID-19感染拡大による3年の空白を経て開催。大会場を中心に、ベートーヴェンの交響曲、協奏曲、器楽曲から幅広く、またジャズやラテン、和太鼓、当時まだなかったサックスアンサンブルなどさまざまな拡張も取り上げた。
南仏プロヴァンスで夏の夜に開催されるピアノコンサートシリーズ。24歳のピアニスト藤田真央が、自然の音響に包まれる野外会場で、ショパンとリストの魂の音楽を確実に観客の心に届けていた。
確実に観客の”魂に届く”ショパンとリストの響きに圧倒された。
白いもじゃもじゃ髭のエルメートが、助手に助けられて舞台に登場した。楽譜を描いた革の帽子をかぶっている。魔法使いの別名で知られるのはもちろんこの外見からだが、魔法はそれよりも演奏ぶりにあった。
「ジャズは自由な音楽。ジャズの楽しさとパワーを皆に広めたい。この国にはジャズが必要なんだ」
この早稲田ジャズ研、60余年の歴史を有するだけに、OB・OGだけで700名近い人数を擁している。
「Utsunomia MIX」シリーズのライヴ録音現場で、フリーインプロを繰り広げる神田綾子とsara (.es)を聴く。アートギャラリーには、風神の叫び、雷神の怒号が飛び交っていた。
楽器とからだがひとつになる―ジャンルと楽器を問わず、よくこんなほめ方をする。その日のナベサダはその境地にあったと思う。
東南アジア島嶼部のザイ・クーニンとサックスの川島誠による初共演。
オランダ在住の現代音楽系即興サックス奏者 植川縁の「夏の即興まつり 2023」をいくつかレポートする。
緊迫と磊落(らいらく)のあいだを大きく振り切る羅針盤のような3時間。
静けさの本』のなかで書いている。「音は出合いであり、すぐに消えてしまう。記憶のなかにしか残らない」。記憶があやふやになって音は消えていくが、心配するな。後知恵だが、こんな安堵に浸れるのは彼の特別な存在(不在)ならではのことだ。
田中悠美子は、日本の伝統芸能界以外のコンサートにおいて伝統楽器を使うことについて「異なる文脈の中で日本音楽の独自性が際立つことに意義がある」と書いている。トロンボーンという西洋の金管楽器との即興演奏はまさにその実証でもあった。またアレンがどこか特定のルーツ音楽に拘るのではなく、アジアなどを旅しては演奏し、映像を撮る複眼的な者であることも、このトリオを特別なものとした。
この集団即興で出現している状態は、音楽にとっての「生命のスープ」みたいなものだ。
米国ワシントン出身、フィリピン在住のサックス奏者リック・カントリーマンとスイス人ドラマー、クリスティアン・ブッチャーが来日。大阪在住のベーシスト、フラギオとともにトリオで関西ツアーを行った。7月15日、ゲストにジェリー・ゴードン(sax, etc)を迎え、中身の濃い演奏を間近に見た。
第52回目となったメールス・フェスティヴァル、本会場、屋外ステージ、またセッションが行われたアネックス、教会やメールス市内でのライヴなどを含めると軽く100を超えるコンサートが行われた。
台湾随一のサックス奏者・謝明諺(シェ・ミンイェン)は、ことばによる音楽的な響きの違いを追求している。久しぶりの来日公演で、沼尾翔子、遠藤ふみとともに作り上げる日本語のうたの世界。そしてポップ歌手の林理恵(マーズ・リンことリン・リーフイ)による台湾語・中国語のうたと朗読。なにか豊穣な音世界の起点となるか。
4年ぶりにメールス・フェスティヴァルに出かけることにした。第50回には出かけるつもりがコロナ禍のためにストリーミングでの閲覧になり、50周年という節目の年であった昨年も出かけることは叶わなかったのでリベンジである。第一報として歩き回った界隈やステージをスライドショーにまとめた。
「自然体」「流水不争先」(流水、先を争わず)のRobert Glasper。
園田游と前田隆が創り出す世界は<静寂>という音楽を『場』に捧げる儀式であった。立ち会う者は何も考えず、目に聴こえて、耳に見える音楽を受け入れればいい。いかなる作為も必要がない音楽の存在を愛でるだけでいいのである。
出演者もリスナーも、自由なスタンスとスタイルで音楽を楽しむ。それがこのフェスの醍醐味.
ブルックリンを主な拠点として活動するトリオ・Entropic Hopが来日した。
異能のサックス奏者パトリック・シロイシが日本公演を行った。ロサンゼルス在住のシロイシは日系のルーツを持つ(かれの祖父母は第二次世界大戦時の日系アメリカ市民を対象とした強制収容所で知り合って結婚した)。それだけに個人的な旅行を兼ねた今回の公演はずいぶん嬉しいものでもあったようだ。
ふだん押さえつけているエモーションが、際から際まで刺激される。曲が進むにつれて床へ落とされるスコア同様、様々な澱(おり)が剥がれおち、気がつけば鎧なき寄る辺なさ。容赦ないひりつき具合が、現実を串刺しにする。
尽きぬ問いを不在人の残した音や言葉、気配から読み取る、そんな温かい会でした。
ECMの音は、ひとことで言うと、ぼく自身の言葉でいえば「透徹」であるが...。
ジョー・ローゼンバーグ(Joe Rosenberg)が2020年以来の来日となる日本ツアーを2023年の春に実現させた(3月30日~4月9日)。彼のトリオには落合康介(b)、大村亘(ds)が参加。今年も彼らしいフリーインプロの世界をソプラノサックス一本で築き上げていた。
細胞に粒子が染みてきて喜んでいるのを感じて。あの場にいた身体には、共鳴が起きていたように思う。
JazzTokyo300号記念特集が「ECM: 私の1枚」ということなので、この連載もECMゆかりのミュージシャンにしようと考えた。2月に福盛進也 と韓国のサックス奏者ソンジェ・ソンによる「EAST MEETS EAST 2023」公演に出かけたので、それを取り上げることにする。
瞬間に生きる即興演奏家の気迫が生々しく伝わり、“行き過ぎることを恐れない”地下音楽の本質を実感できる、まさに体験する即興ライブ・サウンド・ドキュメンタリー。テレビやパソコン画面ではなく、映画のスクリーンで観てこそリアルな体験ができるはずだ。
Satoko Fujii Tokyo Trioは日本ジャズ界で多忙を極める3人によるピアノ・トリオ。その大阪公演で、ピアニスト藤井郷子の充実ぶりをまたも実感する。須川崇志(bass)、竹村一哲(drums)という、個性も実力も傑出した2人との共演は、想像以上のスリルに満ちていた。
言葉ではいかんとも表しがたい、どこまでも広がる微光に包まれるような音響体験は、他に類を見ないもの。
新宿ピットインで吉田隆一の”プレイズ 3デイズ” が行われた。タイトルは「The Thrid World of Jazz “プレイズ” 3 デイズ」で、取り上げたのはガトー・バルビエリ、カーラ・ブレイ、チャーリー・ヘイデン。
目と耳が呼応するのはいつものことだが、空間の物語・感覚的構成と共鳴して特別細やかに感じられた。場所作りから始めて時間をかけて対等なパートナーとして共同制作する経験はこれまでになく、互いの発見があったそうだ。私たち観客は二人の見かけ以上に親密な世界に招き入れられた。
河崎の旅はユーラシア各地の巫を求め歩く旅であるともいえる。
『アザー・ミュージック』は2016年に閉店したNYのダウンタウン、イースト・ヴィレッジにあったレコード店の21年間を振り返る映画で、1998年から2002年までNYに住んでいた私も通った店だった。
田村夏樹と藤井郷子による毎年1月恒例となった感がある昼夜ぶっ通しのライヴが1月15日に新宿ピットインで行なわれた。その様子をテキストとスライドショーで。
はじめての手合わせに近い面々、そしてこの人数での集団即興は噛み合わない結果となるか空中分解するかという不安がなくもなかったが、実のところ、それが杞憂に終わるだろうことははじめからわかっている。
フランス(大島祐子)、ドイツ(齊藤易子)、日本(藤井郷子)と、それぞれ異なる都市に活動拠点を置く女性3人が結成したTrio SANが日本ツアーで神戸を訪れた。2022年6月のトリオ欧州ツアーで、その実力は既に証明済み。さて、神戸では…
生活向上委員会、じゃがたら、コンポステラ、東京チンドンなどで活躍したが、1992年に早逝したサックス奏者篠田昌已の命日(12月9日)と誕生日(12月8日)に合わせた30周忌に、協演した楽士と、後から知った若い世代合わせて20数名が、大熊ワタルの呼びかけで集まった。
ピアニスト矢沢朋子が企画する「Absolute-Mix」は、今回ニューヨークを本拠地として活動するスコット・ジョンソンの作品を取り上げ、エレクトロ・アコースティックなサウンドを生き生きと繰り広げるその独自の世界を紹介した。
Incognito は40年もやっているのでそりゃまぁ年齢層高いわ。若い人が意外と少ないのが気になるところ。
なんだかライブの印象が壊れそうで、私は松本の尋常ならざる執念の作品『無常』を買わなかった。
「りら」はコントラバス奏者の故・齋藤徹によるワークショップなど齋藤との縁から実施されてきた表現の場であり、異なる領域のメンバーが模索を続けてきた。この日ゲストを加え、齋藤へのオマージュとして3回目のステージが実現した。
フリー・インプロヴィゼーションとひとことで括ることは土台無理な話であり、なにがその場で行われているかについては演者自身にしか解らないことも、演者の自覚を超えて開かれた結果こそがものがたることもあるだろう。前者が後者の条件であるとは限らないが、少なくとも三者には明らかにそれがあった。
世界最大の”無料”ジャズ・フェスティヴァルであるデトロイト・ジャズ・フェスティヴァル。2022年は3年ぶりのリアル開催となり、Artist-in-Residenceにキューバ出身のピアニスト、チューチョ・ヴァルデスを迎えながら、4日間、4ステージで熱狂のパフォーマンスが繰り広げられた。
60年代末の日本のフリージャズの初期衝動そのままの激烈なインプロヴィゼーションが目の前で展開される奇跡。半世紀近く過ぎてなお、なぜこれほど冷徹で凄まじい演奏行為をやり続けているのだろう
そこで聴いたのは、これまでの経験から導き出された幾重にもアップデートされた音表現の現在地である。それでこそ追悼演奏なのだ。
夢がかなった―彼女は歌の合間に何度もそう話していた。二年前、『ラ・セルバ』の発売に合わせた日本ツアーはコロナ禍で中止。それが今回、幸運が重なってデュオが実現した。
感動で打ち震えながら辺りを見回すと、キース・ジャレット、そして名だたるECM関連のアーティストたちのポートレイト写真が目に入ってきた。いいねえ、と今にも声が聞こえてきそうである。
この夜、MMB3+大友&仲野の5人によって紡ぎ出された音は、まさに「フリー・ジャズ」と「インプロビゼーション」が高度の次元で融合したものであり、そのプロセスを同じ空間で共有出来たことはまさにLIVEの「至福」そのものだった。
透明なのに暖かく低音から高音まで正確に美しく響くオーブリーのヴォイス。そして英語が日本人の耳に確実に届くという現象にも驚かされ、ランディの丁寧なコードワークの中で、その類い稀な才能を見せつけた。叔父ライル・メイズ作曲<Close to Home (Quem é Você?)>を涙を浮かべながら感動的に歌い上げるなど、観客と一つになる特別な夜となった。
サックス・クラリネットのリューダス・モツクーナス(リトアニア)、ピアノのアルナス・ミカルケナス(リトアニア)、ドラムスのホーコン・ベレ(ノルウェーからデンマークへ移住)の3人から成るMMBトリオ、日本ツアー。初日は神田綾子・ルイス稲毛と、2日目は林栄一をゲストに迎えた。
池田の音と画像は別物なのだ。我々はその関係を誤読する、誤解する。それが池田の手法である。
表現者が表現手段を超えるーあらゆる”Beyond”の境地を体現していた。
『キッチン』は神戸を拠点におくダンサー岡登志子と高瀬アキの共同作品。コロナ禍のために3年間延期のうえの上演である。食べることは生きることをモットーに、子どもに観客を広げた演出で、素敵な衣装のスパイス娘のトリオが軽々と飛び回ったり、つまみ食い小僧のトリオが…
今度こそ本当に「恐怖の」「頭脳」を「改革」するような、「life」の「time」を忘れさせるような、迷宮的なサイケデリック・フリー・ロック演奏を繰り広げたのだ
もしかつて宗教芸術が、神を描いたり、宇宙の仕組みを解いたりしていたのだとすれば、池田の方法論”datamatics”はまさにそれを引き継いでいるのではないか。
ビッグバンド初挑戦にして、角野はピアノとビッグバンドのバランスを掴み、輝きのある歓喜のサウンドを生み出していた。角野の幅広い感性に加え、ピアノ・コンチェルトを鳴らしきる力とクラシックピアノのタッチがポジティヴに効いているように思えた。
伎倆やら経験やら天分の音楽性やらをすべてを含み込む「音色」において、坂田明と伊藤志宏ほど極めた存在は稀有なのだ。だからこそ、その邂逅を目撃したくてたまらなくなる。
思えば蛇腹の抑制が生むリズミカルな律動など、三者三様の鼓動や息遣いがひとつの大きな有機体のように連なるユニットだ。余白が豊穣である。その包容力は、忘れがたい衝撃という類いのものではなく、身体に沁み込んだ記憶がさざ波のように寄せる瞬間を捉えた、静かな覚醒と充足。
時間の流れに沿った相互作用だけでなく時間軸を伸縮させる縦波を前提としたふるまい、三者ではなく自分自身の影をメンバーに呼び込んだ共演。それによる予期せぬ現象は三者の力量によって平衡を獲得するが、さらにそこから次の相と新たな現象・平衡へと移行する。驚くべきダイナミクスだ。
事前にライヴ収録を告げられたこともあってか初めての師弟共演は和やかな中にも常に緊張感を孕んだ演奏が展開された
来春にHibyとBroetzmannのツアーを予定しており、ぜひ皆さんのご協力をお願いしたい。
そこにはシューベルトの音楽がもつ稚気が降臨している。あるのはただ、人間による後付けの解釈などものともしない「永遠の実在」へのリスペクトだ。
犬の吠え声や野鳥の鳴き声が演奏・歌唱と共存し、芸術と自然がひとつになれる理想的な環境である。
4月にヒューマントラストシネマ渋谷でジャック・リヴェット映画祭が開催された。ここでは、特に音/音楽に比重を置き、今回のプログラムの作品を中心に、それ以外の作品にも触れつつリヴェットの映画に迫ってみたい。
コロナ禍を経て久しぶりの酒井俊の帰国ツアー。すべてが一期一会だ。
こぼれでる多様な音の変遷に動揺しつつ、次第に音の遠近が攪拌されてくる。それらの音がスコアへと収斂されていくさまが幻視され、逆方向のベクトルに絡めとられてゆくのだ。磁場としてのコンポジション。制御不能なものが還りゆく場所。その見果てぬうねり。
かたり読むこと。メロディを編み奏でること。双方ともシンプルな営みではあるが、捻りもない代わりに天井もない世界。それらは誰に向けて放たれたものなのか―その一点を照射しつつ、表現というもののラディカルな本質を突く。
絶え間ない転調によるテーマの持続は、いつしか奏者たちの耐久戦のような様相を帯び、あらゆる構えが取り払われて剥き出しの個性を露わにしてゆく。脱皮に立ち会うかのような清々しさ。これぞ「シュベルティアーデ」が目指す究極なのではないか。
和泉宏隆が亡くなる前日で最後のライヴとなった「NARU」での太田剣カルテット。1年後にメンバーが集まり、ピアノの佐藤浩一を加えて、和泉宏隆の美しい曲の数々を演奏した。
フランク・ザッパ、プリンス、そして藤井郷子。この三者に共通する項目はなにか?
それは、尽きせぬクリエイティヴィティと比例し、常軌を逸して多作であることだ
音楽に打ちのめされたり救われたりする現場が、こんなに大変で、綱渡りのようで、だけどだからこそ実現できるってことが凄いことなんだって言うのも、改めて実感することができた。
これぞ音の煉獄、補陀落詣でとも言うべき、筆舌に尽くしがたい音楽体験であり、自分が長年探し求めてきた究極のサウンドに漂着した気分だ。
映像作品を観ているかのような楽曲のストーリー性とクオリティの高さ、音色の美しさと拘り、ダイナミックレンジの広さに驚ろかされた。低音量域から美しく表現し、音量差を的確に駆使できるユニットは意外に少ないが、それを完璧に実現している理想のデュオで、今後の進化が楽しみだ。
ジャズからJ-Popsまで幅広く活躍し「コレナンデ商会」音楽監督として6年間全力投球してきた塩谷哲と、カリビアン・グルーヴとジャズの融合“Jam Ka”プロジェクトでも高い評価を得て、ヨーロッパをはじめ海外での演奏の機会も多い 小沼ようすけのデュオプロジェクトが帰ってくる。
21歳の若きウクレレ奏者RIOがギタリスト井上 銘とともに創ったアルバム『RIO』。待望のリリースライヴが、コットンクラブで行われれ、弦楽器4本という編成となったが、爽やかで鮮やかなRIOワールドを魅せた。
ショーロ・クラブでの活動や作曲家、プロデューサーとして活躍し、自己のレーベルUnknown Silenceからも精力的なリリースを続けてきた沢田穣治は2021年半ばに悪性リンパ腫が見つかり闘病療養を続けてきたが、今回、復帰後の初めての上京ライヴを行った。
<夜空ノムコウ>、<あとひとつ>などの数々のアーティストへの楽曲提供とヒットでも知られるシンガーソングライター川村結花。デビュー25(+1)周年を記念した丸ノ内コットンクラブでのバンドライヴ。
ジョン・ラッセルはMopomosoでの自身の役割を「プラットフォームを提供することで即興演奏の発展を促し、そして可能であれば人々に知識と理解を深めるのに役立ててもらう」と語っているが、その意味においてもジョン・ラッセルを追悼するにふさわしいMopomoso的な企画だった。
観客に向けて何かを表現するというより、その場に即したからだのありようを伝えることが、田中泯のいう踊り(場踊り)の本質である。
各々の実験的な経験値は、遠くから忍び寄るメロディにそこはかとなく宿る。「聴かせる」のではなく「聞こえてくる」のだ。
心的な状況に応じて驚くほど変貌するバンドサウンドの幅広さ、これも「落穂の雨」のおもしろさにちがいない。
Absolute-MIXの公演は、矢沢朋子が、演奏家としてだけでなく作り手、コーディネーターとして姿を現す場という側面が大きい。聞き手は好みが分かれるかもしれないが、毎年でなくともときどきやりたいことを存分にやって暴れてもらいたいと思う。
即興演奏の粋を極めた4人のミュージシャンによる同時多発演奏であるマージナル・コンソートのパフォーマンスは、不定形な即興音楽のアクロバットを演者と観客が一緒になって楽しむサーカスと言えるだろう。
このバンドほど一流の音楽性とエンタメ性を兼ね備えた例を他に知らない
日本で最初のマークレー回顧展は「翻訳する」と題されている。これは彼のアプローチ全体を要約する最適の一語と思う。
「JAZZ ART せんがわ 2021」で3年ぶりに「John Zorn’s Cobra(コブラ)」が開催された。当日の模様をお届けするとともに、ジョン・ゾーンが1984年に発表した集団即興を構造化する革新的なシステム「コブラ」の魅力に迫る。
ジョン・コルトレーン(1926年9月23日〜1967年7月17日)の初の本格的な伝記映画が、2021年12月3日より日本で上映される。監督は『The U.S. v.s. John Lennon』のジョン・シャインフェルド。2017年ワールドプレミアの模様も紹介する。
田崎が漕ぎ出す音楽のヴォヤージュは、内省と祈りの度合の深化とともに、そのスケール感を一気に増す。瞠目するようなパノラマだ。鍛錬された所作のように美しい腕の払いから、蠱惑的な音色が解き放たれる。
佐藤竹善とエリック・ミヤシロ率いるビッグバンドとの2019年のライヴの待望の再演で、公演3日間のセットリストが異なり、ライヴアルバムに収録されたほぼ全曲が歌われた。竹善とエリックが高校時代に共通して影響を受けた曲が多く取り上げられている。
透明感があるのに分厚い暖かいサウンド、それに優しく力強く包み込まれる感覚、仲間が繋がる楽しさ。その特別なサウンドに圧倒された。高度な技術と優れた感性で確かに自由に音楽を創っていく3人の飛躍に期待したい。
屋内のパフォーマンスと屋外の点音とは連続している。どちらも聴こえる音に耳を傾け、そのずっと先にある世界に自分を投げ出してみたら、音に身をゆだねてみたら、と呼びかけている。
ヴォイスとふたりの電子音による予見できない三者三様の発展と新たな関係、これがすぐれた即興演奏の醍醐味である。
弾いているのではない。キースに語りかけ、いや訴えかけている。”もう一度ステージに立ってピアノを弾いて!”
ウッドベース弾き語りでも注目を浴びる気鋭のベーシスト石川紅奈と、バークリー音楽大学を主席卒業後、ボストンで活躍しながらCOVID-19で帰国したピアニスト壷坂健登のデュオ。柔らかく端正で気品のある音楽と時間と空間を創り出していた。
住谷ならではの安定した「呼吸」がいきわたりプログラム全体に一本筋の通った軸を感じさせる。その呼吸はまた、住谷というアーティストの強靭な意志の湧出であり、この日の物語性の根底をなす。
ファーストコール・トロンボーン奏者、中川英二郎による初の単独オンラインライブ。フジロックの映像等を担当する藤井大輔が映像監督を務め、無観客配信を超えるリアルタイムの特別な映像体験を創り出した。
昨年はコロナ禍で中止となり2年ぶりに再開となった高崎市音楽祭は万全の感染対策の下、盛大に開かれた。
今年のフジロックは新型コロナウイルス感染対策をとり、入場者数を制限した開催。上原ひろみ、ROVO、小沼ようすけなどが登場し、サイド参加の石若駿など見どころ豊富な3日間となった。
コロナ禍が続く中、以前のように自由にコンサートを開催することが難しい状況ではあるが、これからも橋本君が喜び驚くような“とんでもない”演奏が、いろんな場所で繰り広げられていくことは間違いない。それを確信させる演奏会だった。
『Viva Video! 久保田成子展』(於大阪国立国際美術館)は彼女の30年ぶりの個展、没後初の回顧展で、これまでパイク(や小野洋子)の陰に隠れがちだったアーティストの復活が意図されている。良い監修を受けたというのが見終わって最初の一言だった。
プログレッシヴ・ロック領域の吉田達也と、アコースティック音にこだわる即興領域の照内央晴との4回目となるデュオ。
バディ・リッチ、デューク・エリントン、サド・ジョーンズ、ウディ・ハーマンからチック・コリアまで非常に幅広い曲を様々なリズム・スタイルで演奏し楽しませてくれた。かつてのEMバンドやBNTASJOとも違う、ジャズをよく知らない人にも音楽の持つ力と素晴らしさをビッグバンド・スタイルで届けたいと構成されたのが「エリック・ミヤシロ・ビッグ・バンド」だと感じた。
長いキャリアによって崇高なまでに高められているのは、解釈という名の我欲とは真逆の、ひたすらピュアに音楽と向き合う無私の徹底である。だから彼の音楽はミクロからマクロに至るまで自由で、エッジィで、強い。その新鮮さは不滅である。
逡巡する指先は、ちょっとした沈黙や寡音であったりするほどに、その陰の濃さを伝える。スコアを問診し、内側から探ってゆくようなアプローチ。目の前でピアノを弾いているのが他ならぬ作曲家自身である、という手応え。
傘寿で来日を果たしたアンリ・バルダをトリに(第3番)、酒井有彩(パガニーニの主題による狂詩曲)、岡田将(第2番)と、新進気鋭と日本が誇る実力派の二人を配した。一台のスタインウェイがここまで異なる響きを見せるのかと感嘆せずにはおれない、三者三様のピアニズムを堪能。
ガーシュウィンの世界観とニューヨークの空気感を生き生きと描き出しながら、地平線の先に違う世界を見せる驚きと熱狂に満ちた演奏の記録。北ドイツ放送の真価を見せる完璧なカメラワークと音響で最高の映像作品。
ボーダーレスに活躍し、ピアノYouTuberとしても大人気のピアニスト角野隼斗(Cateen)が、ブルーノート東京に初出演を実現。自動演奏ピアノをはじめ、ルーパー、トイピアノなどを駆使したステージも披露し、最終セットには小曽根 真が登場し共演、驚きのデュオを魅せた。公演を成功させた角野はショパン国際ピアノコンクールに挑戦する。
メンバーの顔に浮かぶ笑みが何より彼ら自身が演奏を楽しんでいることを実証していた。
宮本貴奈が新作『Wonderful World』リリースと受賞を記念して、信頼する仲間たち佐藤竹善、小沼ようすけ、中川英二郎、中西俊博、teaをゲストに迎えて行ったブルーノート東京公演。宮本が自らのヴォーカルを披露したこと、ケニー・ホイーラーの曲が演奏されたことにも注目したい。
これほど表情豊かなバンドは他にいるだろうか?男は黙って背中で語る、というのは過去の美徳。顔満面の表情でサウンドを奏でるのが異形のロックバンドの心意気なのだ。
2度目の共演で相互のコミュニケーション、強度、多様性を驚くほど増した即興演奏のデュオ。
音楽はしばしば特定の記憶を結びついて懐かしさを増すが、生きえなかった過去を想像力し喚起することによってもまた、今を揺さぶり未来を幻視する力をもつ。
チック・コリアは、2020年3月21日から約40回にわたり自身の練習部屋からワークショップ配信を続けた。その膨大な動画の中に生き続けるチックに会いに行きたい。
山本達久(ドラムス)と纐纈雅代(アルトサックス)、個性的な演奏者ふたりの初の手合わせ。
パンデミックで3月からライブが皆無だった2020年、ライブ配信のおかげで普段見ない、または見られないようなアーティストのライブを、無料もしくはお手頃な値段でたくさん鑑賞する機会に恵まれた。そんな中でやはり筆者のお気に入りのTheo Croker(シオ・クローカー)のステージは最高だった。いつ聴いてもこんなにドキドキさせてくれる音楽はマイルス以来だ。
後は二曲のアンコールまでそんな一瞬たりとも気を抜かぬ二人の演奏に心底痺れ、夢中で拍手をし、両の瞳は涙で霞んだ…。
広大な岡田の世界が「すでにそこにあり」、そこから自然に音を引き出しているかのような自在さがある。詩情と体力をなみなみと湛えたこうした俯瞰力は得難い。将来、枯淡の境地に至った岡田将の「嘆きの歌」(第三楽章)を是非とも聴いてみたいと思う。
ヴォイスの神田綾子と箏のマクイーン時田深山。ふたりともシンプルなものをコアに置いて表現を拡張しており、デュオの即興演奏がその模索にふさわしい形のひとつだということを示すライヴとなった。
佐々木久枝の墨と花、岡川怜央のエレクトロニクス、矢部優子のピアノが、喫茶茶会記という独特の場において、いちど限りのみごとな世界を創出した。
1996年に結成されたKHAMSINが、2017年に新メンバーを加え再始動し、関西を中心にライヴを展開している。また、古谷充が亡くなった後の「古谷充とザ・フレッシュメン」公演にも触れる。
インプロと言ってもジャズでもロックでもクラシックでもエスニックでもない。特定のスタイルに囚われない独自のスタイルは、“分かりにくい音楽こそ面白い”と宣言するフェスティヴァル『JAZZ ARTせんがわ』の精神を個人的なレベルで実践している証拠である。
加納美佐子が沈黙のときを経てステージに戻ってきた。
この日3人の中ではいちばん調子がいいゲイリーのプレイは相変わらずカッコ良かったし、モチアンも彼にしかできない独特の間合いでイマジネーションを広げていった。
松丸契のアルトサックス独奏シリーズは場との共犯であり、はからずも観る者を語る者にしてしまう力がある。実に興味深い試みだ。
好きな音楽の基準は「分かるか分からないか」ではなく「心が動くか動かないか」である。JAZZ ARTせんがわは、縮小開催された今年も最高に心が動く瞬間を与えてくれた。
沖至の古くからの友人でもあり、現在のパリの即興シーンの重要なオーガナイザーの役割を果たすアトリエ・タンポン、マーク・フェヴルの主催により行われた。
転がり続ける演奏体UHの轍は、たとえ苔が生そうとも、表現者の足音が永遠に鳴り続けるに違いない。
肯定の音楽、そこへ至るまでの危機感 (クライシス=境界)の数々が回想され、収斂されてゆく整合性。喜多クァルテットのステージは毎回、まさにドラマである。
広いスペースを誇る会場。コロナの影響で心配された観客だったが、さすがに超一流のオーケストラを聴きたいという聴衆が会場を心地よく盛り上げた。
そこまで苦労をして聴きたいのか。聴きたいのだ。皆、そういう思いで猛暑を厭わず会場に足を運んでいるのだ。
三者が「らしさ」からいったん離れて一音ごとの響きと他との重なりを試してみるプロセス。それは即興演奏の共有空間を手探りし、演奏前には予想できなかった音世界へと発展させるふるまいでもある。
クラブ側の対応は上記の通りで採算を度外視した最大限の配慮がなされているとみるべきだろう。バンドも編成を縮小して臨んだ。
国立音楽大学ジャズ専修の気鋭の卒業生、武本和大と濱田省吾をメンバーに加え、「New Stories」を録音した井上陽介トリオの3ヵ月ぶりのライヴ。
内外アーティストのリモートアンサンブルや過去の名演をYouTubeでのストリーミングで届けた。
ユニークなヴォイス・パフォーマーの神田綾子とヴェテランのリード奏者森順治との即興演奏、デュオならではの相互の呼応。
4月30日の国際ジャズデイを祝って89組のアーティストによるオンライン・ジャズ・フェスティバルを開催。アーティストと観客を結びつけ大成功となった。
フランス・ナントのLFJは成功裡に閉幕したが、東京は中止となった。関連動画とともにレポートするので少しでもお楽しみいただきたい。
関東のジャズシーン最注目の3人、永武幹子(ピアノ)、マーティ・ホロベック(ベース)、松丸契(アルトサックス)の邂逅。
フレンチ・カリビアンなグルーヴを共有しながら融合する塩谷哲、小沼ようすけ、大儀見元のスペシャルトリオ。ライル・メイズ追悼で<Close to Home>も演奏された。
押しつけがましさのない、エゴの斜め上をいく流動性。シューベルトという人間から溢れて止まぬ歌心も、意志を超えた衝動だったはずだ。詩(うた)は、気づいたらそこに「在る」もの。そんな思いがふとよぎる。
この4人でなければ成立しない物語世界だ。表現とは代替の効かぬものなのだ、という峻厳だが疎かにされがちな事実—それが刃のように突きささってくる。
箏、能楽の小鼓、ヴァイオリンと、それぞれ異なる音楽的背景をもった三者が即興演奏のギグを行った。しかしそれは奇抜なものではなく、これまでの積み重ねと縁による必然でもあった。
温かみのあるメロディの中で、3人は狙いすましたように音を奏でる。ベストポイントを見極めたように、正確に。
11月に『ECM catalog 増補改訂版』の上梓で「ECM50周年」が一段落したと思ったら、続いて「山下洋輔トリオ 50周年」が巡ってきた。
ECMアーチストによるアジア発のこの手作り公演がアジアにおけるECMの今後の展開を示唆していると言っても過言ではないだろう
text by Masahiko Yuh
天啓のキャッチ&リリース、その匙加減の僅差に露わになるものこそ表現者の真骨頂/ The catch and release of inspiration, the very things that are revealed in the narrow margins of that balancing act, show what the artist is truly made of.
子連れ参加者たちに必要な配慮が行き届いているのも、この企画が日本の各地で人気を博している理由の一つだろう
作曲家の旅から生まれた音楽にフォーカス。挾間美帆は<処女航海 組曲>ビッグバンド版を演奏した。
本公演のコンセプトは、今年他界した齋藤徹(コントラバス)が皆藤千香子に提示したものだ。それは、日本とドイツのアーティスト、ダウン症ダンサーの矢萩竜太郎とともに、「今、ここ、私」を考えながら即興をする、というものであった。
エキサイトする演奏と熱心に耳を傾ける人々の音楽に溶け込む熱気が会場を包み込んで、それが演奏にまで乗り移るという奇跡的な一夜を生んだ
固執し続けられた形式は、ついには形骸と化す。残るのは、とてつもない濃度を内包する、縹緲(ひょうびょう)とした境地である。
海外でも名前の知られた尺八奏者、田島直士(たじまただし)のリサイタルに、現代の新しい地歌界を代表する藤本昭子が共演するという
ECM 50周年記念コンサート「ECM Records at 50」が、ニューヨークで32人のミュージシャンを集めて開催された。
text by Masahiko Yuh
ノイズ/アヴァン系のひときわユニークなミュージシャンたちと共演してきたトム・ブランカートとルイーズ・ダム・エッカート・ジェンセンが旅人のように来日した。いくつもの縁があって、この日、箏の今西紅雪、三味線の田中悠美子との共演が実現した。
ノースシー・ジャズフェスティバルの名物でもあるメトロポール・オーケストラ公演は、挾間美帆を指揮者に起用し、個性的な3人の女性ヴォーカル、リズ・ライト、ベッカ・スティーヴンス、カミラ・メサをフィーチャーし、観客の喝采を浴びた。
まずはこのディエゴとエディクソンを発見しただけでも、ある意味、生でホリガーを聴いた以上の甲斐があったというものだ。
この日のエレクトロニカとダンスのコラボレーション企画は、出演者全員が登場する最終プログラムも含め、非常に充実していた
上賀茂神社の庁屋(ちょうのや)、高床式の細長い倉庫のような場所。当年84歳のアブドゥーラ・イブラヒムは、スタッフの懐中電灯に導かれてゆっくりとピアノに向かった。
とにかくこれほど素晴らしい「幻想交響曲」なら毎日でも聴きたい。
サン・ラ・アーケストラのスインギーかつグルーヴィーな演奏は最高で、渋さのややルースな演奏も野外フェスにふさわしかった。
演奏は終わった。しばしの沈黙、そして会場は大喝采。こんなオルガンの響きを誰も聴いた事が無かった。
プーランクの書法に忠実にのっとりながら、しかし大胆なタッチで,ユーモアを忘れず、夜会の風景を生きいきと描き出した。私個人にとってはこの夜一番の聴きものだった。
「東京JAZZ 2019」で、土曜夜にチック・コリア・アコースティック・バンド、日曜夜にエレクトリック・バンドの公演が行われ、NHKホールが熱狂に包まれた。一度の来日で両バンドが演奏するのは27年ぶり。2019年9月がチック・コリア最後の来日となった。
ヌガロには会いたかったと今も思う。河田さんの歌を聴くと、そのことを思い出してはチャールス・ミンガスやセロニアス・モンクに会いたくなる。
新メンバーが演奏の中核を占め、昨今のブラス演奏人気とも相まって、アンサンブルそのものにかつてない精気と覇気(力強さ)がみなぎるようになった。
ECMからデビューしたミュンヘン在住のドラマー福盛進也の6月〜8月来日での最終公演となった、栗林すみれ、黒沢綾とのライブ。心を動かすパワーを持つ作品の数々と、繊細さから力強さまでシームレスに表現するこのトリオに、今回の福盛の数ある公演の中でも特に独自の発展性と多くのリスナーを惹き付ける可能性を感じた。
多層をなす奇抜な構造に度肝を抜かれると同時に、流れ落ちるピュアなパッションに心洗われる—こうした相克的体験はそのまま生の矛盾そのものだ。
80周年を迎える名門ジャズレーベル「ブルーノート・レコード」の創設から発展、混迷と再生へ、歴史の真実とスピリットを明らかにして行くドキュメンタリー映画。2019年9月6日(金)よりBunkamuraル・シネマなどで順次公開される。
まだ余り知られていない有望な若手ミュージシャンを日本に紹介する活動もJazzTokyoの目的のひとつ。フローリアン・ヴァルターの日本での活動に微力ながら貢献できていることは、いちコントリビューターの筆者にとっても嬉しい限りである。
ヴォイスの山崎阿弥、笙の石川高、サックスのフローリアン・ヴァルター。はじめての手合わせは、三者おのおのの力量とポテンシャルにより、インプロヴィゼーションというコミュニケーションが様々なかたちとなって表出するものとなった。それは大きな驚きをともなっていた。
志の高い音楽家のステージを見ていると、演奏者たちが病気であることは忘れそうになる。
日本人の微温系の音楽家たちが作り出すものとしては異例なほどに地域性を超えていて、音楽が架空の辺境に溶け込んでいく。
時空やジャンルを自由に横断する波多野のレパートリー構成は、言葉と音との思いがけない出会いの美しさを、いつも「私たちの感覚」として現在に鮮やかに提示してくれる。
日本人のピアニストとしてはこれ以上は望めない。それがベートーヴェンの「ヴァルトシュタイン」を聴き終えた瞬間の、私の率直な感想だった。
音楽演奏家・橋本孝之の、二度と取り戻せない「塗りつぶすことが出来ない時間」を体験できた貴重な一夜だった。
東京都町田市の和光大学で第9回の「特殊音樂祭」が行われた。すぐには評価が定まらない独自性を掘り下げる共同作業を、大学特有の場の力と化してゆくあり方は刮目にあたいする。
両者の高度な音楽性がクラシックなどの音楽の枠をひょいと飛び越え、あるいはジャズの即興性との緊密な関係をも凌駕する居心地の良さ
台湾随一のサックス奏者・謝明諺が、手のパーカッションとしての松本ちはや、足のパーカッションとしてのレオナとのコード楽器抜きのトリオで演奏した。それは単なる音の衝突ではなく、三者の豊かな対話でもあった。
「東京中低域」ならではの芸や表現の面白さを愛し、応援しているおばさま&おじさまたちの屈託のないノリの良さが私にはとても印象的だった。
<日本・フィンランド外交関係樹立100周年記念公演>が、同時に<渡邉暁雄生誕100周年記念演奏会>を謳っている
通常のコンサートと比較してまったく疲れを感じないことに加え、毛色の違った演奏をはしごして楽しめる喜びも
”Carnets”には、旅で素晴らしい風景に出会ったときに思わず書き留めるようなポケットに入る小さな手帳を、そしてその先に生まれる音楽をイメージしたといい、作曲家が旅をしながら生み出した音楽にフォーカスした。
極めて独自性の高い三者のセッションが実現した。即興シーンにおける縁や邂逅の断面のひとつである。
このオーケストラとネルソン・ゲルナーの演奏を目の前で聴けたというだけでも、幸せとしか言いようのない演奏会であった。
エネルギーの放出、大暴れ、哄笑や皮肉、ダダイスティックな騒乱を美学とするタリバム!が、はじめて日本の伝統楽器との共演に臨んだ。相手は箏の今西紅雪である。そしてセカンドセットに至り、見事な化学反応が起きた。
沢井一恵は「書かれていない音」「聴こえない音」を、齋藤徹は「出さなかった音」「効果を剥ぎ取った音」を、音楽にとって重要なものだと言及した。そしてトータル・ミュージックとしての即興が驚くべき強度をもって展開された。
去る3月23日、ダンサー・矢萩竜太郎の活動を追ったドキュメンタリー映画「ぼくのからだはこういうこと 〜根をもつことと羽をもつこと・弱さの力〜」の完成を記念した上映会&ライヴが京都市中京区で行われた。
当夜の16曲はまさに渋谷毅の好みとカラーを反映したエリントン作品群だったと言ってもいいのではなかろうか。
アンソニー・ブラクストン音楽の方法論と本質に触れた極上の2日間3セット。
巨人アンソニー・ブラクストンの知られざる音楽の方法論が、勉強会と公開リハーサルの場において共有された。それは高い演奏技術を要求するとともに、あり余るほどの自由を提示もする、極めて魅力的なものだった。
この日以上の演奏をすぐには思い出せないほど、上原彩子と川瀬賢太郎のピタリと息の合ったハ短調に随所で落涙させられるという予想もしない顚末に戸惑ったほど。
宗教的な特性と安易に結びつけるべきではないが、その厳しさや直線的で刃のような立ち昇り、切り返しの激しさに、仏教的なループの緩やかさはない。
日本では2017年以来となるクリスチャン・ヤルヴィ『サウンド・エクスペリエンス』。今回は『すみだ平和記念祭』企画にも組み込まれた、15年ぶりに来日するマックス・リヒター・プロジェクトの一部も兼ねることとなり、さらにスケール感を増した。
今回のコンサートの成功は、気合の入った神戸のジャズ愛好家たちのサポートに負うところも大きいと思う。
これだけの充実した演奏がわずか500円で楽しめるとは。今後も<上野 de クラシック>に注目したいと思う。
會田瑞樹のかかる意欲的なコンサートをアプサラスが一丸となって後押しし、故松村禎三作品を後世に伝える最も才能あるヴァイブ奏者として<協働>していくことを宣言している
この日の若い演奏家 たちは、恐らくは期待以上の好演で藤本昭子の三弦演奏を盛り立てた。
それにしてもこの3者の一体感といい、パワフルな演奏美といい、大西がまるで向こうの国のピアニストみたいに感じられて愉快だった。
今後どのような貫禄がその音楽に加味されて来るのだろうか。10年後、20年後が楽しみである。
そのコロン以上に目を見張らされたのがピアニスト、キット・アームストロングの演奏だった。
川越近郊の田舎町で育ったことが自らの音楽観に影響していると語る川島にとって、地元で活動拠点を見つけることは長年の夢だった。その第一回は、4人の個性的なインプロヴァイザーの邂逅の場となった。
ポエトリーは単なる「言葉」ではなく、4人が共有する「感情」として「音楽」と触れ合い、揺れ合い、震え合い、ひとつになって豊潤な物語を紡ぎ出した。慈愛と共感に満ちた真の創造の場の現出であった。
2018年に26回を迎えた、ニューヨークの夏の終わりを彩るチャーリー・パーカー・ジャズ・フェスティヴァル。そのメイン・コンサートの1日目、若手実力派シンガーのブリアナ・トーマスと、チャールズ・トリヴァー(tp)が自らのリーダー・デビュー作『Paper Man』のリリース50周年を記念して、当時のレコーディング・メンバーのゲイリー・バーツ(as)と、新たにバスター・ウィリアムス(b)、ジャック・ディジョネット(ds)、ジェイソン・モラン(p)を加えたスペシャル・クィンテットで出演した。
ジャズ方面の方も、能は一度体験すべきと思う。ジャズが開いたプロフェッショナルの使い道は、恐らく楽理や演奏の追及やエンターテイメントだけではないだろう。能は、南アジアや西アジアの古典音楽に匹敵するだけの哲学を有しているように感じる。
東京で活動する即興音楽家6人が倉庫のようなギャラリーに集まり、ソロパフォーマンスと共演を行った。また、終了後にはトークセッションが開かれ、「即興」という極めて曖昧なテーマを巡り、多くの発言がなされた。現段階で腑に落ちるような明快な共有解はないだろう。方法論や意識のあり方への議論そのものが、各演奏者への新たなフィードバックとなれば、それはまた愉快なことだ。
彼の強烈なエモーションと、知的コントロールの共存する演奏に圧倒されたライヴだった。
私はフリージャズを聴いたことがなかった。Bitchesで初めて触れることになった人間で、その世界を知らない。
Bitches Brewにおけるリューダス・モツクーナスのレジデンシー最終日。イソギンチャクのように多方面に触手を伸ばす梅津、重量を維持しながら連続と断絶とを繰り返すモツクーナス、幅広さと重層的な響きとをもって音のコミュニケーションの形を作る大友。あるいは、大友のポルタメント、梅津のフレージング、モツクーナスの大きな慣性。三者それぞれの個性が展開された。
古典からモダンまでを幅広く扱うタンゴを聴きたければ、トリオ・セレステは間違いなく推薦できる日本有数のタンゴ・バンドのひとつと感じる。
プログラムの進行とともに時代が現代に近づくが、それに比例して音色が目に見えて変化する。終盤のプロコフィエフをターゲットに、じりじりとフォーカスが絞られていくようだ。
ユニークな点は、ここに集う作曲家が邦楽畑の出身ではなく、洋楽出身の人々という点だ。
大阪を含めた全四回の公演は、何よりヴァルター本人がリラックス出来て、様々なアーティストと共演を楽しめて実りの多いものだった。
いよいよ5日間の最終日を迎えたチャーリー・パーカー・ジャズ・フェスティヴァル。パーカーゆかりのトンプキンス・スクエア・パークには、8月最後の日曜日の午後に、新旧4つのグループが登場。チャーリー・パーカーのジャズ・スピリットを高らかに歌い上げた。
チャーリー・パーカー・ジャズ・フェスティヴァルのメイン・コンサート2日目は、再びハーレムのマーカス・ガーヴェイ・パークに、新鋭、中堅、ヴェテランの、多彩なスタイルの4バンドが登場した。トリで登場のモンティ・アレキサンダー(p)のハーレム〜キングダム・エクスプレスが、ニューヨークとジャマイカを音楽で繋いだ。
「ラ・フォル・ジュルネTOKYO」と改名し、東京国際フォーラムに池袋・東京芸術劇場が加わり、運営体制も変わった新生LFJの各コンサートの様子をレポートする。
三人の演奏は、ヨーロッパ・フリージャズの草創期から今日に至る、その積み重ねられた年輪に裏打ちされた揺るぎない音世界を描いてくれた。
自然発生的ながら、張り詰めたテンションはいかなる時も健在。自らを知り抜いていることが他者への自然な配慮となって現れる。/Their interplay is spontaneous, but never loose intensity of tension at any time. The fact that they thoroughly know their own music is emerged as tolerance to others.
会場は秋田の地酒メーカー「高清水」の醸造蔵を改装したイベントホール、会場一杯の約100名のオーディエンスが集った。
指先と鍵盤との距離は最短であり、音が生成されるまでの速度は最速だ。ネイガウス門下、ロシア・ピアニズムの黄金時代を今に継承するヴィルサラーゼの奏法は合理性に貫かれている。どっしりと体幹を構え、身体の動きは最小である。
たしかに、新しい解釈に照準をあわせ、作品の時代性が目まぐるしく引き上げられたり引き下げられたりする彼のスタイルは、賛否両論を生むかもしれない。「正統派」の基準をどこに合わせるか。
筆者がこのバンドのライブをどうしても観たかったのは、このバンドはサウンド自体がインプロで構築されているからだ。恐るべしグラスパー!
彼女はシャーマンであるよりもまず表現者であり、現代世界のノマドであろう。「時間、空間を選ばず、遊弋(ゆうよく)しながら思想を伝える人」という解釈をしたい。
熟してなお意気と品格、洒脱さを増す、大人のロマンティシズムを堪能した。
元来、ムローヴァの血であり肉である強靭なロマンティシズムは過剰な表出を要しない。ストレートなボウイングが、そのままシンプルで美しい軌跡を描く。
清濁併せ呑む風格、血の通った威厳。昨今失われた、或いは生き様の根源に関わりながらも捉えられないものだからこそ追わずにはおれない。音によって畳みかけられた60分の余韻には、若干痛みも伴う。痕跡を超えた、音楽の爪痕である。
藤山裕子、18年ぶりの日本ツアー。長いニューヨークでの活動で培われたであろう、音風景や言葉と分かち難い独特のピアノサウンド。そしてレジー・ニコルソンのシンプルで鋭いドラミング、<あるがまま>の境地に入った齋藤徹のコントラバス。
作曲家グループのオーケストラ・プロジェクト が1979年以来続けている、作曲家の新作に焦点を当てたコンサートがあった。次回のオーケストラ・プロジェクトに期待をつなぐことが可能な一夜であった。
「音楽が穏やかならば、人も穏やかになる 音楽がなくなれば、人もなくなる」
注目のトランペット奏者ピーター・エヴァンスの初来日公演「JAZZ ART せんがわ2018」でのステージを3人のコントリビューターがクロス・レビュー。それぞれ異なる視点から分析する。
JAZZ ARTせんがわとの同時開催をスタートして5年目となるランドフェス。今年は民家を活用したセッションなど新しい試みも取り入れ、日常の風景にダンサーとミュージシャンの即興セッションが突如入り込むという同イベントならではの特異性が例年以上に際立つ2日間となった。
今後に向けて、巻上公一(総合プロデューサー)、藤原清登(プロデューサー)、坂本弘道(同)ら各リーダーの奮闘と善処に期待し、この異色のジャズ音楽祭「Jazz Art せんがわ」が今年を最後に終わるなどという悲しい結末だけは何としても回避していただきたい、と切にお願いする。
何百億円も費やす国家的一大イベントに引けを取らない市民レベルの国際音楽交流の場『Jazz Art せんがわ』を経験出来る僕たちは、メダリストにも負けない貴重な記憶の更新者なのである。
三角みづ紀、巻上公一、白石かずこ。三者三様のポエトリーリーディング。声をなかなか発しない三角みづ紀、声ならぬ声を表現した巻上公一、いまだまったく衰えぬ異次元感の白石かずこ。
ヴォイス・パフォーマーのローレン・ニュートンが、ベーシストのハイリ・ケンツィヒとともに来日した。せんがわのステージではヒグマ春夫の映像をバックに、山崎阿弥、坂本弘道、花柳輔礼乃と傑出したパフォーマンスをみせた。翌日のバーバー富士では、対照的に至近距離の空間において演劇的ともいえるデュオの多彩さを披露した。
初来日のジョー・フォンダ、永田利樹、田村夏樹、早坂紗知。4人の自由人により発せられた位相の異なる音が重なり、干渉し、動かしあうバイブレーションのような音楽が、やがて店を閉じるメアリージェーンで展開された。
まさに久しぶりに聴く大野えりのヴォーカルに満喫した一夜であった(なお、この夜のライヴはプロデューサーの三田晴夫氏の下でライヴ・レコーディングされた。
89歳の「パパ」山木幸三郎 (gt,arr,comp) 以下ニューハードの歴戦のメンバー達も佐藤允彦も素晴らしかったのでどうしても新たな展開を期待してしまう。
ものごとの本質に最短で肉迫する手段の多様さ、その蓄積と人生における醸成。芸術家の格ここに極まれり—フレイレの存在はそれを如実に物語る/ The diverse techniques closing in on the very essence in the shortest time; their accumulation and gradual development in his life. The extreme status of an artist is revealed here – nothing truly shows it more than the presence of Freire.
境界音楽の騎手として、このクァルテットはどこまで疾走し続けるのだろうか。今後も目が離せない/As cutting-edge of transborder music, just how far will this quartette keep ranging? We cannot take our eyes off them.
普段ならコンサートが終わればさっさと席を立って家路を急ぐはずの私が、ようとして席から立てないほど感動に身を震わせるのがやっとだった。
地歌ライヴに情熱の限りを注ぎ込んできた藤本昭子の求道会館での最後の姿を目にとどめておこうというファンや支援者たちの一途な思いが、この人、人、人で溢れかえるファイナル公演の異様な盛り上がりを生みだしたといって良いのではないだろうか。
1802人のキャパシティーを持つホールの客席が、この日を楽しみにしていた人々でみるみる埋まっていく。
尾高忠明の指揮はまるで物語を語るように、ときに古いお伽話を語るように絵筆をとって音のキャンバスへオケを滑らせて目を見張らせた。
気鋭の「ジャズピアニスト」・永武幹子が大きな即興演奏の音楽家・齋藤徹に挑んだ。一期一会の相互越境。
フランス音楽に全情熱を傾注した正戸の才気がこのラヴェルで一気に開花した感じだった。
曲へと結実するまでの作曲家の人生の化身ともいえる演奏。全方位的に己を賭さずして到達できない、うち震えるような濃艶さと鋭さがある。聴き手が皮膚感覚で打ちのめされるのはそのためだ/ Her performance can be described as the embodiment of the composer’s life until the fruition of this musical work; it has a trembling-like sensuality and sharpness, which cannot be attained without the artist risking herself in every direction. That is why the listener is overwhelmed by the auditory sensations playing on their skin.
民話的な哀感は同時に未来的。微視と巨視の並走。覚醒と熱っぽさの混在—「風ぐるま」は、統合された知覚による経験の最先端を飄々と廻り続ける。
特に素晴らしかったのがメンデルスゾーンの「イタリア」。この演奏を目の当たりにして、この俊英指揮者の楽曲へのハイセンスなアプローチ、日本のオーケストラというより日本フィルとの相性の良さ、伸びやかで若々しいリズム感が、並ならぬものであることがよく分かった。
それはそれとして、正戸里佳とパリでの活動歴が長いピアニスト、菅野潤の呼吸のあった熱いこのソナタ(プーランク)に私は時代を超えて訴える何か強いインスピレーションを感じたせいか、心も身体も熱くなった。
万物の音楽の出発点は生まれ育ったブラジル北東部にあるという小さな誇りが感じられた。初めて見るエルメート・パスコアルのライブは、その場にいたことを何年先になっても思い出せるような幸福感を残した。
繊細で初々しい即興性をもつ弱音の音楽、音への戸惑い。自己が発した音への驚きに触発されてなだらかに増殖されていく。
特異なアルト奏者・川島誠と経験豊富なコントラバス奏者・齋藤徹との初共演。互いに普段とは違うプレイをみせた。
「理屈抜きに福盛進也トリオの音が好き」ということを認識した。そして、またライヴでその音響に包まれる瞬間を心から楽しみにしている。ぜひ、福盛進也トリオはライヴで体験して欲しい。
関西人にとって、阪神淡路大震災からの復興の願いがにじむ「満月の夕」はなじみ深い。かつて彼がこの曲に惹かれ、やがて私たちはこのトリオの「満月の夕」に出会うことになった。音楽がつなぐ縁の面白さだと思う。
コンサートは、青木の専門とするジャンルであるタンゴやモダン・フォルクローレ(*1) を軸に、神田や青木のオリジナル曲を織り交ぜる形で進行した。
La Folle Journée de
2018年3月2日 浜離宮朝日ホール t
うたかたの酔い、澄みゆく空気の推移から氷塊のクラッシュまで、組んず解れつ切り替わるシーンの連結。個々の演奏家のエッジィな部分が共振しては勃興する音の気配、香気。彼らの音楽は全員の総和でなく相乗で成り立っている。/From the intoxication of effervescent bubbles, the quiet shift of crisp air, to the crash of a heavy block of ice, we experience the dramatic interconnection of changing scenes locked in a fierce and powerful struggle. Each musician’s edgy parts resonate and rise to power, hinting at the signs and fragrances within the sound. Their music is a synergy, rather than the simple sum total of all members.
少なくともこの瞬間に立ち会えた私自身の喜びがないまぜになった感動で、胸が異常なまでに高まるのをしばし抑えられないほどだった。
1970年代初頭、伝説の新宿ピットイン・ニュージャズ・ホールで若き日を過ごした阿部辰也。2018年、吉田野乃子らとともに「札幌 Free Jazz 最前線」と題したイベントに出演した彼の現在の演奏と、フリージャズへの思いをきいた。
終盤で演奏された、多分、<Senhorinha>の頃には、もう身も心も溶けていくような、本当に素晴らしいライブだった。
ニューヨークの変容するジャズの世界を生き抜くピアニスト蓮見令麻の歌を中心にしたトリオ演奏は、高潔な美意識の内側に漲る母性と慈しみに触れる心温まる一夜だった。
生誕120周年を祝って今年は「ブレヒトを歌う」が他にも企画されるかもしれないが、彼女には名曲アルバム以上に、現代日本で彼の仕事を振り返り歌い直す意味を即興と逸脱の余地を広げて発想したのに動かされた。
それにしても単独フルートのコンサートに1632席の大半が埋まるほど観客が詰めかけるとは。さすがフルート希代の名手エマニュエル・パユのコンサートというべきか。
カフィーソのたくましいうえに優しい最初の低音で釣り込まれた。「自分の音」を最初の一秒で響かせた。こんな突き飛ばすような一撃はめったにない。一発目で切り札のような「これ」を聴かせ、後は自在な音色とフレージングで走り切る。爽快な波に乗せられ遊ばれているような時間をすごした。
「水を打ったような静けさ」「固唾を呑んで見守る」という常套句がこれほど似つかわしい場面もないのでは、と思わせるほどの濃密な静寂が場内を覆う。
この日の演奏は、それぞれの独奏とデュオであったが、いずれもインプロヴィゼーションであった。しかしこのインプロヴィゼーションが、ジャズ文脈のものでもサウンド依存のものでもなく、まして理念先行の即興である事自体だけを目的化したものでもなく、楽句から大形式へ向かう構造化過程を踏んだクラシック的なアンプロンプテュであった。
エッセンを拠点にジャズ、実験音楽、即興、現代音楽、劇音楽といった幅広い分野で活動する若手サックス奏者フローリアン・ヴァルターの初来日ツアー。日本の個性派ミュージシャンとコラボした2回のライヴ・レポートとインタビューでドイツ即興シーンの現在を探る。
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」2017年は「La Dance〜舞曲の祭典」、ルネッサンスから今日までの600年にわたるダンスと音楽の密接な関係をたどるというのがテーマ。
ホンシュクは自他と共に認める「マイルス信者」でレコーディングやライブのいわば「縦軸」はマイルス・ディヴィスの影響と継承発展に、「横軸」は彼の師ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック概念に基づいている。
クラシック音楽における最先端は、今後どのようにそのエッジを研ぎ澄ませてゆくのだろうか。興味は尽きない。
11月11日、吉田野乃子は30歳の誕生日を迎えた。第1部は彼女が近年取り組んでいるソロ、第2部が結成されたばかりの新バンド「エレクトリック・ヨシダ(仮)」。吉田の現在を映した、記念すべきライブとなった。
名伯楽としてのキャリアが示すとおり、その演奏は決して奇抜な個性を押し出すものではない。楽曲の構成を噛み砕き、熟成させ、演奏の起伏を決して感情任せにしない。ポイントとなる音やフレーズを起点に変化を持たせ、裏づけ充分に作品を内側から組み直してはドラマを捻出する。演奏は自ずと説得力に満ちたものとなる。
けれん味のないロマンティックな精神は70年代のECMのジャズ・ピアニスト達にも通じる「青春性」を率直に表しているようで清々しかった。
新たなジャンルを切り開く先鋒に立ち続けることの厳かな美しさを、入魂の一音一音が雄弁に物語る。/ The intimate, soulful sounds relate with great eloquence the majestic beauty of one who remains standing at the vanguard as a pioneer of new genres.
バルダが黙々と醸成してきた揺るがぬプリンシプルが結実、むせ返るような濃厚な世界に呑み込まれた。/ The unwavering principle that Henri Barda has tacitly cultivated bears fruit, the audience engulfed by his choking, dense world.
どうやら当夜は終始ゴンサロがリードし、チューチョはといえばあたかも息子にすべてを任せて安楽椅子に座っている風だった。
類をみない繊細な音を放つロジャー・ターナー。齋藤徹、喜多直毅との4度目の邂逅。
多くのヨーロッパのピアニストのように過度にメロディアスであったり、コードの情緒性に陶酔する事なくストイックに選び抜かれた最小のエレメンツで構成された音楽でありながらなぜか「暖かい」印象を残していた。
ピアニシモになればなるほど美しく、威力は増す。どんな微細なニュアンスも聴き逃すまい、と観客の耳は吸い寄せられる。/ The more pianissimo, the stronger the power. The audiences’ ears were irresistibly drawn toward so as not to miss any single nuance, however subtle.
1998年のロン・ティボーコンクールの覇者であり今や世界的に活躍するセドリック・ティベルギアンの音楽は、おそらくピアノという楽器のダイナミクスの限界からも、クラシックという解釈芸術の制約からも、その威力と表現の自由度の高さにおいて最先端をいく。/ The music of Cédric Tiberghien is probably at the leading edge of today’s classical music scene, and in spite of the limited dynamics of the piano and the restrictions on interpreting classical music, this is especially evident when considering his power and high degree of freedom in musical expression.
それがこの日は、違った。初めてというのがお恥ずかしいくらいに、団伊玖磨が書いたオペラのスコアから生まれる洗練された音楽に酔いしれた。
ウェールズの気候風土を知り抜いた尾高ならではの指揮(指揮棒はこの日1度も使わなかった)がすこぶる印象的だった。
クリス・ピッツィオコス初来日ツアーの最終日は、ノイズ、ロック、フリージャズなどを相互に越境する怪物たちとのギグとなった。ルインズの吉田達也に加え、フリージャズ・インプロの広瀬淳二にスガダイロー、非常階段のJOJO広重。
JAPAN TOUR終盤のクリス・ピッツィオコス×吉田達也デュオと唯一の完全ソロ公演をレポート。日本公演で培った吉田との共感と、日本のオーディエンスへの敬意を素直に表現するピッツィオコスの音楽は、テクニックではなく豊潤な表現力があるからこそ輝いているのである。
クリス・ピッツィオコスJAPAN TOUR、札幌での2日間(9月26、27日)は大友良英との共演であり、いくぶんスペシャル感の強い2日間となった。大友 (g)、Sachiko M (sine wave)、山崎比呂志 (ds)、不破大輔 (b) 芳垣安洋 (ds)というベテラン勢と交歓した二日間を北海道在住のゲスト・コントリビューターがたっぷりとレポート。
そんな、チックの音楽、塩谷、団員を有機的に結びつけ、組み立てて、グルーヴとダイナミックスを生み出して行くマエストロ。
2017年9月のニューヨーク・ジャズシーン報告。
街のなにげない場所を即興の舞台に変え、普段とは全く異なる状況下に置かれたダンサーとミュージシャンの丁々発止のやり取りをリアルタイムかつ至近距離で目撃できるのが、このイベントの醍醐味だ。
記念すべき第10回目となるローカル国際音楽フェス『JAZZ ARTせんがわ 2017』は、過去最長5日間の開催となった。海外からの個性はアーティストも参加し、ジャンルと国境を越えた交流が生まれた。これからも多くの音楽家やファンが「JAZZ ARTせんがわ」で縁を結ぶことになるだろう。
このグループは邦楽器を扱う作曲家の集まりだが、彼らが洋楽畑出身であるところに大きな特徴がある。私のようにジャズの分野での執筆活動を続けてきた人間が、趣味で親しんでいた邦楽の分野でも執筆をするようになったことと共通しているといえなくもない。
このデュオ演奏、ぴったり予定通り20分だった。じつは最近、予定時間通りの演奏ができている。時間芸術としての音楽において、これは非常に大事なことではないか?しかも楽曲ではなく、即興演奏のアンサンブルでそれができるということは?
しばらくの間ご無沙汰していた「食べある記」の扉をを久しぶりに開けて、今回は「食べある記」を振り返りつつ、食べ歩きをひとしきり楽しむことにする。
少なくとも本場アルゼンチンでもこれほどの充実したプログラムと構成のピアソラ・タンゴは滅多に体験できないという感激をひたすら味わいながら楽しんだ2時間余であった。
照内央晴、松本ちはやというふたりの即興演奏家によるCD作品『哀しみさえも星となりて』。そのレコ発ツアーの最後を飾るコンサートは、両演奏者と聴き手が有機的につながり、音風景が次々に転換する素晴らしいものとなった。
巷の民族音楽ブームを尻目に、エキゾチズムを超えた遥か彼岸から喜多の「これまで」が想起される—-そんな感慨すら滲んだ一夜。独創性の錬磨と熟成、それに勝る衝撃はないことを突きつけた。/ With scarcely a sidelong glance at the ethnic music boom on the street, Kita’s trajectories were recalled as if from a distant shore surpassing exoticism, and in this one evening such deep emotions revealed themselves. Outstanding performance, the fruit of original practice and maturity, was thrust into the heart of an appreciative audience, and the impact could not possibly be bettered.
今回のソエジマナイトの予想を超える盛況を考えるに、勅使河原ファンの若年層、フリージャズ・ファンの中高年、ストアハウスの常連ファンなど、年齢、性別、分野の壁を越えて集まった観客のせいだろう。
ピアノという近代の怪物から導き出されるのは、羽の翻りにも似た天上の境地。力で押さずに、柔らかな音色の魅力一点でドラマを創りあげる。大曲からアンコールの小品に到るまで、漲る充実度に偏りなし。至芸である。/A celestial state akin to a floating feather was released from the piano, the monstrous instrument of modern times. Without forcefully pushing, he created a drama solely with fascinating soft tone colors. All pieces from the great works through to the short encore were wonderfully complete with no lack of balance. It was an unrivaled performance.
どうも伊藤さんが、小黒こっちこっちってここまで導いてくれていたような気がするだが...。
故・生悦住英夫を追悼し、13組の出演者が約20分づつ演奏する、6時間に亘るマラソンイベントは、地下音楽の国際性と幅広さを明らかにし、インディペンデント精神の継続を約束する共感の拍手が鳴り止まなかった。
高い演奏力を要するスコアがもたらすストイシズム、それに練達し破ることでのみ拓けてくる突き抜けた自由、静謐なパノラマ。脱領域的な音楽だが、ふとした瞬間にふわりと舞うペーソスは、まさに日本人のDNAが呼応せずにはおれない原風景。超現実的でありながら強烈に懐かしい。/ Scores requiring high-level performance resulting in stoicism; only mastery and breaking through them can lead to absolute freedom; and a tranquil panorama. This is extra-territorial music, but the pathos gently fluttering in unexpected moments is certainly an archetypal image that the DNA of the Japanese cannot help but respond to. It may be hyper-realistic, but it is at the same time intensely nostalgic.
エリントンやマイルスのナンバーを素材として、芳垣・伊賀が生み出す精緻かつ緩急自在なグルーヴに重ね合わせるように、細海が1曲毎にハモンドとウーリッツァーでアンサンブルの前景を描いていく。その筆致は時に凶暴なまでに荒々しく、時に細密画のように精緻。重低音で空間を切り裂く吉田のサックスとの絡み合いもまた実にスリリングだ。
場内は超満員。この数年、「ブルーノート東京」に限らずこの種の大型ライヴハウスは特にシンガーが出演する週となるとどこも好況に沸いているが、それにしてもこの活況ぶり。これってダイアン・リーヴスの人気ゆえなのか。
企画・招聘で自身もベーシストであるSHIKIORIの松永誠剛に、今回のティグランの想像を超えた知名度と人気について訊くと、「今の時代が必要としてくださっている、、のかも知れません。」と語っていたのが、終演の瞬間に腑に落ちた気がする。
日本・デンマーク外交樹立150周年記念イベントのひとつとして10日間に亘って開催された「オポジット2017」(OPPOSITE 2017)は、未知との遭遇の歓びに溢れ、限りない好奇心に貫かれていた。音響・無国籍音楽・ハードコアジャズ、すべてがデンマークの香りに満ちた極上の体験だった。
待望の初来日メテ・ラスムセンとクリス・コルサーノとのデュオ。クリス・コルサーノは溜息をもらしてしまうほどのスピードをいかんなく発揮した。メテ・ラスムセンはさまざまに音風景を変えながら、身体のダイナミックな動きをフル活用した表現をみせた。
この日の彼女の歌いっぷりを見て、私はふと思った。笠置シヅ子が生まれ変わって現れたのではないか、と。
思わぬ展開にびっくりしたり、考えさせられたり、共鳴したりと、久々に感慨深く聴いた4つの邦楽コンサートをめぐって
ジョン・コルトレーン(1926年9月23日〜1967年7月17日)の初の本格的な伝記映画となる『Chasing Trane』が、2017年4月14日に公開された。監督は『The U.S. v.s. John Lennon』(2007)のジョン・シャインフェルド。
リズムの相克から生まれる駆動力、サウンドのドラマ性、昂揚と興奮。喜多直毅クアルテットは進化を続ける。
実際、リーダーのジョナサン・カッツをはじめバンドのプレーヤー全員がプレイすることに喜々として楽しんでいる姿や演奏に献身している人間味が、サウンド全体から横溢して聴く者のハートに火をつける。
これだけの日本を代表するメンバーを集結させられる力は内田先生ならではと、あらためてその偉大さを実感した次第。
繊細で自由な最高の演奏の中でケミストリーを生み出すことができる名手たち、チック、デイヴ、ジョンのトリオに、最高のソリストのエリックとフランク。次の機会を楽しみにしたい。
観客は、橋本がホステスを務めるTVジョッキーに中村がゲスト参加した番組を生で観ている風情。ボサノバらしいなんともインティメートな雰囲気に満たされた、しかしとびきりゴージャスなひとときだった。
『レジデンツ』とはステージ上の特定の誰かを指すのではなく、この時間を共有し錯乱した夢物語に参画するすべての人々が醸し出す集団的無意識の擬人化なのかもしれない。
ふたたび齋藤徹が抱きしめた「ジャズ」、「齋藤徹のジャズ」に向けた序章。
豪放で魅力溢れる音色を持つ植松孝夫のテナー、知的できらびやかな永武幹子のピアノ。大ヴェテランと新進気鋭とのデュオ。
この「Joy of Chamber Music Series」は、田崎悦子がアメリカ留学時代に経験したタングルウッド音楽祭がベースとなっている。ルドルフ・ゼルキンやアイザック・スターンといった巨匠が若き音楽家と別け隔てなく生活を共にし、アンサンブルを楽しむ、音楽漬けの日々—。これが後の芸術家人生に及ぼす影響は測りしれない。
ヨーロッパで英語がノン・ネイティブのための共通語であるのと同様、ジャズが彼らと私たちの共通言語ということだろう。ジャズは健在なり。
「魔法使いの弟子」にしても、この「幻想交響曲」にしても、あたかも全力で格闘技を試みているかのような彼の一挙手一投足、あるいはステージ上の俳優が身体を張って演技するかのように彼のタクトに応える都響の迫真の熱演に、会場を埋めた聴衆の誰も彼もが思う存分酔わされたのではないだろうか。
ダニエル・“ピピ”・ピアソラは、タンゴに革命をもたらしたアストル・ピアソラの孫にあたる、アルゼンチン・ジャズ界を代表するドラマーで、エスカランドラム、エンセンブレ・レアル・ブック・アルヘンティーナ等にも参加している。
急激にしかも世界的に注目されるようになったのは、デヴィッド・ボウイの遺作『★(Blackstar)』を支えるバンドに抜擢されたこと。グラミー賞授賞式では、ダニー以下バンドメンバーが登壇し、デヴィッドに代わりダニーが受賞しスピーチを行った。
そういえば、近年、シャープな技量と豊かな音楽センスを持つ若いドラマーが続々と出現している。日本という限られたマーケットの中でもドラムス分野から注目すべき人材が来日しているのをご存知だろうか。
厳冬のニューヨークにあって、NYC Winter JazzFest だけが持つ独特の熱さと密度の濃さは世界中の他のジャズフェスの追随を許さない。将来の音楽を見通すためにも、また身も蓋もないお得感も含めて、日本のミュージシャン、業界関係者、リスナーにぜひ来訪をご検討いただきたいと思う。
日本人ジャズピアニスト、スガダイローとアメリカ人ジャズピアニスト、ジェイソン・モランがニューヨークのスタインウェイピアノ工場でVERSUSする。
ブラジル色を強く打ち出してきたRacha For a(ハシャ・フォーラ)が今年はジャズに重心を移し、自由に動けるようにとフルート、ギター、パーカッションのトリオ編成を基本としてチャレンジしてきた。
その時代背景の中、パットから贈られた曲への作詞・録音風景など、パット・メセニー・ファンにも非常に興味深い映像となっている。
自然発生的な音で時空を満たしてゆくというインプロの事例には事欠かない昨今、ミクロレヴェルまで徹底して考察され、弾き尽くされ、かつ一音単位でも濃密に息吹く喜多直毅クアルテットの音楽づくりは、正統派のラディカルとして群を抜く。
シドニーを拠点に30年間独自の音楽活動を続けるピアノ・トリオTHE NECKSの初来日ツアー。アヴァンギャルドにして和み系、豪州の不可知な音楽集団のイマジネーション豊かなサウンドスケープは、聴き手の魂を啓く導きであった。。
幼少期から晩年に至る本人の貴重な映像と、ミュージシャン、家族、友人からの証言と、ジャコへのインタビュー映像から丹念に構築され、観客と想いを共有しながらともに旅していく第一級のドキュメンタリー映画
ピアノとサックスの楽器としての構造と基本に立脚したシンプルかつ美しい最高の音色と、巧みなダイナミクスのコントロール、それに基づくピアノとサックスの”完璧な”インタープレイに圧倒された。
彼の演奏を聴きとどけた時点で、この夜の私のほとんどすべては終わった。私にとってのコンサートはデームスを聴き終えた時点で終わったも同然だった。だが、実際は前半が終わったに過ぎない。まだ後半が残っている。
スターふたりとこのオーケストラが全身から発するのは、アメリカ文化がもつ「ステージ力」ともいうべき、舞台芸樹の厚みである。たとえばこのユジャ・ワンに代表されるスターが身にまとっているオーラは、徹底的にプロである。聴かせ、見せる(魅せる)存在—–そこにはスターだけが課せられる、厳然たる前提条件の高さがある。
この日もツアーの最終日とあり、ふたりのパートナーシップは水も漏らさぬ緊密さをみせた。
、往年の知られざる規模の小さな作品に息を吹きかけるように演奏して観客を楽しませる術といい、日本にもかくも奔放にして個性的な演奏をする演奏家がいるのかと、その演奏を目の当たりにして実は嬉しくなった。
若い芽がすくすく育って、気がつくと大きな器に磨きがかかり、魅力的なアーティストとなって颯爽とした演奏を披露している。
プログラムをみれば一目瞭然であるが、音でつむぐ時代考証のようなステージングである。アヴデーエワのピアニズムに固有なのは、その全方位的な音の伸びだろう。何よりも縦にバウンドする力がある。音が単に伸びるのではなく「立ちのぼる」。
フリージャズは死なない。ついに実現した三者会談でジグソーパズルの音楽のパワー、音楽の享楽、音楽の本質を心から堪能する10月革命だった。
2009年から足掛け7年で彼女は着実な成長を遂げ、いまや邦楽界の第一線を闊歩する。ジャンルとしての邦楽を超えた彼女のさらなる飛躍を私は大いに期待する。
マイク・マイニエリは78歳、ステップス・アヘッドはメンツが流動的、自在なのがかえって吉と出て、懐メロに終わることなく、毎回新鮮な感動がある。その中でのオリジナル・ステップスの名曲の演奏を温故知新で聴けたのは非常に貴重だった。
「貪欲な耳と疲弊した耳のための非挑発的音楽フェスティバル」と銘打って開催されたSound Live Tokyo 2016(以下SLT)のラインナップの中で、ひとつの『集団』として『即興』を核にした表現活動を披露するのが、いずれも1997年に始動したマージナル・コンソートとツァイトクラッツァーである。
3人のとてつもない技量と細やかな感性に裏打ちされて、繊細で緻密なリズムとグルーヴを持ちながら、わかりやすく楽しく、音楽への愛に溢れた時間。
プログラムの楽曲解説とは違った楽曲の捉え方やショスタコーヴィチ音楽の面白さがあることを発見し、批評家や曲解説の執筆者の判で押したような解説を飛び越えてイメージを思う存分膨らます楽しさを久しぶりに味わった
2016年9月18日 (日) 18:00
夜の帳が下りた商店街に、静かな立ち上がりから徐々に湿った空気を切り裂いていくようなアルトの一声が響き、ダンサー小暮香帆が呼応してセッション開始。その場に居合わせた少女が小暮の動きを終始追いかけ、二人芝居のように展開していく様子が楽しい。
ダンスと音楽が街に飛び出す破天荒なイベントは、人々の生活の中に生きる芸術の神を目覚めさせる感謝祭の時間だった。
東京ビッグバンドはステージに並んだ顔ぶれを見ただけで、野趣横溢する屈強のビッグバンドであると分かる。これから何か楽しいエキサイティングな演奏が起こるという期待が湧いてくるのだ。
対峙する者が感情の閾から反応を引き出さざるを得ない「機械仕掛けの神」と「ピカ=ドン」、そして、再生もライヴも、映像も言葉も音楽も、またトランスジェンダーやクイアも、すべてを混淆させて提示される「愛の爆弾」。
ブリス・ワッシーは、やはりサリフ・ケイタのバックでリズム面を取り仕切っていたレジェンドとしての印象が強い。
JAZZの歴史の重みとその先の軽やかな飛翔を物語る東京ジャズ15周年の試みは『ジャズはここにいる(Jazz Is Here)』。『今ここにあるリアル・ジャズ(Jazz Right Now)』とはかなり異なるが、これもまた未来のジャズの予感に繋がるか?
東京ジャズ祭が国際フォーラムから撤退し、来年2017年度から渋谷に場所を移して開催されることが決まった。渋谷での Tokyo Jazz Festival 開催に向けた新しい動きがすでに始まったといっていいだろう。
照内央晴による身体表現とのコラボレーション。
イヴァンは、ステージ上でも「キラー・ビッグバンド」と絶讃し、演奏を終えて、再度の共演を希望し、「一緒にツアーに出たい」とまで言ったらしい。それは簡単ではないにしても、その言葉に値する演奏だった。
二人のプレイとソロをたくさん聴かせてくれたこの公演に会場のギターフリークはしっかり満足したに違いない。比較すると、マイクは2〜3コーラス以上の長い時間の流れの中でフレーズが生まれ、ハーモニーを創り出すのを感じるのに対して、渡辺は各コーラスのそれぞれのパートで自在なテクニックを活かした高速フレーズを繰り出して来る。どちらが優れているということではなく、音の生まれ方の違いがわかって面白い。
天候の懸念もあり1stセットでB♭を後にしたが、この時代に東京の赤坂でノルウェーの若い世代が牽引するクール派ジャズを堪能できるとは夢にも思わなかった。
会場は秋田の地酒メーカー「高清水」の醸造蔵を改装したイベントホール、会場一杯の約100名のオーディエンスが集った。早川・石橋・村上の組み合わせでの演奏は今回で2度目だが、まるで何年もトリオを組んでいるかのような息の合ったプレイだった。
沖縄のディーヴァ・与世山澄子、山本剛トリオとの完璧なステージ。
フォルムやサウンドイメージだけをフォーカスしがちな録音物という形態では、齋藤のような音楽のあり方の魅力は見えにくい。齋藤のようなスタンスの音楽家の場合、音楽だけでなく、なぜそうするのかという芸術家という生き方自体も、観る人に重要な示唆を与えるかも知れない。
中国・深センで2014年から開催されているノン・メインストリームの音楽フェスティバル<TOMORROW FESTIVAL>に潜入。オルタナティブ/アヴァンギャルド・ミュージックに関心が高まっているといわれる中国の音楽事情をレポート。
レイモンド・マクモーリンがNYと東京との橋渡しとなって実現したライヴ(2016/6/10、南青山Body & Soul)。そしてジャッキー・マクリーンから連なる系譜とは。
とりすまして気取ったような「ユーロジャズ」とは一味違う本場アメリカン・ジャズの本質が見えてくる。彼らの音楽を支えてきたルーツがそこにある。
あまつさえそのスケールの大きさでファンを魅了しつづけてきた舘野泉の音楽は、「左手のピアニスト」となって十余年、その突き抜けるような鼓動と生命力であらゆる垣根を取りはらいつつある。今後「左手」と注記する必要はないと思うほど、音楽の普遍性が湧き出ているのだ。
1月ニューヨークでのWinter JazzFestでもマンフレート・アイヒャーがシャイに嬉しそうに話しかけているのが目撃されたが、類似性ではなく、独創性やスピリットという点も含め、シャイはECMの創ってきた音楽、またキース・ジャレット的なる感性の正統な継承者だと思っている。
ゴールデンウィークの東京・丸ノ内を賑やかにする音楽祭として定着したラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LFJ)も今年12回、作曲家や時代にフォーカスしたテーマによる10年を終え、昨年の「Passions」に続き今年は「la nature」をテーマに自然という観点から切り込む。
当夜のプログラムはペルトとライヒの作品が2曲づつ。これではいくらクリスチャンへの注目が高まっているとはいっても入りは期待できまいと踏んだ当初の予想は、見事に外れた。
伝説の音楽家・高柳昌行の磁場たる場が開かれた。こけら落としのライヴは高柳の弟子筋にあたるギタリスト・廣木光一。
90年代に<ジャズで踊る>というムーヴメントが世界各地で盛りあがった。日本では折からの渋谷系ブームとも連動し、深夜のクラブで朝までジャズやレアグルーヴで踊り明かすのがトレンドになった。そんな時代の最先端にいたのがジャイルス・ピーターソンとUnited Future Organizationの松浦俊夫だった。その二人が21世紀の最初の15年が過ぎた今、ジャズを基盤にした”大人のための都市型音楽フェス”を企画した。
このBig Phat Band を率いるのはゴードン・グッドウィンズという男だが、普段はピアノの椅子に座ってバンドをリードし、演奏が終わればマイクでファンと交歓しあい、喜々としてメンバーや演奏曲の紹介を通して雰囲気を盛り上げる。
ユニティ・バンド&グループで、パットのサウンドコントロールの下でステージとの間に「見えない壁」を感じてしまったのに比べて、新バンドはダイレクトでインタラクティブなエネルギーをしっかり受け止めることができ、新バンドの魅力全開とまでは至らなかったにしても、高いポテンシャルを感じさせた。
この日はファツィオリ社の主催による、スクリャービンとショパンの『24の前奏曲』計48曲を1曲ずつ交互に織り交ぜて演奏するという実験的な趣向。
目を閉じて音楽に聴き入ると、ジスモンチの演奏にナナ・ヴァスコンセロスのビートも聴こえてくる。ジスモンチはナナを意識しながら演奏をしている。すると、演奏が静かになった時、ピアノ以外の音が聴こえてきたような気がした。ジスモンチもピアノの向こうに身を乗り出して何か捜すように演奏をしていたが、いつしか会場の拍手の音にその気配は消されてしまった。
私たちのあの悲劇への痛切な思いが、このときの演奏と合体した。少なくとも私はそう思って身を震わせた。汗を噴き出しながら指揮した斎藤の胸中に何が去来したのか。久保摩耶子は最後に書いている。<この「三陸のうた」を聴いて自然の大惨事の風景をそこに探そうとするならば、それは間違いです>、と。
野宿者・失業者を支援する山谷労働者福祉会館において、大阪やニューヨークで活動するサックス奏者・Swing MASAのソロライヴが行われた。
類家心平のバンド「RS5pb」(Ruike Shinpei 5 piece band)によるニューアルバム『UNDA』のリリースを機に、書とジャズとのコラボレーションが実現した。
境界を自在に駆け巡る異才ヴァイオリニスト、喜多直毅。そのメインプロジェクトであり、今年で活動開始から5年目を迎える「喜多直毅クアルテット」が、ティアラこうとう・小ホールでライヴを行った。
人は年を取ると子供に戻ると言われるが、子供の心を持ったまま活動してきたニヒリスト・スパズム・バンドにとって18年ぶりの日本は人生の最後の一幕というよりも、地元のギャラリーでの月曜日の演奏への新たな刺激になったに違いない。
今年12年目を迎えた「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」のテーマは「la nature」。同テーマで先行した本家「ラ・フォル・ジュルネ・ド・ナント」を初めて訪れ、東京との比較と展望を試みた。
2016年1月にマーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットで来日直後のシャイ・マエストロ・トリオは、ニュースクール大学の“5階ホール”で演奏した。ウインター・ジャズフェストでも、自己のトリオの他、マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット、ECMでのセオ・ブレックマン・エレジーなどに出演。
年明けのニューヨーク、グリニッチ・ヴィレッジ界隈で開催されるジャズ・フェスティバル「ウインター・ジャズフェスト」、12回目となる2016年は金土曜日の2晩を中心に、計5日間、10会場で120グループ以上、600以上のミュージシャンが参加して開催された。
一握りの演奏家しかもち得ない生有の俊敏さ、風のように自然に湧きでる斬新な感性に魅了されるとともに、音楽が社会において重要な位置を占め続けてきた都市の、まぎれもない進化形をそこに嗅ぎとらずにはおれない
その場に居合わせたすべての者の狭間(in between zones)に介在する、見えざるカオスや混沌を顕にしようとする彼らの試みは、破綻やほころびも呑み込みつつ、一つの確かな形象として実現されていたように感じられた
自らのルーツを全身全霊で叩きつけてきた渾身のパフォーマンスだった。 閉じた「即興のための即興」ではなく、様々な音楽を前提にした汎性を問われる現代即興として、間違いなく一流。
日本ジャズ・シーンの裏街道を暴走するドラマーが奏でるリアルジャズ
イリアーヌの音楽が常に発散している洗練されながらわくわくする感覚、そしてブラジル音楽の持つ歓びが結びつき、最大限に発揮された素晴らしい音楽のひととき
ノーマ・ウィントン・トリオが2014年9月に続いて2年連続で来日してくれた。いや、大沢知之氏(Office Ohsawa)が頑張って招聘してくれた。
マーク・ジュリアナは1980年生まれ、現代ミュージックシーンで最も注目すべきドラマーのひとりだが、2016年1月6 日にリリースされたデヴィッド・ボウイの遺作『★ Blackstar』にドニー・マッキャスリンらとともに参加していたことで、デヴィッドの訃報とともに世界的に注目を浴びることとなった。
新作『Time and the River』をひっさげての日本公演。このアルバム何が凄いかって、ジャケットが日本語の漢字で「サンボーンガワ」。
岡山駅の西口に奉還町という商店街がある。地方の商店街の衰退は、地方再生の街作りの課題ともなっているが、ご多分に漏れずこの商店街もシャッター街になりつつある。
赤い日ル女は、異才サウンドクリエイターTommyTommyとの双頭ユニット・あうんで活動するヴォイス&エレクトロニクス奏者。
演奏の都度その姿を変えるキメラ、クリス・ピッツイオコスの圧倒的なライヴ
「ことば」の力を呼び起こす齋藤徹、さとうじゅんこ、喜多直毅のトリオ
海原のような深く広大な音楽、ゆえにじわじわと寄せてくるその怖しさも含め、芸術家としての女性らしさ、の極北を見る思いがする。
極めてエレガントな佇まいで登場した田崎悦子は、作品の内へ内へと降りてゆくことでその情熱をみごとに昇華させ、ピアノが自ら語り、発光しているような澄 明な境地を力強く切り開いていた。
一見容赦ないエネルギーで鍵盤が御されるなか、音間から立ち上るスクリャービン特有の複雑な和声は、馥郁(ふくいく)とした味わいとともに極めて知的なクールさも保持しつづける。激情と怜悧の二重唱、それが肉厚なサウンドのなかに盛り込まれる。ヴォスクレセンスキーの最大の魅力のひとつだ。
“Partitura Project”とは、マリア・ジョアン・ピリスが現在教鞭をとるエリザベト王妃音楽院が中心になって進めているプロジェクトである。いわゆるスター・システムに浸食され、競争の場と化してしまった音楽教育の現場に一石を投じるもの
クラシックという文脈では多少芝居がかりすぎていると評されかねないバルダのステージ・パフォーマンスは、クラシカルであると同時に否応もなくアヴァンギャルドである。クラシック音楽はバルダのような存在にかかってこそ、長きにわたるその歴史を一気に現代にまで繋ぎ、花開くのだ。
パコが閃きと直観に導かれた天才だとするならば、カニサレスは構築とプロデュースに長けた超一流の職人である。カニサレ
今年で14年目を迎える「東京JAZZ」。調布の味の素スタジアムでスタートしたこの大型ジャズ・フェスはビッグ・サイトを経て国際フォーラムに落ち着いた。
作曲家の別によらず、田崎悦子の演奏に触れるたびに実感されるのが、その肩肘のはらない自然なスタンスである。スタイルという名のもとに、エゴイスティックなまでに作品を自己のもとに引き寄せようとする自己顕示ほど田崎の演奏と相容れないものはない。
アンコールはなく、あっさり終わってしまったが、濃密な1時間。機械化されたヒップホップにR&Bの身体性を取り戻す作業は、完成の域に達した。さて、次はどこへ向かうのか。
今回は、企画準備等に少しずつ無理や詰めが甘い点もあって残念であったが、とにかく勢いを持って「実験=エクスペリメント」してみたら、思いのほかよく、RGEサウンドの有効な拡張を見ることができたという感がある。
2015年4月19日 新宿ピットイン、2
2014年7月12日に亡くなったジャズ評論家の副島輝人氏を偲んでミュージシャンが集まった。葬儀で弔辞を読むように指名された梅津和時、不破大輔、大友良英、そして佐藤允彦の4名が発起人となり、新宿ピットインの協力を得て「故副島輝人さんを偲ぶ会」が行われた
終演の挨拶で巻上はJazz Artせんがわの目的は「分かり易い音楽、つまり強度が強くてすぐに判る音楽を届け、出会いの場を作る」ことだと語った。昨年言っていた「ひと言で判られないフェスティバル、楽しくない音楽」とは対照的に見えるが、まったく同じものを指していることは、一度でも会場に足を運べば即座に理解出来る。
3つのステージを観終えたとき、ふと、伊藤キム、センヤワ、坂田明の声の多彩が一本のテーマとして浮上していたのに気付いた。翌日のトリは友川カズキだという。言わずもがな、な、声と歌だ。「生きているって言ってみろ」の絶叫が締めなら、出来すぎ君である(実際、そうだったという)。
「JAZZ ARTせんがわ」も今年で7回目、バラエティに富んだプログラムで、目を耳を五感を楽しませてもらった。継続することは意味がある。来年もまたこのイベントで「出会い」があることを期待したい。
延べ70分に亘る長時間演奏は、橋本にとっては初体験だったという。三者が一歩も譲らず語り合い、諍い、睦み合った芳醇な時間は、紛うことなく明日への糧 として、演者・聴者いずれにとっても、類い稀な経験になったことは間違いない。
山下にとっては2年に1度相まみえるメンバーとのこの邂逅は、まるで牽牛と織女の逢瀬ならぬ、待ちこがれた一夜なのではないだろうか。あるいは私自身がそうだったように、当夜が待ち遠しくてならなかったのはむしろSBBの熱烈なファンの方だったかもしれない
肉体は滅びても魂は残り、それを継承する者が新たな命を吹き込む。サン・ラという神話(Mythology)を永遠に伝授し、あらゆる音楽と人生を融合し発展させる理想的な方法論を実践するのがサン・ラ・アーケストラなのだと実感した。
5月26日のマイルスの誕生日に会わせて、ニューヨーク市がマイルスの住んでいたブロックをMiles Davis Wayと命名した。
海外アーティストを交えた異なるユニットの演奏を同時期に体験することで、1970年から一貫して日本のみならず世界の音楽シーンの極北に身を置く灰野が、40年以上経った現在も表現の新たな地平に挑み続ける秘密を垣間見ることができたような気がする。
このトリオに絶句するのは演奏に接したことが無い者だけだろう。誰でも一度ライヴを経験すれば、類い稀な「絶頂感」(Z)と「悦楽」(E)と「感動」(K)に包まれることは間違いない。
ジャズでもロックでもなくただひたすら「音楽」というセッション。我々は途轍もなく大きな奇跡を目撃したのではなかろうか。
注目の関西即興デュオ.es(ドットエス)の東京公演2デイズ。
4日間で3つの異なるシチュエーションで彼らの演奏を聴いたが、どの環境でも共通していたのは、どっしりと地に足を付け、身に着けた高度なテクニックを表現の手段として駆使し、非常に密度が濃く広大な音楽世界を展開してくれたこと。
近年、目にすることの多い北欧勢だが、なかなか知られることのない若手ミュージシャン(ソフィア・イェルンベリ、キム・ミール、エスペン・ライナーセン、アイヴィン・ロンニング)、またスーパーサイレントのメンバーであるストーレ・ストーレッケンが参加しているエレファント 9 + レイネ・フィスケ、そしてヘルゲ・リエントリオの久しぶりの来日ということで二つの対照的なイベントへ出かけることにした。
フェスティバルの大団円は、ジョン・ゾーンが1984年に考案したゲーム理論に基づいた即興演奏スタイル、ジョン・ゾーンズ・コブラ。当時から日本の即興音楽家を魅了し、数々の日本人演奏家により実践されてきた。現在も巻上公一を中心に継承されている。
「JAZZ ARTせんがわ」のように、ジャズのメインストリームではなく、周辺のエッジな部分を取り上げるフェスティヴァルは貴重だ。そこにこそ次代に繋がる創造活動の芽があるからである。ジャズ祭は文化事業であり、ひとつのメディア。継続させることでさらに音楽と人とのさまざまな出会いをもたらしてほしいと願う。
素晴らしい楽器と素晴らしい環境(ホール)を与えられたミュージシャンはそれらの相乗効果によって期待以上の結果を生む、即興を旨とするジャズならではの醍醐味である。
初めて生の演奏に接したピンカスその人は、エネルギッシュで軽妙、という勝手な思い込みとは別次元の、圧倒的な貫禄と音の豊穣を感じさせる巨匠であった。
左手の音楽、というとあたかも両手で奏される音楽とは異質の音楽に聞こえるかもしれないが、エネルギー放出の量は両手のそれをも凌ぐ。要はエネルギー分配の問題であり、むしろ左手に集約されることで「舘野泉その人」がより一層のマグマのような濃度をもって迫ってくるのだ。
アヴァネシアンとマイスキー。27歳と26歳といううら若きふたりながら、ステージから発散する成熟した、匂いたつようなオーラ。
音楽の引出しは無限大のふたりが、限られた時間とスペースでもち得る限りを出そうとする。徹底して聴かせるための音楽。そうした情熱がときに過剰なまでの濃い味となって押してくる、実に手応えと腹もちのよいデュオであった。
現代音楽界の重鎮、高橋悠冶が企画する「風ぐるま」は、そのサブ・タイトルである「時代を超えて音楽の輪を回す」が示すとおり、エンドレスに輪が回転する現在(いま)の豊かな在りようを、さまざまな切り口で見せてくれる。
事実とも理(ことわり)とも非なるリアリティの深層に触れたいとき、黒田京子の音楽が無性に聴きたくなる。
田崎の音楽が、とてつもない集中力と没入のうえに成り立っていることは今さらいうまでもないが、そこで展開される世界は、何と誠実でピュアで、人生がまとった成熟のすべてが総動員されての、飾らない暖かさに満ちていることか。
この日の目玉ともいえる中村紘子によるグリーグ。やはり「スター」の演奏である。ステージにおける圧倒的な華やかさと貫録は、聴き手の意識を鷲掴みにするものをもっている。「コンサート・ピアニスト」としての根本的要素について、今さらながら納得させられるのだ。
ミラノで開催された東北大震災で被災した子供たちを想う日伊チャリティ・コンサートをレポートする。
前半はラヴェル、後半はショパンというバルダのピアニスティックな側面が存分に堪能できるプログラム。とにかくあらゆる打鍵の瞬間が魔法である。発光する音色、濃厚に立ち込めるムードの揺らぎ、その場の空気がヴェールをまとってはふわりとした風を孕(はら)む。否応なくぐいぐいと惹きこまれるのだ。
ポゴレリッチの演奏には、ジェンダーなど軽く凌駕する、濃厚にして深化しつづける人間性の魅力の本質が詰まっている。
どのような人生にもすっと入りこんでしまう曲を1曲でももっているミュージシャンは偉大である。それが身に染みた夏の夜更けだった。
こういう時代に、ますます鍵となるのは「生の手ごたえ」であると実感する。作曲家もサイバー上に万遍なく行きわたるような音楽を志向し始めたらそれこそ終わりだろうし、会場で聴く側も生でしか味わえない様々なニュアンスに鈍感であっては新たな萌芽も萎えてしまう。
東京都交響楽団という、素のままでも稀有な音色の透明度 を誇るオーケストラが、インバルのさじ加減により変幻自在に表情を変える。オーケストラの醍醐味ともいえる、繊細であると同時にダイナミックなテンションの持続を一貫して堪能できた一夜であった。
デュオのコンビネーションも理想的なもので、演奏によってほんとうに開放された。二人の演奏に、意識は旅に連れ出されたようだった。
ノルウェーのミュージシャンやグループはこれまでさまざまな形で来日しているが、新旧3世代のリーダー率いるバンドの演奏をひとつのステージで披露するのはこれが初めてであり、ある意味でノルウェー・ジャズの隆盛を象徴するイベントであるといってよい。そして、キーワードは“ECM”である。
終始すべてを見透かしているかのように演奏を引っ張っていたのはセシル・テイラーだったことは否めない。それでも、異なる個性がぶつかり合い、二台のピアノがシンクロし、共鳴しする醍醐味は、この二人の共演ならではの出来事だったといえる。
トム・レイズは近藤等則のサウンドを無意識下の身体でじっと受け止め、湧き起こる内なる衝動をキャンバス上に描く。近藤の音位相は不思議なくらいナチュラル。そのヴァイブレーションで小さなスペースの中にユニヴァーサルな音空間が現われる。近藤が発するビートに呼応して体を揺らしながら描くレイズ姿はダンサーのようでもあり、音楽への反応の仕方はミュージシャンのようでもあった。
異能の鍼灸師と音楽界の異才が鍼灸と音楽の響き合いについて語り合う
本書によれば、ブレイの探究の過程を解き明かす鍵はオーネット・コールマンやシンセサイザーにあるという。慧眼というべきだ。
チック・コリアのすべてを網羅した日本で編集された公認本。
現場を知るフォト・ジャーナリストが遺した本だけに、60年代終わりから70年代半ばにかけての日本におけるジャズ、とりわけフリージャズとその受容を時代の文脈から読み解くには貴重な本だ。
錆びついた耳を活性化させ、なんども聴いたはずのアルバムから新たな音を見出すことは歓び以外のなにものでもない。本書がすぐれた評伝であることの証左だ。
83の中小レーベルから1291枚のアルバムを選択、934枚に試聴用のSpotifyのQRコードを付したガイドブック。
60年代〜70年代の東京のジャズ喫茶シーンを平岡一人称で描き出した。
激しく斬り込む愛好家・村上春樹、誠実に受けてたつ演奏家・小澤征爾のまれにみる手に汗握る対談集。
この写真集は杉田誠一が1969年から1975年の間に海外取材の際に撮影した写真を集成したものだ。
氏が追い求めていたのは、ジャズという鏡に映し出された人間そのものにこそあるのではないだろうか.
ジュラ紀の化石になれなかったゴジラは、エネルギーとマテリアルの怪物として復活した。
ギタリストを中心に据えながら、卓越した知識と洞察力で、これまでになかった視点からジャズ全体を考察していく「現代ジャズ進化論」。
彼ら偉大なるアマチュアの活躍こそ、地方都市でジャズというマイナー音楽を一般に知らしめ、世界的なミュージシャンに新天地を提供したのである。
近年、来訪者と情報が増加しているミャンマーの文化的側面を、耳から知ることをおすすめしたい。
「SENSES COMPLEX-五感を超えて、感覚が交差・拡散する地点」というギャラリーノマルのコンセプトの具現化に違いない。
ジャズ・アルバムを肴に聴いた当時を振り返る半自伝的な切り貼りスナップショット集で、主題と変奏と混乱と逆転と結末をうまくつけて一冊の作品としている。
多くの著作の中にあって、これは著者にとって初めての「ジャズ本」
ルイ・アームストロングの名曲『この素晴らしき世界』。写真家 岩合光昭が約50年間に撮影した、世界中の風景と動物たちの写真に、岩合自らが選曲した音楽を添えた集大成となる写真集にこの名前をつけた。
かつての「ハードバップの伝導師」が「ECMの伝導師」に?
数年前からぼくが俳句の日めくりに凝っているのを知った友人が、『日めくりジャズ366』を贈ってくれた。元旦から毎朝起きると、その日に録音されたレコードのジャケット写真を見て、編者のひとことを読むのが楽しみとなった。
「Jazz is Pop!!」の2024年版。この1年にジャズに何が起こったかを可視化し、ジャズ内外のミュージシャンに語らせながら、いま聴くべきジャズを巧みな構成とヴィジュアルでわかりやすく総合的に描き出すことに成功している。4/5-8には南青山BAROOMで「BRUTUS JAZZ WEEKEND 2024」を開催。
ベルリンを拠点に音楽の旅を続ける25歳のピアニスト藤田真央が旅先での想いを綴った連載が待望の単行本化。世界を駆け抜ける藤田の2年間の記録が、情報に富み正確な文章ととっておきの映像とともに記され、楽しく引き込まれる名著が生まれた。
ジャズピアノについての本は世界中にゴマンとある。だが、本書はそのどれとも違う。アメリカでの調査、膨大な文献、資料をあたり、様々な音源を聴いて書き上げられた労作だ。
正直言って、どの頁にも引用したい文がある。それだけこの書には悠さんの、批評と、それ以上に思想が凝縮されている。
マシュー・シップは広く知られたピアニストでありながら、日本では過小評価されているように感じられる。スタイルが単純に極端なものでないことがその理由かもしれない。だが、かれの多くの作品に向き合ってみれば、繰り出される音が極めて知的に制御されており、誰にも似ていないことが実感できるだろう。
ジャズ喫茶文化を体現し続ける四谷「いーぐる」のオヤジ後藤雅洋による21世紀以降のジャズに焦点を当てた有効なガイドブック。
著者のシスコ・ブラッドリーは、無数のインタビューや資料収集、さらにはライヴ会場に足を運び、この労作をものした。本書は歴史としてだけではなく、現在につながるものとして読まれるべきだ。振り返りはつねに現在進行形である。
スタンダード=アメリカン・ソングブックを金科玉条とする彼のジャズ鑑賞美学をエッセイとして実例をあげて敷衍したのが本書である。見事という他ない。
来日したジャズ・ミュージシャンが残《日本録音作品》を通して見る日本ジャズ発展史。
ECMのファンには『真実』、『カタログ』を座右の書としつつ、ECM Records: HomeとJazzTokyo を定点観測的に目配りするスタイルが成立する。
その書物の表紙はどんどんと漆黒に近づいていき、やがて異端教徒の為の聖書となることだろう。
河崎の求めるのは仮構の共同体、幻想の部族であろう。それは上演であり作品ではないのだ。
この一書がそのままユーラシア文芸手引書なのだ。
英国の極めてユニークな打楽器奏者ロジャー・ターナーがパートナーのマリ・カマダとともに書き上げた本であり、ターナーが演奏に使う道具がひとつひとつ紹介されている。だからといって本書が「謎解きロジャー・ターナー」になるわけではない。なぜならば、ターナーは「パーカッショニスト」だからだ。
巷に溢れる万人向けのガイドブックには飽きたらない中級以上のリスナー向けか?
音楽としての純粋性を損なうことなく、大衆が理解可能な音楽はいかにして可能か
話の内容は日本のジャズの歴史そのものであり、その記憶力の良さには文字通り圧倒される。
この本の価値のひとつは、齋藤徹という類い稀な音楽家を、音以外の面から歴史化する最初の一歩となりうる点にあると感じた。
ロン・カーターというまれに見る真摯なミュージシャンの充実した人生(人種差別という終生避け得ない苦悩を含めて)と実績。
歴史学者として著名なエリック・ホブズボームはジャズ愛好家でもあった。1959年に初版が出た『The Jazz Scene』を改訂した1993年版の邦訳が出版された。
30年以上にわたるコンテンポラリー・ミュージシャン、マイルス・デイヴィスとコンテンポラリー映像作家・内藤忠行の魂の触れ合いの記録。
この著書は、サッチモに関するバイブルであると同時に音楽人としてどう生きるべきかを気付かせてくれる人生のバイブルでもある。
20世紀最後の20年間に芒洋と広がる音楽の大海に自分なりの航路を見出すための羅針盤となるのがこのディスクガイドの役割ではないだろうか。
編集・批評家・オ−ガナイザー、細田成嗣の顕現、さらなる色違い重版を祈念する、
本人の口から語られる様々なエピソードを歌手で著作家でもあるベン・シドランが書き綴ったオーラル・バイオグラフィーである。
被写体のキースが2度にわたる脳卒中でリハビリ中であることは周知のとおりだが、撮影者のロベルトも病床で白血病と闘っている。
『近代日本の音楽百年』は音楽史としても側面も持つが、文化受容を多角的に捉えることで日本の近代を音楽面から捉えた本といえる。
この3ヶ月ぐらいに出版された音楽本のなかで、幾つか目ついたものを取り上げてみたい。ここで取り上げる3冊『スティーヴ・レイシーとの対話』『阿部薫2020』『AA 50年後のアルバート・アイラー』は単著ではなく、複数の著者による編集本で、編集者の意向が強く反映された書籍だ。
自らの死を予期しながら、若き日の思いで、ユーモアも交え、そして「ジャズをレコードで聴く」という事を一つの道、戦い、創造的手段として選んだ人がいたという事実を強く感じ、老いた青年の僕はこの書を閉じた。
「私は生還者の義務として、思い出してもゾッとするあの過ぎしころの悪夢のような出来事と、現地の実相を、たとえ筆は拙くとも、ただ有りのままに世に広く発表したいと……」
これら多くの事実とこの二人との交誼を通して、一人の愛に満ち溢れた人間としてのバーンスタインが浮き彫りになっている。
そのためパーカーのニックネームの由来をはじめとする多くの点において通説を否定する新たな事実が示されている点などを含めてすこぶる興味深い。
ECMは想像力のこのうえない触媒である。ECMの音楽は空と海の間、消失点から響いてくる。
「フリー・アット・ラスト」。我々は、聴く自由によって解放される。
ふたたび音楽に光明を見出し自立するまで、時に痛ましく、時に愛おしいひとりの女性の生きざまがむしろ淡々と語り継がれていく。
LPアルバムの復活があちこちで聞かれる昨今だが、藤岡にとっては作品発表の場としてまたとないチャンス到来といえるだろう。
折角の労作である。再度、最後の詰めを期待したい。
即興音楽を聴く/聴いてみようと思う人のためのガイド本。ターゲットにしているのは、コアなファンだけではなく、むしろ即興音楽の周辺で入口を見つけられずにいるリスナーや、即興音楽に接したことはあるがどう聴いてよいかわからないでいる人たちだ。著者は聴取行為をバード・ウォッチングに喩えながら、軽快な筆致で即興音楽に馴染みのないリスナーにも聴取のポイントを解き明かし、即興音楽の深い森に入っていく。
5月から始まる令和の時代が断じて戦(いくさ)と無縁の平和な御代であることを祈りつつペンを置く。座右に置いて、挿入された反戦歌の歌詞にぜひ繰り返し触れていただきたい。
児山さんのキャリアの成功の源は「スイングジャーナル」という専門誌の権威付けにあったと思う。
サブタイトルに「音楽で生きていくために」とあるが、決して「音楽家」を目指す者だけに限られた内容ではない。
「体感する現在進行形ジャズ」が写真とエッセイで綴られ、NYのジャズシーンの熱気に手が汗ばむほど。
豊住さんはたしか東京芸大を卒業しているはずだが、それも確かではない。彼にとっては(多分)どうでもよいことだから直接聞いたことはない。
G-Modern 25号を開いてみると、灰野敬二、JOJO広重、非常階段などの固有名詞があちこちに踊っている。表4の広告は灰野敬二のドラム・ソロのアルバムだ。そう、G-Modernは言ってみれば彼らの牙城だったのだ。
編集に注力する末富とITを駆使する河合、この名コンビが実現した電子ブック/オンデマンドによる「フリー・ミュージック」の刊行はスタートを切ったばかり。今後どのような企画が飛び出すかまったくもって目が離せない。
音楽だけがもたらすことのできる本質的な生の手応え(リアリティ)—それは核であると同時に捉えがたい神秘でもあるのだが—へ至る過程を、史実や人間の身体のメカニズムを丹念に解きほぐし、あらゆる照応関係を証左して積み上げた記念碑的な大著。ただの惰性となりかねない、音楽を発する行為や聴く行為を掘り下げるとき、寄す処(よすが)となる新境地がここに拓けたことをまず喜びたい。
この本はインタビュー&アーカイブではない、博物館なディスクアーカイブとも無縁だ、70年代後半から80年代にあったとされる音楽は今もリアリティを持って生きていることに愕然とさせられる、付録CD 18トラックがそれを補完している、
ジャズ喫茶で名盤に耳を傾け、新譜を追いかけたファンにはあの肉迫するスリリングでダイナミックなヴァン・ゲルダー・サウンドがまざまざと蘇ってくるだろうが、ヘッドフォンやイアフォン主体のデジタル世代の若者にはゲルダー・サウンドはどのように響いているのだろうか。
ここに登場するのは、そのスマッグラーの中でもなんら組織を背景としない一匹狼。ノルマや規律にしばられないフリーランスの運び屋だ。草兵、41歳。国際前科4犯。身長180センチ。彼はみずからのことを、プライベート・マフィアと呼ぶ。
日本のトップ・ジャズ・ベーシストのひとり、鈴木良雄が語り下ろしたジャズ名盤55選
ウラジーミル・タラーソフのLPレコードと本の話題
ロシア屈指のドラマー、ウラジーミル・タラーソフの自伝『トリオ』(鈴木正美訳、法政大学出版局)が出た。タイトルが示すようにヴャチェスラフ・ガネーリン(p)、ウラジーミル・チェカーシン(sax)と出会い、ガネーリン・トリオ(GTChトリオ)の結成から解散に至るまでを回顧している。随分と音楽家の自伝や伝記を読んだが、この本はそれまで読んだものとは全く違う。音楽家や彼らを取り巻く人々だけではなく、KGBや国外に行ったときに同行する「外套」と呼ばれる監視要員も登場、まるでロシアを舞台としたサスペンス小説のような世界だった。
ジャズに深く関わってきた瀬川昌久氏と柴田浩一が史実や文物(とくにレコード類)を丁寧に繙(ひもと)いて、戦前から戦後の日本のジャズの歴史を改めて見極めようとする
ジャズの世界では、黒人を中心とするイースト・コースト・ジャズを得意とするルディ・ヴァン・ゲルダーと白人を中心とするウエスト・コースト・ジャズのロイ・デュナンが東西を二分する名エンジニアとしてながらく名を馳せていたが、じつは日本にはある意味では彼らを凌ぐ録音制作家菅野沖彦が存在していたのである。
とくに、パーカーはモダン・ジャズの源流であるビ・バップの創始者的存在であるだけに、音楽的な解析は避け得ず、菊地成孔、大谷能生、矢野沙織、濱瀬元彦らミュージシャンの対談やインタヴューを通した発言に傾聴すべき内容が多い。
“あの時代の [黒ジャズ] にもっとも相応しい言葉――自主、独立、自立、独自をキーワードに、地域性/民族性/音楽性を限定した結果 ”生まれたのが“ インディペンデント・ブラック・ジャズ・オブ・アメリカ”というわけだ。
半世紀にわたってバックステージで日本のジャズを支えてきた功労者、「ジャズ批評」発行人松坂妃呂子の目を通した日本のジャズとジャズシーン。
現代ジャズの扉は開かれた。ジャズ評論の21世紀はようやく始まった。
高田馬場のBigBoxでアルト、ピアノ、ハーモニカを録音した。この時の写真が何枚か収録されている。初めて父親になる期待と不安がないまぜになったような表情が見てとれないだろうか。
カンザス・シティ・ネイティヴ、しかも、膨大な資料を収集、管理、分析するアーカイヴィストの手になるチャック・ヘディックスの著書。この新著で明かされた新事実、既刊書の誤謬の訂正もある
竹田と山崎の著作が既出記事のアーカイブであるのに対し、関西アンダーグラウンドを代表するノイズ・バンド、非常階段のリーダーJOJO広重の『非常階段ファイル』は全編書き下ろしのドキュメンタリーである。
「ジャズの過去を振り返る歴史書はあっても現在のジャズ・シーン、とくにフリージャズ・シーンを切り取ったガイドブックがなかったんです」
ジャズ評論家副島輝人が1970年代後半から『ジャズ批評』、『パイパース』などに寄稿した文章が集成され、一冊の本になった。現代ジャズの広がり、その発展と変容に迫った内容でリアルタイムの現場を伝える貴重な著作集。
この第2作でも神野の朗読と小曽根の音楽がひとびとの創造力を強く刺激することだろう。その源泉は共に稲吉紘実のメルヘンである。
一流のアーティストが誠意を込めて制作したものだけに大人にも充分鑑賞に耐え得る作品に仕上がっている。
(提示された「シンプルさ」はそれ自体閉じてしまうものではなく、むしろ解釈の自由を促すものだ。とりわけ、インプロヴィゼーションの才能に恵まれた者にとっては。
1枚の写真がじつに多くのことを語り、多くのことを暗喩しているが、本書に掲載された多くの写真に共通するその事実は筆者がフォト・ジャーナリストであることに由来する。
もしも、無人島に1冊だけ持ち込むとすれば、コレっきゃありません。
ところで、氏の音楽観が一挙に大きく拡がったのはひと夏のNYでのアウトドア・コンサートの体験だったという。
ヨーロッパ・ジャズに対する誤解や偏見を正そうとする著者の強い義務感に思わず襟を正したくなるファンも多いのではないだろうか。
本作は単なる研究書、あるいはオーラル・ヒストリーに基づく歴史本を超えた著作となった。膨大なインタビュー、資料に基づき、時代的文化的背景、60年代の実験音楽の動向等をも含め多角的に検証し、歴史的パースペクティヴのなかでAACMを位置づけている。
中上の青春はジャズと共にあった。しかもアイラーの<フリー・ジャズ>と共に。
スタジオ内におけるミュージシャンとの攻防などCDの裏に隠された制作現場の緊張など、リスナーにとっても鑑賞の新たな楽しみになるだろう。
プロとしてデビュー15年目になる彼が人生とジャズについて語り尽くしたこの著書からも彼の誠実さが溢れ出ている。
これは、1988年8月、癌を宣告された著者が再発を経て余命を意識した頃、勧められて音楽鑑賞教育委員会に入会、機関誌『音楽鑑賞教育』に92年3月から足掛け6年にわたって連載した「ジャズの歴史」である。
「ハーレム・ルネッサンスの中心人物、詩人ラングストン・ヒューズの自伝(3部作)の第1巻。
本物のブルース、その真の意味を極めたい向きは「ハーレムの詩人」による本書にあたるべし。
80年代のジャズがどう展開してきたか?
ニコラス・ペイトンがブッチャー・ブラウンとコラボし、『A Supreme Blue』というマイルス+コルトレーン100年記念アルバムを発表した。これがとんでもなくカッコいい。アルバムを丸ごと取り上げ、彼らの料理法と原曲の素晴らしさを解説。
温故知新の体裁を取りながらも、コーエン自身の強烈なアイデンティティを融合させて更なる高みへと昇華
「EVOKE」とは呼び起こすこと。バスクラリネットの音色が呼び起こすイメージはあまりにも蠱惑的だ。
サックスを吹き、曲を書き、短歌を詠む。私の中で、その三つは地続きの営みだ。
トン・クラミとして4枚目のアルバム。三者は「既存の場に入る」のでもなく、また「加算で場を作る」のでもなく、「場になる」。
それはジャズではなく、Far Beyond の世界だ
ジャズって「何を演奏するか」よりも「どう演奏するか」の方が大切に思える。
空間の中に言葉を音として綴り、それに合わせて爪弾くギターの音色が重なり合い、声とサウンドが融合した世界を描く。それはまるで淡い色調で描かれた透明水彩画のようだ。
Text and photos by A
本作の魅力は、聴きやすさではなく、聴く態度を変えてしまうところにある。
“Something in Between” とは「日常に潜む言葉にならない何か」。上西美帆のジャズへの愛情がたっぷりと詰まった「慣れ親しんだはずの」スタンダードの豊饒さを、そしてに何ゆえスタンダードたりえているのかを改めて実感している。
本盤に収められている音の背後にはプレイグラウンドがあり、会話がある。本腰を入れて聴けばやめられなくなるだろう。
永武幹子がセシル・テイラーへのトリビュート作を出した。この数年間、彼女が即興演奏へのアプローチをさまざまに模索し実践してきたことを考えれば、表現の拡張としてむしろ自然でもある。
アンデルセンとの共演盤は他に残されておらず、本作品の発掘は実に意義深い
ボクは録音エンジニアを生業としているが、少しだけリスナーとして第一印象。素晴らしいアルバムです。
これは「リズムがない音楽なんて聴けない」という人に聴いてもらいたい。
自分の中にある「日本の情緒」みたいなものをアルバムの主題にしました。
渡欧したマリオン・ブラウンはギュンター・ハンペルとの長い交流を開始させる。そしてバール・フィリップス、スティーヴ・マッコールのふたりも相次いで渡欧した。卓越したミュージシャンたちによる、その時期の特別な記録である。
一つの肉体に外的な強烈さと内的な強烈さを併せ持つマリリン・クリスペルというミュージシャンに筆者は更なる興味を抱いた
挾間が首席指揮者を務めるデンマーク・ラジオ・ビッグバンドとの共演作第3弾。DRBBと歴代主席指揮者7人の歴史的遺産を研究し吸収した上で、新たな音楽と伝統を創り出した快作。アイデアの斬新さ、サウンドの深さとクオリティの高さに圧倒される。
本作品は日本のファンにとって過小評価されていたビリー・チャイルズというピアニストの代表作となり得る傑作。
イングリッド・ジェンセンはスイング感も音色も素晴らしい。ジョージ・コールマンをゲストに迎えたご機嫌なこの新譜、タイトル曲を聴いて彼女の作曲能力に顎落ち状態となった。本人インタビューを交えて解説を試みた。
『六大』は映像作品のためのサウンドであるためか、6枚それぞれに「地・水・火・風・空・識」のイメージを意識している感覚がある。音のみで映像を幻視させる局面もある。だが、そのことは音楽の独立性を毀損しているわけではない。明らかに菊地は音楽を作り出すことを楽しんでおり、作品は在るがままに在る。
類い希なる個性であった金大煥(キム・でファン)は、あちらのヒトになったか、カミになったか。
ビター&スイートにしてスモーキーという唯一無二の個性的な声質とフリューゲルホーンを専門とする唯一人のプレーヤーTOKUの魅力が凝縮。
自然や日常の息づきや囁きを集めて音楽を生み出すことを習性(Habit)とする平野剛のささやかな標本箱といえるだろう。
ポーランドの女性ドラマーのもとに、7つの文化的背景を持つ音楽家と多彩なゲストが集結。音楽的かつ人間的な「対話」を通じて即興作品を創るというーマから、ファンタジックで味わい深い曲が生れてくる。
本盤は、ニューヨークで高く評価される永井ならではの現代的な作品であり、かつ極私的な表現でもある。
プエルトリコ音楽の持つ力強いリズムとジャズのモダンな和声、そして「時間」や「空間」という要素を効果的に組み入れた、アヴァンギャルドで実験的とも言えるとても意欲的な作品
震災の記憶を風化させてはならない
三者の手合わせにより、結晶があらわれては一瞬でその姿を消してしまう。本アルバムはその過程を幻視さえもできる作品だ。
個性を強調しないナチュラルな声質だからこそ彼女の唄を聴いていると聴き手の心へと静かに歩み寄って語り掛けてくる。
アイヌの歌手・豊川容子とピアノの矢部優子の気負わない個性が出た好盤。
対話をテーブルの上にのせて個を尊ぶのがヨーロッパやアメリカの社会のありようだと仮に見立てるとして、本盤には、そのテーブル自体もその場で作り上げてしまおうという意思が横溢している。
ショパンの名曲の数々と、各曲からインスピレーションを受け角野が作曲した新曲を交互に配置。ショパンの重力から新たな音楽の軌道を生み出し、ショパンと角野の想いを美しく明確に浮かび上がらせる。
音楽に心血を注ぐ、ブルース・スピリッツ横溢した生粋な“漢”の、ジャズ&ブルース讃歌。
新レーベル Mo-Zone の第2作目は、壷阪健登のアルバム『Lines』である。小曽根真のプロデュースにより、ニューヨークで録音された。
ジャズを「線の芸術」と言う壷阪が、「バッドプラス」のデイヴ・キング、バークリーからの盟友チャーリー・リンカーンとNY録音した初ピアノトリオアルバム。壷阪の珠玉のオリジナルに、3人の「線」がときに交わりときに別々の方向へと伸び自由と喜びの音楽が生まれた。
なんといっても4年がかりで拾い集めたこのミネソタ拾遺集には「翳り」が濃すぎる。
コンピュータ・プログラマーとコントラバス奏者の二刀流から生まれた興味の尽きないアルバム。
〈ALFIE〉でのライブ録音シリーズ第9作。のびのびとした自由度の高さと、細やかなコントロール感を巧みに両立させた、強い疾走感と高い熱量に溢れた強力なライブアルバム
すべての曲から、人の、そして人々の声が聞こえてくる――そんなアルバムである。
小曽根真のレーベル「Mo-Zone」第一弾は「TRiNFiNiTY」セカンドアルバムのドイツ録音。小川晋平と、きたいくにととの共同作業が小曽根真の新たな魅力と音楽性を引き出し、ポーランドのアナ・マリア・ヨペックの歌も交え、平和への願い込めたストーリーを紡ぎ出す。
渡辺貞夫の音楽的吸収力は凄まじく、それらが現在の渡辺貞夫の血肉となっていることは疑いない。
OTBで知られるマイケル・モスマンtpが手がけたNY在の若き俊才のデビュー・アルバム。
藤本一馬と林正樹のつくりだす、静けさの奥にあるどこまでも澄み切った美しい世界。心ゆくまでじっくりと味わいたい。
本作はヒカシューが約四半世紀ぶりにあるべき形、すなわち完全体に変態した作品といえるだろう。これぞシン・ヒカシューの幕開けである。
未来への生命力に満ちた復帰作となった『異端教祖』は、宮西計三という稀有なる存在をリスペクトし愛する「濃厚な友人たち=THE HEAVY FRIENDS」の絆の結果であり、根源的に音楽が持つ治癒の力の証に違いない。
譜面の旋律が見えるほど優等生的な音の良さである。
ゆったりと変わってゆく綾は独特の世界観からくるものであり、ずっと聴いていてもまったく飽きることがない。ちょうど川辺に座って眺める水面に一刻も同じ風景がなく、気がつくと長い時間を過ごしているように。
菊地は夢想の中で1音1音胸の深奥から音を探り出してメロディを編んだ。
繰り返し演奏された曲をどう変貌させていくか、より高く純粋な表現をすることができるか、John Taylorが取り組んだ素敵な記録
ケニー・ホイーラーやノーマ・ウィンストンと共同作業も多く、多くのECM作品に参加して来たイギリスのピアニスト、ジョン・テイラーの遅すぎた初ECMリーダー作『Rosslyn』。その直前のイギリスでのライヴ録音盤が22年後にリリースされ、スタジオ盤と遜色のない美しい世界を魅せる。
中低音を主体に中低速の演奏が並ぶ6曲には、じわじわと感動が聴き手へと浸み込んでいく
トランペットのライジングスター、鈴木雄太郎が放つ海外録音によるデビュー・アルバム
カンザスシティーから巣立った俊才トランペッター、ハーモン・メハリの2枚目になるデュオ作品『ソウル・ソング』
ロック、プログレ、パンク、フォーク、ノイズ、即興ジャズ、電子音楽、ワールドミュージックに亘る膨大な音楽の記憶がオマージュのように隠されている
ファーストコール・トランペッターであり、「ブルーノート東京オールスター・ジャズ・オーケストラ」の音楽監督を務め、世界で活躍するエリック・ミヤシロが15年ぶりにリリースしたリーダーアルバム。”聴く人を笑顔にする”快作ができあがった。
布施⾳⼈トリオ待望の 2nd アルバム。澄み渡るピアノと息づくリズムが紡ぐ⾳の絵巻物
2025年のジャパン・ジャズという地平においてBOCCOは極めてアグレッシヴにして繊細な感性を併せ持つグループとして鋭い光彩を放っている。
ブルーノート社長、ドン・ウォズ率いるパン・デトロイト・アンサンブルが来日と同時にデビューアルバム、『Groove In The Face Of Adversity (逆境でグルーヴする)』を発表する。ドンが提示するデトロイトの音楽や、カバー曲を演奏してもユニークなサウンドになるこのバンドの解説を試みた。
モダンジャズの屋台骨を支えるのはビバップ期の昔も21世紀の今もベースだ。
ポーランド新世代ジャズを担う4人組、Błoto(ブウォト)の新作を分析し、この斬新なバンドと、その母体である音楽家集団、EABS(エアブス)を詳しく紹介。
富樫の優美なメロディに頼ることなくその世界を広げ、深く掘り下げた座右の1枚としたい秀作。
坂田学や大森菜々が藪をものすごい勢いで刈ったあとに招き入れる「なにものか」とは、坂田明なのかもしれない。
レジェンド級の演者たちによるソロを参照してもなお、デイヴ・モスの本アルバムは個性的に聴こえる。まるで虹のようなサウンドだ。
ジャズ、クラシックからJ-Popまで幅広く活躍する塩谷 哲の初のオーケストラ作品集。小曽根真&塩谷哲デュオのために書かれた「交響定的エレジー」から拡張した<Elegy for Piano and Orchestra>、ソロピアノ曲からの<Preciousness>を収録している。
2016年ヨーロッパ5都市ツアーから7月9日ウィーン楽友協会での録音。抽象的にも感じる音響的美しさの追求、心暖まる美しいメロディとハーモニー、グルーヴが絶妙に溶け合う珠玉のピアノソロで、巨匠画家の個展を楽しむような時間。2016年ツアーの中でも特にお勧めしたい。
インプロのアプローチやエフェクターの使い方などで昔から気になっていたメアリー・ハルヴァーソンの新譜が出た。この4管編成のアルバムは想像以上にすごかった。彼女の作曲テクニックの素晴らしさにびっくり。頭から離れない1曲、<Carved From>の解説を試みた。
このピアノトリオアルバムを聴くと、私たちは気づかないうちに鈴木の創造性の源泉に触れ、彼女の経験してきた音楽的歴史に胸をふるわせる。
アケタズ・ディスクにまた1枚明田川荘之の精神と煙草とアルコールの匂いが詰った秀作が加わった
ユルさと音楽的というより精神的なハモり
マックス・ローチ生誕100周年に因んだ代表作『We Insists』のテリ・リン・キャリントンによる渾身の蘇生。
本作品に聴かれる守屋純子オーケストラの創造するストレートアヘッドなジャズ・スピリットには脱帽するばかり。
新しい次のステップへの予感がきこえてきそうな期待に満ちた新作だ。
ディノ・サルーシのバンドネオンが奏でるメロディーは、どこまでも優しく、心地よく響く。何度も繰り返し聴きたくなる、心に残る一枚。
伸びやかで覇気にも満ち、快調にフレーズを疾駆させていく、そのアグレッシブで真摯な有り様...
旧友Chris Cheek(クリス・チーク)の新譜が出て急に彼と話したくなった。ポール・モチアンに見い出されて世界に羽ばたいた彼だが、ボストン時代ではしょっちゅう一緒に演奏した仲間だった。彼をフィーチャーした曲を書いたほど好きな彼の演奏を解説。
ここに紹介する二人にはもう多言を要しない。が、まだこんな素晴しい演奏が陽の目を見ていなかったことに驚く。
その世界観や音楽的なエモーションは一幅の絵巻のごとく連続かつ一貫していて途切れることがない。
異色の音楽集団アンサンブル・シッポリィが4年ぶりの第3作となるアルバムを出した。このグループのテーマが「息のかさなり」であることは変わらないが、サウンドとしてのあらわれはずいぶん変わってきている。
今年に入ってから大友良英のアルバムが次々とリリースされている。4月には昨年末の新宿ピットイン年末ライヴ「Old and New Dreams」 4 days 8公演のうち2公演もCD化された。
5月9日にBlue Noteからデビュー・アルバムがリリースされる若手トランペッター、Brandon Woody(ブランドン・ウディ)の音楽はかなり新鮮だ。ピアノがしっかりとバンドのサウンドを支える中全員が倍のテンポで即興する、そのエキサイティングなサウンドの解説を試みた。
バリー・ハリス・チルドレン三原彩子の女性バッパーらしい、強靭にしてしなやかなプレイ。
この唯一無二の演奏は中牟礼が90歳、渋谷が83歳の時だというから正に至宝同士による希有のパフォーマンス。
マッズ・トーリングは、ヴァイオリンにジャズの魂を吹き込む稀有な存在だ。本作『マスター・オブ・ジャズ・ヴァイオリン』は、彼のルーツと敬意を映し出すトリビュート・アルバムである。
ルォー・ユー・チェン(陳若玗)のピアノトリオがベートーヴェン、チャイコフスキー、プロコフィエフなどのクラシック作品に取り組んだ。それは独自色の高いものであり、シューベルトとモーツァルトに焦点を当てた前作からさらに成熟度を増したようだ。
破壊の果てに残された人間の尊厳と儚さを浮き彫りにする一枚である。
関西拠点のピアニスト、関谷友加里のセカンド作。優雅なメロディーのすぐそばに、フリージャズや即興音楽への入り口があり、するりと異世界へ抜けていく。
ブランフォード・マルサリスのブルーノート移籍第一弾は、なんとキース・ジャレットの『Belonging (1974)』のアルバム丸ごとカヴァーだ。ブランフォードのインタビューを色々交え、彼の音楽に対する姿勢とこのキースの美しい曲の解説を試みた。
これらの演奏はビッチェズ・ブリューで繰り広げられた。大由が普通のプレイヤーとは異なるスタンスで演奏に臨み、香村が即興演奏の形を練り上げ、また纐纈がソロ演奏の場を幾度も得た場である。この機会を提供した杉田誠一のもつ緩衝帯についても、語っていかなければならないことである。
キプロス出身のピアニスト、Christos Yerolatsitis (フリストス・イェロラツィティス)のトリオのデビュー盤。現代的なジャズとギリシャの音楽文化が自然に融合し、クールで先鋭的でありながら、抒情性に満ちている。
本作品はチック生涯の最終到達点でありピアニストとしての原点回帰と言えるのではないだろうか。
石若駿の次の世代で最も注目すべきドラマー/作曲家 中村海斗のセカンドアルバム。海斗の作曲したストーリーの上で、メンバーが自由自在かつ緻密に繰り広げる演奏は衝撃的だ。20歳のアルトサックス佐々木梨子の音楽性も恐ろしいほどだ。
スタジオ録音かと思う程に全員の緻密で理性的な集中力が素晴らしく、ライヴ盤らしくないアルバムの統一感に優れている。
リーダー櫻井郁雄の技術、感覚、人格が全体を統一しつつ、参加者達を自由にしている。
この音があれば酒など要らないのかもしれない。
ミシガン州立大学で全額奨学生として学ぶ注目のトロンボーン奏者 治田七海のアメリカデビューアルバム。師匠マイケル・ディーズにオールスターのリズムセクションを従えながら、治田の膨よかで深みのある音色が心に沁みて、聴く者の心を穏やかにする不思議な波動を持った魅力あるアルバムができ上がった。
ロン・カーターのピアニストとして活躍するリニー・ロスネスがブラジル愛のアルバムを発表した。ゲストはエドゥ・ロボ、ジョイス、マウシャ・アジネ、シコ・ピニェイロ。意外にもハマったミルトン・ナシメントの<Estórias da floresta>のアレンジの解説を試みた。
ガラティの持つ美意識をスタンダートを通して浮かび上がらせるという試みは、名録音技師の誉れ高いステファノ・アメリオによって余すところなく聴き手に届けられた。
ケニー・ホイーラーが1970代にBBCのために書いたスコアが発掘され、ノーマ・ウィンストンやクリス・ポッター、イングリッド・ジェンセンなども参加して録音された。50年経っても色褪せない新鮮なサウンドを魅せてくれる。
リオネール・ルエケが我が師デイヴ・ホランドとのデュオ・アルバムを発表した。ハンコックやブランチャードのライブで馴染んでいたルエケの演奏は、このアルバムで恐ろしく進化していた。このご機嫌なアルバムから耳に張り付いて離れない1曲の解説を試みた。
纐纈が初手合わせとなるメンバーとの間に一切のリハーサル無しで臨んだこのセッションは、爽快感に溢れている豊穣のドキュメント。
テクニック至上ではなく、いやテクニックを超えて吹ききる、咆哮する、纐纈之サックスは情念。
あたかもフリージャズ全盛期を思わせるような激しい演奏に驚かされる
Aaron Parksの斬新なバンド、Little Bigの三作目が発表された。パークスの変拍子を変拍子と感じさせない作品と演奏スタイルや、彼の特殊なヴォイシングは相変わらずエキサイティングだ。彼の練習法や作曲過程などを交えて彼の特殊な世界の解説を試みた。
本アルバムを聴くことが「キース・ジャレットにとってピアノとは何か」を全てのキース・ファンが問い直してみる機会となることを期待したい。
キースとポールが16年ぶりに共演、それはジャック・ディジョネットの代役としてだが、逆に、菊地雅章やポール・ブレイらをサポートしてきたゲイリー&ポールのコンビに、キースが参加したと視点を変えるとそのサウンドは興味深く、重要な一期一会であったことが見えてくる。
試合と演劇の中間にある「オルタナティヴ・ロック」。
山口コーイチの演奏はどのような形態であれ普通ではない。本盤において、かれの視線の先には大きな船ではなくメンバーとの交感自体がありそうに思える。
ノーマ・ウィンストンがECMから6年ぶりのアルバムリリース。デュオを組むキット・ダウンズもやはりECMでの活躍が近年目覚しいピアニストだ。
NYCのファースト・コール・トロンボーン奏者であるライアン・ケバリーのグループ、カタルシスの新譜が発表された。あちらこちらにお楽しみ満載のこのアルバム、どの曲を取り上げるか悩んだほどだ。言葉で説明しきれないこのアルバムの面白さの解説を試みた。
「SENSES COMPLEX-五感を超えて、感覚が交差・拡散する地点」というギャラリーノマルのコンセプトの具現化に違いない。
庄子勝治、植川縁というふたりの対照的なサックス奏者が古いブッシャーのサックスを吹き、即興音楽のソロイストとは異なる独自性をもつ照内央晴がピアノを弾く。録音が山猫軒独特の気配をとらえていることも特筆すべき点である。
音が人である以上、本盤に収められた演奏だけが最上のものだと言うことはできない。だが、この音も聴くべきである。
天と繋がる歌声がある。まるで遠い時空の彼方から響き、いまを生きる者にそっと語りかけるような。
『Blue Glow』は、関西拠点のピアニスト、よしだゆうこ率いるクインテットDAZZ DAZZのデビュー盤。彼女の透徹した美意識がアルバムの隅々にまで感じられる。
参加した全ての演奏者達の魂のエッセンスが溶け込んでいるこの『渋吼』
神田綾子、マット・ホレンバーグ、パトリック・ゴールデン。さまざまな可能性が秘められたトリオであり、今後別の姿への変貌もあるだろう。
ヴァイオリニスト、喜多直毅のオリジナル曲で聴く個性的なタンゴ・クアルテットのサードアルバム。毅然とした姿勢、漂う重厚感、一気呵成に駆け上がる激しさに魅了される。
ジェイミー・バウムの新譜、『What Times Are These』が4月に発表された。彼女初の詩のコレクションをテーマにした作品だ。歌詞に対する複雑なメロディと巧みなアンサンブル、それを実現する演奏者たちの解説を試みた。
現代のジャズシーンはこれからどこに行くのか。という問いに答えたひとつの解答、美しい作品だ。
新進気鋭のギタリスト、Taka Nawashiroの2ndアルバム。聴くたびに新たな発見のある、とても味わい深い魅力的な作品だ。
まずはサウンド全体から受ける清冽な感覚に強く印象付けられる。ナチュラルであるから不自然な力みがなく、その一方で音の向こう側までの距離が長い。
日本フリージャズから佐藤允彦・森山威男のふたりのレジェンド、ロンドン新世代からアイドリス・ラーマンとレオン・ブリチャード。融合も摩擦もある異文化遭遇。
2024年の今日、Jジャズ界はまた一人新しい才能を見出した。
馬場智章がBIG YUKI と展開させる新機軸
芸術性の高い音楽と最高の録音技術が重なった時にしか味わえない、貴重な瞬間の連続。様々なシーンの描写も美しく、どこを切り取ってもECMのジャケットを彷彿させるような、創造性に満ちたものであり視覚でも楽しませてもらった。
同業者の記事を書くというのはなかなか容易ではないのだが、このアルバムはどの曲も素晴らしい。フィリップ・ストレンジの演奏も最高だ。麻生代さんとのZoomフルート談義やフィリップとのZoomジャズ談義などを交えてこのアルバムのタイトル曲の解説を試みた。
貴方は四人の聖者による福音を、今ここに三人の師によって伝えられた。貴方はもう家族だ。
彼は演奏家以上に、座長たらんとしたのではないか。それがボローニャのライブステージで上演された。50分のオペレッタ〜演劇になったと考える。
アナザー・ミュージックからアナザー・ワールドへのシフト。思考する音楽ユニットAgencementが導く音楽体験の醍醐味であろう。
琵琶の硬軟さまざまな音やパーカッションの濃淡(韓国伝統音楽ふうにいえば長短が成り立っている)による複層的な音空間。そこには安寧の強さも対話の愉しさもある。
NYレジェンドのイーヴォ・ペレルマンとウィリアム・パーカー、そしてかれらに伍するジム・クラウズとパトリック・ゴールデン。限りないエネルギーが聴き手に至福をもたらす録音だ。
中村泰子の人生経験が全人格的な存在感で聴き手に迫って来る。
夢にまで見たもう一つの『この素晴らしき世界』が届いた!
ジェレミー・ペルトの新譜『Tomorrow’s Another Day』はペルトの音楽が大きく飛躍したところを提示している。シュトックハウゼンのスプライス・ミュージックをグルーヴ音楽に発展させたディントニ・パークスを3曲でフィーチャーし、それに合わせてアルバム全体が驚くほどエキサイティングなものに仕上がっている。ペルトとパークス両者の作曲技法の解説を試みた。
名手ステファノ・アメリオの卓越した録音技も相俟って、ピアノ・トリオの秀作の歴史に加えても好い1枚。
進化し続ける二人の限界点越えのコラボレーションを直接体験できることは、2024年即興音楽シーンのハイライト、つまり不気味の谷ならぬ「明快な頂点」となるに違いない。
動物にせよ人間にせよ、集団意識の出発点として遊びがあるに違いない。そのドキュメントとして聴いてみるのもまた一興。
本盤はヴァイナルでのみリリースされる。ふたりの個性をなまなましく感じるという目的だけのために、このような制約があってもよいのではないか。
水音とピアノと電子音のミクスチュア〜反応が未詳な実験であるのか、人新世の前衛達なのか。
アメリカの多弦ギタリストKevin Kastningの最新アルバムは、ベーシストBruno Råbergとのデュオアルバム。浮遊感に満ちた刺激的でとても魅力的なサウンドとなっている。
リラックスした“ほ・ん・の・り”と気分良い時間を…、そんな感慨に浸らせてくれる好アルバム。
唯一無二のマルチ・アーティスト、金大煥をメインとした三十年前のパフォーマンスの未発表録音のCD化
ベースレス・トリオ「うむうむ。」のデビュー盤。関西拠点の古山晶子(sax)、関谷友加里(p) 、定岡弘将(ds)がハードな即興にもつれ込む刺激的なアルバム、ユーモアも満載。
フリー・インプロヴィゼーションを音だけの缶詰にすることには困難が伴う。ライヴと録音媒体とは本質的に異なるものであり、そのためリスナーの受容もライヴと同様ではない。だが、本盤に収録された36分間ぶっ続けの音には粗雑な要素が皆無であり、聴き手を惹きつけるものがある。
1981年にベルリン・ジャズ・フェスでライヴ録音された本作品ではすでに高瀬が優れた完成度を持っていたことに瞠目する。
今回の元テープは、高柳さんが75年8月26日に聴き返してチェックした内容を記したメモに従い修復された
《ほぼ完全に修復できたと確信してます。間違いなく高柳昌行の最高作の一つです。》と大友良英さん誇らしげです。
信州安曇野を拠点に活動するベーシスト中島仁の「Pioggia」に続くリーダーアルバム、第2弾! スウェーデン出身のサックス奏者をゲストに迎え、欧州ジャズへの敬意に満ちたトリオ作品。
果たして歌唱、アレンジ、伴奏そして録音、ジャケット・デザインのすべてにおいて抜群の出来栄えと申し上げておく。
奥平自身は一貫してジャズビートの純粋培養的なスタイルでリアルジャズの薫り高いパフォーマンスを展開していて、奥平が創出した空間に共演者たちを遊ばせるという包容力とリーダーシップを感じさせる。
ソプラノサックスとコントラバスのデュオはさほど多くないが、本盤は他のミュージシャンたちも触発しうるほどの作品にちがいない。日本のシーンでも広く共有され聴かれてほしい。
スウェーデンからヴォーカルの超新星登場
この4月12日にケニー・ギャレットの新譜がリリースされる。先行公開された1曲を聴いてすっかり虜になった。運よくアルバムのプロモーション音源を手に入れることが出来た。本人はアルバム全体で1曲と言ってる、そのアルバムはまさにマイルス愛に溢れている。コラボレーション相手のスヴォイがこれまたすごい。書いていて興奮してしまった。
最初にCDで聴いた時には前情報は何も知らずに聴いたのだが、一聴してミクスの集大成的な作品という印象を強く受け感動しました。
多種のリズムのサラダボウルを遊び心たっぷりに料理するワイスの”勝算五分五分”トリオの創造の泉は滾々と溢れ続ける。
目まぐるしく変化する声、異世界へ誘う「歌」を繰り出す神田綾子、ピアノとパーカッションから、繊細な表現も大地を揺るがす激しさも、自在に生み出すsara(.es)。宇都宮泰が録音・マスタリングを手がける2人のライヴ盤。
コントラバスという楽器は単数でも複数でもある。幅広い周波数の葉叢を発生させるだけに、その音にはひとりの演者の意思を超える匿名性がある。また、矛盾するようだが、同時に演者の個性がもろにあらわれる。田辺和弘、瀬尾高志、田嶋真佐雄はそれぞれに自身の音を追い求めてきた者たちであり、なおさらのことだ。
ニカラグア出身の熟達な知性派ピアニスト、ドナルド・ヴェガの新作、拾い物とも言えそうな仲々の逸品だ。
本盤は<渡良瀬>1曲のみのアンソロジーという極めて特異な構成であることはプロデューサー若杉実氏の意思であり板橋の意思でもあったことだろう。
ピアノ、フルート、 クラリネット、ヴァイオリン、チェロという、クラシック界でもなかなかお目にかかることのできないユニークな編成による、とてもワクワクする楽しくも美しいジャズ・ミュージック!
今まで経験したことのない異次元の聴覚体験による甘美なカタルシスの快感に溺れていく。
Anode/Cathodeがでっち上げだったお陰で、日本地下音楽の深淵に人知れず輝く第五列と金野 “onnyk” 吉晃という宝石を再発見する幸運に巡り合えたわけだから、これこそ「嘘から出た真実(まこと)」であろう。
台湾出身のピアニスト、ルォー・ユー・チェン(陳若玗)が5枚目のリーダー作を出した。デビューから一貫して起用しているクリストファー・トルディーニ(ベース)、トミー・クレイン(ドラムス)と組んでのピアノトリオである。彼女は独自のジャズ表現を追求してきたが、驚いたことに、ここにきてシューベルトとモーツァルトの曲を取り上げた。だが、その表現姿勢はぶれていないことは、聴き込むとわかる。
ウェス・モンゴメリーというジャズギター界の巨人の圧倒的な存在感を示すライヴ・パフォーマンスが、今日このような完全な形で全貌を聴くことができるのは奇跡的だろう
前回楽曲解説#98でご紹介したチャーリー・バレンタインの伴侶であるアマンダ・ガーディエィの新譜が発表された。ドラムに「The Bad Plus」のディヴ・キングを迎えてご機嫌なアルバムだと聴いていたら、アマンダのとんでもない作曲のアイデアの数々に気がついた。Zoomインタビューを交えて彼女の素晴らしさの解説を試みてみた。
小曽根 真が、気鋭の小川晋平、きたいくにとと結成したニュートリオ「Trinfinity」のファーストアルバム。アルトサックスの佐々木梨子、パーカッションの二階堂隆文の在米の若手の参加も注目だ。
さまざまなジャンルで活躍中のクリヤ・マコト(pf)と安井源之新(perc)による強力なユニット、「RHYTHMATRIX」の豪華ミュージシャンを迎えた待望の新作!
好漢川嶋ならではの印象的な逸品だ。
ミュージシャンの演奏が主体にあるが、即興音楽のクォリティの高さを際立たせているのも、録音・マスタリングの宇都宮泰の存在があってこそ。彼もまた音楽創造の一端を担っている。本作は、場を作ったギャラリーノマル、演奏したミュージシャン、宇都宮泰による録音・マスタリング、それらの協働によって創られた作品と言っていい。
そんな大きなスケールが背後にあっても、ムジーククーゲルの表現は、なお清楚でたおやかだ。
トニー・ヒギンズ、マイク・ペデンのBBEレーベルの仕事ぶりに感動すると共に、和ジャズの秘境の奥深さに触れることができた。
日本を代表する3名のミュージシャンによる、最高に心地良い、洗練された極上のアコースティック・サウンド!
注意深く耳をそばだてれば、コミュニケーションが現象となるありよう自体を音楽として受け止めることができる。トリオとしての可能性がさまざまに模索されている作品である。
ジュデイの若き日の著名なエンターテイナー達とのデュエットを楽しめるアルバムだ。
今日本をツアー中のHiromiの新しいバンド、「Hiromi’s Sonicwonder」の新譜が届いた。このバンドはすごい。特にフランス人ベーシストのHadrien Féraud (アドリアン・フェホー) に思いっきり顎落ち状態になってしまった。収録曲も全て素晴らしい。彼女のユーモアのセンスも充分楽しませてくれた。今回彼女の曲を分析してみて、今まで気が付かなかった彼女の細かい作曲技法を知った。
イギリスの即興演奏家ジョン・ブッチャーの最新作はソロ・アルバム。サックスという楽器による表現をとことん追求して到達したひとつの境地、音世界がここにある。
テリー・ライリーの音楽は、完結しない世界なのか、永遠の安寧としての涅槃なのか。
自由奔放なサックスがリードするスリリングなサウンドには即興ジャズに通じるアヴァンギャルド感覚が溢れている。
マタナ・ロバーツのライフワークともいうべき『Coin Coin』の最新作が発表された。キーワードは「名前」だ。
リー・リトナーの「ダイレクト・レコーディング」シリーズの3作目。「ダイレクト」シリーズ中の最高傑作のひとつ。
リー・リトナー&ジェントル・ソウツのデビュー・アルバム。1977年作品。「ダイレクト・カッティング」盤を最新リマスタリングしUHQCD化して再リリース
リー・リトナーが1977年に「ダイレクト・カッティング」盤として制作したアルバム『ジェントル・ソウツ』の別テイク盤。
エリック・ゲイルの参加した、リー・リトナーの「ダイレクト・カッティング」シリーズ第2弾。初顔合わせのメンバーによるインタープレイを克明に記録した貴重なアルバム。
「ダイレクト・カッティング」でライブ感のある演奏を追求してきたリー・リトナーが、楽器や録音機器のデジタル技術による大きな進化をとらえてそれらを活用し、新しい形でライブ感を表現した一枚
1970年代後半から1980年代にかけ日本国内でブームを巻き起こした「クロスオーバー」「フュージョン」ミュージック。その中心にいたギタリストたちの演奏を集めたコンピレーション・アルバム。
80歳を過ぎてなお「停滞を好まない。精神の、自由な飛翔」を目指す佐藤の音楽に対峙する真摯な姿勢
ロフト・ジャズ時代にオーネット・コールマンの旧Artist Houseで録音された一期一会の歴史的名演奏。
イリアーヌ・イリアスのグラミー・ダブル受賞の『ミラー、ミラー』とジャズ・ボッサの『クァイエトゥード』の最新2作同時国内発売。
もはやジェームス・ブランドン・ルイス(JBL)のことを現代のテナー・タイタンと呼んでもよいだろう。意外というべきか、そのJBLが自身の音楽的ルーツのひとつとしてゴスペルを取り上げ、それによって偉大な歌手マヘリア・ジャクソンへの恋文のようなアルバムを作った。
大好きなDonny McCaslin(ドニー・マッキャスリン:日本ではダニー)の参加アルバムが届いた。知らないJoel Goodman(ジョール・グッドマン:日本ではジョエル)というアーティストの作品だったので期待せずに聴いたら、これがとんでもなくすごいアルバムだったのでここにご紹介する。是非お楽しみ頂きたい。
デンマーク最高のジャズ賞 Danish Music Award で Jazz Album of the Year を受賞したピアニスト、平林牧子が放つトリオ・アルバム第5弾
このアルバムの出来の良さに関しては解っていたつもりだが、聴き込むほどに感動する
本作は絵筆代わりにギターで描いたサウンド・ペインティングであり、”100%組原正”のプライベート・コレクションである。秘密の日記を盗み見(聴き)する禁断の歓びを味わえる愛おしき作品。(地下)音楽愛好家にとってこれ以上の至福はない。
フリー・ミュージック、アンビエント、プログレッシヴ・ロック、現代音楽、民族音楽、サウンドアート・・・。そのいづれでもありどれでもない正体不明の我楽多音楽。行き過ぎることを恐れない地下音楽の精神を諧謔趣味の遊び心で継承するシン・即興派の神髄がここにある。
三者が各々の楽器の範を越える事無く自然に「対話」している
原智広、岡崎凛による共同レビューの第3弾は、前回に続いてスイス出身のピアニスト、マルゴー・オズワルドを取り上げる。前回はソロだったが、今回はサックス奏者イェスパー・ツォイテンを迎えたデュオ作品。
9月15日に発表になったジョシュア・レッドマンの新譜、『where are we』がちょっとすごい。彼の初の試みである歌手の起用とコンセプト・アルバムとしての内容がなかなか面白い。だがなんと言っても1曲目で完璧にやられてしまった。今まであまり聴いていなかったジョシュアの解説を試みた。
ステファン・グラッペリ直系のヴァイオリン奏者、マティルド・フェブレール渾身のグラッペリ・トリビュート・アルバム
藤原清登の目指す音楽的方向性は明らかにミンガス、ヘイデン路線に接近していると考えることはできないだろうか。
深いリバーヴに包まれた音楽創造空間としてのギャラリーノマルが眼前に広がる体験を与えてくれる。これこそ聴覚スペクタクルの極致といえよう。
全体にブルース色が前面に出ており特にリズム・パターンにそれは顕著だが、ソロやヴォーカルを支えるアンサンブルはまさしくベイシー・サウンド。
欧州ジャズを継承し、叙情性溢れる作品を作り続けてきたピアニスト、林祐i市の新トリオ、デビュー盤。心地よいリズムと爽快感がアルバムの隅々に行き渡るピアノトリオ作品。
2021年に亡くなったチック・コリアが、2018年に行ったモーツァルトとガーシュウィンのコンサートを生き生きと記録、クラシックとジャズを繋いだキャリアを締めくくる重要な録音となった。
「すべてが完成していたら、前途にはもう何もないのです」というイリヤ・カバコフの言葉通り、果て=完成がないからこそヒカシューはどこまでも行けるのだ。
プラハ屈指のビッグバンドの指揮者としても知られるシュチェパーンカ・バルツァロヴァー(tp)の新作。ワンホーン・カルテットの構成で、テーマは心理学者の分類による「人間の8つの感情」。今回も伸びやかなトランペットの音が魅力的だ。
その響きは、現代社会と同じく、いや人類の歴史と同じく、調性とノイズのせめぎ合いである。
この
、全てのサックス奏者に「バラッドはこう吹け」と言いたくなる、涙無くしては聴けない珠玉の1曲。
その親和性は抜群だし、ユニットとしての統一感もグッド、聴くものを深い寛ぎと安らぎへと誘う。
MPBの生き字引アントニオ・アドルフォがボサノバ運動の主要メンバー、カルロス・リラとホベルト・メネスカルの作品をフィーチャー。
アルバム・タイトルが示唆するとおり、コミュニケーションの極意は「分かりあえなさ」であることを知り抜いている。それ故の同時発話的な自由。演劇的・室内楽的な構築性を保ちつつ、フォーキーかつフリー、等しく個々の断片も光る。/ As the album title indicates, they know the fact that the essence of communication is its impossibilities for mutual understanding, then, followed by “all-at-once-ness” in the chatty but not-crowded mood. While keeping theatrical, chamber music-like constructability, the composition of Tristan Honsinger makes junctures for folky and free approaches, equally emphasize the tension of individual fragment.
本作は音と音楽の狭間での集団即興を行う特異なプロジェクト、マージナル・コンソートのライヴを捉えた作品性の高いドキュメントだ。
曲間のブランクはあるものの全体が寄せては返す怒涛のように連続しているのであって1曲1曲の解釈は不毛だ。
「a little new one」の独創性と謝明諺の懐の深さは奇妙にマッチしている。このバンドも刺激剤のひとつとなって、アジア内での表現者たちの交流がふたたび活発化してゆくにちがいない。
Donny McCaslinのすごい新譜が出た。常に限界に挑戦するようなサウンドだった彼の音楽がパンデミック中に進化を遂げた。このアルバムは彼の向かっている方向がはっきりと提示されている。Zoomインタビューで明らかになった意外なこのアルバムの真意を紹介しながらそれぞれの曲の解説を試みた。
アビシャイの長年の夢の実現ともされるラテン・ジャズ・プロジェクト作。
演奏の質の高さ、森山の好調さなど見逃せない優れたドキュメント。
「エレクトリック・ギター」を「一人で静かに様々なアイディアを組み入れて弾く」これまでは無かった演奏スタイル。
2021年に急逝したヴォーカリスト、遠藤ゆかりへのトリビュート盤。4人の音楽家が故人の思いを継いで創り上げたアルバム(Disc 1)、遠藤ゆかりの未発表音源(Disc 2)を通して、パーソナルな記憶を超え、90年代の音楽文化が現在のジャズへとつながっていく。
群雄割拠の様相を呈している、東京のラージ・アンサンブル・シーンに、期待の新星が登場した。多くのビッグバンドや、ポップスのホーン・セクションで活躍する池本茂貴(tb)が、俊英たちを集結した13人編成のアンサンブルisles(アイルス、池本茂貴ラージ・アンサンブル)のデビュー作と、その背景に迫る。
小曽根さんを取り上げるのは今回で3度目になる。第一回は小曽根さんの指先から虹のように溢れ出るアイデアを、第二回はモーツァルト言語まで習得している彼の凄さを取り上げた。今回は日本ツアーを先日行ったこのスーパー・カルテットの10年前のライブ録音のリリースを機に、彼の作曲作品に焦点を当ててみた。ご機嫌なグルーヴと、小曽根さんがソロピアノで見せる自由な発想を可能にするこのコンボの解説も試みた。
まさに「即興は砂の城」と言わんばかりの刹那的な美意識だけが持つ高揚感に溢れている。
クラシック音楽へのリスペクトの上に作り込まれた緻密なストーリー構成、主演ケイト・ブランシェットの怪演に圧倒される。張り巡らされた伏線から衝撃の結末へ、音楽と人生にとって大切なものは何か観る者に問いかける。
マイルスの甥っ子で、80年代前半のマイルス・バンドに参加していたVince Wilburn Jr.と、19歳の時に『Bitches Brew』に参加したLenny Whiteというドラマー二人によってプロデュースされたこのマイルス絡みのアルバムはともかくすごい。マイルス愛を満載しマイルスのスピリッツを継承しながら新しいサウンドを追求している。レニー・ホワイトの素晴らしい作曲と鍵盤演奏に感銘。ヴィンスに聞いた色々な話を交えて分析を試みた。
Utsunomia MIXで再現されるギャラリーノマルとsara(.es)の無尽蔵の創造性は、聴く人すべてにこれまでの音楽作品とは一味違う豊穣な聴覚体験を与えてくれるに違いない。
ここには決定的に欠けているものがある。それはまさに「ウタ」であった。
ジミヘンがいきなり世界中からロックスターとして注目されたのと対照的に、タジはひたすらブルースを追求し、その中で革新を試みた。
Bluesy、Funky、GroovyというAmericanなテイストとは違った静謐で知的な空間が拡がる本盤
ソロにより自身の記憶への旅を音として提示し、デュオにより会話し触れ合う展開が、成熟した大人のありようである。
さよなら、ドレイク。こんにちは、ドレリ。
ふたつのRebel Music(反逆の音楽)が、世代や文化的背景や音楽スタイルの違いを超えて「ひとつ」になり得ることを証明する、タイトル通り『進化する出来事』を記録した作品である。
全体を通してどことなく架空の映画のサウンドトラックのように感じられることも、ファーストと同じだ。
品行方正がクラリネットの特徴なのかどうかはわからないが、作曲と即興の交差点/自然と音楽の接点に位置する自制のとれた作品として成り立っている。
本盤には馴れ合いに堕することのないぴりぴりとした空気が張りつめている。たしかにこのサウンドはライヴそのものだ。
PhotayとCarlosは、きっと「地上の生の光景」そして「存在」を水の存在を通してわたしたちに、ある生きる祝福の記録として、音楽という贈り物を残した。
元々曲ごとの構造性を明確にするのがガリオの特徴だったが、その傾向はこのヴァーサタイルなトリオで顕著になった。
コンテンポラリーという名の目新しさ云々よりもまず先に、卓越したメロディストとしての抒情性、音楽創りのセンスそのものである当意即妙な身体能力、といったコア部分が充実の漲り(みなぎり)で抜かりなし/They go beyond the notions of novelty associated with descriptions like “contemporary”, delivering a rich core of melodic lyricism tied together with excellent musical taste and playing full of wit.
コペンハーゲン拠点の若手女性ピアニスト、マルゴー・オズワルドがデビュー盤となるソロピアノ作品をリリースした。タイトルの『Dysphotic Zone』とは、深海と呼ばれながら、かろうじて光が届く層・水域を指す。本作が描くものについて、フランス文学・映画に詳しい原智広氏とともに考えてみた。
ウクレレでジャズ!粋だ。
彼の最新作を聴き終わり、音の余韻の中で立ち現れた言葉は、TAOだった。
「ヴィレッジ・ヴァンガード」に集った熱心なジャズ・ファンも、この2人に優しく時に激しく揺さぶられ、その当意即妙な“対話術”に癒され、魅了され尽くす。
カンザス・シティ出身のハーモン・メハリは、フランスのパリに活動の拠点を定めもう6年余り。欧州の地にしっかりと根を下ろし活動しており、その行動領域だけでなく守備範囲の広さも、彼の音楽を特徴付けている。
それでも今回の作品は突破口となる可能性が充分ある。百枚目といったって単なる通過点でしょう、と涼しい顔をしそうだが、
JUSUが奏でる音楽は、島々の存在に触発され、様々な語りの中から、彼らの感性を通過して生まれたのだと思う。
レコード(記録)として残すことへの熱意から生まれたのがJUKE/19の作品群だと考えれば、リリースから40年以上経って、リマスター&特殊パッケージのアナログ盤として再び世に出ることは必然なのではなかろうか。
全12曲どれもが実力派ならではの仕上がり具合で、このところいささか停滞気味のJボーカル・シーンにあって、久々に手応えある一編と言える。
まずはタイショーン・ソーリーのサウンドの驚くべき大きさに魅了される。そして剛に柔に演奏を駆動するウィリアム・パーカー、かれらと対等に渡り合うスティーヴン・ガウチの個性と戦略。
このCDの演奏の印象をもし一言でというなら、まさに朝焼けの空にたびく雲の静けさかもしれない。
ざわめきを孕んだ成熟の時は凪を見つめる。それはひとりぼっちの情景かもしれない。大丈夫。畠山美由紀の声が、今宵どこかの庭で囁いているから。
新澤健一郎、楠井五月、石川智 のトリオが、2022年7月に「中目黒 楽屋」で行った演奏を収めたミニ・ライブ・アルバム。
スロヴァキアのトランぺッター、ルカシュ・オラヴェツ(Lukáš Oravec)とモラヴィア・フィルハーモニーの共演盤。ダニー・グリセット(p)、アンディ・ミドルトン(ts)参加。中欧のポストバップを継承するオラヴェツの風格あるオリジナル曲を、卓抜なアレンジで、壮麗なストリングスとともに聴くアルバム。
このアルバムに収められた壮大かつ豊潤な音楽は、ファースト・ネイションという特定のコミュニティに限定されるものではなく、人間一人一人に流れる血の歴史の永続性に思いを巡らすために、重要なヒントを与えてくれる「導き」と言えるだろう。
サブ豊住。パワーもテクニックも若いときを凌駕している。つまりこの人はまだ発展途上なのだ。
アイヘンベルガーとガリオは、ユニゾンに歩み寄りながら、着かず離れずの距離で、束縛された即興を楽しんでいる。
オーブリー・ジョンソン (vo)、ランディ・イングラム (p) によるデュオ・アルバム。このアルバムは、ぜひ一度全体を通しで聴いてみることもお薦めしたい。
10人の鍵盤音楽家たちは出会ったことのない、未知のルグランをそれぞれ「想いだして」リ・イマジンする。
中牟礼のライヴでは毎度のことだが、事前の打ち合わせは一切なく、ステージ上で初めて手の内を見せ合うという、緊迫した演奏が連なる。
ベーシスト、バール・フィリップスの新作は、シンセサイザーを駆使するジェルジ・クルターグ・ジュニアとのデュオ・アルバム。溢れるシンセ音の中で、コントラバスの音の輪郭は、いつものようにくっきりと明瞭だ。そして2人は激しさと穏やかさの両極を行き交う。
ジェイミー・ブランチの『Fly or Die』連作を聴いていれば耳に残るいくつものメロディが、ノエル・アクショテの歪んだ時空間の中で立ち現れ、そうだ、この生命力の奔流がジェイミーの音楽だったのだと、あらためて気付かされる。もう彼女の新しい音を聴くことはできないが、再発見を続けることはできる。
ピーター・エヴァンスは、フルートとピアノとの組み合わせがおもしろいと思ったんだと平然と言ってのける。この途方もないポテンシャルは次にどのような形をとってあらわれるのか、想像などできようはずがない。
ヴィブラフォン山本玲子、ピアノ柳原由佳、パーカッション相川 瞳が2021年に結成したユニットのファーストアルバム。タイトルが「風と花」を意味するように、爽やかでポジティヴな空気感の中で三者が美しく色彩豊かな音楽を紡ぎ出す。
矢野顕子がパット・メセニーらの参加も得て、1991年にニューヨークで録音した『LOVE LIFE』。深田晃司監督がこのアルバムに着想したストーリーを映画化。公開に合わせアルバムのアナログ盤もリリースされた。
ブロッツマンと灰野という二人の音楽家の長い人生の旅路の交差地点が4枚のレコードに集約されているように感じられる。
各々の音楽に対する「ブレのなさ」は、即興とはいえ胸のすくようなパノラマと壮麗な構築性を「結果として」もたらしている。
フィンランドのレーベル・We Jazz Recordsのリリースしたアルバム10枚を音源として自由に使ってよいというルールに基づいた作品であり、レーベル内の宝さがしの試みだと言うことができる。その意味でカール・ストーンにとっても新たな刺激発見の過程だったのではないか。掘り出された個々の要素がストーンの音楽の中で新たに手足を伸ばしてゆく可能性だってないとは言えないのだ。
『アルケウス』が齎(もたら)す、誰も見なかった、そして誰もが見る夢の残像は、しかしまた私の物語になりきれず、虚空に消えて行く。
2016年ヨーロッパツアーから生まれた、美しく生き生きとした小品集。キースが紡ぎ出す歌の最終発展形を知る上でもぜひ一聴をお勧めしたい。
2015年のバンド結成時からの成長、そして今、「開花」と言う意味で「Bloomin’」と名付けられた。
「あまちゃん」をきっかけに結成され約10年を経てバンド名義の初スタジオ録音盤。COVID-19下の2020年6月に制作を開始、メンバーが集い、遠く離れた仲間たちとリモート録音を行なったため、異なる彩りや賑やかさが生まれそれがこのアルバムの魅力となっている。COVID-19の困難な状況と想いがあったからこその緊張感がポジティヴに作用し素晴らしいアルバムに仕上がった。
有名な武満徹と谷川俊太郎による反戦歌、「死んだ男の残したものは」は、最近のきな臭い世の中、胸にこたえるものがある。
“歩くブラジル音楽”アントニオ・アドルフォのオリジナル集と、関西圏を活動拠点にしているシンガー、新田佳子のジョビン集の新作2点。
クリス・ピッツィオコスの作曲家・理論家としての才能を詳らかにする野心作であり、即興音楽を内包した作曲音楽の現在進行形を明らかにする注目作である。
音楽だけでなく映画や書物も作ること、旅を愛することが、ブライアン・アレンという不思議なトロンボニストの思想を形成しているように思えてならない。このアルバムも、旅の途中のスイスでゲオルグ・ホフマンと会い、持ち歩いていたプラスチックの軽いトロンボーンで初めて手合わせし、なにかのプロセスの音として作ったものだ。
2013年公開の映画のサントラの10年後の国内発売が “ 時宜を得た” と言えるほど時代はますます危機を孕みつつある。
灰野も彩も、言葉や旋律のないヴォイス・パフォーマンスを得意としているからこそ、「歌」だけでなく「声」によるコラボレーションこそが精魂の個性となり得るのである。
協和と不協和の間の緊張に身を晒し続けるカール・ベルガーの音。この巨匠の音に、ひとまわり下のビリー・ミンツが繊細さを与え、若いマックス・ジョンソンは柔らかくも太くもあるコントラバスでふたりのヴェテランの紐帯となっている。
インプロヴァイザーの演じる領域を用意したコンポジションであり、あるいは逆にコンポジションにインプロヴァイザーが自身の表現のために介入したものでもある。結果としての折衷ではなく、両者せめぎ合いの過程が音の緊張感となって刻み込まれている。
大好きなTheo Crokerの新譜が発表された。前作に続く3部作の2作目だ。今回も最高の出来だが、前作とかなり違う。謎のアルバムタイトルの意味や、「ジャズは死んだ」と繰り返すそれぞれの曲の解説を、本人のコメントを交えて解説。
そもそも、(カーラ・ブレイに)妖気など初めからなかったのだ。
渋谷毅は教えてくれる。
わたしは、シャツ一枚を着てピアノを弾く姿、そしてそんな音楽を奏でる「渋谷さんが大好き」だ。
このトリオはテザード・ムーンよりも意志の力で抑制されており、それでいてテザード・ムーンに匹敵する音の強靭さを保っている。
彼らが吐き出す三つの音の蜘蛛の糸の絡み合いが、雑踏時代の人類と音楽の関係を再定義する兆しになれば是幸いである。
ブノワ・デルベックはボードレールや、パウル・ツェラン、ボリス・ヴィアンを愛していた、音楽よりも先に文学を好んだらしい。音楽でいうと、セロニアス・モンク、ポール・ブレイ、つまりは古典であると同時に前衛的なものに接し自身の「声たるものを」発見していく、…
『Swallow Tales』から2年を経てCOVID-19下で自宅録音した初ギターソロアルバム。ルーパーをシンプルに使い、セルフデュオ的で程よいエフェクトを組み合わせたような感覚の心地良いサウンドを創り上げた。
この3月17日に発表されたブラッド・メルドーのこの新譜には度肝を抜かれた。今まで知らなかったメルドーのグルーヴ感や、彼の音源オタク性を堪能させてもらった。プログレッシブ・ロックの名曲の数々を使って旧約聖書を紐解くメルドーの、この素晴らしいアルバムを分析してみた。
スカッとして心地良く、快感とでも言えそうな至高の”ブラジリアン・サウンド”、それに久々に触れた
若い世代の忌憚のない演奏を心底受け止め、2020年代の森山威男という大きな像が仁王立ちしている。
ジャズは、過去を、未来を、そして今を生きるわたしたちに寛容である、と吉野さんのソロアルバムは教えてくれた。
ここにはCON TONたるスープ「フリージャズ」がある。フリーであり、ジャズであること。それが騒乱武士の矜持だ。
神性を剥ぎ取られたパイプオルガンの音色は何と無垢で脆いのだろう。デルフィーネ・ドラのヴォーカライズが教会オルガンの空っぽの心を慈しみで満たす。21世紀の”歓喜の歌”は斯様にあるべきなのかもしれない。
中国語圏で中国語によるジャズを歌う試みはさほど多くはなかった。本盤はその新世界に向けた一里塚となるにちがいない。
楽器も場所も彼女自身と言っても過言ではない最高に理想的な環境で生み出されたピアノ演奏は、この上なく優しく自由で、母の胎内にいるような安心感に満ちている。
河崎の夢「ユーラシアン・オペラ」とは、失われたグラン・レシ=大いなる物語の断章を拾い集める作業ではないのか。とすればそれに接するものは、自分でその物語を想像することが許されるだろう。河崎純は我が夢の導き手である。
生きている “歓喜”と“希望” を実感し、さらに音楽の根源的な “癒し”の力にも触れられるジャズ・アルバムとして、皆様にぜひお勧めしたい。
ポーランド出身のトランぺッター、トマシュ・ドンブロフスキのセプテットによる、トマシュ・スタンコ(tp)へのトリビュート作。うなりをあげる電子音や個性的なツインドラムに、管楽器の美しいハーモニー、荘重な楽曲に満ちるリリシズムがじわじわと心に迫る。
このアルバムから筆者が感受するのはサックス演奏ではなく、息=呼吸=空気(l’air)の聴覚ドキュメンタリーである。
とにかくトリオの新しい試みは、スウィンギーな細密画のような印象だ。それは例えば「オルタナティヴ・ロック」を彷彿とさせる。
ウッドベース弾き語りでも注目を浴びる気鋭のベーシスト石川紅奈と、バークリー音楽大学を主席卒業後、ボストンで活躍し帰国したピアニスト壷坂健登のデュオが「soraya」という名前を得て、初シングルをリリースした。
河崎純によるユーラシアン・ポエティック・ドラマのCDが、3月に発売された第一作目『 HOMELANDS』に続き、第二作目『STRANGELANDS』もBishop Recordsから間もなくリリースされる。両作品共、河崎のユーラシアンオペラ等での活動が基盤となって制作されたCDだ。独自の発想で創作を続けてきた彼の言葉を引用しつつ、これらの作品の成り立ちについて書き留めておきたい。
詩から解放された歌、意味から解放された言葉を歌うヒグチの声は呼吸と一体化し、体内をめぐる血液のように、ずきんずきんと鼓動する。
音楽だけに留まらないミルフォード・グレイヴスの魅力と、それに感化された演奏家たちの交流のドキュメントとして、想像力を逞しくして味わい尽くしたい芸術品である。
ロンドンのサックス奏者マッシモ・マギー、ドイツ・カッセルの三味線奏者ヨシュア・ヴァイツェル、日本のエレクトロニクス奏者の池田謙は、打楽器奏者エディ・プレヴォ主宰のワークショップで知り合った仲である。プレヴォも、また最近帰国した池田も、長い間ロンドンが活動の拠点だった。したがって、このときヴァイツェルのみが海を渡り、ロンドンのCafe Otoに集まったことになる。
高木のサックスの音色の美しさは特筆ものだ。吉沢が加わることで演奏の空間をぐっと広げ、演奏の密度を一気に濃密にしている。
この “ザ・ブレンド” は、ジャズ・サウンドを展開、全員の迫力あるソロ・ワークを前面に押し出しており、ライヴ・バンドならではの本源的な力強さと蠱惑力に溢れた卓抜なものとなっている。
待望のロバート・グラスパーのBlack Radioの3作目がリリースされた。これは単なる娯楽作品ではない。政治的な話題を公の場で意見することを好まないが、このアルバムの背景として、危険を承知でアメリカの人種問題に少しだけ触れてみた。楽曲解説としては、グラスパー・マジックである彼のボイシングやテーマの構成を解説。
その音楽には、コスモポリタン的な感性が生み出す自由さ、そして音楽的ルーツが希薄な都市に生活する人ゆえの彷徨う感覚を嗅ぎ取ることができる
縄文、弥生、旧石器時代への憧憬、いや回帰を宿命とする音楽家土取利行は、 その故郷讃岐でサヌカイトに出会う。
ヨーロッパの最深部に蠢く音楽共同体ザ・ドーフが真のD.I.Y.精神を発揮して作り上げた新世代のプロテスト・ソングには、不条理の時代に表現のユートピアを作ろうとする強靭な意思が漲っている。
歴史的な記憶と想像力によって豊かな世界を提示する「ユーラシアン・オペラ」。コロナ時代にまた素晴らしい作品を作り上げた。
パーカッションの山㟁直人、笙の石川高、尺八のアンドレ・ヴァン・レンズバーグによるトリオ。40分強のサウンドのどの時点もプロセスとして大事なものであり、ときにぞくりとさせられる瞬間がある。
ダウンズの音楽の印象をかたちづくるのはシンプルな旋律と構造そのものの組み合わせ。だから一聴してもつかみどころはない。
1991年生まれ同い歳のピアニスト魚返明未とギタリスト井上 銘の初デュオアルバム。透明で美しく洗練された響きの中に微かに感じる”夏の草の匂い”や”汗の匂い”のような感覚が、聴く者を懐かしく爽やかな不思議な時空へと誘う。
沖縄電子少女彩というアーティストにとってこのアルバムは一つの達成だ。のみならず、沖縄音楽というジャンルにとってもまた一つの達成だろう。
ハーシュ自身が全てのコンポジション、アレンジメント、音づくりを掌握、構成していて「セルフ純度」が高い。
注目のラトヴィア・ミュージシャンの選りすぐり曲を集めた2枚組。リューダス・モツクーナス、アルヴィーダス・カズラウスカスの渋いサックスデュオも、ジャズ最先端を目指す若手も、大御所ライモンズ・パウルスの若き日の演奏も、みんなアツい。
アダム・ルドルフと9人のギタリストが創造した『共鳴体』は、音響による宇宙の箱庭化であり、モーゼの『創世記』に描かれた天地創造の再検証と言えるだろう。
ニューヨークでもパンデミックの隙を見つけて演奏活動が続けられている。サックスの石当あゆみ、ピアノのエリック・プラクス、ベースのザック・スワンソン、ドラムスのジョン・パニカー、それにマルチ・インストルメンタリストのダニエル・カーターが加わった。自然体にして遠慮することのないおもしろさがゆっくりと伝わってくる演奏だからこそ、この続きもまた聴きたくなるというものだ。
ブライアン・アレンが雑誌、アート、音楽、映像を組み合わせた手作りの作品を出した。かれのことを旅する音楽家と呼ぶだけでは不十分だ。かれの視線や表現が旅そのものなのだ。
ジェーン・ホールのこのアルバムを聴いて、微妙な味わいを解さない聴き手がいたら、その人物はよくいる美人ヴォーカリストのファンと同列の耳しか持っていないと断じてよろしいと思う。
アルフレート・23・ハルトが韓国移住後に崔善培と吹き込んだデュオの希少な演奏が発掘された。ゲッベルス=ハルトの流れを受け継ぐハルト=崔のサウンドである。
このアルバムがジョン・コルトレーンの未発表音源に匹敵する、などと言うつもりはないが、どこでも聴けるコルトレーンよりも、誰も知らない異能ミュージシャンの未知の音楽との出会いに喜びを見出す音楽ファンも少なくないに違いない。
2019年のマンスリーライヴで振り返った過去40年間の楽曲と、緊急事態宣言下で即興で制作された前作『なりやまず』の両方の要素、つまり作曲と即興が混然一体となったヒカシュー・ワールドの現在進行形が集約されている。
バッハ好きの方、コルトレーン好きの方、全ての方達がぜひこの試みを、耳にして欲しいもの。なにせ紛れもなく世界で初めてのものなのですから…。
高木が小杉の音に野心的に近づいた。高木のソプラノサックスが管を共鳴させる息を感じさせる形勢もあるのだが、それ以上に、ヴァイオリンの擦音に憑依し、あるいはエレクトロニクスと化し、高木の並々ならぬ力量をもって小杉の音領域で重なってみせていることは驚きである。
「非連続の連続」という厳しいまでの「無常なる時空間の原動化」、これが神社で演奏されたとは驚きと言う他はない。
この時期の高木さんには「歌・メロディーへの回帰」が見られ、このCDでも「アリラン」、「小さな花」、「家路」、「不屈の民」、「バラ色の人生」等々が聴ける。
「大渦潮」を意味するバンド名通り、ありとあらゆる要素を巻き込んでぶち壊してから新たな音楽を生み出すマルストロームの方法論こそ、<破壊なくして創造なし>という真理を音楽の最前衛で実践する新世代パワートリオの証である。
フランソワはいつもリアルタイムのアタック、強度、速度を追求している。これが音楽を牽引している。
リズムやテンポの変化が複雑で目まぐるしく、絶えず体制変更をみごとに行うことを前提とした先鋭的な音空間であり、前作と比べ、先鋭からやや内省へとヴェクトルを転じた。背景には後述するようにコロナ禍があった。
松田美緒とウーゴ・ファトルーソのアルバムは10年ぶり、三枚目。彼女に歌わせたいと願って集められた彼の曲、それにウルグアイとアルゼンチンの曲で統一されていて、この間に築かれた信頼と敬意の絆が前二作より強く感じられる。
ショーロクラブや映画音楽で活躍する沢田穣治だが、このアルバムは筆者が考える沢田音楽の魅力を存分に楽しまさせてくれている。一見複雑に聞こえる沢田作品だが、一度聞いたら忘れられないメロディーを備えているのだ。参加ミュージシャンが魔法にかかったように沢田音楽を構築している。
互恵と共感、そして孤独な -coexistence- 共在によって生まれた音楽を、ジャズは待っていた。
アンサンブルで演奏するよりソロ多重録音のほうが、このミュージシャンの資質を良く映し出していると感じる。
カンザスシティ出身の気鋭のトランペッター、ハーモン・メハリの新作。イタリアの次代を担うピアニスト、アレッサンドロ・ランゾーニとのデュオ作。
「音楽を突き詰めれば突き詰めるほど、静寂の持つ力の凄さに圧倒されるようになりました」ピアニスト、田中鮎美は語る。そして彼女のトリオは、選び抜かれた最小限の音で、リスナーを焦らし、集中させ、魅了していく。
オスロを拠点に活躍するピアニスト田中鮎美がECM初リーダーアルバムをリリース。三者の音色と響きが美しく、深い沈黙の中から自然が持つ揺らぎやランダムさを伴って音が並んで優しく届く。その瞬間、瞬間に美を見ることができる。
世界中には異形の音楽表現を求めてやまない多数の音楽信奉者が待っている。この”超イケてる”アルバムを聴きながら、この厳格な音楽宣教師が使命を全うする日を待ち望むしかないだろう。
師のヘンリー・グライムスがときに恐竜の足踏みのような轟音をもつ剛の者だとすれば、マーク・ルワンドウスキは柔の者である。きめ細かな和音をもつアディソン・フライのピアノ、目が覚める繊細さと速度をもつクッシュ・アバディのドラムスとともに提示されるサウンドはシンプルでありながら複雑な変化やグラデーションがあり、少なからず陶然とさせられてしまう。
イスラエル生まれのドラマーの新譜。重厚でハードなサウンドに、深い色合いと抒情性が加わり、SF映画音楽を思わせるシンセ音が広がる。ゲイリー・ハズバンドがキーボード奏者としての実力を遺憾なく発揮。
首席指揮者に就任して2年、挾間美帆のオリジナル7曲を収録したアルバムをエディションレコードから世界に向けリリース。バンドの伝統を重視し、先の音楽監督たちのサウンドも振り返りながら、緻密だがメンバーとリスナーが楽しめるウィットに富んだ新たなサウンドを切り拓いた。
大好きなTheo Crokerの新譜が発表された。期待通りのご機嫌なグルーヴと惚れ惚れする彼の音色に加え、新しいアイデア満載だ。また彼のアイデアを実行できるバンドメンバーにも感嘆。通常の楽曲解説とは趣向を変え、インタビューも交えて全曲解説を試みた。
Pat Methenyの新作は、Patが若いミュージシャンと新たなアプローチで新旧曲に取り組む、とても意欲的な作品。本プロジェクト「Side-Eye」の鍵を握るピアニストJames FranciesとPat Methenyの最初の出会いは2016年のことだった…
ピアニスト望月慎一郎が、2019年に来日したチェコのベーシスト ミロスラフ・ヴィトウスを迎え、ミュンヘンから来日していたドラマー福盛進也とともに録音していた音源が、Unknown Silenceレーベルからリリースされた。
台湾のギタリスト・陳穎達(チェン・インダー)、カルテットからトリオへ。サウンドは複層的なものに変貌した。
伝統的な英国の風土と自由で多面的な音楽経験に支えられた4人の“ミュージシャン≒マジシャン”の表現の前では、Free MusicやNon-Idiomatic Improvisationといった鹿爪らしいお題目は忘却の彼方へ消え去ってしまう。
そして私は、英語というフィルターを通す事で、意味と文脈を回避し、海原純子の「声の肌理」だけを味わっていた。
マーク・ジョンソンが初ベースソロアルバムをECMからリリース。ビル・エヴァンス・トリオ当時に、毎晩ソロで演奏された<Nardis>、『Bass Desires』の<Samurai Hee-Haw>から再構築された<Samurai Fly>などを収録。イリアーヌ・イリアスを共同プロデューサーにサンパウロで録音された。
ピアノ+弦楽四重奏による新プロジェクト。2020年末のブルーノート東京で初演された逆境からの希望に向けた組曲と、期間限定SNS配信企画「One Minute Portrait」で生まれた3曲などを収録。2021年10月7日〜8日には、ブルーノート・ニューヨーク主催のコンサートでソニー・ホールでも披露される。
このサウンドの新鮮さはなんなのだろう。21年前の録音なのに…。
前衛だからと言ってしかめっ面をする必要はない。子供でも“実験って面白い!”と楽しめる、それが“トゥビフリ”精神なのだ。
強靭にして互いに異なる4人が共存した、貴重なドキュメントである。金剛督+竹内直『アワー・トライバル・ミュージック』と高木元輝トリオ『LIVE at Airegin』とをつなぐリンクでもある。
強靭さを内に秘めた軽快さ・爽快さ・洒脱さなどを第一義に考えた、旨味の多い好アルバム
人生の明暗、哀楽、生死。ここから目を逸らさない観念が出来上がっているから、海原の歌はスケールが大きいのだ
<Eberhard>は、「水の循環」を想起させるような、そしてライルが永遠の中に生き続けていると感じさせる音楽だった。ライル・ファンには最高の贈り物となった。ありがとう、ライル!
ぎっしりと詰まったLyle Maysの魅力を味わう、至福の13分3秒
“Eberhard” は、Lyle Mays の音世界への新たな一つの窓である。この繊細で奥深い窓を通して、また一つ彼の音楽に触れられること、そして音楽への希望、ひいては音楽と非音楽全てへの希望を感じられることに、心から感謝したい。
ライルのピアノとシンセサイザーの豊潤な響きが部屋いっぱいに広がる。これで充分だった。ライルの最後の筆をこうして聴くことができて感謝の気持ちに溢れている。
気鋭の若手、武本和大と濱田省吾が参加したトリオのセカンドアルバム。井上陽介がトリオを活動の中心と定め、2年間にわたり日本中を共に旅してきた結果、より自由でタイトな音楽になり、クオリティーの高いアルバムが生まれた。
間合いと響きの可能性をこっそりと拡げる悪巧みのようなサウンド。
私は、本アルバムにおいて、ドラムのパワーとビート感の専制としての「魔」を有する<日本のジャズ>が頂点を極めたことを確認した。
しかしリックは64にして無伴奏ソロを完成した。貴方はまだ登り続けるのか。
外山善雄と恵子夫婦率いるデキシーセインツは、今年で46年目を迎える息の長いバンドだ。長さだけではない、彼等の経歴は、日本ジャズ史上最高の輝きを放っている
ここには、ルイ・アームストロングのジャズの担い手として不可欠な自由さ、動的感覚が鮮やかに見て取れる。
しかし、それでもなおブラクストンの諸作品が歴史的に残る理由はと言えば、その非歴史性、ジャズの伝承を超克する故だろう。
サックスの石当あゆみ、ギターのフェデリコ・バルドゥッチ、エレクトロニクスのトレイ・クリーガンのトリオにより、気が遠くなるほど大きな宇宙空間に漂い、その音風景が次第に変わっていくようなおもしろさを実現している。
ピアノとベースのデュオで奏でるコルトレーン…極限まで研ぎ澄まされ、静謐で息を呑む玲瓏な調べとなってこの身に響き渡った。
過去から現在へ、光が射す未来へ、ふたつの自由な魂が旅立つ。2016年5月のアコースティック・ツアーから再構成されたアルバムで、チックの生前に二人が選曲、没後バーニー・カーシュが完成させ、珠玉のピアノ・デュオ・アルバムが生まれた。
これら全て「自宅の超狭い防音室で」録音した巣ごもり、手作りの、多重録音無しの即興演奏である。世界を股にかけて演奏して歩くトランぺッターが、世界の圧力によって軟禁されたとき、其の表現力は圧縮されてかくなる形をとった。
ジャズでもありニュー・エイジ(&アンビエンス)でもあるのだが、それはまさに唯一無二な“一子ミュージック”、心の襞に染み入る秀逸な“越境音楽”なのである。
伊藤ゴローがジョアンとオガーマンの音楽に何を聴いて『アモローゾフィア』をつくったのだろうか。その謎を解くためこれからいく度も聴き返すことになると思う。
ダブリン在住のピアニスト、木村泉によるフィールド・レコーディングとの即興演奏によるコラボレーションというこれまでにない試みによる作品。それぞれのトラックが映画のシークエンスのようで、イマジナティヴな音空間が浮かび上がってくる。
このカルテットは、フォークを入り口に、現代のジャズシーンへするりと流れ込んでいくのが特徴であり、重厚感とフットワークの軽さが共存するのが強みだ。
それぞれが異なる地平に立ちつつも、演奏が進むにつれて表情を変化させて、ダイナミックに響き合ったり、静寂に収斂したりしながら同化と異化を繰り返すプロセスに、ひとつのバンドならではの魂の共感と進化を感じる。
スペインという国から連想する”情熱”、それともまた違う血湧き肉躍る三位一体の演奏にただただ吸い込まれていった。
バークリー音楽大学在学中から活動を継続してきたピアニスト柳原由佳とベーシスト山田吉輝が、COVID-19下でデュオで録音したアルバム。秋冬の光景をイメージした美しいオリジナルの数々と濃密なインタープレイから生まれる鮮やかな色彩と爽やかな空気感が楽しめる。
同地が持つ美点やひっかかりに着目した彼は“秩父前衛派”と名乗り、音楽、映画、写真集、研究文献など、同地を引き金とする様々なアイテムを精力的に世に問うようになる。
このアルバムは、穏やかさと静けさを湛えている。森の木々の間へと広がるような、伸びやかなトランペットとギターの音に幾度となく出会う。過去の何気ない日常を思い起こすような、親しみやすさに満ちている。
ま、そんなリーダー作ワールド構想力を備えた3にんが、ピアノトリオという伝統の束縛フォーマットでお手合わせした、
工藤冬里のピアノを聴きながら記憶の中に浮かび上がる風景は、輪郭のぼやけた幽霊に過ぎないが、自分の歴史の投影だとしたら、それはすなわち幽体離脱体験と言えるだろう。
北海道を拠点に活動する11人編成のビッグバンド「Total Knock Out Orchestra」のファーストアルバム。T.K.O.、すなわち立花泰彦、小山彰太、奥野義典というヴェテランの個性のみならず、中島弘惠、吉田野乃子ら精鋭たちの驚くほどの勢いを体感することができる。
この数年間で登場してきたギタリストの中でも耳目を集めるひとり、ジェシカ・アッカリーによるひさしぶりのソロ作品。それは内省と試行のプロセスを経て、これまでよりも自然な雰囲気をもつものとなった。
流麗、枯淡ともいえる過不足ない音の美にしばし酔った。(中略)日本の無伴奏サックスは「仮名文字の音楽」であると。
ザ・マーヴェルスでの3枚目にして初めてのフル・インスト・アルバムで、あらためてロイドの複雑な音楽の地層を知ることになった。
宮本貴奈のアルバム『Wonderful World』を聴いて感じたことは、構成力も豊かな物語が60分にわたって実に巧妙に編まれていることだ。
1986年から2000年まで活動したグループ・フェダインの貴重な再発2枚。『ファースト』には活動初期の「とにかく演る」という臭気と力が漲っている。『ジョイント』は南正人らとのマッチングによる情マシマシの奇怪な雰囲気が聴きものだ。
このアルバムに描かれているのは間違いなくクリス・ピッツィオコスというひとりの人間の魂と肉体である。現在のピッツィオコスのありのままの音楽を時間をかけて濃縮することにより、彼自身の未来の音楽と人生の在り方を刷新した。
〈百万本のバラ〉の作曲者としても知られるラトヴィアのピアニスト、ライモンズ・パウルス率いるトリオと、「ロシアのコルトレーン」と称されるアレクサンデル・ピシュチコフをゲストに迎えたカルテットの秘蔵音源を、ラトヴィアのレーベルからリリース
コロナ禍でライブにも思うように接しられない今日この頃、家でボリュームを上げて楽しむには、最適なアルバムだろう。
全盛期を過ぎた1970年代以降リリースされたハードバップ系の作品で本作以上に『本物』を感じさせる作品は何枚あるだろうか?
この1973年の近藤-土取デュオにまず感じられるのは、「ふたつの個体の全き独立」だ。音量の如何に関わらず、互いを決して邪魔しない。もたれ合わずに、互いが互いを内包してゆく。激しいクラッシュにも、理屈っぽい淀みがない。体感がすべてである。美しい。
え、なんだかんだと牽強付会したところで、つまりはフリージャズだろうって。そうだ、これこそ「真性のフリージャズ、ニュー・シング、新しきもの」だ。
達人ふたりの共演は聴き手にとって饗宴であり、どの料理に注目しようとも、並行世界でまた別の料理が供されている。しかも、いたずらに贅沢でもストイックでもない手仕事のプロセスとして。
なるほど、こうして並べて聴いていると「BGMことはじめ」ともいえるサティと麻紀さんの音楽とはおどろくほどの親和性がある。
大阪の堺市にある“SPinniNG MiLL”という明治後期の紡績工場。その空気感とそこに宿った独特のリバーヴ感が音楽を決定づけている。
Hanina Podladowska の手によるその美しいアートワークを100%斟酌しており、まさにそれにふさわしい音が三人によって紡ぎ出されている。
40年以上の長きに亘り音楽とアートの最前衛で活動し続ける3人が若き日に繰り広げた逸脱表現は、過去(70年代)から断絶し、新時代(80年代)の前衛音楽の到来を告げる予兆である。その意味で『歓喜の逆火』とは言いえて妙である。
ヨーロッパでは文学の朗読が盛んにおこなわれるが、言葉と音との境界、その現在進行形の侵食関係がよく顕われている。どう表現するかではなく、表現したいことは何なのか。その核がブレないからこその、表現形態の無限の拡がりである。/ There is a long-time tradition of recitation in Europe. This album is an embodiment of boundless relationship between words and music, its ongoing mutual erosive state at the front. What matters is not “how to express”, but “what is expressed”; any variant of forms presupposes the existence of its core.
クリス・ヴィーゼンダンガーのピアノ演奏は指先にも思索のフィルターがはりめぐらされており、凡庸からかけ離れていながら乱暴さのまったくない音に驚かされる。ヴァルネラブルであっても隠そうとせず、それによる豊かなグラデーション、共演者や周辺世界との相互浸透を、大きな個の力として確立しているかみむら泰一のサックスとの例外的なデュオ。
チャック・ジョンソンのペダル・スチール・ギターが描き出すサウンドは、蜃気楼のように浮かび上がる遠い記憶を掴もうとする夢の世界のサウンドトラックである。
個人的なハイライトは、ディーン作〈Baker’s Treat〉における、晩年のアート・ペッパーを思わせる、魂を削り取られるような吹奏のサックスソロだ。
そう、ここでその3人(プラス吉田氏)が集い、そこに至る道とその後の活躍の一つの経過点として合焦した、とても素敵なドキュメント
彼女のファースト・アルバムを聴いて感じたのは、ジャズ・シンガーの特権である開放性を存分に享受しているということだ。
従来のLP、CDを長く聴き馴染んできた人たちがオリジナル・アートワークとリマスタリングの「新バージョン」に心を動かされない訳がない。
1970年ごろの東ドイツに、どれほど米国のジャズ、ロック、ソウルが浸透していたかを伝えるライブ盤2枚組である。
リトアニアのサックス奏者リューダス・モツクーナスが2018年末に来日し、Bitches Brew(横浜市)において4日間連続のライヴを行ったときの記録である。迎える音楽家たちは「日本の最強インプロヴァイザー軍団」との宣伝文句に恥じない面々だった。
二人の即興サックス奏者による、古代の記憶と共に眠れる精霊を呼び覚ますかのようなデュオ演奏は、音楽の原初の形を取り戻す試みに違いないのである。
自らの原点であるロフト・ジャズ時代の音源を掘り起こして世に問う意図は、経済的な見返りを求めることなく、自分たちが望む音楽を一途に追求した希望に満ちた日々を今こそ取り戻そう、という決意表明なのかもしれない。
スウェーデンの教会における大きな響きを友としたピアノソロ演奏。即興演奏だからといって構えることはない。結果としての物語性があり、各章での語りがとても素敵な音楽だ。
こうして残されたアルバムで後50年、100年と聴き続けられるのだ。兎にも角にもCD化実現に感謝!
この全編1ミリも途絶えることない胸を締め付けるバラッドの瞬間たち、メロディとフレーズそのものじゃないか、天国のプーさんよ、すげえよ、これ、
しかし、(高柳が)井野や菊地と過ごす時間は、もはや直接行動あるのみという覚悟を裡に秘め、陰腹を切ってステージに上がり、さあ丁々発止の即興妙技をお聞かせしようというほどの和やかささえ感じる。
ベイリーと高木の相性の良さを存分に味わうことのできる作品。80年代の高木のソプラノをじっくりと聴けるという意味でも、他に類を見ない、非常に貴重な記録と言えるだろう。
メディテーション・ミュージック的であり、環境音楽/アンビエント・ミュージック的であり、フィールド・レコーディング的であるが、本質的には生楽器の即興演奏のドキュメントである。いわば一人の演奏家の意思による“Improvised Meditation Music(即興瞑想音楽)”と呼ぶのが相応しい。
HTK Trioは福岡を中心に活動を行う武井庸郎、波多江崇行、コーチK(河内和彦)によるトリオである。本盤は、コロナ禍を奇貨として、閉塞感からエネルギーを生みだそうとした録音であるという。たしかにそのエネルギーは演奏中に漲っている。
伝説のビート詩人ルース・ワイスの遍歴と思想を綴ったポエトリーが、ロムスたちのインプロヴィゼーションと見事に絡み合い、二つの異なる視点からアメリカのカウンターカルチャーの歴史を俯瞰する壮大なオーラル・ストーリーが描かれている。
悠々とリラックスして嫋(たお)やかにペットを響かせる、余裕ある大人メハリといった趣きで、聴くものを魅せる。
このアルバムに一貫して流れる音楽家、藤井郷子の、普段ほとんど表に出ない美意識がごく自然に顔を出しているところが実に興味深い。
ペレルマンも、マルツァンとのデュオでは、かなり微分音を意識して演奏している。が、ジョー・マネリの軟体動物、蠕動の如きフレージングではなく、やはり彼らしい勢いのある水流が迸る。
「息のかさなり」の繊細さが、大胆に、遊び心とともに伝わってくる。器楽的なアンサンブル感覚よりも、ここちよい社交空間で信頼する友人とやさしく話しているナチュラルな感覚。
本作に通底する言葉にできないほどヘヴィなメッセージには、マイナスをプラスに転化しようとする意志と希望が込められている。世界にどんなことが起ころうと、ヒカシューがやるべきことはただ一つ、鳴り止まない音楽を奏で続けることだけなのだから。
意識の塊のようなドットエスの二人の演奏に、”たまたま落ちていた音。たまたまそこにあった音”を重ねることで、疑似アンビエント空間に放り込み、デュシャンの「泉」のように聴き手の価値観の攪乱を意図したのである
抽象と具象、無意識と有意識、無為と有為、Catastrophe(崩壊)とCreation(創造)。ジャクソン・ポロックが導くドットエスの表現行為はまさしく「アクション・インプロヴァイジング・ミュージック(行為としての即興音楽)」と呼ぶのが相応しい。
ポップスの世界では、一人きりの寝室で宅録によって作った音楽を「ベッドルーム・ポップ」と呼ぶが、『CHAT ME』はいわば「ベッドルーム・インプロヴィゼーション」と呼べるだろう。
『アナザー・ストーリー』の物語性はタフでストレート。語りくちはおだやかに聴こえても挑発的な緊張感を内に秘めた音楽なのだ、とあらためて気づく。
この『コンプリート・セッションズ1994』は文字通りジャズ史における「世界遺産」に認定をされて然るべきだとまで、私は考えている。
つつましくも往年の意欲的な演奏を聴く者の瞼に描かせる演奏には、いささか突拍子もない言い方になって恐縮だが素直に” 参りました”と軍門に下るしかあるまい。
ニューオリンズ、スウィング、ビバップ、フリージャズ、R&B/ゴスペルからエキゾチカ、サイケデリック、スペースロック、電子音楽まで地上のあらゆる音楽を坩堝化したサウンドは、世界文明を攪拌・濃縮したミックスジュースのように馨しい。
旅と開かれた共演とを前提とした即興演奏グループ。底知れない遊びの感覚もばら撒かれており、とても魅力的だ。
「ライヴができないなら動画配信」が主流になってきた昨今、日本の一都市・川崎の片隅で、極めてアナログな流通形態にこだわりながら日々発信し続けた近藤等則のミュージシャン魂と矜持、その無窮(むきゅう)の音世界は、かけがえのないギフトとして今こそ深く心に刻まれるべきだ
現代ジャス界の求道者:デイヴ...。おいちゃんのなかではもう「あのかた」を遥かに超えた存在である。
一音一音共演者に投げかけるべき言葉を吟味して奏でるその淡々、飄々とした芸風は他のどのトランペット奏者とも異なる唯一無比の格別の味わいがある。
左チャンネルのハンアル、右チャンネルのディドコフスキーの2つのギター・ノイズと、中央に立つシコラの対照的にメロディアスなサックスが脳内で衝突・融合し、神経を活性化して脳全体を刺激する快感を与えてくれる。
絶えざるグルーヴが身体を揺さぶり続けるが一向に疲れない。むしろ響きの渦へと没入してゆく覚醒感が静謐さを生むほど。/ Incessant groove keeps swaying our body, but it never makes us fatigued. Rather, a sense of awakening toward the core of the sonic vortex invokes stillness.
気鋭のギタリスト浅利史花のファーストアルバム。レジェンド中牟礼貞則から同世代のミュ−ジシャンまで多様なセッションを行い、自らのサウンドを心地よく探究し拡張していく。
ECMからデビューしミュンヘンを拠点に活躍するドラマー福盛進也が設立した新レーベルnagaluの1枚目となる2枚組アルバム。藤本一馬、林正樹、佐藤浩一をはじめ個性的なアーティストが集結し、新しい物語が動き始めた。
2016年7月のヨーロッパ5都市ツアーから、初日ブダペストのベラ・バルトーク国立コンサート・ホールでのライヴをリリース。2017年、活動休止前カーネギーホールの半年前の記録となる。
またピーター・エヴァンスが異色作を発表した。変わった編成のカルテットであり、特にトランペットとヴァイオリンとの共存のヴァリエーションは刮目にあたいする。
自然体のフリースタイルミュージシャン、中尾勘二が生み出す郷愁のアンサンブルが心の自由度を果てしなく広げてくれる。ふと気が付くといつもそこにある風景のような和風フォルクローレ(民俗音楽)である。
NYを活動の基盤としている日本人の音楽家が多いなかで、彼女の音楽だけからはNY的類型から離れた空気が流れてくるのはなぜだろう。
数多ある欧州新感覚派・近未来派ピアノトリオの中でも他とは確実にぶっ飛び、かけ離れたところを遠慮など全くなく疾走していくこの若き3人。
ワレリアンのプレイは雪舟の日本画のみごとな筆遣いを彷彿とさせる。そこには俳句のような語り口があり、謎めいた魅力がある(ウィリアム・パーカー)
アルメニア出身の鬼才ピアニスト、ティグラン・ハマシアンが自身の夢のような内面世界を探求する旅へ向かう。
この作品、NYの進取性・先鋭性にラテン・ジャズの熱気をプラスさせた、と言うよりも塗したと言う表現の方が適切な趣きの、コンテンポラリー・ジャズ作品とも言えそうだ。
相変わらず3人の結束は堅固なものである。玲瓏な調べにベース、ドラムが次々とこれでもかとビシバシと決めてくる。これを演られるとおいちゃんはイチコロとなる。
Covid-19という災厄のおかげで再認識された<自然>との共生、つまり「ウィズ・ネイチャー」こそ、我々人類が本気で取り組むべき課題に違いない。No Touguesの疑似民俗音楽は、自然と人類の芸術的コラボレーションの新たな形を予感させてくれる。
時間の魔術師ラス・ロッシングが、良寛と道元の歌をもとに新しい音世界を作り上げた。異色作にして注目作。
まさに聴くたびに感嘆させられるマリア・シュナイダーの書法と、世界を代表する演奏者を集めて記録したオーケストラ・アルバムではあった。
たった3曲だが、何と変化に富んだ演奏か。迷路のような暗がりを通って明るい表通りへ。そのつど心が踊る。
阿部のソロは、やはりジャズのスタンダードを、そして日本の歌謡曲や古い歌をモチーフにして展開した。その意味では全くテーマの無いフリー・インプロヴィゼーションであるより、フリージャズの伝統に根ざしていると言っても良い。
しかしむしろこれはジャズ的な問題を一切排したところに成立した日本、アメリカ、マレーシアのハイブリッドな音楽であり、そのテーマは、まさに「変化して行く未来」に期待するべきだろう。
池長一美と浅川太平のユニットによる、北欧、北海道など「北」へのオマージュを具現化する新プロジェクトのファーストアルバム。
ブラジルやオリジナルを取り上げた珠玉のデュオ集。圧倒的な音楽が静かにそこにある。
ジャケットに記された「Speak in tongues and hope for the gift of interpretation(異言を語り、解釈の才能に期待する)」という一文には、影響を受けた偉大な先達へのリスペクトと共に、必ず彼らを乗り越えてやる、というピッツィオコスの強い決意が込められている。
あらゆる声による表現を駆使し千変万化するサインホのヴォイス に、循環奏法とマルチフォニックスを駆使しつつも、ブルージーな楽音や尺八も交えるローゼンバーグ、そこにDieb 13がノイズやサウンドをレイヤーのように重ねることで、音宇宙が広がったといえる。このステージで繰り広げられたのは音による即興無言劇とも言えるかもしれない。
このアルバム紹介シリーズでは、中欧と呼ばれる4か国、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランドのジャズ・プレイヤーのアルバムを取り上げます。
自分が歩んできた道の記憶を一つ一つ慌てずにしっかりと確かめながらピアノに向かい奏であげるその美しい旋律に2人が寄り添い、三者で透明感あふれる極上の音色を紡ぎ上げた。
マキガミサンタチのイマジネーション豊かな音楽は、聴き手の音楽脳(右脳)をやさしくマッサージする。その一方で楽曲タイトルのシュールな言葉遊びが、言語脳(左脳)のシナプスを震わせる。左右の脳のバイブレーションが共鳴して生まれる刺激の波が、聴き手の感情に新たなさざ波を起こす。
井上陽介トリオで活躍し、小曽根真公演で”Rising Star”として紹介された24歳のピアニスト武本和大のファーストEPアルバム。佐藤潤一、北井誉人とのKKJトリオ、田谷紘夢とのピアノデュオ、ピアノソロが収録されている。
高円寺百景のキーボード奏者としても活躍する矢吹卓が、自らのプロジェクトとして世界中から30名以上の手だれを集め、梁山泊さながらの世界を作った。実に華麗、壮麗、絢爛である。
電子音楽、プログレッシヴ・ロック、テクノ、ノイズ、インダストリアル、ミニマル・ミュージックなど、様々な要素がミックスされたスタイルは、まさにミクストメディア時代の<アートロック>と呼べるだろう。MEDIA=コミュニケーション・メディアと解釈すれば、JOBSの音楽はアート(芸術)であると同時にエンターテインメントでもある。
あたたかな包容力に満ちながら、甘さを回避する研ぎ澄まされた感性の総和。一時的にせよローカリズムへ逆行することが不可避な現況のなか、まぎれもなくグローバリズムの果てにある「都市の音楽」なのである。/ Their music is full of generosity and the sum of finely honed sensibility without falling into any excessive sentimentality. In today’s world circumstance, in which returning to localism is becoming unavoidable tendency even if temporary, their music embodies glaringly “urban music” which is in the shadow of globalism.
フルートという不思議な楽器を通じて、カエターノ・ヴェローゾ、エルメート・パスコアール、ジョアン・ドナート、そしてオリジナルと、ブラジル音楽への愛情が息遣いとともに愉しく伝わってくる。
還暦を迎えた早坂紗知と、山下洋輔、森山威男のベテランらしい知的なプレイぶりから生まれる和気藹々とした交歓を堪能したライヴならではの1作
私の成長の証し、大きな音楽の分岐点…。神のような存在の、ラリー・ハーローのプロデュースなんて夢みたい。まるで小説の中にいる感じです
今回の新作は “ブラジルの声(&心)”とも呼ばれる、彼の地の国民的英雄ミルトン・ナシメント集。
英国ロンドンのマッシモ・マギー(リード)、ドイツ・カッセルのヨシュア・ヴァイツェル(三味線、ギター)、豪州ブリズベンのティム・グリーン(ドラムス)が組んだライヴ録音。1990年前後に生まれた世代による即興シーンの厚みを示すサウンドだ。
ジェフ・コスグローヴが敬愛するポール・モチアンに続いて取り上げるウィリアム・パーカー作品集。
ピアノの藤井郷子とヴァイブの齊藤易子との異色のデュオ。本盤を聴くことは、音や意識の境界領域に身を置く追体験をするということである。
80歳を迎えるスティーヴ・スワロウ・ソングブックをスティーヴ自身が参加したトリオで録音した待望のアルバム。
ジョー・ロヴァーノのECM作品を聴くとそのたびに「こんなをロヴァーノを聴くのは初めてだ」と思う。ヴァシレフスキ以上にECM以前、以後で音楽自体がはっきりと変化しているからだ。
J-Popの体裁をとっているようでいて、ほんとうは不可思議な音楽だ。きこえてくるのはまるで外国の少女が書いたシュールな日本語のようなうた。
敢えてベースやパーカッション類など一切 使わず、シンプルに2本のフルートとピアノだけで組まれている事でホンシュクと城戸、それぞれ の技量の高さと限りないフレキシビリティが際立つ。
かねてよりドローン・ミュージックは究極のストイシズムだと感じていたが、ザ・ドーフによるエネルギーあふれる解釈により、究極のハードコアでもあることを実感した。単なるジャンルの越境や融合に留まらず、音楽の本質を露わにするザ・ドーフの思索的諧謔精神が今後世界にどんな影響を与えるのか、興味は尽きない。
加藤崇之とさがゆきのSYNAPSE。きわめて幅広い音楽性を持つ2人のユニットの最新作は、驚くほどにストレートなボサノヴァ集だ。
コーリー・スマイスがまた刮目すべき作品を発表した。緻密かつ自由な5人のヴォイス・アンサンブルと即興を展開するとともに、自身は鍵盤とエレクトロニクスで演奏に参加している。大きな広がりも有機的な重層性もあり、全体として意思を持つようなサウンドである。
アルトサックスの柳川芳命が、かれと同様に東海地方を中心とした音楽活動を展開している5人のギタリストとのデュオ演奏を行った記録。それぞれの個性とともに、柳川のアルトがギターの違いを受けて呼応するありようにも注目すべきだ。
この音楽は、その地の精霊とフリージャズのホーリーゴースト(聖霊)が共に歌い上げる声なのだ。東南アジアだからこそ生まれた新生フリージャズに栄えあれ!
この新作が藤本夫妻の、まさに夫唱婦随の画期的な新作であり、昭子さんにとっても会心以上の1作であることを私は疑わない。
魅力の焦点は何と言っても、フランソワ(キャリリール)のフリージャズ風フレージングと纐纈雅代のリアル・フリージャズのフレージングを対決させたアイディアにある。
既存のカテゴリーに当てはまらない<パーカッショニスト>の高音質ソロアルバム。聴いていると、音への意識のヴェクトルがいつの間にか逆になって、音のほうが自分を視ているような錯覚を抱く。
キカンジュ・バクが創造する訳のわからなさ・混沌・曖昧性は、地下音楽の醍醐味のひとつであり、ケイオティックで挑発的な音楽スタイルと共に、好奇心が刺激されて止まない。
三人のミュージシャンが、密閉されたスタジオで、体を寄せ合い密集して、濃厚かつ密接な音の交感により生み出した生々しいブルース魂が宿った音楽ドキュメンタリーである。
ガトー・リブレはひとつひとつの楽器の音が尊重され際立つユニークなグループである。シンプルにして豊饒、淡々としながらも変貌を続ける音世界。
ここには本家の極上のスイング感は全くない。その代わりにヨーロッパジャズが持つ独自の静謐さの中に育まれる極上のノリがある。
土台にあるのはジャズのようだが、様々なジャンルのギター奏法をマスターしていることがわかる。
音量と音質がイーヴン。生楽器の身体性が成功裡に飛躍する。
『Manala』が奏でる豊穣の音楽は、ロムスとコスキネンの個人的なルーツであるだけでなく、遍く人類すべてが生まれてきた原初的記憶をたどる旅路を示している。それこそが音楽の冥界巡りの醍醐味と言えるであろう。
ハーブ・ロバートソン、デイヴ・バルーというふたりの対照的なトランぺッターは、トム・レイニーの叩き落とすがごときドラミングによるリズム、ドリュー・グレスのベースが創るプラトーの上で遊泳する。
抒情的な言葉を後付けで述べるのは簡単だが、それを拒む。柔和だがなかなか強靭な自律性。
エリック・ミヤシロ編曲によるビッグバンドを従えた、2019年12月大阪でのコンサートを収録。
青山ボディ&ソウルで活動して来たスーパートリオ。新曲の魅力、音色の繊細さと多彩さ、それを浮かび上がらせる録音が素晴らしい。
アメリカーナ=ブルースの要素を加える事で、より広範な音楽ジャンルと演奏スピリットを注入し、逼塞した今の時代を生き抜こうとする強い決意を表明した意欲作となった。
ときには異様に張り詰めた空気に包まれ、怒涛のようなインプロヴィゼーションが展開する一面もあるが、オルゴールの音や、つぶやくような歌に彩られ、詩情豊かなアルバム
もう一度心理的深淵の周縁、「終着の浜辺」に打ち寄せる、誰も知らない郷愁を誘うレクイエムに聴こえてくる。
このアルバムは、コンポジションの中に個性的なプレイヤーの出番を与えるという一方向のものだけではない。各プレイヤーの音色を前提とした曲作りを行い、多くの異なる声からなるざわめきに形を与えているという点で、きわめて独創的であるように思える。
警鐘となりえる芸術は、今どれほどあるのだろう。相も変わらず、商業主義の上に乗った現状を照らしただけの、描写的なものが幅を利かせているのではないか。近藤等則の音楽は、いつも根治的で潔い。直に病巣に斬り込む。何が急務なのかは、今の地球の悲鳴を聴けば明らかだろう。
テクノロジーのうえに成り立つ音楽であるのに、到達している境地は柔和で清澄。すっと心に浸透する音色が何より魅力的だ。そこには、さまざまな相剋を超越した後に訪れる虚無や、どこか東洋的な音韻もたゆたう。
さて、そんな些末な事はさておき「圧倒的」という言葉を、いざ使うのはこんな音楽に接した時だろうか。
「存在と生成」というタイトルの通り、多くの者に共有されるジャズ的な音要素を使ったサウンドから、よりシンプルで強靭な音要素をいちから使ったサウンドへの変貌。ジョエル・ロスら若い才能の突出にも注目すべき作品である。
エヴァンとリットンがロンドンで1969年に邂逅して半世紀、シカゴで2019年に録音されたのが今回リリースされたアルバムだ。
音色の連続的な変化をひたすらに追求するトランぺッターのジョー・モフェットがチューバのダン・ペック、パーカッションのカルロ・コスタとともに組んだトリオ。そのサウンドは楽器を演奏する個人の音の足し算にとどまらない。聴く者の内奥空間と現世とをつなぐ橋が現れ、音の断片がそのつど聴く者に個人的なものを幻視させる。
だから定型リズムでソロアルバムを創るというのは相当にユニークだ。
今回はオーケストラのアレンジが、ポップさといいますか「聴きやすさ」に大きく貢献しているように感じました。
有言実行、新・標題主義を掲げるレント・ロムスと辺境君主の信念に貫かれた異端音楽が、いつか山の下を貫通し、モンスターとなって地上に出現する日が来ることを心待ちにしている。
アンビエント/環境音楽ブームのおかげで、平野の音楽にも関心が集まっていると聞く。どのような形でも構わない。謎多き日本地下音楽の闇に薄暮の光を放つ秘宝がより多くの人たちの耳に届くことが、何よりも重要なことである。
この音の決して鈍らない強度、そして延々持続する意志の燃焼。これは他でもないサム・リヴァースという「妥協しなかった男」「最後の硬派」の、今我々が接し得る全てではないのか
エヴァンのサウンドは30年前に比較すれば、油のよく乗った歯車がゆっくりと回転しているような、滑らかな時計のメカニズムを感じさせるのであった。
サブ(豊住芳三郎)とカントリーマンは、フィリピンで「ジャズの十月革命」を起こすだろうか。
クリス・ピッツィオコスが作曲したスコアを基にした演奏である。ジャズ的な即興イディオムは殆どなく、クラシック音楽に於ける即興曲に似たコンセプチュアルなノンイディオマティック演奏が収められている。
札幌ジャズアンビシャスに、北海道に住むことになったマシューズにもすでに「地の霊」は降臨していて新しい音楽が確実に芽生え始めたようだ。
ジャズのメインストリームを半世紀以上にわたって走り続けてきた男が世代の架け橋になるというミッションに燃えた。
文は人なりというが、音もまた人なり。岡まゆみ、Kishiko、海原純子3人のアルバムを聴いてさらにそのことを強く思った。
近くて遠いジャズとロックのミッシング・リンクとして謎解きを楽しむのも悪くはない。しかしながら、アルバム全体に漲る無防備なまでの自由精神は、時代や社会やテクノロジーが変化しても常に変わることのない、人間の表現欲求の解放の証に違いない。
この快感、耽溺を肯定する事は危険だ。この音楽に拝跪してはならない。私はこの音楽の強度に立ち向かわなければならない。それが真にこの音楽を聴く事だ。
これからは本当に音楽も”ペーパーレス”になってしまうのだろうか…日々不安でしようがない。
片山広明を愛する立花秀輝が、生前彼に提供した曲「酒屋が閉まる前に」がアルバムタイトルにされている。片山へのレクイエムなのだろうか。
録音・制作自体は40年前だが、2019年の現在初めて明らかにされるニューシング(nu thing)として提示されている。それこそ作品番号に付された「remodel」の所以である。表現行為の記録の再構築により、煤のように堆積した記憶を払い除き、本質的な音楽そのものを新しい耳で体験すること、それがカタログへ向き合い方であろう。
大砲ではなく小銃で穿つように寄せてくる覚醒。三者のあいだに静かに脈打つリスペクト。中核にあるのは、リーダーであるデンソンの、大木がしなうような野太いフィーリングだ。/ An awakening draws near, piercing through like a rifle rather than a cannon. A heartbeat of respect quietly pulses between the three. At the core is leader Denson’s deep feeling, like the swaying of a great tree.
ただ、そのローカリティの底を突き抜けて、グローバルというべきか、ヒトという構造の、精神という機能の共有領域まで連れて行ってくれる「こえ」なのだ。
台湾のギタリスト・陳穎達によるカルテット作品第三弾、コンセプトはロード・ミュージック。このような良作が架け橋となって、日本と台湾の実力あるミュージシャンの交流がさらに進むことを望む。
「Sound of the Mountain」のサウンドをはじめて聴いたときから幻視していたのはマックス・エルンストのフロッタージュだが、それは故なきことではない。上下と前後左右の運動、それによる摩擦と突破、予想できない事件。極めて独自性の高いサウンドである。
(コメダの作品が)文字通り新たな名曲、名演となって再構築されていく様は聴いていて快感以外の何物でもない。
もし比較してみるなら、ボーカルの代わりにサックスがいると言ってもいいだろう。私はプラスティック・ドッグズをメタルバンドとして認識してしまいそうだ。
音程の確かさといい、豊かな音楽的センスといい、おそらく彼は生涯に初の、ベース・ソロアルバムの秀作を吹き込んだといって間違いない。
とにかく3者の演奏にはどこにもごまかしがない。ある意味ではすこぶる健康的なピアノ・トリオゆえの快感に酔わされた。
歯切れの良さは相変わらずだが、リズムを解いてプレイした粋な遊び心、等々。絶好調のひろみ節を満喫した。
インディーズ・レーベルから出たゆるいネオアコバンドのようなジャケットであるが降りかぶってくる音はまさに現在進行形ジャスピアノトリオ
35年経ってスタンダーズ・キース・ジャレットをバッサリ斬ってしまう録音を日本の自主レーベルが成し遂げている、紛れもない傑作に立ち会っている、
低音弦楽器のデュオだけでも十分なところに、敢えて早川の渋い歌声が、ブルーズのような、
知る人ぞ知るカルト・ミュージシャン及川禅による80年代地下音楽の秘宝が、何の前触れもなくイタリアのOttagono Design Of Music(オッターゴノ 音楽のデザイン)と称するレーベルからアナログLPとしてリリースされた。
安らかな心地で聴くことができることは、その刻その刻の音空間を得て柔軟に次の音を繰り出してゆくジャズのスリリングさとは相反しない。一音一音に集中して聴き、音の流れ自体に憑依するならば、高田と安ヵ川のその場限りでの振る舞いを追体験できるだろう。
国内外のインプロシーンにおけるヴォイス・パフォーマーは少なくはない。だが、これほどまでに多彩なヴォイスを提示できる者はそうはいないに違いない。それは自身の体躯との対話を突き詰めて得られた世界である。
不定形の音楽ユニットであるテニスコーツの新作は、ベーシスト立花泰彦とのジャズスタンダード集。「ジャズとは何でしょう(What Is This Thing Called Jazz ?)」との問いに、あなたはどう答えるだろうか。
繊細さがスケールの大きさを拒まないのが三枝節の真骨頂。瑞々しさと完成度の高さで、花果同時の高貴さもまとう。
垣根のない音楽。「聴く」という構えをほどく音楽—そのような音を前に、音楽のカテゴリーは不問だろう。
即興演奏の奥義を極めようとするかのような中村のチャレンジ精神とその楽しさと生きがいを聴くものに伝えようとする若さを失わない演奏に脱帽した新作。
ピッツィオコスたちが、享楽的なコールマンや、エモすぎるアイラーや、理知に支配されたブラクストンよりも、神秘的なコルトレーンの世界に無意識のうちに近づいていることを意味している。
新世代ギタリストのジェシカ・アッカリーが満を持して出した新作は、これまでより躊躇なく独自のリズムを作り出しており、奇妙に構造的なものにもなった。サックスのサラ・マニングの変貌も含めて要注目。
「採集した音」とピアノがどのように共和できているか。まだ少し心もとないのだけれど、聴くたびに音の隅々から「土地の地霊」が頭をもたげるのがはっきり聞こえる。
大きな達成感を持ったミュージシャンだけが発揮できる理想郷のようなプレイの連続だ。
しかしはやり「鎌鼬」(かまいたち)だ。あの写真集の迫力に<騒乱武士>はどこまで迫れたのか。
温故知新などと言う前に、今、この二枚を聴け。いや、そんじょそこらの「なんちゃってフリー」ではない。二十世紀後半の波濤をかいくぐり、さらに自らの船を繰り出す2人の船長の声を。
激して震える声、耐えしのんで絞り出す声、むせび泣き、嗚咽、絶望の吐露、裏返しの喜悦。ベタとも思える歌謡と民謡の通俗的音世界が、カバーを超えてこのようにまで昇華され、一周して再び情念の世界に戻ってきている。とても面白いことではないか。
「ジャズ」スタイルの可能性・汎用性をとことん探索し、「ジャズ」で遊ぶ喜びを十二分に謳歌する三人は、前衛のための前衛や、破壊のための破壊とは次元の異なる音楽エンタテインメントの実践者に違いない。
エヴァンはこのアルバムを深夜に、小さく再生し、睡眠中に聴くよう促している。残念ながらこのライヴ録音時の聴衆は謹聴し続けていたようであるが。少なくとも鼾は聞こえない。
あの良き・熱き時代のジャズ~ストレート・アヘッドなジャズの “今”を、“圧倒的な熱量” を伴い活写した仲々の力作
どの曲にも「え、これを選んだの」と驚き、そして「こんなに良い曲だったのだ」と思わず微笑んで聴き返してしまう。
いずれ、受精後40年、大抵の事は演奏自体で出来る自信があると自負するバンドに成長したヒカシューは、極めて正気の沙汰のまま変態を達成した。
山田光と黒澤勇人。ギターとサックスのデュオによる自由即興が、様々な「振動」の形を提示する。
ここに記録された作品は、溢れ出る才能の結晶であり、例え極少数だとしても形にして世に送りだしたDD.Recordsの功績を含め、日本の地下音楽の秘宝として高く評価されるべきである。
秀逸なポップセンスを持つサイケデリック・ロッカーでもある春日井の歌心が多分に盛り込まれた本作は、ノイズ/実験音楽/アヴァンギャルド/電子雑音の範疇に収まらない多面的な自意識(自慰式)解放の極みである。
グラスパーほどのちからはまだないにせよ、確実に新しいジャズを創造していくシオ・クローカーの待望の新譜が発表された。期待通りの傑作で書くべきことは山ほどあるが、今回は趣向を変え、作家村上春樹氏を引き合いに出させて頂いて、ジャズの流れにも触れてみた。ついでにアーウィン・ホールの爆発的アルトソロも採譜して解説。
特定のスタイルを標榜する訳ではないが、この潔さは即興音楽スリーピースの極意と言えるに違いない。パーマネントなトリオではないことを重々承知の上で言わせてもらえば、Improvised Music最上のトライアングルである。
齋藤徹は、再び、ことばを中心に据えたプロジェクトを形作った。それは音楽だけではない。同時代の詩人たちが詩を持ち寄り(齋藤の幼馴染であった渡辺洋は故人ゆえ、齋藤が渡辺の詩を選んだ)、松本泰子が歌い、庄﨑隆志が踊る。また詩人たちも朗読などによってテキストだけではないかかわりを持つ。
私はこの作品集を聴いていつしかまるで現代にシューマンかグリーグが蘇ってきたような錯覚すら覚えた。
ドラムレスだが鈴木の懐の深いベースがバンド全体に安定感をもたらし、ベテラン揃いの演奏にヒューマンな香りさえ漂わせる。
マーシャル・アレンたちの宇宙規模の自由な音楽が、たった30センチのレコード盤をターンテーブルに乗せるささやかな儀式を通じて我々の現実世界と繋がる。これこそ真の癒しであり祝福である。
レパートリーへの理解と解釈が驚異的に深化し、まさに彼らにとってのスタンダード・ナンバーとなっている。あまりに堂々とした演奏は本家ZEPにも負けない王道の風格がある。
普通のソロピアノではない。ピアノ全体が鳴り響いていることに、あらためて驚かされる。鍵盤を叩き、内部の弦をさまざまなやり方で鳴らし、それがピアノというひとつの楽器をしてオーケストラルなサウンド発生器たらしめている。
トランペットの可能性を押し広げるアクセル・ドゥナーと、ノー・インプット・ミキシングボード奏者・中村としまるのデュオ2作目。前作と併せて聴くことを強く勧めたい傑作。
カンサス・ジャズのボス的存在で、ブルース&ジャズ・ピアニストにしてボーカリスト、作曲・編曲者でもあった、ジャズ界の巨星のジェイ・マクシャンが1990来日した折り、東京のジャズ・クラブで収録された貴重なライブ音源。
貴方が聴くのは、フレッド・フリスが十年かけて作曲し、自ら指揮した三楽章からなる3時間半の即興的狂詩曲
ひとつの大きな世界観を共有することを志向しているが、特殊奏法を駆使して互いのサウンドの近似値を図るものでもなければ、「うた」のアルバムでもない。絵画に色彩ありきのように、言葉に意味ありき、音楽に音色ありき—その原点に忠実だ。
川島誠のサックスから発せられる音色には、聴き手の記憶の底のノスタルジアを呼び覚まし、現世の葛藤や欲動を音楽に昇華させる魔法の欠片が溶けこんでいる。ここから始まる音楽人生に偽りはない。
60-70年代の映画、市民権運動、幻視的な詩、SF、コミックなどからインスパイアされた即興ラージアンサンブル。コントラバスふたりによる擾乱と浮力、その上空を浮遊するようなヴァイブと4管のうねりが、限りなく拡がる夢を描き出している。
鋭角の音と層の音、緊張と快楽。聴く者を幻惑するルォー・ユー・チェンのピアノトリオは、第4作になり、濃淡の人マーク・ターナーを迎え、さらなる化学変化を引き起こした。
“ウェストコースト即興シーンの顔役”を離れて自らのルーツであるフィンランド音楽とのプライベートな交流を追求するこのプロジェクトは、レギュラー・グループのLife’s Blood EnsembleやLords of Outlandとは別のレント・ロムスの魅力を伝えてくれる。
川嶋哲郎は、日本人でなければ表現できないジャズ」を目指している存在となりつつある。様々な試みや成果の結晶化、大きな終結点がWATER SONG”だ。
板垣は学生時代に辛島文雄に指導を受けたことがあるということで本アルバムも辛島文雄に捧げられている。
<ノー・エンド>は、ケニー・ドーハムの僚友の一人、テナー・サックスの名手、ジミー・ヒースの自宅から発掘したという貴重な1曲。
シカゴAACMの巨人2人と、即興演奏するコンピュータ・プログラム。異色のトリオによるライブ録音。
サンフランシスコの新世代アルトサックス奏者による、先達の影響と同時代的感性が同居した新たな『なしくずしの死』
異形の波動ギターのアーロン・ネイムンワース、サウンドの構造を都度作り上げるピアノのエリック・プラクス、バスドラムによってボディブローを放ち続けるジョン・パニカー、泥の匂いを漂わせ精力的にサウンドを浮揚させるショーン・コンリー。この快楽物質分泌は、まるでブルックリンに瞬間移動するがごときものだ。
突然変異のようでありながらも、薩摩琵琶とトランペットとが衝突し、溶け合い、実に独特な音世界を創出しているアルバムだ。一貫して、与之乃の強い念や気と、発酵にまでいたっている田村夏樹の技が強い印象を残す。
力技ではない。あたかも棋士の対決を見るように、互いの意思を図るべくサックスとドラムは感応する。
人間そのものに肉迫できているか。特定の物語をベースとしながらも、この根源的な問いは独立している。現在のような時代になっても、フリー・フォームが決してなくならない所以でもある。
フリージャズ特有のダイナミズムと緩急自在な表現によって、今日的なアクチュアリティを表出させる「ARASHI」の演奏はフリージャズの今日的な有効性をよく表していると言っていい。
その本田珠也が敬愛していた父本田竹広の偉業を受け継ぎ発展させようとの思いで結成したのが「本田竹広トリビュートバンド」である。
昨2018年10月にTOWER RECORDSが新たに創設したレーベルDay’s of Delightの第2弾として発表されたものである。
リューダスは己自身の中で管楽器の演奏の「進化」と「根源」を同時に見せてくれる。これは音で聴く50分弱の生命史か?
伝統の継承と、驚くほどにパワフルな革新。本盤を聴くと、「テナー・タイタン」の称号はJBLことジェームス・ブランドン・ルイスにこそ与えられるべきではないかと思わせられてしまう。そしてジェイミー・ブランチ。間違いなくかれらの時代である。
シカゴの昇龍デイヴ・レンピスが、タシ・ドルジ&タイラー・デイモンと共に生み出した“雄弁な沈黙”
弦。ひたすら弦の響きに飲み込まれるようにして聴く音楽だ。
一噌幸弘がふたつのセシル・テイラー追悼作を出した。それらは、同じ時代と場所を共有した者として、一噌自身が現在のフリージャズを鮮烈に提示した作品となっている。
MAD-KABは基本的に石渡明廣(g)の曲を石渡の想うように演奏するグループ
「即興とはなにか」という問いへの返答が等しいウェイトで偏在する、11編の対話の記録。
ギタリスト加藤一平のリーダーバンド「鳴らした場合」の1stアルバムは、新鮮な郷愁の満ち溢れる、優しくバグった世界。
ピーター・エヴァンスが、韓国のスンジェ・リー・トリオに客演した旧交温めるセッション
即興ジャズの熱気とも、クラシックの厳格さとも異なる、知的な遊び心に満ちた実験精神は、室内楽的ハードコアジャズとでも呼べばいいだろうか。
サックスとパーカッションで太古の洞窟で演奏する試みは、命をかけた馬鹿げた挑戦などではないが、このレコーディング作品のキーワードが<生命>にあることは確かである。
インテンポでの高速のスイングは “SABU”の大きな魅力の一つでありサックス・トリオの導入部としては正にパーフェクト。
名古屋の異端サックス奏者柳川芳命と大阪のパンク・ドラマー藤田亮。何にも頼らず自分のスタイルを創り上げる無頼派同士の初のデュオ・アルバムには、即興演奏の彼方を目指すエネルギーが溢れている。
フリージャズやマッチョ性といった既存の制度への収斂から逸脱し続けるマイケル・フォスターとベン・ベネットとの注目すべきデュオ、3作目。
堅いトリオは揺るがない。確固たる3人による、確固たる音楽である。だが、これは硬直してしまった古臭い音楽では決してない。
音色に対する常ならぬ追求をみせる、ジョー・モフェットのトランペットソロ作品。
この1作を聴く機会に恵まれて、初めて宮嶋みぎわという名の作曲家を知り、その作品にアプローチする幸運を得たことを改めて感謝したい。
幕開けの「ファシネイティング・リズム」にノックアウトされた。いや、圧倒された余波で思わず ”ブラボー” と叫ばずにはいられないほどの感動の波に襲われた。
欧州のジャズ大国オランダの新進で、ネオ・ハード・バップを身上とするオーセンティックなラッパ吹きだった。
板橋文夫の発想が突飛で奇想天外、思わず聴く方も手に汗を握り我を忘れる。
その彼がカルテットでのライブ。私は山内のフリージャズを初めて聴いたように思う。トラック4が特にそう思えるし、このアルバム内でもベストだ。
一曲目「月食の夜」が圧巻だ。タイトルチューンにしたのも納得する。ベースの紡ぐ網目に管楽器各自の伸びやかな音(と声)が絡まり合い、風通しが良い景色が見える(蓮根だから穴があいている?)。
2006年7月19日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場でのピアノソロコンサート。キースは「ヴェネツィア・ビエンナーレ」音楽部門での金獅子賞受賞しており、そのお祝いとキースの健康と長寿を祈るリリースと推測される。アンコールでヨーロピアンカルテットの<Blossom>が演奏されていることにも注目だ。
イタリアのテナーサックス奏者、Edoardo Marraffa による18年ぶりの無伴奏ソロ作品。マルチフォニックを駆使しつつ、荒々しくもナイーヴで、抒情的でありながらも勇壮な音と演奏に円熟を感じる
待望の初来日ツアーを終えたピーター・エヴァンスが、本誌 No. 245 の来日直前インタビューで予告していた新作4枚を、彼の主宰する More is More から同時リリース。本誌でも4作品を同時レビューする。
ブルックリンを拠点に活動するトリオのデビュー作。伝統のトリオ編成に現代的感覚を備えた、個性的かつ印象的な小品集。
エヴァン・パーカー、エリアーヌ・ラディーグ、サルヴァトーレ・シャリーノ、DJマグス、ウィリアム・バシンスキー、アルヴィン・ルシエ……。これらは本作の「謝辞」に掲げられた音楽家の名前である。
今は亡きシュールレアリズム詩人の生前のポエトリー・リーディングと今を生きる前衛ジャズの共演は、ビート・ジェネレーションの血が受け継がれる西海岸の即興シーンの豊潤さの証である。
サックス/ギター/ドラムによる重金属&変拍子&前衛ジャズが、ウェストコースト・アンダーグラウンドの雑食性ハイブリッドの優位性を証明する。
ここでの廣木はこの高柳のコンセプトを継ぐクール派としての面目躍如で、渋谷を相手にクールにスイングし、新鮮である。
今、最も注目すべきイスラエル出身31歳のピアニスト、シャイ・マエストロの待望のECMデビューリーダーアルバム。あふれるアイデアを持つ若き才能がマンフレート・アイヒャーとの出会いで創作の転機を迎えた。
ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラの活動と同時期に吹き込まれた、ピアノ表現の可動域をダイナミックに拡張させたデュオ作品。
19世紀の初めにシェラレオネからキューバ農園に連れてこられた、一人のキューバ黒人奴隷の物語を描いた叙事詩的ジャズ組曲。
アルバムは一言でいえば“キューバン・ガイ(キューバ人)・インNY”といった趣きの作品で、その楽曲のどれもが土の匂いを漂わせながらも都会的(NY的)でもある。
ポスト「メアリー・ハルヴァーソン」、ジャズギターの新星によるデビュー作。ハルヴァーソンとは異なる個性の発展を期待させる。
逸脱を極めれば極めるほど、古典や伝統への親和性が高くなる。異才ギタリスト、パク・ハンアル率いる無名の小惑星の名前を持つトリオの演奏は、まだ誰も提唱していない「特殊逸脱性理論(Special Deviation Theory)」の確立なのかもしれない。
山田唯雄の素晴らしい点は、何と言っても、芯のある美しい音。その美しい音をダイレクトに捉えた録音の良さも特筆すべきだろう。
彼らは何も声高に「これが俺のジャズだ」とは主張しなかった。彼らの存在自体がジャズの現在形だった。彼らはことさらにフリーであることを主張しなかった。
ALM盤とは違った側面を見せる今回のアルバムは、今後ALM盤と対をなすアルバムとして後世の記憶に残って行くのではないだろうか。
NY在住のヴォーカルインプロヴァイザー、コンポーザーの北村京子がリーダーを務めるカルテット「Tidepool Fauna」のデビューアルバム。言葉を排した北村の「声」を起点に、モノクロームの夢境を彷徨うような玄妙な美しさが作品全体を透徹する。
そして、あたかも荒野の向こうから座頭市がのそのそと歩いて来るような、映像を想起させる演奏。いきなり、抜き身を構えた連中が襲って来る。しかし、十秒もかからず、皆倒されてしまう。
一聴、その音楽に驚嘆し、多様式主義だのポストモダンだのと言葉を探したり、ゲーム、アニメの音効を思い出したり、落ち着いた顔で内心慌てている。
Untamedと言うのは、野生の、という意味になる。やはりサファリなどアフリカをイメージした曲なのかも知れないが、『Afrodeezia』に収録されているようなルーツ色は薄く、自然にバックビートでグルーヴする曲、なのだが、初めて聞いた時一体この曲はどうなっているのかわからなかったのだ。そんな曲はこのアルバムを通してこの一曲だけであり、即座に楽曲解説の題材にしたいと思った。
曽根麻央という演奏家がピアニストとして、同時にトランペッターとして、かつ作曲家として、新しい音楽家像を作り上げる期待に胸躍らせる無二の新鋭として登場したことを喜びたい
ウェストコースト・アンダーグラウンドのオリジネーターのひとつロヴァ・サクソフォン・カルテットの40周年記念アルバム。コンポジションにフォーカスし、円熟と野心に満ちた、次の10年への所信表明といえる渾身作。
ロッテ・アンカー、モリイクエ、田村夏樹、そして藤井郷子。あまりにも個性的な音楽家の演奏が、見事な手腕により作曲作品として噛み合って、優れた舞台を観た後のような印象を残す作品。
台湾の雄・謝明諺(シェ・ミンイェン)が、豊住芳三郎、李世揚との即興セッションを行った。極めて自然に汎東アジア的な音の物語を提示してくれるアルバムであり、三者の異なるバックグラウンドや経験を反映してか、サウンドは天地のあちこちをさまよい、そのつかみどころのなさがまた大きな魅力となっている。
ブライアン・キュー、クインシー・メイズ、マーク・バリクによる鮮烈な初リーダー作。曲のひとつひとつが夢、あるいは映画の忘れがたい断片を想起させるように聴こえる。夢の世界を彷徨うようでありながら、音要素の数々は奇妙にリアルに迫るサウンドである。そのギャップが、音楽を開かれたものにしている。
恐らくコルトレーン本人はお蔵入りさせるつもりだったのではないかと思われるレコーディングが発掘された。筆者にとってコルトレーンとは何だったのか、ということに触れながら、先行公開された第一トラックを解説。ビ・バップのフレーズを否定し、4度飛びとペンタトニックなどのフレーズを開発したコルトレーンに焦点を当ててみた。
こうしたピットイン育ちが集ってのこのアルバムからはピットインの音が聴こえてくる。
この不動にして強固な5人の漢達による、ラテン・ジャズ・ユニットとしての抜群の“絆”は今作でも健在、自在にして闊達・洒脱なラテン・ジャズのエッセンスを開陳し、聴くものを心地よく悦楽の世界へと導いてくれる。
メロディのもつ含蓄、演奏者の表現力、時の移ろい、雨や夢などの言葉が放つイメージの連鎖が結ぶ像には、粋とメランコリーがバランスよく結集している/The connotation of the melodies, the musicians’ expressiveness, passage of time, and a chain of images unleashed by such words as rain and dream; in a picture connected by all these elements, stylishness and melancholy are brought together in good balance.
NY即興シーンを代表する二人の音楽家の初デュオ作品は、大胆なスタジオ・ワークを駆使して、即興音楽の先にある異端世界を目指す問題作。
ピーター・エヴァンスとコリー・スマイス、90年前の歴史的デュオへの“返歌”
フリージャズや即興音楽に限定されない活動を貫く二人の個性派アルトサックス奏者、望月治孝と川島誠のスプリットLPがフランスから登場。
個性の方向がそれぞれまったく異なる傑出した3人による成果。楽器間の権力構造や、演奏内での中心と周縁といった構造を排することによって、他にはみられないトリオ演奏の形を提示している。
パトリック・シロイシ、ロサンゼルス在住の日系四世。驚くべき個性を持ち、響きを追究してやまないユニークなサックス奏者である。
来たる6月15日に発売されるロバート・グラスパーのスーパーバンド、R+R=NOWのデビューアルバムから、シングル先行リリースされた1曲を解説。テレース・マーティンやデリック・ホッジなどの個性の強いアーティストたちとの巧みな共同作業や、グラスパーがいかにマイルスなのかに焦点。
そのどれもよく出来た楽曲といっていいが、それ以上にメルドーが何と故エルモ・ホープと故サム・リヴァースの作品を採りあげて演奏したことに感激した。
公演を終えた3人があらためて録音し再構成したのが本アルバムで、芝居と台詞から離れ、または舞台を思い出しながら、オーランドーの旅をアンビエントなサウンドの中で自分が主人公であるかのように辿ることができる。
ジャズはもちろんすべての音楽表現の先の先を追い求めるクリス・ピッツィオコス・ユニットのスピード感に満ちた新作は、世界と音楽の終末観を突き破る銀の弾丸である。
ノー・インプット・ミキシング・ボード奏者フィリップ・ホワイトと即興サックス奏者クリス・ピッツィオコスのデュオ第2弾。ノイズとメロディの二つの音の位相が絡み合い、未開の表現領域に肉薄する鮮烈なドキュメント。
シカゴのライジングスター・ピアニストによる、脳の快楽であると同時に身体に響くライブ集成
オーストラリアの現代音楽演奏家たちによる格調高い「フリージャズ」
アルバム自体の出来は圧倒的にエリングの『The Questions』の方に軍配が上がるが、カート・エリングのヴォーカルに焦点を絞って評価を下せば、ことに新たにエリングのファンとなった方ならブランフォードの『アップワード・スパイラル』にもぜひ耳を傾けていただきたい。
2016年11月、ベルリン・ジャズ祭でのグローブ・ユニティ・オーケストラ50周年記念コンサートのライヴ盤。これは歴史に残る作品である。
しかし、この「オーケストラ・ニューヨーク」の面々に、3.11の向こうに9.11が、そして、チェルノブイリ(86年)やスリーマイル島(79年)もイメージされていたとしてもおかしくはない。
30年の沈黙ののち再び活動を始めた異端の女性シンガー、パティ・ウォーターズが盟友ピアニスト、バートン・グリーン等と繰り広げた最新ライヴ音源。「伝説」と言う過去の亡霊を吹き飛ばす迫真性に満ちている。
ジミー・スミスから続くジャズ・オルガンの本流、源流を辿りながら研鑽を積み現在に至った土田の現時点での成果を堪能した。
北澤のマリンバ、ゴメスのベース、北條などのアレンジ、それぞれが抜群な冴えを示し、この3つの要素が見事に相乗された、“超ジャンル”とも言える魅惑的な“クラシック・ジャズ”の世界。
プリエトのアレンジはアンサンブルとソロとを区分けせず、両要素が対峙し合ったりしながら溶け合っていくプロセスを打ち出してクライマックスを演出している点が実にユニークで、彼の豊かな才能と人間味に惚れぼれさせられた終曲であり、アルバムであった。
最初は仰天するほど驚いたが、現在ではまた来たなという感じ。先に紹介した『ソロ』が還暦記念『月刊 藤井郷子』の第1弾で、第2弾が『KAZE/Atody Man』、このオーケストラ ベルリンが第3弾ということになる。
どこを切っても唯一無二の音がする、際立って「個性」的なオーケストラサウンドである。野生と構成との共存が見事であり、そこからはヨーロッパ的なものを感じ取ることができる。
アクセル・ドゥナー(トランペット)、ジャック・ディミエール(ピアノ)、ヨナス・コッハー(アコーディオン)、3人の頭文字を並べてDDKトリオ。卓越した技量と研ぎ澄まされた精神をもって繰り広げる即興演奏を通じて、常ならぬ音楽的要素に気付かされる。
気鋭のサックス奏者トラヴィス・ラプランテと、現代最高のドラマーであるジェラルド・クリーヴァーによる、聖性すら宿る「結晶」デュオ。
日本地下音楽シーンの個性派二人による音楽の消失した先にある表現の地平を垣間見せるミニアルバム。即興音楽の深みと味わいを強く感じさせる宝石の一枚。
札幌出身、ドイツ在住のシンガーソングライター NILO の最新作。都会の日常に寄り添う切なく優しい歌詞とメロディー、美しく緊張感のあるサウンドの対比と融合が素晴らしく心に沁みる。
最初筆者があまり得意でなかったキースのこのトリオ、彼は1988年に病に倒れ、2年間の療養の後グルーヴ感をすっかり変えた。それを記録する貴重なアルバムがこの『After The Fall』。この「スタンダーズ・トリオ」のタイム感のすごさを解説。加えて、名曲<Old Folks>での、キースには珍しい彼のインプロの垂直アプローチを掘り下げてみた。
まさにあのセロニアス・モンクが突如、現代に甦ってきたことを実感させる、素敵なアルバム
音楽シーンの「はぐれ星」であるレント・ロムスとライフス・ブラッド・アンサンブルの最新作は、「JAZZ」という伝統的なスタイルに秘められた無限の可能性を探索するピュア・ジャズの意欲作である。
Nobieを象徴し、3カ国3人のご機嫌過ぎるギタリスト、リオーネル・ルエケ、トニーニョ・オルタ、馬場孝喜との素晴らしいセッションを集約したのが本アルバムだ。
これまで、挾間の編曲プロジェクトよりも、自身のm_unitで演奏されているようなオリジナルをもっと聴きたいと思って来たが、挾間がジャズの古典に新しい生命を持たせる魔法もより楽しみになって来た。
二度とこの演奏には出会えない。この録音以外では。つまりこのライブが企画され、録音されていたことが、そしてこのように届けられたことが僥倖である。
CDを収めると辛島のポークパイ・ハットがCDで覆い隠される、グッドバイ・ポークパイ・ハット…合掌。
ことばを声に出すこと—詩が「うた」となる尊さを、最大限に掘り下げたアルバム。ときに囁くように、ときに演劇的な台詞回しで、ときに音塊と化したスキャットで、シラブルが、単語が、フレーズが、きらきらと輝いて飛躍する。/ Speaking words out loud and then turning poetry into song; this album delves deeply into such precious moments. Sometimes whispering, sometimes with dramatic elocution, or sometimes in scatful bright clusters of sound. Syllables, words, and phrases dazzle and leap.
華々しいキャリアを誇るジーン・ジャクソンが、遂に初リーダー作となるピアノトリオ盤を出した。これまでのジャクソンの参加作よりも、ドラマーとしての傑出した個性を前面に押し出しており、非常に聴き応えがある。
Christian Lillinger 率いるオールスターグループの最新作にして、レーベル設立第一弾。一曲一曲が奇妙な小宇宙である全編にわたって、彼の美学とスネアドラミングが行き渡っている
無言歌がロマン主義の賜だとすれば、『For 2 Akis』においては、まさにどの曲もネオロマンチシズムの情緒に満ちあふれている。いや、過剰とさえ思える程だ。
このトリオ、ドラムのかわりにチェロを入れたことによりエネルギーのバランスがソフトになり自然で一体となって溶け込んでいる。
『For 2 Akis』は、ECMと日本を巡るさまざまなストーリーの広がりと収束を秘めた特別なアルバム
“In memory of John & Kenny”—−このアルバムは、ジョン・テイラー(1942年9月25〜2015年7月17日)とケニー・ホイーラー(1930年1月14日〜2014年9月18日)の思い出に捧げられている
地獄から復活したクラリネット奏者ピーター・キューンの活動の核を成すトリオの新作にあふれる無為自然の意図は、レント・ロムスと共振する西海岸即興シーンの奇跡的な超越的集合体を産み出した。
姜泰煥ほどポリフォニックな奏法を駆使するサックス奏者はいない。独特な音の上下動で表出されるダイナミズム、そして繊細な表現から導き出される叙情性といい、本盤は姜泰煥の持ち味を見事に捉えている。
新作『Invisible Threads』8曲目以降の、孤独で切ないサーマンという被り物を脱ぎつつあるような美意識でもって、そうさなあ、2CDライブ盤を制作してみてはどうだろう
まあ即物的と言えば言えますが、ここまでのアナログ・サウンドを今、どれだけの人がやれるでしょうか。
石田幹雄の「真骨頂」をとらえた、待望のソロピアノアルバム
教会オルガンの音色が必然的に持ってしまう文化的な文脈、その抑圧といったちからとの相克、サン・チョンとダウンズが創ったこのサウンドを聴くわたしたちリスナーは試されているようだ、
復活したピーター・キューンによる、「因縁生起」という名のスペクタクルなフリージャズ。
ベルリン在住の奥田梨恵子によるピアノソロは、フィードバックの偶発性を意図的に利用し、トーナルなものを執拗に追及した、驚くべき作品である。
「天音」は、実はお酒の名前でして、この音楽を聴かせながら発酵したという代物。
根底にある二人の心根の優しさが時を越えてありのままのエモーションを語りかけてくる。
福盛進也のドラムワークは、法王ポール・モチアンの系統を強く感じさせるものでもある、そこがこのアルバムに耳をそばだてる強い引力になっている、
コルトレーンのバラードは優しく空間を包み込むように広がりを見せるが竹内直のバラードは前へ前へと直進してくるようなリアリティ、切実さがある。
『The Expedition(探検)』というタイトル通り、レント・ロムスたちの音楽探検の旅が記されたたサンフランシスコ・シーンの息吹を感じる最高のドキュメント。
JBLとチャド・テイラー。さまざまな活動によって暴れてきたふたりのデュオは、意外にもジャズ回帰であった。しかし、それは、極めて野心的で骨太なサウンドである。
アムステルダム在住ブラジル人リード奏者 Yedo Gibson と、バルセロナ在住ポルトガル人パーカッショニスト Vasco Trilla による、コスモポリタン・デュオユニットの第2作。Yedo Gibson の“あれ”に心奪われる。
フランスのトリオによる『白鯨』をテーマとした音楽劇。人間とモビィ・ディックの描き方の対比が趣深い。
「ノイズを食う怪物たち」3人による、ロックやフリージャズやファンクを取り込んだ楽しき即興音楽
地下音楽のカリスマ灰野敬二とトルコのオーガニック・ミュージック・コンボ、コンストラクトの共演は、二つの世界の境界を滲ませる灰野哲学の伝承である。
灰野敬二とUK即興サックス奏者ジョン・ブッチャーの共演ライヴ・アルバム。タイトル通り『眩しからぬ光』が両者のコラボの変化と発展の動機/要因/目的/希望である。
ピアニストの田中鮎美がサウンドに新しい重力をもたらしているようだ、
井上陽介と高橋信之介が聴いているこちらにはあたかも黒子に徹してプレイしているように見えながら、その実、トリオとしての音楽的展開の中枢をにない、大西との会話をスムースに運ぶ役割をも果たしている点で、今日の本邦を代表する屈指のピアノ・トリオであることを私は再確認した。
前作と合わせて聴くと林の円熟、メンバーの変遷などをへて「ガトス」が林のワークショップとしての爆発力、集中度、洗練度が磨き練られた一つの着地点と云える。
結成から20年を迎えたサンシップ。いまも変わらず人間の熱い音を聴かせてくれる。
サンフランシスコのサックス奏者レント・ロムスのレギュラー・グループ「Lords of Outland(ガイキチ君主)」の最新作。西海岸の緩やかな共同体は音楽の精神的治外法権を志向する。
ジャケットのアイスクリームのようには甘くない。が、とびきり旨い。シカゴ新世代テナーサックス奏者によるパワフルなフリージャズ。
鬼才レント・ロムスが長年率いる「Lords of Outland」の最新作は、おもちゃ箱のように楽しいもの面白いものを詰め込んだ、10編のポップなサウンドアート
『板橋文夫+結/謡文』(MIX DYNAMITE 2017)で民謡と板橋ミュージックを合体、類例を見ない世界を築き上げた。
三者三様のベストプレイが炸裂するこのアルバムを聴いていると、世界の中心で“ジャズ”と叫びたい気持ちになれる。
ぼくらは歌ではないから器楽用に挑戦的なアレンジも施したりしてますが、でもやはり基本はボストンのあの空気感を録りたかったので別段複雑にしたつもりもありません。
叶わぬ過去、光明への助走期のような現在、未知の世界へのイマジナティヴな眼差しなど—こころの春秋がページを繰る毎に木漏れ日のようにたち現れるソング・ブック。/ This album is a songbook that the spring and autumn of one’s heart — unfulfilled past, run up period towards a bright future, imaginative look at an as-yet-unknown world— appear like sunlight filtering through the trees as the pages are turned by.
ドイツ出身のギタリスト、即興演奏家、作曲家Hannes Buder の新プロジェクト。ここで彼はギターではなく、チェロのみを弾いている。弦の響きが時の経過とともに織りなすドラマ性、時に荘厳さすら感じさせる幽玄美の中から、うっとりするような彼特有のリリシズムが透けてくる。
通して聴くと72分41秒、『TAMAXILLE/Live at Shinjuku PIT INN』は(本田)珠也のリズム、4人のスイング感、グルーヴが全てで、かくしてピットインの夜は更けてゆく。
“即興の創造的な強靭さ・歴史・一期一会を共有する人々を橋渡しする”プロジェクト『Deciduous(落葉)』は、森の中の精霊を創造の種とする即興演奏のルーツを復興する試みといえよう。
エイブラムスが残したデュオ作品のなかでもひときわ独特な魅力を持った作品。
「即興とソング」をテーマに活動する世界随一の雑食性バンド、ヒカシューの23枚目のオリジナル・アルバム。結成39年目にして創造力の極みを更新し続ける彼らに、注目の若手サックス奏者クリス・ピッツィオコスをはじめとする個性派ゲストが加わり展開されるサウンド・ワールドは、迷える現代人への黙示録である
シーネ・エイのジャズ・ヴォーカルの実力と魅力を味わい尽くせる素敵な新作であった。バックのセンスのいいプレイをも称えたい。もっと人気が出ていいシンガーだ。
公演チラシを2枚、この過剰な形容にわたしは大いに納得している、
ロシア・サンクトペテルブルクを拠点に活動するジャズ・ロック・バンド、Kubikmaggiによるサード・アルバム。上原ひろみを思わせるプログレッシヴ・ジャズ・ロックな音像に、フリー・ジャズや音響派の要素も入り混じった内容で、職人技の生演奏による折衷主義の極北をいくような音楽だ。
ノルウェーのグループNakamaのベーシストとしても知られるクリスティアン・メオス・スヴェンセンによる新作は、アヴァンギャルドかつエクスペリメンタルなこれまでの彼のイメージの斜め上をいくような、極上の「歌もの」に仕上がっている。スヴェンセンの関心領域の幅広さと音楽的能力の高さを知らしめる傑作だ。
ノルウェー・オスロを拠点に活動する四人の若手即興演奏家によるセッションの記録。活発化するノルウェーのインプロ・シーンの現在を伝える必聴のドキュメントだ。
伊藤志宏のピアノは美しい。音が違う。ジャズだのクラシックだのといったジャンルの分化以前に、「ピアノ弾き」たる者なら誰もが憧れずにはおれないが、到達できる者はごくわずかの天賦の領域。/ Shikou Ito’s piano is beautiful, the sound is simply different, and his lightning fast direct connection of brain and fingertips creates a dewdrop-like transparency. Before differentiating into the jazz or classical music genre, anyone who considers themselves a “pianist” has no choice but to admire this kind of playing, and acknowledge that only those belonging to a narrow realm of natural talent can attain such heights.
本作『グノーシス』は源泉『エムボコ』をECM的カレードスコープ化した作品に思える、クラシックのマーケットに並べられてもいいような構成感覚もある、
「ベース奏者によっていかにレベルが上がるものか」と形容できるベーシストはジャズ史において、スコット・ラファロ、ゲイリー・ピーコック、トーマス・モーガンだけです、
だめだ、なみだで目が見えない、フリゼール、お前、わかってるじゃねえか、うううっ、作曲したモチアンがよみがえってくるぜ、その心意気、しかと受け取った、
チェス・スミスはトランス状態になってはいないか?いつの間にプロデューサー席から怪人デヴィッド・トーンがそこに現れているではないか、
このCDは、非イディオマティックな即興演奏という、音楽生成のあり方において最上の記録のひとつであることは論を待たない。それを理解するには、聴くという方法以外には無い。
自他ともにマイルス・フリークとしてしられるヒロ・ホンシュクであるが、本アルバムではさらに飛躍してジョージ・ラッセル(p,comp,arr)、マイルス・デイヴィス(tp)、ビル・エヴァンス(p)そしてヒロ・ホンシュク(fl,EWI)がサイクリカルに巡っている。
ジャンルやスタイルに回収できないニューフェルドの音楽は、決して聴き易いものでもなければ、わかり易いものでもない。しかし、そこに定着された、潜勢や気配から発すべき音を掴み取り、無から有へ跳躍するその瞬間の生々しさには抗し難い重力、強度が宿っているのだ。
静と動、ダイナミックとフローティング、めっちゃカッコいい表題曲「Far From Over」、ジャズイズカミングバック!
伸びやかなトランペット・トーンの陰影を含んだECM独特のヨーロッパ詩情、これに尽きる名盤だ、
北欧から登場したネオ・ハードバッパー、コルテックス。政府の援助を受け、自ら前衛を名乗り、往年のフリージャズを装いながら、シーンの内側から革命を模索する音楽闘士が奏でる『アヴァンギャルドなパーティ・ミュージック』は新たな創造性へのプロテスト・ソングである。
2004年から活動を続けるアヴァンユニット・Talibam!の新作2枚。仮想のSFサウンドトラック、サイケデリックなロック。まるでタイプの異なることこそ彼らの真骨頂か。
そんな新しいリズムの探求に貪欲な若い世代のジャズ・リスナーにとっても、この本宿宏明(ヒロ・ホンシュク)が提示する“New Kind Of Jazz”は相当刺激的に響くはずだ。
永遠の師マイルスの “常に新しい方向に進め” という教えをモットーに、ヒロとそのバンドは “今までに聞いたことのないグルーブ感”、すなわち21世紀型のハイブリット・ミュージックを探求、その創出・深化の過程にある。
ウェルメイドな楽曲を手がけるギタリストが数多くいる現代のジャズ・シーンのなかで、演奏家としてオリジナルな響きを生み出すことのできるミュージシャンはほとんどいないように思う。
姜泰煥、高田みどり、佐藤允彦による唯一無二のグループ、トン・クラミ。22年を経て陽の目を見る圧倒的な演奏である。苛烈なエネルギーを放出した『In Moers』よりも多彩であり、ショーケース的な『Paramggod』よりも一期一会の迫力に満ちている。
即興演奏、いやアジアのコンテンポラリーな音楽の新たな地平を拓いた歴史的なユニット「トン・クラミ」(姜泰煥、高田みどり、佐藤允彦)のライヴ録音がCD化された。
マックス・ジョンソン、クリス・デイヴィス、マイク・プライド、スーザン・アルコーンという傑出した四者が、別々のタイムフレームを持ちつつも同じ時空間を共有しているかのようなサウンド。ジョンソンのウォームなベースはその中で見事に浮かび上がっている。
フォーキーなテイストからソウルフルな歌声までを自在に操ってみせるインド出身で日本在住のヴォーカリスト、ティーによるデビュー作。
インプロも含めすべてのパーツが「あるべき音」としてぴたりと収まる完成度の高さと、あらゆる楽器を受け入れてしまいそうな懐の深さが同居、ライヴでのハプニングが楽しい所以だ。/ Including rich improvised parts, a high level of completeness in which all the fragments precisely fit as true sounds is combined with a deep acceptance of every instrument; this is why their spontaneous live show is such fun.
アルトサックスの柳川芳命とドラムスのMegによる独創的なデュオ、その区切りとなるライヴ盤。
ノルウェーのグループNakamaのドラマーを務めるアンドレアス・ウィルトハーゲンらが率いるバンドAkmeeのファースト・アルバム。
黛敏郎が16歳から36歳までに作曲したピアノ曲の世界初録音。1945年から1965年という戦後20年間の日本を背景に、かくも芳醇な音楽が湧き出ていたことに驚く。/ This album is the world’s first recording of piano pieces composed by Toshiro Mayuzumi. All the pieces were written over 20 years from the age of 16 to 36, and it is surprising that against this background starting from 1945 post-World War II Japan, such well-mellowed music was bubbling forth.
若き鬼才クリス・ピッツィオコスを擁するNYハードコア・ジャズの個性派カルテットの企みは、無垢な時代のフリージャズ・スピリットを取り戻し、ミニマリズムに接近したストイシズムによる新時代へ旅立ちである。
ある意味、このカルテットはよく鍛えられた「デュオのデュオ」と言えないだろうか。
特異なアルト奏者・川島誠。自己の裡にある他者との対話により、あるがままを表現する。
土着の音楽の憚らぬ喜怒哀楽と、同時に追求される「表現すること」の究極形—その軌道が高次元で交わるトータル・ミュージックの一つの到達点。刹那の振動をも決して逃さぬレコーディングの技倆はもとより、制作サイドの澄み切った感性も結実している。/ We find the unhindered human emotions of indigenous music and the ultimate form of the necessity “to express” concurrently sought; this work is a height of total music in which these orbits intersect in higher dimension. The recording techniques, which never miss a single nuanced moment, and the perfectly clear sensitivity of the production-side completes the successful fruition of this album.
アルバム全体が人生行路を現しているように起伏に富み、互いのシーンが有機的に連なってゆく。そういう意味での『Concentric Circles』であり、曲ごとにダウンロードする聴き方がそぐわぬアルバムだろう。ベース・ソロによる終曲は、生の手触りへの賛歌であり、生活感情が失われた現代においてことさらに哀愁を帯びて心に残る。/The whole album is full of ups and downs as if representing life’s journey, and mutual scenes are organically strung out. In this sense, it is truly a matter of “Concentric Circles” and it is an album that downloading individual pieces and listening will not suit. The final piece played with a bass solo is a paean to the touch of life, and tinged with the sadness found especially in modern times where the joys and sorrows of everyday life have been lost; it lingers on unforgettable in the listener’s heart.
タイトルの『ザ・ドアー』は、彼がこれから開こうとしている“扉”の様だが、その新たな“扉”の向こうには、ジャズ・ファンをコアにより広範なリスナー層が広がっているのか…。
コンセプトの目新しさ云々を問う以前に、真のヴィルチュオズィティとは何かをこれほど端的に体現するアーティストは稀である。/ Before discussing the novelty of a concept and so on, we need to define what is a genuine virtuoso performance, and appreciate that a musical wizard, such as Nabatov, who clearly embodies mastery of his arts is rare indeed.
高柳昌行との出会いでギターを弾き続ける人生を選んだ今井和雄のエッセンスが集約された初のギター・ソロ・アルバム。即興音楽の極北を歩む不屈の魂は、心浮かれる村の鍛冶屋の槌音と同質である。
ヨアヒム・バーデンホルスト率いるカラテ・ウリオ・オーケストラは、コスモポリタンの音楽、雑踏の音楽、手作りの音楽である。
さすがはカルロシュ・ズィンガロを筆頭としたポルトガルが誇る百戦錬磨の面々、西洋の括りを超えるフォーキーな旋律、幾重にも折り重なるミニマルなフレーズや同音連打からは抽象のマグマが押し寄せる。/As heard in the folksy melodies beyond categories defined in the West, and the several minimal phrases layered one on top of another along with repeated notes, abstract magma is surging forward.
ローレン・ニュートンとスイスの二人の若手ゼバスチャン・ストリニング(ts, bcl)とエマニュエル・クンツィー(ds)との「ブラインドフラッグ(盲目的飛行)」というバンドによる全編即興演奏。三者の交歓は、バンド名さながらに未聴のサウンドへの探究心に満ちている。
全コラム# 51, マット・ケインとカンザス・シティ・ジェネレーション・カルテットのメンバーの一人、ハーモン・メハリが新アルバム『ブルー:Bleu 』をリリースした。
カンザス・シティ期待の星、ハーモン・メハリにその後の活動の様子や新アルバム『ブルー:Bleu 』について聞いてみた。
そのほぼすべてに岡部の ”ディスオリエンタル” 意識が反映されていて興味深い。
故人をしのぶような湿っぽい演奏ではなく素材としてミシャの作品を取り上げたもので、ミシャのちょっとひしゃげたような皮肉交じりのユーモアとは一味違った明るく華やかでスインギーなものになっている。
即興演奏から作曲作品へと進化を続けるNYシーンの若き戦士クリス・ピッツィオコスが、2作目のサックス・ソロ・アルバムを発表した。これまでの過激なインプロヴァイザーのイメージとは異なる、知的で静謐なサウンドを聴かせてくれる。タイトル通り「豊潤な音楽への愛」に溢れた新境地。
自由奔放、縦横無尽、時にリリカルに響くこのトリオは、マニュエル・ヴァレラがキューバ出身という枠をはるかに超えて、現代ニューヨークのベスト・トリオの一つであることを高らかに宣言した。
堂々としたプレイでメインストリームを歩むJBL。ヒップホップやソウル/R&Bと共存しストリート感覚が爆発した素晴らしい作品である。
硬い事は考えずに、楽しくスイングするジャズを聴きたければ、これを選べばモンクはない。
これは伝統と化したオランダのコンテンポラリーかつコンサーヴァティヴなジャズの姿だと思い、存分に楽しめば良い。ミシャの名を知らぬ人達も一緒に。涙を流す必要など無いのである。
私はこのアルバムに対して極めて「不安な希望」を持っている。
ニューヨークの即興・ジャズシーンにおいて、多面的な活動を続けるブランドン・シーブルック。悪夢的で不穏、また愉快でもある騒乱は聴く者の記憶に刷り込まれる。
過去の名作のパロディを隠れ蓑に、アヴァンギャルドなプレイを繰り広げるベーシストのモッパ・エリオットが率いるユニット、モストリー・アザー・ピープル・ドゥ・ザ・キリングは、結成13年目を迎えて意気軒昂な活動を繰り広げている。10枚目のアルバム『Loafer’s Hollow』では、20世紀文学を代表するアイルランド出身の作家、ジェイムス・ジョイスや、現代アメリカの作家たちに捧げられた5曲の文学組曲が、アルバムの中核をなしている。リーダーのモッパ・エリオットは、1930年代のスウィング・ジャズと20世紀文学の融合を現代の視点から図るという、壮大な実験を聴かせてくれた。
セファルディの音楽、カーボヴェルデの音楽、エーゲ海の島々にある歌音楽。日本ではなかなか聴く事の出来ないこれらの音楽を知るきっかけとして、リラックスして鑑賞する事の出来るアルバムではないだろうか。
イオン・トリオによる最初のアルバム『エレジー』では、多様なジャンルの先行者たちの楽曲に範を取り、ジャズの歴史とクラシックの歴史が〈ECM Records〉において交差したところの影響を汲み取りながら、しかしこの三人にしかなし得ないローカルな音楽として結実している。
日本の地下音楽を世界に広めたPSFレコードの最後の作品。22組のアーティストが未発表・新録音トラックを提供、トータル150分を超える大作。スタイルも方法論も録音状態もバラバラながら、全体を曰く言い難いひとつのカラーというか香りのようなものが貫いている。それを言い表そうとすると「サイケデリック」という言葉が最も適切だろう。
蓮見令麻率いるピアノ・トリオによる最初のアルバムは、ピアノの奏法とインタープレイの在り方において菊地雅章からの深い影響を感じさせるが、その声の特異性においても響き合うものがある。それはピアノの旋律をなぞるときでさえ「うたい損ね」ではなく損なわれることのない「うた」そのものなのだ。
その結果、アルバム『The CONSCIENCE』はラザフォード、“SABU”豊住双方のソロ・アルバムでもあり、その上に二人のデュオが成り立っているように聴こえる。
稀に一期一会ともいえる貴重な出会いが音盤として日の目をみることがある。これはまさにそのような一枚だ。
後半、エレジーのリプライズからの4トラック、への展開が、特に素晴らしい、ブレックマンの声が躍動する、このセッションの熱気が一体化している到達、同じドイツのWinter & Winterレーベルから引っこ抜いただけある、
まるでアクローム絵画を見ているかのような音楽だが、この美的感覚を成立させている根底にあるものに同調できるか、あるいはこのような佇まいをした音楽を自分の生活空間にどう関係づける事が出来るか、
橋本孝之による26分間の即興、アルトソロ。これを聴く者は、異形生命体が生き延びんとするプロセスを幻視することになるだろう。
そして、このオデッド・ツールは、マーク・ターナーが拓いたマーケットを明確に狙っているサックスの鳴らしを武器にしていることは明白だ、
さて、これはジャズなのか? そうだ、まさにジャズなのだ。何故ならジャズとはハイブリッド音楽の意識であり、そして他のいかなるシーンもこういう音楽を産み出す事はなかっただろうから。
タイトルの『Decayed』は「腐った、衰えた」という意味だが、発音が同じ「Decade(10年間)」とのダブル・ミーニングであるのは間違いない。前作から10年後、2015年12月13日荻窪アケタの店での実況録音である。
DJ/プロデューサー/文筆家として多方面で活躍してきた大塚広子による、現代日本のジャズ・シーンを取りまとめたコンピレーション・アルバムの第三弾。『Jazz the New Chapter』シリーズがあえて取り上げることのなかった日本の現代ジャズ・シーンに触れてみるための、貴重なリアルタイム・ドキュメンタリー・アルバムである。
すでにいくつかのレビューで触れられているとおり、後期の菊地雅章の到達を、この蓮見令麻のピアノは備えている、が、
ピアノのティモシー・バンシェット(p)とドラムスのジェイミー・ピート(ds)はここ数年グレールムとのトリオのほかアムステルダムを中心に精力的に活動している若手で、二人とも楽器を鳴らし切っているところが好感を持てる。
成熟が内包するスリルと、決して飼い慣らされぬ気高さ。移ろう一瞬が遺す残像の数々に絡めとられつつ、「うた」が志向する極北のエレガンスが味わえる。It is purely the thrill contained in maturity and an untamed noble dignity. Captured by the numerous residual images left by each fleeting moment, the listener can only enjoy the ultimate elegance that the “songs” and performers aspire to achieve.
リスボンとバルセロナを股にかけるクァルテット。果てしなく続いていきそうな壮大なフリー・インプロヴィゼーションは、沈黙から爆音まで最大限の振れ幅でありながらも、緩みを一瞬たりともみせぬ頑健な構築力で無敵の存在感/Spanning the jazz scenes of Lisbon and Barcelona, this full-on quartet and their spectacular improvisations ranging from deep silence to roaring mayhem give the impression of a never ending river.
この『Daylight Ghost』の最大のポイントは、ズバリ、管のクリス・スピードの存在だ、このナナメになった棒読みトーンの官能だ、
『Mockroot』の世界に、耽溺したうえで、このピアノ・ソロ作品は受け止められなければならない。
借りパクも、剽窃も、孫引きも、ポップスの凶悪で生命線な力学である、これをジャズとして聴けるのかというと申し訳ないがまったくノーだ、
ティム・バーンの自己レーベル「スクリューガン」からリリースされるという事実、これが示すのはマット・ミッチェルの拒絶か、ECMアイヒャーの却下である、
さりげなく21世紀型つんのめるドラムンベーススタイルのタイコの叩きを添えているのも、「コレが新しいんだ、カッコいいのだ」と鼻につくところもない(とっても重要)、つまりは、スマートなのだ、
作曲の否定や即興の称揚というよりも、インプロヴィゼーションによって現れるだろうオルタナティヴな構造化――スポンティニアス・コンポージング――の探求。少なくとも本盤に残された有機的に発展していく「即興音楽」は、そうした行為のありようを物語っている。
その潔さとみずみずしさはジャズの本場からアウェイでいられることの大いなるプラスの面に違いない。
「ジムノペディ」についての謎はともかく、のっけからフル回転する狂騒のソロ爆発~立花秀揮(as)、石渡明廣(g)、山田あずさ(vib)~には久々に脳髄がほてった。
このアルバムでは全13曲を通し、”レベル8“(どうやらユニット名でもある様だ)に於けるこれまでの成果(そこには当然50余年に亘るギター人生も反映されているが…)を、無理ない形でしかもきっぱりと開示する。
「Overseas」シリーズ最新作。作曲の才能や、柔らかくも力強くもサウンドを駆動するベースプレイをみせるアイヴィン・オプスヴィーク。豊潤極まりない音色のテナーを吹くトニー・マラビー。フォークやロックの影響を織り込みながら、暖かく、ドラマチックな音楽を展開している。
アナット・コーエン(ts,ss,cl)、オメール・アヴィタル(b)らに続く、ニューヨーク・ジャズ・シーンを席巻する新世代のイスラエル出身アーティストの中心的存在のヨタム・シルバーステインの最新作。ジャズ、ブルースから、ブラジリアン、中近東音楽、フラメンコ、アルゼンチン、ウルグアイの音楽がブレンドされながら、ケニー・バレル(g)、ウェス・モンゴメリー(g)、グランド・グリーン(g)らジャズ・ギターのトラディションの王道を往き、レニー・トリスターノ(p)の音楽理論を踏襲したアルバムである。
35年ぶりに再発された地下音楽の極北作品。大音量のノイズ演奏と言えば高柳昌行の「集団投射」を思い出すが、NORDの轟音演奏の起伏の大きなストーリー性は、心の中のセンチメンタリズムの証に違いない。泣けるノイズは新鮮な驚きです。
ダーシー・ジェイムス&シークレット・ソサエティや、自己のグループ、テリ・リン・キャリントン(ds)のモザイク・プロジェクトで活躍する、イングリッド・ジェンセン(tp)と、カナダのマリア・シュナイダーと異名をとるクリスティン・ジェンセン(as,ss)の、姉妹の20年に及ぶコラボレーションは、ベン・モンダーが加わり、本作『インフィニチュード』で、新たなフェイズのスタート・ポイントに立った。
鬼才クリス・ピッツイオコスが率いるニューヨーク・ネオ・ロフト・シーンの猛者からなるCPユニットは、音楽的エントロピーの増大に深く関与する音楽を創造している。目指すは音楽の”終焉”の先にある甘美な風景である。
クラリネットとマリンバだけが作ることができる美しさと切なさが溢れる時間に浸り、日本的な風景と心を感じさせながら、甘い余韻とともにアルバムを締め括る。いや、マリンバ&クラリネットをもっと聴きたいという欲求を残されて困るではないか。
10人が10人、90歳を超えてこんなパンチのある溌剌とした声量で歌えるものかと誰しも怪訝に思ったのではないか。、実際、終盤になって熱狂的な大歓声の中で再登場したベネットは、彼の十八番といっていい「ザ・ベスト・イズ・イエット・トゥ・カム」や「霧のサンフランシスコ」などをいかにも喜びを爆発させるように歌った。
ジミー・コブが偉大なる先達から受け取ったジャズの伝統の松明が、コーエン、中村、ルイスへと手渡された瞬間が克明に記録されたドキュメントとも言える作品である。
あくまで五線譜との乖離において拡張/探索されているピアノそれ自体の可能性――それを聴くことはやはりどこか落ち着かなさを覚え、不気味であり、しかしこの上もなく美しい。
トータルで60分に及ぶ3トラックのインプロヴィゼーションだが、長さを感じない。精神と技巧、経験と天啓との幸福な結託の記録。デビュー盤とは思えぬ肝のすわった貫禄である。演奏家とエンジニアのふたつの視点をもつ近藤秀秋のサウンド・ディレクションも秀逸。空気を切り裂き、跳躍し、収斂していく夥しい音の生が鮮やかに浮かび上がる。
緊張、響きの美しさ、ユーモア、相互干渉と相互作用、音楽をなんらかの形にして提示せんとする「気」。強度の高い即興デュオ。
井上は昨今、大西順子トリオのベーシストとしても活躍しているが、最終曲では大西がゲストピアニストとして<Never Let Me Go>に参加、しっとりとしたバラードを聴かせる。
児玉 桃が紡ぎ出す18の音の小宇宙へ。
究極の音の領域に踏み込むECM第2作。
ひとえに言語や文化的な縛りを超えたところを、音符やリズムの型のその先にあるものを志向する、フィーリングへの徹底した求心性。プレイにおける即興的な醍醐味は少なくなるが、静謐さや削ぎ落とした美には共感する人は多いだろう。サウンドがシェイプされる毎に、モノをいうのはメロディそのものの強度である。
メーメトはこのアルバムを通して、西欧とイスラムが対立する中、それぞれ出自の異なるミュージシャンが出会い、トルコ(イスラム)の音楽とジャズの融合を通してお互いをより深く理解しあうことが大切であることをアピールしたいという。
聖地・高円寺グッドマンから現れたリード&ドラム・デュオによる叙情曲集は、パンドラの箱からフリージャズの精霊たちを解放し、ギミック無しの生のジャズのパワーを世に知らしめるパラレル・モーションである。
“Dr.Jazz”こと内田修先生の訃報と時を同じくして届けられた。岡崎市制100周年の記念事業として編まれたものだから、刊行が先生の死と相前後したのはまったくの偶然だろうが、先生はこの労作の完成を目にされたのだろうか。
フランク・キンボロウ(p)は、唯一無二の美しいピアノ・タッチとメロディ・センスで知られ、現代ジャズ・ピアノの吟遊詩人ともいうべきアーティストだ。本作では、カーラ・ブレイ(p)、ポール・モチアン(ds)、アンドリュー・ヒル(p)、アネット・ピーコック、マリア・シュナイダー(arr・comp.)ら曲をカヴァーし、自らの30年を越す音楽キャリアで影響を受けたアーティストをオマージュしている。恩師ポール・ブレイ、アンドリュー・ヒル亡き後、その遺鉢を継ぐことをフランク・キンボロウは、静かに宣言した作品である。
今年2016年7月8日に、東京・永福町にある残響の美しいホールsonorium で行われた、コントラバス奏者・齋藤徹のライブコンサートの録音。
NY即興シーンで切磋琢磨し、イギリスへ戻った即興音楽の求道家が放つ鉱物的サウンド・スカルプチャー。インプロヴィゼーションの極意は半人半獣の女神の微笑に包まれる。
ニューヨーク・ジャズ・シーンのファースト・コール・ドラマーのルディ・ロイストンは、セカンド・アルバムの『Rise of Orion』で、前作のメンバーのジョン・イラバゴン(ts,ss)と中村恭士(b)とのトリオで、スポンテニアスに凝縮された音世界を構築した。今のルディ・ロイストンの心の葛藤の中から生み出された、自らに誠実なスピリチュアルなサウンドが響き渡るスマッシュ・ヒット作だ。
ビリー・ハートとクリストフ・シュヴァイツァーのふたりに共通する美点は、そのツボを押さえた大局的な音楽展開はもちろんのこと、音楽の血であり肉であるソウルフルなフィーリングが極めて自然に湧出する点にある。切り口は知的で多彩だが、いかなる時も音楽としてブレがない。
名古屋を拠点に活動するアルトサックス奏者・柳川芳命(やながわほうめい、数年前に「やながわよしのり」より改名)による、2016年のパフォーマンス集。4つのパフォーマンスを収録、そのすべてが共演者違い。レーベルは柳川自身が運営する極音舎。
アルトサックス奏者・望月治孝による2016年発表作。同年、静岡江崎ホールを借り切っての録音で、アルトサックス独奏。
タイトルの『Dream Deferred』は、1951年に出版されたアフリカ系アメリカ人の作家、ラングストン・ヒューズの詩『Harlem』の一節から引用されている。ピーターソンがアルバム・レコーディングの最初のリハーサルをした2015年10月に、同年4月にボルチモアで起きた3人の白人警官によるアフリカ系のフレディ・グレイフレディ・グレイ殺害事件の最初の裁判を聞き、頻発する白人警官による無実のアフリカ系男性への暴行事件に対する、ピターソンの怒りが、生み出した作品である。
デイヴィッド・S・ウェア(ts)とマシュー・シップ(p)の初のデュオ・アルバム。17年間の共演歴に培われた41分の即興演奏に、<スピリチュアル・ジャズ>という言葉を、生まれ落ちた時の汚れのない裸体に巻き戻す魔法の力を感じる。
今回の作品ではFIT! をクッションにMARDSの面々が大きくクローズ・アップされていて、まるで望遠レンズで撮ったように夫々の個性が前面に広がってくる。
いわゆるコンピレーションものではなく、「ギラ・ジルカ & 矢幅歩 SOLO-DUO」の名唱、名演を選び抜いたアンソロジーといった面持ち
これまで何度かライヴで聴かせていただいているが、これほど4人がベクトルを合わせ音楽に熱中しているユニットはなかなかない。
現代ニューヨーク・ジャズの次代を担うと大きな期待を集めている、1986年にカルフォルニア州サンタクルーズに生まれたレミー&パスカルの一卵性双生児兄弟のル・ブーフ・ブラザースの第4作は、スティーヴ・ライヒ、ジョン・ゾーン(as)とのコラボレーションでも知られる現代音楽ストリングス・ユニット、ジャック・クァルテットを迎えた、コンセプチュアルな野心作だ。ニューヨーク・ジャズ・シーンに、また新たな潮流が巻き起こる。
ここでのシリルは定則ビートに忠実なドラミングを展開しているわけではない。大向こうを唸らせるようなプレイとは無縁の、ここでのサウンドに即したリズムの在りようを見出し、ビル・フリゼール、リチャード・タイテルバウム、ベン・ストリートらが描きだすサウンド絵巻や音の情景描写にふさわしいパーカッシヴ・サウンドを、あたかもスティックを絵筆に代えたアーティストとなって生み出している。
1987年生まれのサックス奏者ハラルド・ラッセンによる最初のアルバムは、まだ若い時分に北欧ジャズ界の巨匠アリルド・アンデルセンとヨン・クリステンセンに才能を見出されていた彼の、その活動に根差す音楽性を改めて捉え返した記念碑的な作品である。
ダーシー・ジェイムス・アーギュー率いるシークレット・ソサエティは、ポスト・マリア・シュナイダーのジャズ・ビッグ・バンドの中でも、最右翼の存在である。
デイヴ・ブルーベックをアイドルと崇めるザビーネ・キューリッヒ(vo)と、ベルリン出身のライア・ゲンク(p)のデュオによる、偉大なるピアニストへのオマージュ・アルバム。
マイケル・ブランコは、2000年にニューヨークに拠点を移し、自己のグループ、アラン・ファーバー (tb) らのアンサンブルで活躍するベーシストで、堅実なベース・ラインと作曲の才能も高く評価されてるアーティストである。
本作は、自己のクヮルテットにリード奏者ふたりとヴォーカルをゲストとして加えたコンボ編成。オーケストラ経験も豊富なフリックの音楽はスケールが大きく、コンポーザーとしての大器ぶりにまず目をみはる。
ニューヨークの精鋭ドラマー、ドレ・ホチェヴァーによる集団即興・集団沸騰サウンドを踏み越えた脈動サウンド。
“レッド・ツェッペリンの音楽だけを演奏するピアノ・トリオ”であるZEK TRIOこそ理想的な芸術形態であることを、哲学的・心理学的・社会学的・神話論的・考古学的に証明する。
女の子が母親になって、白髪混じりになった今日もやはりサンベアを挙げるのだろうが、その次にすすめるのはこの『たくさんの音楽的天使たち』かもしれない。
他のレーベルでドル箱リーダー作勝負作をリリースするメンツをサイドメンに配置する。これが現在のECMレーベル、アイヒャー統帥の実力なのだ。
『WISE ONE』は津村和彦のトリビュートであるとともに現在の高橋知己カルテットの普段通りの音楽を素直に表現したものである。
このアルバム、ドニーは自分の曲作りのスタイルを維持しながらも明らかにボウイの影響を受けて一段階前進しているのがはっきり聞こえてくる。それはボウイの名曲、<A Small Plot Of Land>と<Warszawa>が収録されているからというわけではない。いや、むしろこの2曲のドニーの料理の仕方をまず特筆すべきだろう。是非ボウイのオリジナルと聴き比べて頂きたい。2曲ともボウイとブライアン・イーノの共作だ。つまりボウイがシンセに重点を置いていた作品の中からの選曲だ。ボウイ亡き後ドニーはボウイのオリジナルメロディーをその原曲と違う仮面にすげ替えて新しい音楽を生み出している。<Warszawa>に至っては、まるで<In A Silent Way>のような空気と思えばコルトレーンの背後霊まで付いてくる。
両者のこの演奏を聴いて、常に作曲者であるインプロヴァイザーと、現代音楽作曲家のスコア作品との明らかな違いがよく分かった。すこぶる興味深かった。
とりわけ、パーカー、マクリーン、オーネット、ブラクストン、そしてジョン・ゾーンにいたるまでのアルトの系譜をたどるようなジョン・イラバゴン(as) のソロは十分聴き応えがある。
13歳の子供がこれだけの演奏をするからと言う理由で注目されている、という事実からジョーイを正当に評価しない意見もよく聞く。しかし、彼のこのアルバムのトラックを他のピアノトリオのアルバムとシャッフルして、ある意味目隠しテスト的に流した時、ジョーイのトラックを『未熟』などのような印象を受けるだろうか。筆者にとって、新しさがないから面白くないという印象はあっても、このアルバムは筆者が楽しめるだけの要素を十分備えている。
トゥーツ・シールマンズが逝ってしまった。ブラジル音楽をこよなく愛したトゥーツの『The Brazilian Project』、その中からジャヴァンの名曲のひとつ、<Obi>を解説。ジャヴァンの卓越した作曲法と、トゥーツのハイレベルなブラジル音楽の理解度に焦点を当ててみた。
パンクとフリージャズ、どちらも革命の拠点のニューヨークに赴き直に体験したミュージシャンが持ち帰り、自ら革命戦士となることで、日本の音楽シーンに変革をもたらしたという事実は興味深い。
ともあれ、祝CDリリース! 待ち望んでいました。おまけに、ドン・モイエまでが来日し、生活向上委員会と共演するとは! 一体どんな演奏が繰り広げられるのか。ぜひともライヴ録音をリリース願います。
センシティヴなタッチとリリカルなプレイで、ヴァンガードのハウス・ピアニストと言える地位を確立したフレッド・ハーシュのヴァンガード・ライヴとしては4作目。Sunday Nightと銘打っているが、実際は金曜から日曜日の夜のベスト・テイクを現代ジャズ録音の名匠ジェイムス・ファーバーがヴィヴィッドに捉えた作品。
クリス・ピッツイオコスたちにとってポップとアヴァンギャルドの境界は存在しない。ジャズもパンクもヒップホップも前衛もすべて等しく「音楽」でしかないという生まれながらに血肉の中に刷り込まれた感覚を武器に世界を撹拌するからこそ、彼らの音は限りなく「リアル」なのである。
ニューヨークのジャズ・シーンに、また新たな才能溢れるピアニスト/コンポーザー/アレンジャーが登場した。斬新な4ホーンズのアレンジと、ユニークな作曲、エッジの効いたピアノ・プレイで、加藤真亜沙(p,kb,vo)は処女作とは思えない完成度の高いリーダー・アルバム『アンモーンの樹』で、鮮烈なデビューを飾った。
中堅トランペッターのデヴィッド・ワイスが、9年前にヴェテラン・プレイヤーを結集して結成したオールスター・グループ、ザ・クッカーズが、レーベルをスモーク・セッションズ・レコーズに移籍して5枚目のアルバムをリリースした。ワイス自身が、最もスピリチュアルで、激しいプレイと自負する快作である。
渋谷と市野が弾くメロディーは遠い幼い頃の記憶を思い出させてくれるようなどこかで聴いたことがあるようなメロディーが次々と湧いてくるので、初めて聴いても昔から聴いていたような錯覚におちいる曲である。
Nakamaによる二枚目のアルバム『Grand Line』は、音楽の「形式」と「内容」の相互作用にフォーカスしたユニークな試みだ。それは北欧のローカルな音楽情況にとどまることのない、かつてなく魅力的な実践である。
盟友梅津和時と袂を分かつことになった原田が、『失楽園』を著して有名なイギリスの詩人ミルトンが1644年、当時の言論弾圧に抗して刊行したパンフレットの書名『アレオパジティカ』に倣って「自由な表現」を求めたように、我々リスナーは「自由な妄想」を追求すべきことを提言したい。
辛島文雄のジャズ人生50年の軌跡を音にしたオールスター・ドリーム・セッション。
病と闘いながら創作意欲をかきたてて演奏活動を精力的に続けている辛島文雄の次作が何になるのか期待したい。
様々なフォーマットで、八面六臂の活躍を続けるデイヴ・ダグラス (tp) のエレクトリック・ユニット、“High Risk”の2作目。ジョナサン・マロン (el-b) とマーク・ジュリアナ (ds) の強烈なグルーヴの上で、Shigetoのエレクトニカがダークな空気を醸し出し、ダグラスのトランペットが闇を切り裂く。
シカゴ・ベースで活躍するサックス・プレイヤー、グレッグ・ワードが、10人編成のグループ、10 Tonguesと15人のダンサーを擁して録音した、ミンガスの『The Black Saint and the Sinner Lady』へのオマージュ作。
トリニダード・トバコ出身のエティエンヌ・チャールス(tp,per)が、トリニダード・トバコのセント・ジョセフ(旧名サンノゼ)、コスタリカのサンノゼ、北カルフォルニアのサンノゼを描いた壮大な組曲。
「チョビ渋」に収録された8曲は全てメンバーのオリジナル、中に<三角大福中>なんて、70年代の自民党総裁選のキーサードがあったりして驚くが、ジャジーなビツグバンドから和製ファンクに行きそうなナンバーまで。楽想に共通してどこか「和」のテイストが感じられるのはやはりどっぷりジャズにはつかっていない中高生ならではだろう
同タイトルのLPとCDには内容の異なる演奏が収録されている。全5曲トータル104分は、三日間に亘るCafe Oto公演の半分に過ぎないが、業師揃いのトリオの表現形態のダイバーシティーの片鱗を味わうことが出来る。
このアルバムは筆者にとって宝箱のようであり、どの曲を楽曲解説に選ぶか随分と迷ったが、よく吟味してみるとどの曲も奥が深く、簡単には楽曲解説などできないと考え始めた。そこで選んだのがマイルスの1974年のアルバム、『Get Up With It』の2曲目、<Maiysha>(マイーシャ)のリミックスだ。
ジェレミー・スタイグが亡くなってしまった
前作にも収められていたペルゴレージの古典曲の別バージョンを除く10曲は、すべて彼のオリジナルで、そのほとんどが書き下ろしという野心作・意欲作にして、そのテナー・タイタン振りを窺わせるに充分な好個の力作でもある。
異能のソプラノ・サックス・プレイヤー、ジェーン・アイラ・ブルームの長いキャリアで初めてのトリオ作品は、リズムとメロディが交錯する野心作だ。パートナーに選んだのはマーク・ヘライアス (b) とボビー・プリヴェット (ds) 。コードの束縛から解放され、ブルームのフリーキーなメロディが、柔軟なリズムにのって飛翔する。
トルド・グスタフセンがアフガニスタン人の父を持つケルン生まれの歌手シミン・タンデールと出会ったことで生まれたプロジェクト「Hymns and Visions」。取り上げているのは、グスタフセンが子供の頃から親しんだ賛美歌のパシュトー語訳とペルシャの神秘学者で偉大な詩人ルーミーの英訳詩。ルーター派賛美歌とスーフィーがひとつのアルバムの中で出会う。
ドラムとピアノの一対一、ましてや森山威男と板橋文夫となれば壮絶なバトルを想像するのが普通だと思うがここでの二人の問に対決はない、ただただ漂う哀愁のまにまに色彩ゆたか、陽気で明るい二人の親密さが伝わってくる。
ドイツ出身のギタリスト、セバスチャン・ノエルの3作目。ドキュメンタリー・フィルムや、傾倒している北インドの変拍子のリズム、尊敬する先達や、文学作品からの影響を、音楽で昇華した。
プエルトリコ出身のベーシスト、リッキー・ロドリゲスの10年に及ぶニューヨークでの演奏活動の成果が結実した野心作。ラテン・ミュージックと、コンテンポラリー・ジャズが融合し、さらなる未来を見つめる。
大坂の即興音楽ユニット.es(ドットエス)の橋本孝之のソロ・アルバム第3弾。全編ハーモニカのみによる演奏は、音楽に呼吸を取り戻す肉体オーケストラである。
トロントを中心に活躍する若手ジャズ・フルーティスト、ビル・マクバーニーの新作。多彩な選曲のジャズ・フルートに酔う
今回の楽曲解説はいつもの楽理的な立場と少し目先を変えてみたい。筆者がなぜこのアルバムを好んでいないかというと、それはこのバンドのタイム感に対して居心地が悪くてしようがないからなのである。
そこにピアニストとしての、あるいは音で語り、音を織り成していく詩人としてのメルドーの、いわばメルドーらしさが、この新作に息づいているということではないだろうか。
ここにある尺八の演奏は、サックスやトランペットなどが切り捨ててきた領域をたしかに有しており、楽器のアドバンテージを活かした即興演奏には可能性を感じる。
足かけ10年、つかず離れず程よい距離を保って活動を続けてきた二人のデュオ「ルース・ド・ソル」が練れてとても楽しい局面に入ったことを示している。
(4)<エスペランサ・ペルヂーダ>ではピアノのソロで思わずもれた渋谷のスキャットがなんとも微笑ましい、ついに渋谷がジョビンを歌った。 今回の渋谷はいつになく快活で自作の(7)<彼方へ>ではソロに合わせて口笛もきかれる。
スケール感たっぷりなジョアン・ボスコの<アマゾンから来た女性>、心地良い浮遊感を味わえるジャバンの<アヴィエ―ヴォ(飛行機)>等々、その力量を窺わせるに充分な好ナンバーが並ぶが、なんといっても今作の注目はビートルズの<ハロー・グッドバイ>とスティングの<フラジャイル>という2大ヒット曲。
2016年に逝去した、オーネット・コールマン(as,tp,vln)、チャーリー・ヘイデン(b)、マーカス・ベルグレイヴ(tp)に、デイヴィッド・マレイ(ts,b-cl)、ジェリ・アレン(p)、テリ・リン・キャリントン(ds)が結成したパワー・トリオが、豪快で繊細なプレイで、トリビュートを捧げる。先人達の遺志を継ぎ、現代ジャズを新たなステージに、押し進める。
アフロ・ビートと鋭いメロディが交錯するタイトなバンド・サウンドで、現代の混沌と希望をコンセプチュアルに描く、トランペットのニュー・スター、セオ・クロッカーの衝撃作。
日本でも精力的に活動しているニューヨーク・ジャズ・スタンダーズ・クァルテットの結成10周年記念作。緊密なインタープレイと、斬新なスタンダード解釈が円熟の境地を描く。
グンジョー色の求道者は、37年間音楽の輪廻を彷徨ったのちに、西から同類の求道者を迎え入れ、創造の神の霊感を再び受けて、音楽シーンに真を問うのである。即ちこれが<西の果てにはグンジョーあり>の理(ことわり)である。
イスラエル出身のテナーサックス奏者ヨニ・クレッツマーは、新作2枚においてますます凄みを発散する
ブラジルのパンデイロによる越境音楽
アーサー・ヴィントは、アメリカの原点の一つである西部のフロンティア・スピリットを、ジャズ・オリエンテッドな音楽で描くことに挑戦する。
インプロヴァイザーとしては高い評価を確立していたウィル・ヴィンソンが、コンポーザー/アレンジャーとしての才能を余すところなく発揮した野心作。
バンドメンバーも自らの音を知り尽くしたヴェテラン揃い。長年組んできただけあり、抑制の効いた大人のサウンドをじっくりと聴かせる。コルトレーンやマル・ウォルドロンの名曲のなかに”The Moon a Sphere”(track.4)などの自作も遜色なく融け合う。
ピーター・ヴァン・ハッフェルといえば 「Gorila Mask」、ロックテイスト溢れるアナーキーな咆哮がすぐさま思いだされるが、ギタリストのアレックス・マキシミゥ (Alex Maksymiw) と組んだこのデュオアルバムは、一見その対極にあるかのように見える。
故郷のオデッサでは劇場で女優としても活躍していたというだけあり、変幻自在なヴォイスの魔力、あらゆるシーンの演出能力とその引き出しの多さに、音楽を聴いているというよりは舞台芸術を楽しんでいるような錯覚に陥る。
昨年ソロ・アルバム『汝の耳で見よ(Look With Thine Ears)』をリリースし、21世紀の未来派芸術家として異彩を放つドイツ生まれのベース奏者パスカル・ニゲンケンペルの最新作。主戦場であるNY即興シーンの情報誌「New York City Jazz Record」から”NYシーンで最も冒険的で危険なベーシスト”と形容される。
ノルウェー音楽に特有の耽美な響きをまといながらも、それらを「日本的感性」とともに表現していく彼女の音楽は、卓越した演奏技術や作曲センスが輝く本盤においても、その特異なありようを随所に聴き取らせてくれる。
同時期を生きたスタープレーヤー松本英彦 (1626~2000) の陰に隠れがちだった宮沢昭だが、その実力は衆目の認めるところで、このアルバムのリリースで彼の存在が再認識されるに違いない。
70年代初期、ソウルグループ、スタイリスティクスによるヒットソング、<People Make The World Go Round>は、マイケル・ジャクソンやフレディー・ハーバードなどの手によってもカバーされた名曲。ディー・ディー・ブリッジウォーターは その名曲を自分のデビューアルバムでオリジナルとはかけ離れたモード・ジャズとして披露した。そのアレンジの素晴らしさを解析。
ピアノとツイン・ドラムという異色の顔合わせがホットでスリリング、三者入り乱れてのリズムの応酬の中からセンチメンタルなアケタのオーラが湧きたっている。
これまでにアルバムを出すたびに自己ベストの演奏を更新してきたアケタこと明田川荘之であるが本作『アフリカン・ドリーム』(AKETA’S DISK)にもアケタのベストが記録されている。
今回このアルバムを聴いて、矢沢朋子の素晴らしい音色と弧を描くタイム感でこんなにもミニマルミュージックを楽しめるものなのかと思ってしまった
ギル・エヴァンス(p,kb,arr)、ブルックマイヤー、サド・ジョーンズ(tp,arr)らからの強い影響を語るズアーだが、先人達をリスペクトし、クリストファー・ズアーは今、コンテンポラリー・ジャズ・ビッグバンドの新たな扉を開く。
トゥーツ・シールマンス(harmonica)の後継者と目されるグレゴア・マレのリーダー第2作。マレ自身とテリ・リン・キャリントン(ds)の卓越したプロデュースによって、けっしてオールスター顔合わせセッション的作品ではなく、ビッグ・ネームが適材適所に起用された、コンセプチャルかつ、現代音楽シーンの縮図がみえるアルバムとなった。とキャリントンの卓越したプロデュースによって、けっしてオールスター顔合わせセッション的作品ではなく、ビッグ・ネームが適材適所に起用された、コンセプシャルで現代音楽シーンの縮図がみえるアルバムとなった。
現代ニューヨーク・ジャズ・ビッグバンド・シーンにおいて、マリア・シュナイダー・オーケストラを始めとする重要ビッグ・バンドに於いてメイン・ソリストを務めるファースト・コール・プレイヤー、ライアン・ケバリー(tb)のユニット、カタルシスの第3作目。本作では自らが演奏してきた南米音楽からの影響を受けた音楽で、リスナーにとっての“審美的なイヴェント”をもたらしたいと抱負を述べる。
異能のチェリスト/ヴォーカリスト、マリカ・ヒューズのサード・アルバム。このアルバムは「自らの出身地、ニューヨークへのラヴ・レター」と語っている。ヒューズの多彩な音楽こそ、人種と文化の坩堝、ニューヨークを象徴していると言える。
齋藤徹による春の刺激、3作品
Live Report で「僕の胸を締め付けたのは<オルフェ>と<リトル・アビ>であった」と特筆した2曲が収録されているのは殊の外嬉しい。さらに嬉しいのは、<リトル・アビ>こと愛娘・菊地あびさん撮影のスナップが9点もブックレットに使用されていること。これはこれで立派な菊地さんのフォト・ストーリーになっており、父娘共演の珍しい1作となった。
こういう紹介文を書くと、年寄りが能書きを垂れるから若者がジャズから離れていく、としたり顔で若者寄りの意見を吐く御仁がいるが、ジャズはもともと社会と密接な関係を持ちつつ発展してきた音楽だ。ロックやフォークだってそうだった。バーミンガムの教会爆破事件やコルトレーンを知らずにこのアルバムを聴くとその意義は半減するだろうし、ミュージシャンが意図するメッセージも充分に受け取ることができないだろう。
スティールパン奏者の町田良夫とコントラバス奏者の千葉広樹が、ポルトガルを拠点に活動する打楽器奏者のジョルジュ・ケイジョを迎えて、2014年と翌2015年に都内のジャズ・バーで行ったセッションを収録したアルバム
繊細なタッチを持つリリカルなスタンダード・ソング・プレイヤーという印象が強かったリニー・ロスネスが、コンセプチャルなオリジナル組曲“Galapagos Suite”に挑んでいる
板橋文夫の書く曲にはストーリー性があり、曲ごとにそれぞれの物語が浮かび上がり、そしてそれらが集まって「FIT!+special guest」の短編集が出来上がった
キューバ出身で、様々なフォーマットの自己のグループや、ウォレス・ルーニー(tp)のグループで活躍するアルアン・オルティスが、満を持してリリースしたトリオ作品
即興というものはたしかに神出鬼没の面白さに依るものがおおいが、気心しれた年季がうみだすオープンな音の磁場には、マンネリズムとは対極にある如才なき自由がある。
ウラジーミル・タラーソフのLPレコードと本の話題
ポール・ブレイと言えば、我が恩師、ジョージ・ラッセルの『Jazz In The Space Age』でジョージが発掘したビル・エバンスとピアノの掛け合いをやっていたのを思うが、筆者にとってはむしろジミー・ジュフリをすぐに思い浮かべる。『The Life of a Trio』である。ジミーはジョージ・ラッセルと親しく、よく食事を共にしたのが懐かしい。ジミーとジョージの関係でポールがニューイングランド音楽学院に就任したのは1993年だったと記憶する。筆者がすでに卒業した後であった。
Nakama Records Adria
Clean Feed 358; Port
Inner Circle Music G
2015年初頭クリス・ピッツイオコスはヨーロッパを訪れた。1月7日Tabori、1月8日Dr. Seltsamにてノア・プント(b)とフィリップ・ショルツ(ds)とのトリオでライヴを行った。「Protean Reality(変幻自在の現実)」と命名されたそのトリオで1月8日の昼間にレコーディングされたのが本作である。
ウィリアム・フッカーは活動歴の長いドラマーである。13-14歳のころには、プロとして、ジャズだけでなくR&Bやロックのバンドでも叩いていた。
90年代初頭から、スティーヴ・コールマン(as)率いるファイヴ・エレメンツや、ウェイン・ショーター(ts,ss)グループで活躍したデイヴィッド・ギルモアは、リーダーとしても数々の意欲作をリリースしてきた。
昨2015年は「新宿ピットイン」の50周年にあたり、なにごとにも「ピットインイヤー」であった。 その50周年を記念して「新宿ピットイン50周年記念・新宿フェスティバル2015」が昨年の12月26,27日の2日間、のべ12時間にわたって新宿文化センターで繰り広げられた。
ジャック・デジョネットに加え、ヘンリー・スレッギル、ロスコー・ミッチェル、ムハール・リチャード・エイブラムスという、シカゴの前衛集団AACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)を代表する面々の歴史的な共演。
優れたエンジニアでありギタリスト、コンポーザー・アレンジャー、挑戦的な音楽学者、といういくつもの近藤の顔が垣間みえ、みごとに融け合いながらも、精緻なアルバム構成は極めてスリリングで感覚的な歓びに満ちている。
人々を苦しめてやまない理不尽な力に抗する激情、抒情を見事なまでに音楽という形に昇華
10月8日にインパートメント社から国内配給が開始された我々ハシャ・フォーラの新譜、『ハシャ・ス・マイルス』の曲目解説を依頼されたのだが、実は困っている。自分の曲の説明を公開したくないのだ。
歴史的パフォーマンスを収録した今回のDVD、タンゴ・ファンのみならず全ての音楽ファン必見の内容である
ケルンを本拠地とするアン・ハルトカンプ(vo)とトーマス・リュッケルト(p)によるビル・エヴァンスへのトリビュート作品。タイトルの通り、ビルへのリスペクト、その音楽への愛情がやわらかな雰囲気となってアルバム全体を満たす。
マイルスの愛奏曲のアレンジにあたっては、「新しいことに挑戦せよ」とのマイルスの教えを守り、ブラジルのネイティヴなリズムに乗ってジャズのインプロヴィゼーションを展開する手法をさらに進化させた。
いわき市は東日本大震災の被害の中心ではなかっただろうが、原発事故では少なからず影響を受けたはずである。不破の胸には沈む市民の心を鼓舞したい気持ちが少なからずあったに違いない。その心情と行動がいわき市民を動かし大きなうねりとなりつつある。
一聴して肩肘はらない気楽なノリと身上としつつも、リー・コニッツという巨人をアメリカのジャズ史のうえに投影した、かなり練られた楽曲構成がみてとれる。
北欧のサックス奏者とNYのドラマーの野心的かつ独創的な演奏集
アメリカ内部からの「古き良きアメリカ」探索
偉大なテナーの先人の系譜に連なりながら己の声を獲得したテナー奏者、ヨニ・クレッツマー
天へ天へと心を折ることなく挑み続ける纐纈雅代のカタルシス
無理に一般概念にあるようなジャズにはしない、邦山の素晴らしさを充分に引き出せる構成に魅せられた。自分のピアノの誇示をするのではなく、まるでひとつの宇宙を完成させるような、そんなPooさんの演奏にも魅せられた。
筆者は恥ずかしながら「ロバート・グラスパー・エクスペリメント」以外の彼の活動をまったく知らなかった。今回の新譜、『カヴァード』について解題執筆の必要があって初めてブルーノート契約時の2作はトリオだったと学んだ次第。急いで試聴してみると、当時はもっとストレートなジャズ寄りの演奏をしていたのだと知った。10年前の話だ。
さて、本作『カヴァード』。グラスパーのピアノ、やはり上手い。ブルーノートに居るような柔らかさ。でも、揺れている。余裕が甘さにすべる。個性やアクはない。おれはピアニストとして立っているわけではないから、と、打音が言う。
同一メンバーでピアノ・トリオ吹込に再度挑戦したこの新作は、グラスパーという音楽家が現在では演奏家としてのスケールも能力もすべて飛び抜けていることをまざまざと示し出した。
トーマス・リュッケルトはケルンを拠点とするピアニスト。リー・コニッツとのプロジェクトなどで活躍しているが、ケルン・シーンの若手ふたりを擁したこの編成のトリオでは2012年の『Meera』に続いて2年ぶりのリリース
ジャンルを軽々とまたぐカヴァー力、入念かつフィーリング溢れる作/編曲能力、抜群の歌唱力、ステージ人としてのエレガントかつ華やかな押し出し良さなど、何拍子もそろったパワー溢れるディーヴァの誕生である。
20代のキメラは、1曲ごとにまるで異なる貌を見せる
ウォルターは社会的/技術的制度性に絡めとられた音楽にもういちど生きる場所を与えようとしている。少なくとも本盤では、それらが二重に「泥まみれ」にされた演奏として表されている。
ヨーロッパを拠点に活動するギタリストのパク・ハンアル Han-earl Parkが2年間NYに滞在し、様々なアーティストと交歓した成果を収めたアルバム『アノミック・アフェイジア(失名詞症)』は、タイトル通り”名称が失われる”即興音楽の極致を求めたドキュメントである。
このところトロンボーンの新譜ばかり手にするがどれも力作揃いだ。そんななか現在ハンブルクを中心に活躍する Christophe Schweizer (クリストフ・シュヴァイツァー)の新プロジェクト”Young Rich & Famous”のスケールの大きさ、達観ぶりがとりわけ新鮮だった。
本作はフリーミュージックの先駆者ともいえるJimmy Giuffre(ジミー・ジュフリー)へのオマージュ。ジミーに創作意欲を刺激されるミュージシャンは数多いが、このサミュエルの作品もまた、楽器間の縦横無尽なインタープレイを推進したこの先駆者にならうがごとく、多様な音の満ち引きに絡め取られるスリリングな一作だ。
エヴァンスからベネット、ジョー・ヘン、ハンコック、マイルス等々永年ジャズにかかわって知った喜びを自らのものにして鍵盤から導き出したもので辛島文雄の人生の重み、人格が詰まっている。そして、なによりも一音一音に沖縄の空気の中でピアノを弾く喜びが音の端々から活き活きと伝わってくるのがうれしい。
NYハードコアジャズの新星クリス・ピッツイオコスが2015年前半にリリースした2作のアルバムは、「ジャズ」の概念を拡張するニューヨーク即興シーンの鮮烈なドキュメントである。
2014年に行われた「AVフェスティバル」における、ジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスの共演を収録したこのアルバムは、複数の聴覚が具体的に捉えた遺跡の響きをライヴ会場において再構成したもの、ということができるだろう。
このアルバムを聴くわたしたちが巨人の名演を見出してしまうということ――それはジャズの本質としての即興性/一回性や、演奏者に固有の音楽といったものに対して、録音物を通して心酔していた聴衆が、果たして本当は何を聴いていたのかということを明らかにするための、ジャズの側からの苛烈な批評として受け取ることができるのではないだろうか。
本作に収められた進歩的な感性と意欲的な実験精神が明らかにされた今こそ、2003年に没するまでジャズ史の裏街道を歩んだこの不屈のアヴァンギャリスト、フランク・ロウへの評価をアップデートする必要があるだろう。
収められた7つのトラックはすべて一発勝負の即興演奏。2013年1月と5月にブルックリンのライヴハウスで録音された。切れ味鋭いサックス、ギター、ドラムが三つ巴で絡み合うオープニングから、20分に亘る長尺のエンディングまで、息つく間を与えない鮮烈な演奏が繰り広げられる。
佐藤允彦の戯楽シリーズの3枚目は子供の頃に聞いた唄。軽快にピアノを弾く佐藤、ベースの加藤真一もドラムの村上寛も手慣れた捌き、淡々と楽しげな演奏。難しいこともさりげなく弾きこなし、さらにインプロヴァイズしてしまうスゴさ。まさに「戯れ」「楽しむ」、すなわち「戯楽」である。
封印された音塊が解放されることで、創造主である演奏家自身の魂もその先へ解き放たれることは確かだろう。日本地下音楽の秘められた至宝、陰猟腐厭の「その先」を見届けたい気持ちが無性に高まっている。
30年以上昔に記録された演奏だが、その独自性は現在、いやさらに30年後に聴いても失われることはないだろう。音楽ジャンルは勿論、時代からもはみ出した異端の演奏行為と意志の記録である。
高柳がギターを弾(はじ)き、叩き、引っ張り、締め上げ、擦(こす)る。ギターが断末魔の悲鳴を上げる。さて、この音世界こそわれわれのリアルな生き様の反映ではないのか。蔓延する不条理に苦しみのたうち回る..。
老若男女、クラシック・ファンもジャズ・ファンも等しく楽しめるジャズのエッセンスがたっぷり詰まった痛快なアルバムである。素材は小中学校の音楽鑑賞の時間に必ず聴かされる<ボレロ>と<展覧会の絵>。
ピアノ・テクニシャンやエンジニアをはじめピットインミュージックのスタッフが沖縄まで出かけてホール録音したもので、これまでのピットインでのライヴとは空気感が違う。沖縄でのツアーの際、何度かこのホールで演奏した辛島がピアノやホールの響きが素晴らしく、心に残っていて、地元の関係者の協力もあって今回実現したのだそうだ。
ヴォカリーズ、しかもインプロヴィゼーションは苦手、という喰わず嫌いも、タイトル・チューンのブルースを聴けば彼らのすばらしさに魅了されるはずである。
いやさ、当時ブレイはECMアイヒャーの音の仕立てに本心は合点が行ってなかったんだと思うよ、
沈黙が常にあり、透明の空気がそこにある。3人は「沈黙」の感覚を共有し、巧みに音を使うことにより「沈黙」を表現しているというのが正しいかもしれない。
アンドリュー・ドゥルーリーによる、かなり毛色の異なる2枚のアルバムからは、音楽の可能性を徹底的に突き詰めると同時に、その探索の領域を軽やかに切り替えていく彼の姿が浮かび上がってくる。
約2時間の演奏には英国ジャズが辿り着いた表現の高みが示されている。この2年後にエルトン・ディーンは惜しくも帰らぬ人となり、デレク・ベイリーとロル・コクスヒルも天国へ召されてしまったが、歴戦の闘士が不在でも英国ジャズの前途には希望の光が差している。
このアルバムこそCDを買わないと関根の全貌や仕掛けを楽しめないわけで、あるいは、iTunesなどを通した曲買い風潮に対するアンチテーゼという深謀遠慮なのかもしれない
大坂の即興音楽ユニット.es(ドットエス)の橋本孝之の初のソロ・アルバム(2014.2)。暗闇に白い煙のように立ち上るアルトサックスが無数の色彩を描き出す渾身のアルバム。
大坂の即興音楽ユニット.es(ドットエス)が、日本ノイズ界の重鎮、美川俊治(Incapacitants/非常階段)と共演したライヴ・アルバム。それは即興演奏の未来への希望の光を見出す一期一会の三者が描き出した結晶となった。
SABUもミシャもモンクがとても好きなのだ。そりゃー、好きなんてもんじゃないですよ。初来日(1963年)の時から言っているもんね。ミシャはモンクの後継者だよ。コピーやらずにあれだけモンクのスピリッツを出せる人ってほかにはいないでしょ、世界でいないよ。
一番楽しめたのは『ハノン』であった。というのも、筆者自身、子供の頃、嫌でたまらなかった機械的な指の練習曲ハノンがこんなにウキウキと楽しく弾けるなんて!というリアルな驚きが大きかったからだろう。
このアルバムにはミシャとサブの他にもう一匹(!)共演者が登場する。コオロギである。コオロギはミシャのピアノに限って共演を買って出る。なに、サブのドラムが入ってくるとコオロギの声がマスキングされて聞こえないだけなのだが。
ジャズかどうか、クラブ系かどうか、などジャンルは関係なく、ここに刻まれた演奏は、ふたりの求道的表現者が全身全霊をかけて交感した、紛れもない真の即興演奏の記録に他ならない
宮澤賢治の没後80年を契機に発表された作品だが、富田の中では何十年にもわたって育まれてきた思いの集大成である。300人に及ぶオーケストラとコーラスを駆使した壮大なドラマの展開を予想されがちだが、初音ミクというヴァーチャル・シンガーを起用したことにより一挙に浮力が付いた。
大阪のコンテンポラリー・ミュージック・ユニット.es(ドットエス)。21世紀も10年過ぎてこれほど生々しく自己主張する激しい音の渦が生まれるとは、まさに驚異的である。さらにこのエモーションの塊のような演奏が、現代美術ギャラリーから生まれてきたという事実が興味深い。
待てど暮らせど彼女たちに対抗する若い才子が現れないとなれば、潮目が男性側に来ていないのだと思うしかないか。あきらめかけていたところに飛び込んできたのがこのオカベ・ファミリー(Okabe Family)を名乗るユニットのデビュー作である。といえばいかにも恰好いいが、実際、このユニットの音楽は目をみはらせるほど新鮮だった。
斬新で清新,豊かな質感を持つ上質音楽であると同時に、ジャズ・ファンのブラジル音楽入門盤としてもハナマルと言えそうで、ワイン等を片手に、一人で寛ぎながら愉しむのにも好個の作品とお勧めしたい
実際に全曲を繰り返し聴くことで、ここでの高度なオーケストレーションとアンサンブルの磁力に次第に引きつけられる、そんな快感を私は久し振りに体験した。
このDVDはミャンマー国内を対象としており、ここ数十年のポップスの大人気はそれはそれでかまわないが、古典音楽にももっと気軽に親しんでほしいという願いをこめてあります。
ピアニスト矢沢朋子の活動は、これまではエレクトロニクスを用いた新しいメディアを使った実験的傾向の作曲家とのコラボレーションが多かったが、本作でとりあげているのは近現代ヨーロッパの神秘主義的傾向を示す作品群である。
国際的にもすでに高い評価を得ている“Dislocation”だが、その名称がふくみ得るところの、規定からの転置・逸脱といった堅苦しい想念に捉われる隙を与えない。もちろん瞬間は増幅して非常な強度をもっており、その持続が聴いている者の時間感覚を麻痺させるが、単純にノリに還元される引き際の良さがある。
名古屋発プティ・レーベル第一弾 (経緯は高平哲郎氏のライナーを参照されたい)。タイトルからも彷彿されるとおり、肩肘張らないスタンスのアルバムである。しかし、『悪くない』の反意語が『良くもない』には決してならないところが流石である。和み系とは程遠い、各々の個性が発するどうにもならない成熟が生む余裕だ。
そんなことは忘れて、これ、実にいい。ヴィオラとマンドリンの音色の異化効果もあってか、単に作品集という意義を超えてバトンされるモチアン・ミュージックのコアが聴こえるものだ。
佐藤允彦による「戯楽」第二弾のジャズ出囃子集。寄席に見立てたアルバム構成になっていて、村上の叩く<一番太鼓>で始まり、<前座の上り>、そして古今亭志ん生の<一丁入り>と続く。
たしかに、スケール感もあれば、突破力もある。ピュアネスはいうまでもない。しかもそのどれもが並外れたレヴェルに達している。
この演奏は、NYの老舗ジャズ・クラブ「バードランド」が60周年を迎え、60年前のオープニング・ナイトに出演したリー・コニッツ(もうひとりの現役はロイ・ヘインズ)にカルテットを組ませて1週間の公演を企画したもの。
「憂歌団」のヴォーカリスト(だった?)木村充揮の新作である。ナット・キング・コールの世界を予測させながらいつのまにか完全に木村充揮の世界に取り込まれていた楽しいひとときだった。
考え抜かれたコンセプトと手法。ポップなナラティブ。そして大胆な遊び心。最初は「謎」でしかなかったが、本作を知ればしるほどバーンというクリエイターの懐の深さに魅せられてしまう。
7年後の1989年、ジャズ・ベーシストとなった新婚の永田はサックス奏者の早坂紗知を伴って再びその地に立った。人生の伴侶であり、音楽の同志でもある早坂にジャズ・ミュージシャンとしてのスピリットの原点を共有させたかったのだろう。
今やピアソラの音楽とミルバの歌が結合した時の真価に開眼。もし、ピアソラがミルバを念頭にオペラを作っていたら、21世紀に新しいオペラの水脈がひとつ生まれていたかもしれない。
互いをよく知った音楽家同士だからこそ、より自由になれるということもある。力で押し切ることもなく、まさに緩急自在、スポンテニアスな演奏とはこういうことをいうのだろう。
ベテラン三上クニのアレンジとリード、小松誠司のサポートで新進ヴァイブラフォン奏者有明のぶこが120%の快演を果たしたアルバムと聴きましたが如何でしょうか。
それまでの即興演奏における個の表現とは異なった世界観でサウンドが構築されていく。サウンド・インプロヴィゼーションが耳新しかった時期は既に過ぎたが、即興演奏の明日を占う音がここにある。
ジャケットの写真はそのピアノを弾く(?)猫Pief。ジャケットを見ながら「これは僕の猫でねぇ。この猫には多くのことを教わったのだ」と呟いていたメンゲルベルク。
アルコとピッチカートを使い分け変幻自在に泳ぐレアンドレ、特殊奏法は使っていないにもかかわらず多彩なサウンドを繰り出す佐藤、即興演奏としては各トラックは短いが、それぞれが別の表情を持ち、高次元で繰り広げられるインタープレイはイマジナティヴだ。
富樫宅にあるエレクトリック・ピアノ(Roland HP-900)をスタジオに持ち込んでの録音。富樫のイメージが生まれた音色と響きにふれ、ふわりと漂うその余韻に、立体的な音響空間を創出する希有なパーカッショニストとしての姿が重なる。
彼女の音楽と向きあう凛とした姿勢は心地よい。特有の強く張られた弦と男性的ともいえる力強いピッチによるサウンドは潔い。が、箏ならではのゆらぎが情感を投影し、密やかなエロティシズムも付加するのだ。
Masahiko Plays Masahiko三作目は、フリー・インプロヴィゼーションの余白がたっぷりある作品群。作品にあるモチーフを一種のマテリアルとして、さらなる創造的空間を構築する鮮やかな手腕は佐藤ならではのもの。しかし、この空間の捉え方、音色に対する美学は、富樫の世界でもある。
しばらくぶりに聴くと驚くほどうまくなっている。決して誇張ではない。主婦でも、一児の母でもあるというのに、大したものだ。
イスラム教が世界中で議論の的になった場合、人々がどのようにこの宗教を引き継いでいるか知る必要がある。それは全くテロリズムや暴力とは無関係だ。そして今このアルバムを発表する時が来たと思う。
ハイサンプリング・デジタル録音の音質が、 音楽的にミュージシャンの気持ち をいかに揺さ振ったか。
複雑な録音、あるいはピアノの複雑さを鑑賞して録音のあり方を聴くサンプルか?
ピアノとギターの演奏の親密さと楽器の精密さを聴く。
ステージ録音。さすが、楽器の特質を聴くような配置を作っている。
すごく熱の入った音像の表現に脱帽。
バランス、音場の定位といい、息を飲む録音。
ボーカルが、単なるマイキングではなく。かなり時間を要したのでは?
パイプオルガンとテナーサックスの音像を同等に扱い、身震いするサウンドが鳴る。
マイクで、ここまで声の感触を作ることができるのか。
一本のソロマイクではないエネルギーとライブの空間感
サックスとヴァイオリンの発する音は神社の響きを濃厚に表している。
Saxの音色に単なるソロ・マイクのマイキングとは、大きく違うサウンドに驚嘆
オンマイクには違いないが、響きを豊かに取り込んでいて、マイキングの謎に耳は張り付く。
謎の音響空間に浸り、さらに音響的感動に移る。
ピアノの残響。空間ではなくてピアノの弦のうなりを強調したサウンドが耳に強く残る。
ピアノも驚きの音場、音像、を聴かせて優秀録音だ。
相当の時間を要した録音、ミックスの成果が楽器や声の特質を生かすことに成功している
ピアノ、ベース共に音の抜けの良さを感じる。
ギターの音像が身震いさせる。
強烈なピアノの中音部にミックス・バランスの重きを置いたサウンドが音場を作る
聴かせるぜ!と録音の優れた余韻を楽しんだ。
ボーカルの声の質感が優れていて低音域の豊かさが心地いい。
何たるサウンドの落ち着き!絶句。マスタリングが相当に音質に寄与していると感じた。
とにかく、気持ちの良いバランスが光っている。
サウンドにマジックあり雰囲気を伴い、通りすぎるバンドの行進を表す。
バランスが優れていて、音量をあげて鑑賞した。
奥深いサウンドに何もかも引き込まれて、秀逸録音に違いない。
トランペットの鮮やかな耳に近い音に、近接を感じない。
ダイナミック系のマイクロホンと想像。
芯のあるオンマイクだったり、サウンド空間の鮮明さでエンジニアが遊んでいる。
軽く発散するピアノの音は、かなりの時間を要したと、こちらも引きずられてしまった。
このCDは録音にかなりテイクを要したと思われるが、素晴らしいサウンドに気持ちが充実した
イタリアギターの美しさ。これには陶酔。今月の聴きどころの最優秀盤だ。
録音の優秀さに驚嘆。ショックだったので、数十回聴いた。
残響がピアノを助け、大きな情景を作る。
Pfの穏やかな演奏で、近接マイクの表情がすごく良い。
ステージ上のサウンドを明瞭度の高い録音に完成させた技に感服。
ノリノリのアンサンブル・サウンドが部屋中に充満、録音技術の最高レベルを聴き通す。
レコーディングのデジタル化が、演奏者の思うままの表現、ダイナミックスを司る現実に現れて驚嘆。Mixed by Satoko Fujii。
ピアノの豊かで明瞭な響きを重厚に表している。それに乗る矢野さんの特徴ある声の輪郭表現も見事。
アコースティックだけの技とは思えない技巧だ。NY マスタリング。Mike Marciano / Systems Twoの聴かせどころだ。
ボーカルの音像が勢いを感じさせ、ライブの音場を堪能する。
音の魅力に、オーと大声をあげて聞き惚れてボリュウムをあげ、筆者の経験値ではこれ以上の種明かしができない。
Tsのオンマイク・サウンドが耳に飛び込んでくる。狙いである。
ボーカルまでが音場を表現して、マイクの前に立ち尽した音とは違う。
オーディオ系鑑賞に気分痛快。ボリュームを上げて楽しみたい。
即興演奏の立ち上がるサウンドを、エッジのシャープさで強調され、会場での即興を聴いた気分になる。
音楽の自然バランスに任せて、ミックス・バランス等、録音において飾りを挿入しない音も注目
アコースティック・ギター、バイオリン、ビオラ、チェロ。凄い重厚なサウンドの展開が出ていて、筆者、仰け反ってしまった。
透明感と輪郭の明確な音像に驚嘆。リアルな近接感も魅力で、臨場感の豊富な録音。
ホールの音響が明瞭であることを聴く録音。
ボーカルの音像表現にマイクの使い方のうまさを聴く。
スウェーデンの教会での録音が効果的に生きていて、重厚さが広がっている。
遠くからの情景を感じさせたり、直近の情景を表したり、ミックバランスに時間をかけた音だ。
バランスとして明瞭さを強調せずにした控えめが聴きどころ。
録音・編集 佐藤允彦。筆者は驚嘆。筆者のマイキングに目を向けていた表情は板についている
エンジニアの腕前に喝采。さらにマスタリングも同様。常套手段では上手くいかない壁を超えたサウンドに乾杯。
シンセのサウンドがトランペットに上手く乗るミックス技術が聴かせどころといえよう。
近接サウンドの輪郭が音像の表面を構成。サウンドを浴びる感触がたまらない。
音源の質感にアナログ録音が効果を効かせる。
当時の簡易録音器カセットであれ、ここまで、音像の輪郭が鮮明で音域の不足を感じない録音はお見事。
狭い空間のライブであり音場より音圧を狙ったと解釈。その方が、グググっとくる。
透明感あふれる音源。フイリッピン録音の効果か。
通常はエッジの効いたサウンドに向かうはずだが、ここでは透明感に向かっている。
ドラムの音量バランスをこれでもかの強烈な表現。バシバシっと響くスピーカーの反応に耐える自分がいる。
響きの余韻が重厚で、内部奏法の音色も忠実度が高い
物理的な至近距離での音響を聴かせるものではなく、最前列での鑑賞を再現すべく自然さを感じる。
2曲のベースのソロ、センターにドスの効いた効果で表現される。エンジニアとして、仕掛けたサウンドである。
従来のピアノの録り方から脱皮。録音の技に頼る仕掛けは聴いていて愉快。
優れたサウンド仕上げに、息をのむ。明瞭さに加えて、楽器のエネルギーを感じさせるマジック。
テナーの陰で、アコースティック・ギターの生々しい音に、ほっとする楽しみを感じた。
ピアノの中高音域の重厚なサウンドは、マイキング手法から得られたと言える。余韻が気持ちいい。
スピーカーの音量を上げたくなる感触に誘われるのは、オーディオ 嗜好も満足させる録音。
穏やかな空間を作り出した音場はお見事。
ベースがかなり図々しく出てくるが、バランスとしてボーカルを食い込む音にならない。愉快なバランスが成り立っている。
肉声をここまで強烈な印象で聴かせるボリュームは、録音からミックスの段階で相当な経験技があると言える
音像からはスタジオ録音だが、バランスからはワンポイントを想像する。
クラリネットの耳を刺激する音の質量をバランスで整えて聴かせ、録音として優れている。
通常のビッグバンドのエネルギーの爆発とは違う。各楽器の明瞭なサウンドが、ミックス・バランスでのテクニックで持続の特有のサウンドとして生かされている。
楽器の奏法から得られる音空間を見事な録音で仕上げた技に驚嘆。マスタリングも大きな貢献を果たしている。
各楽器のサウンドに明瞭さがあって、バランスも良く、気持ちよく聴ける。
ピアノトリオの雰囲気が自然なバランスで聴かれる。心地いい
録音場所の石材で作られた宮殿の部屋の残響を生かしたサウンドに、スタジオ録音とは異なるピアノ、サックスに自然さを感じる。
混濁しないかと思う演奏空間にありながら、各楽器の音色が鮮やかに浮かび上がっていて、優れた録音として感動。
アルト、トロンボーン。このサウンドの透明感とツヤのある音質に思わず声を上げてしまった。
空間感が全てを表す録音。ドラムスが空間感の主役。
ミックス・バランスに神経を使ったサウンドの流れが聴こえる。
音量を上げればライブ感そのままだ。
このレーベルの変わらぬマスタリングにも興味を持つ。
管楽器のソロも同様、オンでありながら重厚な音質の安定を聴く。マジックだ。
オルガンのエネルギーを保ちながら、明確な音像を聞かせるサックス、ドラムは秀逸。
あれだけ混在のミックスでありながら効果的な表情で仕上げている技は感服。
丁寧なサウンドにまとめたミックスの努力が聴き取れる
ミックス&マスタリングがNYC在住の内藤克彦氏。故デイヴィッド・ベイカー氏のサウンドを受けつぐ。
録音時のバランス。あるいはミックス時のバランスが後に透明感につながったと思えるのだ。
As, Ssの近接音が確かな音像で突き立つ明瞭さが聴きどころ。
エレキギターの透明感。ライン収録に機材選択があったはず。
ミックス・バランスの見事さか。空間に響く遠近感が、耳に刺激のない音像を作る。
いやいや、聴き出したら、これはすごいぞ。濁りがなく、どのパートも鮮明に抜けている。
ピアノの抜けのいい鮮明なサウンドは優秀録音の証だ。
近接の響きはリアル。しかも十分な低音域の重厚さは、音像、音質に録音技術の優れた判断がある。
意図的仕掛けのベルの音など、鮮明でオンマイクの刺激は、もう愉快しかない。
鮮明な音色に艶がある。
素晴らしい録音技法の重ねが引き出す音像に陶酔。気持ちがいい。
ピアノの勢いのいい音色、ドラムのエッジの作り方、すべてのサウンンドに、エンジニアの根性が聴ける。
ライブ感、明瞭感、ステージの雰囲気を明瞭に表現した優秀録音だ。
ピアノはバランスの強調ではなく、音像の重厚さで聴かせる技に特徴を感じる。
アコースティック感が全体を貫き、ギターの気持ち良さが見事。
とくに音像にエッジの鋭さが強調され聴き応えがある
しかも楽器の音色、深み、残響、明瞭さ。アコースティック録音の見本と評価したい。
情景とサウンドが結びついて、絶好のサウンドに仕上がって、聴きごごち満点。
当然、音質にも神経が注がれて、それが小さな音量でありながら、存在感が大きい印象となるミックスは見事。
心地いいギターの音色が濃厚、接近音で充満。見事な録音手法だ。
ミックスの技術でサックスが左右空間に広げられたり、センターに定位で鋭い印象を受けたり。
キックが牽引するリズムにシンセの空間を泳ぐ音像は見事な展開だ。
炸裂する演奏にも、濁りを感じさせず、抜けのいいサンドで仕上げた技は驚異的だ。
ピアノの安定した透明さを感じるマイキングは、エンジニアの挑戦と受け止められる
バランスの良さが光る。さらに、各パートのサウンドの良さには驚嘆。
明瞭で弦の響きに特徴が。エッジの効いた高域に艶のあるサウンドは特筆もの。
透明感に満ちたピアノの響きと低音域の重々しい音に、ピノ録音の視点を提供される。
サックスの効果には音像の明確さに重点を。透明感と音色の艶には感動する。
力強いボーカルの肉質なサウンドがダイナミックに収録されている。
骨太な感触と音像も面積を聞かせて墨汁が飛んできた気分だ
従来のビッグバンドで、これほど奥行き感を強烈に表した録音を知らない。
ライブ会場の響きも加担して、この音像は出来上がっている。エンジニアの直感に乾杯。
スタジオ録音らしい、空間感なしのセンターに濃厚に立つ音像を作り出して刺激を受ける。
音量を上げれば、まさにライブを聴いている気分になれる。
どの楽器も距離感が上手くコントロールされていて、聴き心地がいい。
マイキングだけではない音の録り方。ミックス技術でのバランス構成が、耳に強烈に響いてくる。
鮮明なバランスに乗ったサウンドに身震いさえする。
空間感の造成から浮くようにトランペットの音像が現れるのが面白い。
奏者のエネルギーが音圧で激しく耳に響く。
何も仕掛けのないライブ感が気持ちいい。
音像の音圧に充実を感じオーディオ的な快感を感じる。
ドラムの近接感。ピアノのオンマイク感。これが密度の濃い音場を作り出してる。
マルチマイクの音像とは異なって、ワンポイントの音像を閃かせる空間感に大きなショックを受ける。
切れの良い輪郭と余韻の豊かさ、演奏の軽やかな雰囲気を、録音手法で作り出した技に満点で評価したい。
マイキングによる音色の構築、これが全すべてを支配している。
ミックス・バランスに、つい、うまいなあ〜と声が出てします。
東京文化会館小ホールのライブ収録。この音響条件が、過去いくつかのDuoと比較して突出した優秀録音であることだ。
各パートの音源が透明感を持って鋭く表面に立つ。この音像構成は驚愕の鋭さだ。
叩きつけるピアノの音像が左右空間に飛び散る様は仰天。
音圧で圧倒され、特有のバランス感覚が特徴と言える。
密集のサウンドを、音像濃厚に聴かせる様は、技巧の表れと思われる。
アナログ録音のマルチトラック化の時期。音質に当時を知る特徴が出ている。
ミックス、マスタリング、の技術が演奏のド迫力を見事に再現。素晴らしいディスクだ。
自然な声を耳元できく自然さと、PAを通した音色の快感と、どちらも想像できる快感は秀逸録音。
フルートとピアノの自然さが味わえるサウンドは心地良いに尽きる。
重厚な音像と低音部の豊かさに惹かれる。
ボーカルを邪魔しないバックの音質に注目。ピアノの角の取れた音色が絶品。
近接マイキング手法はわかるが、この分解能のいい音は、どの様にして作られたか?
ピアノのサウンドに透明感を強く感じる。とくに高音域の明瞭さには喝采。
ミックスのバランスも感服。音像の配慮には脱帽。
まさにピアノの側で聴いている感触そのままだ。
軽快なサウンドのピアノに耳が惹きつけられが、低音部の安定感も見事。
いい録音だ。エンジニアの音像空間の表現に脱帽。
要所での緻密なミックス作業がうかがえる
デュオの雰囲気を、心地良いサウンド空間で表した表現が特徴。
被(かぶ)りもサウンドの内を聴かせる最高の見本だ。
音場感のゆったりした響に乗る豊かなピアノの響きが、凄く印象的。
この作品はミックス技術で音像の背景を創ったと言える。
ピアノの近接録音に金属的な刺激が少なく、当時として配慮の利いたマイキングと言える
丸みを帯びたギターのサウンドに、アナログ時代を懐かしむ。
音量が十分でない古典楽器を、演奏ノイズを排除して倍音の豊かさを、透明感の中で表現できている秀逸な録音。
ミックスバランスが見事。パワーを聴かせるマスタリング技術も評価したい。
空間的な表現のマリンバは、なんと心地いいか。少し距離感のある打楽器の音は、エッジが丸くなる。これが心地いい。
表に浮き上がった楽器の音質は明瞭さに優れていて混濁に落ちない。
技は、ドラムスとベース。距離感があって、遠い残響が空間を遊泳する感触となる。参考になるミックス技術だ。
テナーサックスを表に意図的にバランスした、落ち着いた感覚が特徴。
低音部から高音部まで、エッジの効いた透明な音は、まさにマイキングの効果だ。
DSD録音の中で音圧感を見事に再現した驚嘆のライブ感に絶句。
出音が良ければ録音技術は、少しの手助けと言われるが、まさに、それだ。
どの楽器もエッジが明確。音像を構成する楽器の肉厚が聴覚を揺さぶる。
アナログ録音全盛期を思い起こさせるサウンドなのだ。アナログテープ録音が持っている絶妙なリミッターを思い出させるサウンド
録音素材から左右空間に浮遊するサウンド。音質より、この音像展開が面白い。
コンサートの空間に浸るより演奏のリアルな表現を重視している。
音像展開とバランスの素晴らしさ。これが強烈なジャズ空間を創る。
ビッグバンド・サウンンドの王道を堪能。
各パートの神経質なアレンジとサウンドを、きめ細かいミックス技術で仕上げ、これがサウンドの特徴。
それぞれの楽器のしなやかさ。録音表現として高く評価したい。
シンバルの響きとピアノの残響との組み合わせは豪快。
ボーカルの扱いを輪郭に徹し、質感に鋭さが優先。
ギターの分厚い音色とエネルギー丸出しは痛快。
フルート+バスフルート、ベースとドラム。このトリオの、それぞれの高音質録音に驚く。
ボーカルを含めて音像の厚い表現がオーディオの魂をくすぐる。
演奏者のチュウニングで得られたサウンドを見事に収録。
オンマイクの高音質録音に、思わずオーディオ道の血が騒ぐ。
Live to 2track analog とあれば、興味津々を通り越す
ベース低音の迫力は恐怖感さえ感じる飽和の勢い。
内部演奏によるピアノの響きは、マイキングの腕で表現力が違ってくる。
それぞれの楽器は近接なサウンドで構築されて、しかも音質がいい。
トゥッティでの濁りのない収録は見事。
オーディオ思考に触れたくなるベースのサウンドに、つい音量を上げてしまう。
ビシッと決めた切れ味はマイキングが一役買っている。
ボーカルが厚みを含んだ肉質で浮かび、音像を太く印象づける。
パーカッションが近接音で効果の浮き上がりが凄い。
ギターのエフェクトされた歪みも高音質録音でなくては成立しない。見事な録音だ。
声の質をのびのび取り込んだサウンドに感服。
全体にマイキングで勝負した感触があり、自然体が気持ちいい
マスタリングがKatsuhiko Naito(内藤克彦)であることも私には重要な事である。
安定したミックス・バランスが気持ちよい。
ピアノありきがこれほど頑固な録音は筆者もあまり経験がない。
ビッグバンドを支える各楽器の明瞭で肉厚のサウンド。驚異の録音だ。
録音技術が、この作品を大音量で聴く誘惑に引き込む。
強調感がなくて引き立つサウンド作りに喝采。
演奏者の個性を、ここまで引き上げた録音はお見事。
マイキングで固めた自然さが心地いいのだ。
混濁となりかねない部分を、見事なサウンド処理で解決の録音技法には喝采だ。
ピアノの明快さが強く印象に残る。響きに艶があり余韻の豊かさは秀逸
管楽器、打楽器と弦楽器。展開される音空間の愉快な表現を見事に再現。
各楽器の肉厚、濃厚なサウンドに圧倒された。
細かいミックス・バランスより、鳴っている音場の状況を再現したかと。
高音質録音でなければ、この作品は成り立たないと筆者は経験から判断する。
自然で音色に艶を追求したピアノは、やるなあ〜と声が出てしまった。
この作品の背景はピアノのサウンド処理だ。繊細な響きから鍵盤からのエネルギーを解放する音は賞賛。
左右空間に勢いをもたらす演奏の躍動が力強く反応した録音である。
ドラムの表現がうまく録音されていて、アナログ時代の豊かな質感が聴ける。
録音された1993年当時の録音システムが持っていた分厚いサウンドが懐かしい。
2トラックのピアノの音源に伴う響きは、身震いする。
さらに音色の多様な変化を詳細に捉えたサウンドが素晴らしい。
即興の大事さを音場感で仕上げた録音だ。
マイキングの位相の管理もできていて、エンジニアの優れた音質管理に賞賛を。
ベーゼンドルファーの音色を、ライヴで味わう感触に近く感じさせるマイキング・テクニックも注目。
音像、音圧、が曲によって細かくサウンド調整がなされている。
リバーブ効果の巧みなミックス技術が、聞き手に穏やかな音場感をもたらすECMサウンド。
ペダルの音色変化に敏感な音が収録されている。
不思議なのだが、どの楽器もエネルギーに満ちたサウンドで迫り来る。
ヴォーカルの肉質感の素晴らしさは特筆すべき録音
見事な音質配分で仕上げた録音技術が光る。
極めて緻密に表現されているミクシングが秀逸。
バックのビックバンドのサウンドもさることながら、コーラスの扱いに気合のこもった快適サウンドが展開する。
緻密な譜読みとバランス感覚は録音技法から見て最高難度。
聴きごたえのある肉厚サウンドが迫る。
とくに高音部の美しさは、エンジニアの持ち味で、聴いただけで名前がわかる。
リズムセクションにストリングスが加わるバックのサウンンド・バランスが見事
場内の拍手まで客席のリアルな表現が怒涛の雰囲気。
ビッグバンド録音を問う時、大きな話題作であることは間違いない。
ギターのオンマイク手法には脱帽と、音像も拡大でサウンドの基盤を成す。
ジャズの伝統的な聴かせかたのツボを押さえた優秀録音。
ピアノのサウンドが素晴らしい。ピアノのマイキングが最良の状態である事を想像する。
ヴォーカル、ヴォイスが、マイクの使い方に熟練していることが大きい。
バランスの緻密なサウンドながら、トゥッティの勢いを失わないサウンドが強い印象を残す。
その場の聴き手に伝わる音場を細工なしに捉えている。
マルチマイク手法のサウンドに慣れた耳には新鮮。楽器の質感が深い。
例えでよく言われることは、生より生々しいということ。
超絶透明感に溢れる録音。ピアノの抜けのいいサウンドに身震いする。
特にピアノの音場感はたまらない魅力。
オンマイクが捉らえる弦の表現がすばらしい。
ボーカルの濃厚で肉質感な表現。素晴らしい録音である。
お互いの干渉する音が音場を作り、そのマジックに身震いする。
各楽器の集中によるエネルギーの放射が、ズバッと耳に入る。
強烈な音圧が怒涛のようにスピーカーから放射される。
シンプルな楽器だが、難題を押し付ける難しさを克服した名録音と言える。
さて、録音はワンポイントの真髄を貫いた空間表現で、楽器のオン・オフが音像を構成。自然空間に現れる楽器の色彩に納得。
音像の表し方、楽器のエッジの表現に度肝を抜かれる。
ピアノがピンポイントで奏でている良質サウンドから、突然ノイズの世界が巨大音量でという仕掛け。
良質な録音が、目の前に張り付いた音源の拡大鏡となって、気分が高揚する。
スタジオ録音の持ち味、丁寧なバランスのバックに支えられて、アルトが朗々と鳴る
サウンドスケープと言える表情で、音像のあからさまの押し出しのない演奏空間帯は、ボリュームを上げたくなる。
ピアノの特殊な奏法と筐体の打音に、時に、何の音?と耳が緊張する。
録音と音楽的内容が、うまく絡んだ録音である。
エンジニアの思考が聞こえて来る。
ギターのライン収録のエフェクト効果が骨太なので、時に管楽器のアドリブかと、一瞬のサウンド風景が浮かび上がる。
不思議にドラムに適当な空気感があって、これが立体感を造る。
制作意図が作り出すサウンドの世界観が面白い。
ピアノがバランスの表に出るなかで、ベースの勢いを失わない浮かび方が素晴らしい。
音楽の構成が、録音技術の鮮明さあっての印象を強く感じる。
すべてオンマイクの鮮明さを表に構成したサウンド。
怒濤の開放感溢れるサウンド。ふと思い出したのがGRPサウンド。
素晴らしいバランスはライヴ空間の雰囲気を一気にもり立てる。
音創りに気負いがまったく無く、聞こえるが「まま」をさらりと録音したと!
テナーに乗り掛かるミックス・バランスが見事な仕上げ。素晴らしい音創りだ。
ラテンリズムの快適さ突出のサウンド。お見事なミックスバランスだ。
最終ミックスの組み立てはエフェクトが支配。スピーカーの反発力が問われる。
立ち上がりのシャープさ、その輪郭の図太さ、音質は元より音像の輪郭の濃厚さは圧巻。
曲の雰囲気に色彩を感じるエフェクト処理が、また驚くテクニックだ。
定位といい、音色といい、巧く処理して余韻を深く残し、しかも圧巻のサウンド構成。
音空間には容積が何かの作用をしている、を知る録音だ。
バランスが音像を造る仕掛けだ。
宅録ながら、上質のサウンドを完成させた努力に注目。
ライヴ録音とはいえ、音像の明確さは、あっけにとられる程の輪郭表現
これが、クラリネットかと響きの豊かさが素晴らしい。
試聴の冒頭でキラキラを感じた。しゃれではない。
ラテン楽器の切れのいいサウンドが、オーディオを奮い立たせる。
ピアノの音質に馴染ませたドラム、ベースが強固に固める素晴らしい録音だ。
ピアノの左右空間を埋める仕掛けが、強く印象に残る録音手法に喝采。
とにかく面白い録音。
楽器群の音質が優れていて、コンテンポラリーなサウンドが強烈に引き立つ
尺八、いいサウンドに録っている。
ピアノを囲む楽器群のサウンドを、マイキングの音質を頼りにした組み立が面白い。
ピアノ伴奏とのバランスが巧く出来ていて、ピアノ対オカリナの配置は不明だが、配慮は、さすがだ。
各パートの艶やかな音質に、マイク選びの巧さを感じ、緻密なミックスも感じる。
エフェクトとのバランスも整えられて、強烈刺激にのけぞる感触はライヴでも同じか。
録音の狙いどころを熟知したマイキングを見たいものだ。
そこは演奏のバランスにお任せが聞き取れ、ミックスでの調整ではない迫力を感じる。
ボーカル作品の造り方に一つの提案であろう
耐えるスペックの良さを伴った録音とマスタリング技術に喝采。
テーマはベースであることを強く感じさせ、低音域の緩い響きが刺激的に迫るサウンド空間。
ボーカルとギターのデュオ。シンプルが故に録音の技量が問われる。
オンマイクのどうだ!という録音ではない。
録音テクニックの優れた表情が、表現を盛り立てる。
ピアノの美しさには、とどめを刺された。
音楽の表現を見事に捉えた音場に引き込まれ、不思議な空間感に誘われる。
録音技術が音楽表現を一層強めたと言えよう。エンジニアの感性が濃厚に現れる。
電子楽器からは得られない開放感と重量感は、贅沢としか言い様がない。
オンマイク手法と遮断が、このディスクの聴きどころなのだ。
ピアノが、巧く浮かびあがるバランスもあって、響きの柔らかさと強さが、音像として耳に残る。
最近、ハイレゾを意識した録音が流行(はや)る中、肉厚でアタックの骨太な表現で仕上げた録音が強烈な印象を与える。
シンバルの音は、こうありたいと思うのだ。
言語の歯切れと肉質を近接で聞けるサウンドの魅力がたまらない。
開放感が鋭い音像の襲撃を和らげている。
ライヴ環境で、ここまで音像がしっかりした録音は素晴らしい。
アコースティック空間に響く音像の図太さに圧倒される。ミックスの優秀さがダントツに光る。マスタリングも同様と考える。
快適、快感、サウンドの渦に巻き込まれ、勢いが失われていない!
ギターとピアノは、お互い大きな音像で、ピアノの空間感が凄く良い味を造っている。
トゥッティの襲いかかる部分にして、混濁のない録り方は巧いなあ〜と感服。
奇抜を的確に捉えた録音に最大限の喝采を。
サウンド、音質、極めて良し。久々のアコースティック優秀録音。
ドラムスのエッジに、遠近感の違いを感じる、このワザは何だ?
この盤は肉厚より繊細さに重点を置いたと受け止める。
管楽器の艶と、開放感、チューバの低音に、こうありたいと我が録音にかぶせる。
ピアノのオンマイクで注目されるのは、音の抜けを考慮していること。
音像の明確さに、オーディオを意識してしまう録音だ。
低音部を支えるベースの低音の解像の良さは絶品。迫ってくる音量感に絶句。
近接の歯切れは、録音術ならではの効果。当然、狙っている。
お互いの楽器間のかぶりも表現のひとつと捉えた録音に喝采。
コントラバスの絃の響き、胴の唸り、空気を振るわす響き、怒濤と言ったら言い過ぎかも知れないが、印象は、まさにそれだ。
筆者の体験では、大きな器に水を張り先端を突っ込む。いわゆるブクブクが大切なのだ。水面すれすれにマイクをセットしたしたことを思い出す。
マイキングで中音域の透明さに力を注いだ跡がうかがえるのが注目点。
オンマイク手法でリアルさと音源の発する微細な音も、音圧で聴かせるマジックめいた録音に喝采。
楽器の特徴、演奏の表現を見事なサウンドで聴かせたディスクだ。
その中でピアノと打楽器が、遠いサウンドスケープを造っている。筆者仰天の仕掛けである。
当然ながらゲイリー・ピーコックのベースの重々しさの表現力は、脱帽の録音。
フルートを含めたエフェクトが録音のバランスで生きてくる様は感服。ミックス、マスタリングはNY在住の内藤克彦氏。最後の仕上げに巨匠が現れた。
録音・ミックスはJames A. Farber。Bill Frisell。Manfred Eicher。サウンドに命を掛けた面々。
遠くの印象を伝えるサウンドと切り込むサウンドを描く。ミックス技術の素晴らしさが表れる。
トラック11に素晴らしい空間感たっぷりの綺麗なサウンドが聞ける。
その楽器が表現できる意外性に気づいたエンジニアに賞賛。凄いぞ。
田村夏樹+藤井郷子のサウンドを追いかけて来たが、聴く度に度肝を抜かれる。
演奏空間に浮かびあがるヴォーカルを意識させるバランス感覚は、褒めていい。
ライヴは音場に空間感が現れる楽しさがある。
ベースとドラムがサウンド構成の重要な部分を担っている。
心地良いのは二つの音源に対極を感じさせない音像処理だ。
極めて明瞭な近接サウンド。
UHQCDが、音源の持つ鮮やかさと切れ味の感触を増強したと評価。
オリジナル録音の素晴らしさに圧倒されながら、マスター・クオリティに極めて近いと表記されている資料に納得。
うーん、ドラムのサウンド造りは参考になる。ジャズのサウンドとは、こういうものだ!と、改めて思う。とくにキックは...。
楽器がバラバラという音場を避けている録音に注目。
注目したいのがドラムの唸りが捉えられていること
サックス。アルト、ソプラノ、がっちりオンマイクの、浮き出す音像に驚嘆。
他のトラックで貫いているのはDsオンのサウンドである。センターに強烈な音圧で攻め込んでくる。
ディキシーランドのサウンドに接し、改めて時代を築いたサウンドの在り方を学ぶ。
このディスクで面白いのは奇数トラックと偶数トラックとでミキシング・エンジニアが異なることだ。
トゥッティの猛烈音圧。明瞭に、音量感を失わずに詰め込んだ技術。驚嘆としか言葉が無い。
アコースティックながら細工された音質とヴォーカルが対等する。
マイキングで音像、音質を整える様が読み取れて、アコースティック録音の標本だ。
